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2歳児における漢字の読みの学習過程

長崎大学医療技術短期大学部紀要, 1988, 2, 139-150.




要旨 生まれて初めて日本語の文字を習得するさい,ひらがなに比べて漢字の習得のほうが容易であるか否か,また早期に習得した漢字がどの程度保持されるかについて1年間にわたる縦断的検討を行なった.被験児は実験開始時において2歳2ケ月になる男児1名,ひらがな・漢字ともまったく読めなかった.習得,保持テストの各段階では,漢字やひらがな等で図書館用カードに表記された250種類の語を,1日あたり40〜50枚提示した.漢字やかなまじり漢字表記の語は,カタカナやひらがなだけで書かれた語にくらべてより早く習得され,保持率も高かった.これらの結果に基づき,初期の文字教育において,ひらがな先行よりも漢字とひらがなを同時に教えることの意義を強調した.
長大医短紀要2:139-150,1988
Keywords: 学習,文字教育,漢字,保持, ワープロ




序論

 本研究は,生まれて初めて日本語の文字を習得するさい,ひらがなやカタカナに比べて漢字の習得のほうが容易であるか否か,また早期に習得した漢字がどの程度保持されるかについて1年間にわたる縦断的検討を行なうことを目的とする.

 現在の一般的な文字教育では,ひらがな→カタカナ→漢字というステップで日本語に必要な文字が教えられている.このうち,漢字は3000字から6000字余りが必要であるとされているが【1】,学習指導要領の定めるところによれば,小学校卒業までに教えられる文字は,約1000字,つまり日常生活で必要な文字数の3分の1から6分の1にすぎない.残りは,どちらかと言えばすでに記憶力の減退期に入る中学や高校時代に教えられるため,一部の生徒にとっては他の暗記科目とのかねあいもあって漢字の習得が相当の負担となり,国語ぎらい,ひいては学校ぎらいを生み出す一因になっているように思う.いっぽう,絵本や児童書など幼児や小学校低学年向けの文章は殆どひらがなのみで書かれているが,もともと同音異義語の多い日本語にあっては,それらは大人でもたいへん読みにくい.「漢字よりひらがなのほうがやさしい」という固定観念のもとに,大人にも読みにくい「ひらがなのみ」の文章を子供に押し付けてよいものかどうか,再検討する必要があるように思う.`

 それでは,なぜ幼児期にたくさんの漢字を教えることができないのであろうか.その理由の1つとして,書取学習すなわち筆記具で
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漢字を書く訓練に相当の時間を要する点があげられる.アルファベット26文字などとは異なり,平仮名や漢字は複雑な直線や曲線から成り立っている.図形パターンとして識別することはできても,それらの文字をみずからの手で紙上に再生できるようになるには,幼児では相当時間の訓練が必要であろう.

 しかしながら,近年,ワードプロセッサーの普及によって,書取の訓練は必ずしも必要とは言えなくなってきた.ワープロで漢字を入力するには,キーボードの位置,漢字の読 み,熟語の意味,の3つを知っていれば十分であり,筆順の習得や字を上手に書くための訓練といったものは,日本語の文章作成においてはもはや必要条件ではない.もちろん,書道を芸術として教えることや書取を通じて手先の器用さを鍛えることにはそれなりの意義があるだろうが,当面の文字教育とは別次元の問題である.さらに,現代の情報化社会の中では,「達筆だがワープロが全く使えない人」よりは「字は下手だが自由にワープロを使いこなせる人」のほうが,知的生産力の高い人間としてはるかに尊重されるようになってきており,この観点から文字教育を見直す必要も生じている.

 さて,もし「読み」だけにしぼって文字教育を行なうとすれば,漢字あるいは漢字まじりの単語・熟語は何歳くらいから教えることが可能だろうか.この問題については,少数ではあるが,幼稚園などからの体験的報告1)と大学研究者による報告2)・3)がいくつか刊行されており,いっぱんに「ひらがなより漢字のほうが習得しやすい」という結論に至っている.しかし,それらの報告は,主として習得過程における「漢字の容易さ」を指摘した横断的研究にとどまっており,いったん習得した漢字がほんとうに定着し,日常生活で活用され,かっ生涯にわたって保持されるか否かについての縦断的研究はほとんどなされていない.また,従来の実験的研究は,時間や場所が限定された実験場面において見知らぬ実験者によって訓練されたものであるが,文字教育はほんらい家庭を中心とした日常生活場面で訓練されて初めて効果を発揮する可能性があり,これまでの実験的資料だけではこの点が明らかにされていない.

 そこで,今回は,ひらがな・漢字をまったく知らない2歳児1名を対象として,家庭内における漢字習得の可能性を探り,さらに保持の度合について1年間にわたる縦断的検討 をおこなった.

全体的方法

被験者

 実験開始時において2歳2ケ月になる男児1名.実験開始時においては,0〜9の算用数字が読めるだけで,ひらがな・カタカナ・漢字とも全く読めなかった.なお,この被験児は,筆者の長男にあたるため,文字教育を含む教育環境歴が完全に把握されており,また日常生活場面での訓練が常時可能な状況にあった.

刺激材料

 被験児が日常会話のなかで自ら用いている言葉を実験者が事前にリストアップし,これらを図書館用カードに記入したものを提示した.内訳は,漢字(142語,うち漢字条件A:92語,漢字条件B:50語),ひらがなまじり漢字(39語,たとえば「赤い」,「見る」など),カタカナ(19語),ひらがな(50語),合計250種類であった.このうち,漢字条件Bの50語とひらがな条件50語は同一語を漢字とびらがなで表記した対になっている.これらは,読み学習の難易度を漢字とひらがなで比較するために選定された語である.したがって,語数そのものの合計は200語となる.具体的な語のリストは,後述する保持テストの結果と合わせ,Table1に表示した.
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習得過程

目的

 漢字やその他の文字で書かれた語の読みを,どのくらいの試行で習得できるか,特に漢字表記の語とひらがな表記の語で習得速度に差があるかどうか検討した.

方法

 習得,保持テストのいずれの段階においても前述の図書館用カードを1日あたり40〜50枚,1回ずつ提示した.被験児が正しい読みを発声した場合には,「よくできたね」といった言語的賞賛等で陽性強化を行ない,また無反応・誤反応の場合には実験者が正しい読みを発声した.訓練セッションは1日1回限りとし,原則として夕食後に家庭内で行われた.訓練を実施した日数は1週間あたり3日〜6日であった.

 3回連続正答したらそのカードについての訓練を終了し新しいカードを追加していった.なお,漢字条件Bとひらがなのカードの新規追加は,各対とも同一日から開始した.

結果および考察

 250語のすべてについて正反応が得られるまでに54回のセッション,3ケ月を要した.各カードの提示開始から初めて正答が得られるまでに要したセッション数の分布(正反応出現のセッションを含む)をFig.1に示す.各条件のセッション数の中央値は,漢字条件A:4.0回,かなまじり漢字:5.0回,カタカナ:7.0回,漢字条件B:6.0回,ひらがな条件:9.5回であった.特に,漢字条件Aにおいては,3分の1強の語が2回目の提示で初正答に至っている.これらの結果は,漢字のみで表記された語,あるいは,ひらがなまじりの漢字で表記された語が,より早く習得されることを示している.なお,漢字条件Bのほうが漢字条件Aに比べてやや習得因難な傾向を示したのは,漢字条件Bでは,同じ語が2通りの文字(漢字とひらがな)で表記され同時期に提示されたための混乱によるものと思う.

 習得の速度は語の意味内容や親近度によっても異なるので,漢字表記とひらがな表記についての厳密な比較は,同一語,すなわち漢字条件Bとひらがな条件において検討されなければならない.このうち,初めて正答が得られるまでに要したセッション数については,すでに述べたように漢字条件のほうが少なかった.このほか,3回以下のセッション数で 習得した熟語の比率は,漢字12%に対してひらがなは6%と半分,また,漢字で表わした熟語の過半数(52%)が6回以下のセッション数で習得したのに対し,6回以下で習得したひらがな表記の熟語は36%だけであった.

Fig1.

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これらの結果は,習得段階において漢字表記のほうがひらがな表記よりも容易に習得されることを示すものである.

 初めて正反応が現われてから3連続正答に至る過程で,誤反応や無反応を生じることがあった.その出現頻度を条件別にFig.2に示す.いずれの条件においても,エラーが出現した比率は30%前後であり大差なかった.いったん覚えたあとは,条件の影響を受けず,スムーズに定着しでいることを示している.

保持テスト1

方法

 3連続正答日から30日を隔てて保持テストを実施した.保持テストの語は,未習得のカードとまぜ合わせ,同時間帯に提示した.正反応が得られなかった語については,再度3連続正答となるまでセッションを繰り返した.なお,保持テスト実施までの期間は,当該の語に関する偶発的な再学習の機会がないように日常生活の中で配慮した.

結果と考察

 保持テストにおいて,再び正答が得られるまでに要したセッション数の分布(歩反応出現のセッションを含む)をFig.3に示す.セッション数が1,すなわち完全に保持されていた語の比率は,漢字A条件:88%,ひらがなまじり漢字条件:87%,漢字条件B:70%であったのに対し,カタカナ条件は58%,ひらがな条件は54%と低率であった.これら

Fig2.

Fig3.

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の結果は,漢字やひらがなまじり漢字で表記された語のほうがよく保持されることを示している.

 なお,ひらがなやカタカナで表記された語の場合でも,80%以上の語が2回目の保持テストまでに再正答を得た.漢字やひらがなまじり漢字条件には劣るものの,これらの条件においてもかなりの程度で保持ができていたことは確かである.

保持テスト2

 保持テスト1からさらに8ケ月を隔てて,2回目の保持テストを行なった.このテストの目的は,いったん習得された語が,長期間隔てられた後にどれだけ保持されているか,また誤反応の内容を分析することによって,どのような要因が保持を妨げたのかを検討することにある.実施時期は,提示開始および習得に要したセッション数などの差によってかなりのズレがあるが,おおよそ被験児が2歳11ケ月から3歳1ケ月の間であった.

 保持テスト2までの8ケ月の間には,被験児にとって特記すべき点がいくっかある.まず,最初の3ケ月あまりは,母親の里帰り出産の関係で父親と別居していたため,文字学習をする機会がまったくない状況にあった.第二に,残りの5ケ月あまりのあいだに,濁音,拗音を含むひらがなをほぼ完全に習得し,個別の文字ばかりでなく,ひらがな表記の語についてもひととおり読めるようになった.第三に,残りの5ケ月のあいだに,漢字またはひらがなまじりの漢字で表記された語を新たに70余り習得した.第四に,保持テスト1までの30日間の場合と異なり,当該の語に関する偶発的な再学習を排除するような特別な処置はとらなかった.

方法

 保持テスト1と同様の方法で実施した.ただし,ひらがな表記条件については,被験児がすでにひらがな表記の語を読めるようになっていたため除外した.誤反応が出現した場合には,その内容をすべて記録した.

結果およぴ考察

 保持テストにおいて,再び正答が得られるまでに要したセッション数の分布(正反応出現のセッションを含む)をFig.4に示す.再々正答が得られるまで要したセッション数の中央値は,漢字A条件:2.0回,ひらがなまじり漢字条件:3.0回,カタカナ条件:3.O回,漢字条件B:5.0回であった.また,セッション数が1,すなわち完全に保持されていた語の比率は,漢字A条件:36%,ひらがなまじり漢字条件:26%,カタカナ条件:16%,漢字条件B:10%であった.

Fig4.


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 保持テスト1に比べ保持率の低下が見られたものの,漢字条件Aでは3割以上の語についての学習が完全に保持されていた.これに,1回の再訓練ののちに正答に至った語を含めると60%近くの比率となり,いったん覚えた漢字の読みはそう簡単には忘れないことを示している.ひらがなまじり漢字条件では漢字条件Aに準じる高い保持率を示したが,カタカナ条件および漢字条件Bの保持率はあまり好ましくなかった.漢字条件Bの保持率が低かった原因は,同じ語についてひらがな表記による訓練がなされたための混乱によるものと思う.このことは,漢字表記の語の読みを教えるさいにふりがなをふって教えるとかえって保持率が悪くなる可能性を示唆している.

 なお,いずれの条件においても正答に至るまでのセッション数の中央値は習得段階よりは少ない値になっており,保持ができなかった語の場合でも再々学習のさいに「学習の節約」ができていることがわかる.

 次に保持テスト2を実施した際に生じた誤反応を,条件別かつ再々正答までに要したセッション数の少ない1順にTable1に示した.誤反応の大部分は,(1)共通した漢字を含む別の熟語との混同,(2)全体の形が似ている別の漢字との混同,(3)共通した部首が含まれる別の漢字との混同,などによるものであった.(1)に起因すると思われる混同の例としては,「自転車(正答は『自動車』),「納豆,豆腐(正答は『豆』),(2)に起因すると思われる例としては「象(正答は『家』)」,「靴(正答は『鹿』),(3)に起因すると思われる例としては「橋,柿(正答は『柱』)」,「米(正答は『歯』)」などをあげることができる.このほか,少数ではあるが空間的に近い事物との混同に起因すると思われる誤反応,会話中でしばしば対にして用いられる別の語との混同に起因すると思われる誤反応もあった.前者の例としては,「海(正答は『船』)」,電気(正答は『天井』)【2】」,後者の例としては,「朝
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Table1.


================p.145====================--------------------- などをあげることができる.
 これらの結果は,保持が不完全であったケースの大部分が忘却に起因するものではなく,習得した別の語との混同によるものであることを示している.

定着のための反復学習

方法

 保持テスト2の終了後,習得したすべての語を繰り返し提示し,読み学習の完全な定着を目指した.混同がみられた語については,それらを白紙に併記して弁別訓練を行なった【5】.

結果

 このような訓練を行なった結果,誤反応の出現はほとんど見られなくなった.また,この時期になって単語・熟語を構成する1字1字の漢字を区別する傾向や個々に覚えた漢字を組み合わせて熟語の読みとして発声する傾向が観察されるようになった.

 前者の例としては,次のようなエピソードをあげることができる.被験児は,すでに「出発」,「出口」という語を習得していたが,あるとき道路にあった「出口」という表示を見て,「ほらあそこに『出口』って書いてあるよ.『出発』の『シュツ』と上のほうが一緒ね」と言った.これは,「出口」,「出発」を全く別個の模様として弁別していた段階から,それら熟語の構成要素である「出」という漢字を抽出できる段階に進んだことを示唆している.

 また,後者の例として,テレビのニュースで「山口県」という字幕が現れたときに,「あそこにヤマクチって書いてあるよ」と言ったことがある.被験児は,「山=ヤマ」,「口=クチ」を別個に習得していたが,「山口」という熟語の読みを教わったことは一度もなかった.したがって,これは個々に覚えた漢字を組み合わせて熟語の読みとして発声した例と見なすことができる.

全体的考察

 習得から保持テスト,定着学習までを通じて,漢字やひらがなまじりの漢字の読みが充分に習得できること,またいったん習得された内容がかなりの程度で長期間保持されることが明らかになった.幼児が漢字をすぐに覚えられることについては,すでに引用したように,幼稚園などからの体験的報告1)や大学研究者による報告2)・3)があるが,いずれも3歳以上の幼稚園児を対象とし習得段階のみを調べたものであった.今回の縦断的研究により新たに明らかになった点は,2歳児でも漢字等の読みを習得できる点,および,単に習得だけでなく長期間の保持が可能であるとい
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う点である.

 ひらがな表記に比べ漢字表記のほうが習得されやすい点については,漢字条件Bとひらがな条件の比較から明らかである.また,保持テスト1における両条件の比較から,保持段階においても漢字表記のほうが好成績をもたらす可能性が示唆された.なお,ひらがな表記と並行して漢字表記を習得した漢字条件Bは,漢字表記のみで習得した漢字条件Aに比べて,習得・保持ともに悪い影響を示した.このことは,漢字熟語を教えるさいに「ふりがな」などをつけると,かえって学習が妨げられる可能性があることを示唆している.ひらがな表記のほうが習得・保持されにくい理由としては,次の2点があげられる.第一に,ひらがなはたとえば「さ」と「ち」,「あ」と「お」のように個々の文字自体の形が似通っており弁別しにくいという理由.第2に,ひらがな表記では,たとえば「ゆか」と「しか」のように,別の語の中に共通した文字が含まれていて弁別を困難にしているという理由である.このほか,表意文字(漢字)と表音文字(ひらがな)における難易性の問題もあるが,少なくとも保持テスト1までの間では,「あ」,「い」といった個々のひらがなの読みを表音文字として教えておらず,いわゆる全語法による訓練しか行なっていない.したがって今回のケースの解釈には必ずしもあてはまらないと思う.

 さて,今回の訓練で,被験児は表記された語の意味を理解していたのであろうか.それとも,単に「模様としての文字列」と音との対連合学習をしたにすぎないのであろうか.この点を検証するための特別のテストは行なっていないが,行動観察によれば,大部分の語については少なくとも文字列と事物との関係を把握していた可能性が高い.例えば,「目」,「鼻」,「口」などのカードを提示したさいに,被験児は自発的に自分あるいは親の顔の該当部分を指で触れた.さらに「時計」,「机」などに対しては室内の該当事物を指し示す行動,「消防車」,「ゴミ収集車」などに対しては当該のおもちゃを運んでくる行動がしばしば観察されている.

 保持テスト2のさいに生じた誤反応をみると,被験児が成人とは異なったかたちで漢字を弁別していた可能性が示唆される.たとえば,「旗(正答は『麒麟』)」,「北九州(正答は『丸』)」,「靴(正答は『指』)」,「靴(正答は『背中』)」などは,成人の常識では考えにくい誤答である.これらは,漢字の部首のごく一部だけを手がかりにして単語・熟語の弁別がなされていたことを示唆するものである.すなわち,「麒麟」は「其」,「丸」は「九」の一部,「靴」,「指」,「背中」は「ヒ」の部分だけを手がかりにしていた可能性が高い.もっとも,このように「部分だけしか見ない」傾向は,弁別訓練の初期ではしばしば生じるものでありそれほど珍しいとは言えない【7】.じっさい,混同した語を併記した弁別訓練を反復することでこの種の誤反応は急激に減少している.

 今回の結果から2歳児でも漢字などの読み学習が可能であることが確認されたが,このように早期に漢字教育を行なうことの是非については,教育界からかなりの反発があることと思う.最後に,この点に関する私見をいくつか述べてみたい.

 まず,最も大きな反発として「早期の漢字教育は子どもの情緒を害するのではないか」との批判が予想される.しかし,これは導入の仕方の問題であって漢字教育そのものの問題ではない.もし,子どもに漢字を無理やり押し付けるならば確かに情緒を害することになるだろう.しかし,親子の遊びの一環として自然な形で教えていく限りにおいては,山田1)も指摘しているように,漢字を教えることと,歌や絵や折り紙を教えることの間に何ら質的な差異はない.「のびのびと育てる」などの理由をつけて子どもをほったらかしに
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しておくよりは,親子で漢字を覚えることを通してスキンシップをはかることのほうがはるかにすぐれた情緒教育になると思う.

 筆者は,今回被験児となった長男を連れて,しばしば団地の周辺を散歩するが,道路沿いには,「電話」,「工事中」,「止まれ」,「駐車場」,「長崎」など,漢字で書かれたさまざまな表示がある.こうした表示を自分で発見したときの子供の喜びは,漢字を知っていて初めて得られるものである.また,高速道路のサービスエリアで休憩をしていた時,駐車場のほうを見ていた子供が「あのトラック,牛乳を運んでいるよ」とうれしそうに言ったことがある.見ると,トラックの側面には大きく「○○牛乳」と書かれてあった.ひらがな で「ぎゅうにゅう」と書かれているのは絵本という隔離された世界の中だけである.漢字 を知らなければ,日常生活場面の中では,牛乳を運ぶトラックも宅配便のトラックも区別 できない.つまり,漢字の習得はより豊かな環境世界を与える効果があると言えよう.

 早期の漢字教育をいわゆる英才教育とひっくるめて批判する人もいるだろう.しかし,冒頭にも述べたように,漢字はいっかは学ばなければならないものである.中学,高校の時期はすでに記憶力の減退期に入ることに加え,英単語や歴史的人名,数字や理科の公式等,記憶に最も負担がかかる時期である.こうした時期に日本語に必要とされる漢字の大半を無理やり覚えさせてストレスを与えるのと,遊びの一環として幼児期に覚えさせるのとどちらが本当に子供のためになるのか,批判者は再考が必要である.

 漢字教育を導入する前段階としてすべての語をひらがなで表記する段階が必要かどうかは大いに疑問が残る.ひらがなを最初に教えるという慣行は第2次世界大戦直後連合軍総指令部の命令で始まったものであるが,Steinberg・岡2)が指摘しているように,その決定の理由は不明であり,かな文字の先行学習を是とする心理学的な根拠は見あたらない.しかも,日本語は,音だけで判別可能な「やまとことば」に漢語が大量に混入してできあがった言語である.大陸から漢語が伝来する過程で,もともとの中国語にあった抑揚(四声)による区別,有気音・無気音の区別,複母音などが,日本語本来の発音に同化する段階で欠落・単純化されたため,同音異義語が非常に増え,日本語は表音文字だけで判読することがひじょうに困難な言語になってしまった.このような特徴をもつ日本語を教える最も初期の段階において,わざわざ,判読が困難なひらがなだけで表記された絵本を与える意味がどれだけあるだろうか.

 最後に,以上の主張は,幼児ばかりでなく日本語を初めて学ぶ外国人についても言えることである.冒頭にも指摘したように,ワープロの普及によって,書取の訓練は日本語習得の必要条件ではなくなってきた.ローマ字で読みを入力し変換候補の中から適切なものを選ぶ,こうした訓練を徹底するならば,外国人にとって日本語はもっと身近な言語になるはずである.

注釈

【1】基本的には,当用漢字と人名漢字を合わせて最低2000字余りの漢字が必要であるとされている.しかし,これだけでは日常生活上不便をきたすことが多く,例えばパソコンやワープロに装備されている漢字の種類は,JIS第1水準2965字,第2水準3388字,合計6300字余りにのぼっている.

【2】本被験児の場合,「電気」という語は,「電気をつけて」,「電気を消して」というように,天井に取り付けられている蛍光灯のことを意味している.

【3】日常会話の中で,親が「いま朝?」とか「いま夜?」という問いかけをすることが多かった.
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【4】被験児は,「動物の森(福岡県の海の中道海浜公園にある『動物の森』)」をたいへん気に入っていた.
【5】たとえば,「右」,「左」,「石」,「岩」を併記し,「石はどれ?」というようにして区別させた.
【6】「長与」は被験児が住んでいる町の名前.「■■」は被験児の名前.
【7】たとえば,サイコロの「3」と「4」の目の弁別は,ハトやサルでも容易にできる.しかし,ほんとうに点を数えて区別したとは限らない.面の左上部に点があるかどうかを手がかりにしても区別できる.

文献

  1. 山田稔:幼児は漢字が大好きだ,花園文庫,1981.
  2. SteinbergDD,岡直樹:漢字と仮名文字の読みの学習一漢字学習の易しさについて,心理学研究49:15-21, 1978.
  3. SteinbergDD,磯崎三喜年,天野真二:幼児の仮名と漢字の読み学習,心理学研究52:309-312,1981.

(1988年12月28日受理)