理論なき考古学−日本考古学を理解するために

細谷 葵(ケンブリッジ大学)



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このペーパーは、イギリスのリバプール大学で1996年12月に開催された『理論考古学グループ』96年度大会で報告されたものである。


 最近のイギリスで、日本考古学に対する興味が高まる傾向にあるのは喜ばしいことである。しかしその反面、そうした「外国人」考古学者の多くが、日本考古学を理解するにあたり「群盲象を撫でる」状態(イラスト)に止まっていることも否めない。

 その主な原因は、日本考古学における「理論」の欠如である。すなわち、理論的ディスカッションに慣れている欧米考古学者たちは、データについての包括的説明や議論を通して日本考古学の全体を把握することを期待するが、実際に、彼らの前に提示されるのは、説明も議論も伴わないバラバラのデータの山積みであり、そうなると文献にもデータそのものにもアクセスが限られる彼らの視野は、当然ながら部分的にならざるを得ない。しかし、真の問題はその視野の狭さそのものにあるのではなく、こうした日本考古学の独特のあり方自体が欧米ではほとんど理解されておらず、更に彼らがその視野の狭さからたとえ誤った結論を出したとしても、それに対して日本考古学者側から「反論」という形での訂正が決してなされないので、欧米考古学者が自らの視野の狭さに気づかぬまま日本考古学を語り続けるという結果に往々にして陥っていることなのである。

 この問題の解決策として、「欧米的な考古学理論を日本考古学にも取り入れ、それによって国際的コミュニケーションを可能にしよう」という意見が出されるのをしばしば耳にするが、これは木に竹を継ぐようなことになるだけで、本当の解決にはなり得ないと考える。なぜなら、欧米と日本の考古学の違いは、欧米考古学で使われるような理論(システム・セオリー、コンテクスチュアル・セオリーなど)が日本では使われていないなどという単純な次元にあるのではなく、双方の考古学が根本的に異なる原理において進められているということにあるからである。従って、問題の解決のためには、この日本考古学という「異質な」原理の存在が、まず欧米の、殊に「理論的」考古学者によって正しく理解されることが重要な第一歩と言える。筆者が Theoretical Archaeology Group の学会で本稿を発表する理由は、そうした理解を欧米社会に広める一環となればと思ってのことである。

 日本考古学の構造の説明のためには、[1]歴史的背景、[2]現在の状況(発掘システム及びマスコミとの関係)の2点からの整理が効果的と思われる。



  [1] 歴史的背景

 エドワード・モースの大森貝塚発掘によって組織的学問としての考古学の端緒が開かれた19世紀末当時、日本の歴史観は「古事記」・「日本書紀」の記述に縛られていた。天遜民族を「日本人」の始祖とし、その直系の子孫を天皇家とする考え方は、絶対天皇制の維持に都合がよく、ためにモースの発掘が「先史時代」の存在を示唆しても、それは真の「日本人」に駆逐された先住野蛮人の分化として処理され、歴史観の見直しがなされることはなかった。

 20世紀初頭に土器型式論が導入されると、考古学資料独自のシークエンスを復元することが可能になった。そして考古学の立場から従来の伝説的歴史に対する批判が提示されるようになったが、これは強力な政府の弾圧にあい、殊に第二次世界大戦中のファシズム下の弾圧は激しく、型式論者は単純な土器分類作業に専念せざるをえなかった。戦後の民主化でこうした学問に対する枷がなくなると、歴史思想も自由になり、マルキシズムなどが盛んに取り入れられた。

 しかし、ここで注目すべきは、自由になった日本考古学者たちはその後歴史的解釈についてオープンな議論を始めるという道には進まず、逆に歴史に関する全ての「解釈理論」を否定する道を選んだということである。すなわち、彼らにとって歴史の「解釈」とは常に、「古事記」や「日本書紀」に合うように操作された歴史観を意味し、一方で実際の「もの」に即した土器型式論は、偏見の入らない科学的方法であり、ゆえに開かれた時代に考古学が取るべき道は後者のみであると受け取られたのである。

 元来日本の文化は、「不言実行」という言葉に象徴される通り、理論よりも行動を重んじるそれであり、そうした精神的土台も要因のひとつであったろう。こうして理論を否定し、「もの」を至上に据えた日本考古学のポリシーは、八幡一郎の言葉にあるように、「土器であろうと、石器であろうと、骨角器であろうと、差別あるべきでなく、軽重あるべきでない。その一つが欠けても完全ではない。」(「先史遺物用途の問題」1938『ひだびと』6-1)というものになった。つまり、個々の考古学者が各々の歴史解釈理論を打ち立てるべく遺物全体の傾向を読み、例外的なものを除外してデータを「まとめて」いこうとする欧米的な研究法とは全く性質を異にする、出てきた遺物は全て等価値のものと見なして解釈も評価も加えないことを良しとするやり方が日本考古学の基礎となったのである。欧米考古学者がこうした異質の研究原理を理解することなく、考古学文献には何でもデータの全体的傾向を反映するものがまとめられていると思い込んで、少数の文献を当たっただけで日本考古学の全体像をつかんだつもりになった場合、大変片寄った視野をもったまま、またそれに気づくことなく発言を進めていく結果になってしまうのだが、実際そうした例は少なくない。



  [2] 現在の状況

 @ 発掘システム

文化財保護としての発掘システム
発掘の目的 将来の利用に備え遺跡のすべてを記録
発掘報告書 全ての遺物の客観的カタログ
予算
遺跡の規模と遺物の量に応じて配分
学際的研究 理化学的技術の導入はしばしば歓迎される
 日本人考古学者による学会発表や論文でいやというほど繰り返されている通り、現在の日本ではほとんど「発掘」とは緊急発掘の同意語である。急速に増加する開発のせいで、1980年からの10年間に5000件も緊急発掘が増大したような状況(勅使河原 1995: p229)では、学術発掘に人や予算、時間を割くことは敬遠されるので、いきおい研究者も多くが行政組織に就職することになる。1983年出版の『考古学ハンドブック』によれば、当時1850名の日本考古学協会員のうち6分の5の1500名が行政関係者であった。このように、発掘そのものもまたそれをする人もほとんどが行政ベースである以上、発掘の方針自体、「考古学」という学問よりも行政的な「文化財保護」のポリシーに沿って進められるのはまぬがれない。すなわち、発掘とは埋蔵文化財をできる限りもれなく記録するための手段であり、歴史についての解釈や研究結果を出すためのものではない。また、発掘報告書は後日どんな研究者でも同様に利用できる客観的な遺物のカタログでなくてはならず、ために、遺跡ごとに異なる筈の歴史的意義や発掘者の視点は表現されない同じような形式の報告者が毎年大量に出版されることになる。結果はとらえどころのない膨大なデータの氾濫となり、日本人考古学者でさえ自らが何らかの議論を進めるのに必要なデータを全て把握しているのか常に不安な状態で、日本で解釈的議論が発展しない原因はここにもある。

 この「文化財保護」のポリシーは一見、先に記した日本考古学の原理「よりごのみをしないデータ収集」に即しているようだが、その実態は収集が片寄っていないとは言い難い。すなわち、行政的に「文化財」と定義されるのは基本的に人工遺物だけで、その他の考古学的には重要な情報を持つデータ、例えば植物遺存体などは考慮されないのが全体である。従って、たとえ遺跡の性質上動植物分析が特に歴史研究上重要なものをもたらす可能性があったり、発掘者がそうした研究に興味を持っていたりしても、そのための予算をとることは難しい。比較的予算をとりやすいのはそれら「余分な」分析のためにハイテクノロジー技術を導入する場合で、これは「客観的カタログ」たる報告書をより科学的に作る手段として歓迎されるためである。つまり、ある遺跡でどんなデータが分析されるかの選択は、学問的意義とは別次元の基準によって行なわれるので、これもまた、緊急発掘であってもあくまで「研究」を目的とする欧米の方針とは根本的に異なり、欧米考古学者による誤解の源となりうる。


 A マスコミとの関係

 学問的意義と無関係にデータが「選ばれ」るもうひとつの潜在的原因は、マスコミとの関係である。日本人の顕著な国民性のひとつは、日本人の起源及びそのユニークさに対する熱烈な関心であるが、そのために、ひとたび話題性の高い遺跡が発掘され、それが報道されると、たちまち大量の見学者が押し寄せて遺跡がほとんど観光地化してしまうのは、吉野ヶ里や三内丸山遺跡の例でも明白と言える。

 多くの人々が遺跡や発掘に興味を持っているのは勿論喜ぶべきことなのだが、その反面この現象は、問題もまた生み出している。遺跡がアトラクションとなり得て、いわゆる「村おこし」に貢献する可能性があるとなると、市町村の遺跡に対する興味も高まってくる。この興味は、時には郷土愛の名のもとに、遺跡をより話題性が高く魅力のあるものにすべく研究者に一種のプレッシャーをかけるまでになる。1996年7月25日付朝日新聞の「進む古代建築の復元・なぜか背が伸びる」なる記事では、そうしたプレッシャーの結果、縄文・弥生の大規模な村の遺跡に伴う塔の高さの推測が、まるで競争のように高くなっていく現象が言及されている。

 状況をより深刻にしているのは、マスコミ問題が発掘の予算にも影響しうる点である。先にも述べた通り、日本考古学のポリシーにおいては、その歴史的意義など学問的解釈によって遺跡を「評価」することを嫌うので、予算は名目上、遺跡の面積や遺物の量など物理的な基準に沿って分配される。しかし、発掘件数が大量に増加している昨今、予算は慢性的不足に陥っており、名目通り平等に分配するだけの余裕がないこともある。その場合、どの遺跡の予算請求に応えるか、何らかの選択が必要になるのだが、学問的見地からの評価は方針上否定されているので、はっきりした選択基準を提示することは難しい。結局、ある遺跡がマスコミにとりあげられ、多くの見学者が集まって遺跡の注目度が高まると、それに押されて行政機関も何となく予算を多く出すという流れになりがちである。この現象は筆者自身も一昨年参加した発掘で経験した。

 マスコミの注目度が予算にも関わってくるとなると、研究者の方もより話題性の高いデータを珍重する向きにならざるを得ない。例えば植物考古学の分野では、縄文農耕などのエキサイティングな話題になりやすい先史時代の植物遺存体は熱心に研究されるが、歴史時代のものとなると大幅にその情熱が削減される。この傾向もまた、学問とは無関係の事情でデータが選ばれるという、状況を理解していない欧米考古学者の目には見えないバイアスが、表に出ているデータの背後に存在する結果を生むことになる。

 以上、日本考古学の構造を、そこから生み出される産物としてのデータがいかに欧米考古学者の視点からは誤解されうるか、という点を中心に紹介を試みた。これは、日本考古学に興味を持つ欧米考古学者を悲観させる目的ではなく、逆に、彼らが見当違いの方向に行くことなくその本領を発揮して、日本・欧米双方の考古学の新展開に貢献する助けとなればと思ってのことである。その効果があったことを望みたい。


ホームページ管理者注
  このペーパーは、TAG96での報告を、細谷さんのご好意で掲載させていただいた
  もので、すべての著作権は細谷さんにあります。掲載をお許しいただきました細
  谷さんに、厚くお例申し上げます。なお、「群盲象を撫でる」という表現を嫌う
  方もあると思われますが、報告を忠実に掲載するという趣旨から、もとの形のま
  まで掲載しています。(新納)

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97.04.17作成 / 新納泉・藤井裕之