行動随伴性に基づく自己理解

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スキナー以後の行動分析学(6):
行動随伴性に基づく自己理解(1)




長谷川芳典


岡山大学文学部紀要, 1997, 27, 71-86.


1999年5月22日掲載



 本稿は、性格や知能といった内部に仮定された特徴によってではなく、その人が環境との関わりの中でどのような行動随伴性に晒されているのかを把握することで、自己理解する道をさぐることを目ざすものである。今回は、その第1回目として、基本的な枠組みを提示する。

1. 性格、あるいは内的原因に基づく自己理解の限界と弊害



 一般教育の心理学関連科目の受講生に、授業開講時にアンケートをとってみると、自分自身をよりよく理解したい、ということを受講目的の第一に掲げる者が多い。ところが、大部分の者は、自分の性格を知ることで自己理解が達成できると錯覚しているようだ。
 図1は、筆者が非常勤講師として担当している某私立短大の心理学関連科目の受講生に、受講理由を尋ねたものである。この科目は必修になっているため、回答者66人中22人は、“必修だから”、また17人は“ただ何となく”というように消極的な理由を挙げているが、そんな中で、第2位には“自分を理解したい”(20人)、第4位には“他の人のことを理解したい”(16人)、というように、自分や他人を理解することを目的として、心理学関連科目を受講する者が、約3分の1に達していることがわかる。また、自分を理解するためには、どういうことを知る必要があると思いますか”という質問で、あらかじめ用意された回答項目に重要と思われる順に順位をつけてもらったところ、圧倒的多数が、“自分の性格”を1位に掲げていることがわかった(図2)。この資料からも、自分を理解すること、イコール、“自分の性格を知ること”と考えているものが、いかに多いかがわかる。
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図1:ある私立短大学生の心理学関連科目の受講理由。回答者は66人。アンケートは授業開講時点で実施。あらかじめ用意された、15の回答選択肢から複数選択可のもとで選択させた。なお、いずれの選択肢も当てはまらない場合は、その他の理由を自由記述させた。“必修だから”という回答は、あらかじめ用意された選択肢には含まれておらず、自由記述のうち意味内容の同じものを合算した数である。図に表示されていない、その他の選択肢としては、“友人について考えてみたい”(選択者:2人)、“不安や恐怖について考えてみたい”(2人)、“宗教について考えてみたい”(0人)が用意されていた。

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図2:“自分を理解するために、どういうことを知る必要がありますか”という問いに対して、1位に選んだ回答項目の比率。回答者は、私立短大学生64名。心理学関連科目の授業開講時に実施。回答者は、あらかじめ用意された8個の回答項目に対して、1から8までの順位をつけた。回答項目は[1]自分の性格、[2]自分の知能才能、[3]生育史、[4]自分の外見、[5]自分の思想、[6]自分の特技、[7]現在の家庭環境、[8]現在の環境【家庭環境以外】、の8項目であった。

 一般向けに書かれた本にも、性格を知ることが、自己や他者、恋愛や相性や対人関係などの理解に役立つことを強調しているものが多い。学術情報センターデータベースJPMARCにおいて、国内で出版された本の中から“性格”をキーワードに含むものを検索すると、1997年4月7日現在で、437冊が該当することがわかった。これらの本のうち、“自己理解”などに関連すると思われる語句を副題としてつけている本はざっと89冊にのぼる。表1に、それら副題(一部省略)の一覧を示す。

表1:“性格”をキーワードとして検索された本(国内)437冊のうち、自己理解などに関連する語句が副題に含まれているもの。
21世紀の相性判断◆「人間」の理解を深める◆あなたが見える◆あなたの危険度を徹底チェック◆あなたはそこにいる◆あなたは人からどう見られているか◆あなたらしく生きるヒント◆あなたを幸せにする性格分析◆うそのように人づきあいがラクになる本:嫌なヤツともつきあえる◆おとなの問題児◆ここまでわかった!「性格」と「発病」のメカニズム◆こころは測れるのか◆ことばのウラ:30秒でホンネが丸見え◆これで決まる理想のカップル◆イヤな自分は変えられる◆タイプ別人生論◆ツキを呼び込む本◆ハートひらけごま◆ホントのワタシに吃驚仰天?◆異性の選び方◆隠れた自分がわかる:きっと自分を好きになる◆運命のカギをにぎる16のタイプ◆会った瞬間にそのひとがわかる本:人づき合いが断然面白くなる◆気づかなかった自分に出会える◆見えないココロが浮きぼりにされる◆現代人にとって魅力とはなにか◆個性を作るもの◆個性を生かす◆幸せをつかむ性格分析◆今の恋がちょっぴり不安なあなたのために◆仕事に活かす◆思いがけない自分を新発見◆自己再発見◆自己診断◆自己統一の心理学◆自己認知テスト:自分を120%生かす◆自己発見のためのエニアグラム ◆自己理解のための心理学◆自信と勇気を育てるために◆自分がわかる心理テスト:知らない自分が見えてくる◆自分のことが知りたい◆自分の持ち味を活かす法◆自分をみつける心理学:よりよい人間関係を築くために◆自分を活かす◆自分を生かし人間関係をよくする◆自分を知り他者を理解するために◆自分を知る事典◆自分を変える心理学◆自分を変える本◆自分探しの本◆自分発見!かしこい自分になってやる◆自分発見テスト◆初対面でもできる1分間人間診断法◆心がわかる相手がわかる◆心との出 会い自己発見◆心の健康診断◆新しい自己の発見と創造◆新しい自分を発見しよう◆人の心の見抜き方◆人の心を見抜いて上手に付き合う◆人の心を見抜く性格診断学◆人をみぬく知恵◆人を観る◆人を見る目で先手をとれ◆人を見抜いて上手につきあう◆人を見抜く◆人を読む法:101の視点 ◆人を理解し、ヒトを知る:人材発見の条件◆人間が面白くなる本◆人間を見抜く◆人間理解◆人間錬成のための精神分析◆人材の選び方◆性格適性育成◆成功・失敗はこれで決まる◆成功する本◆素敵な出会いをひらく◆相手を知り己を知る◆相性と適職を知りたいあなたに◆相性判断・恋愛運・金運がわかる◆知りたい自分に出あえる◆敵を知り、自分を知れば◆適性:進学・就職・結婚◆内攻的性格:企業における創造力の源泉◆本当の自分を知ったらなんでもできる:驚異の自己テスト・ブック◆恋愛、ビジネス、友人関係も自由自在◆恋愛・結構・仕事・・・の成功のカギ

Note: 1997年4月7日現在。学術情報センターのデータベースJPMARC(国立国会図書館に納本された国内刊行の図書の書誌情報)による。この中には同一タイトルの改訂版等が含まれていたので、表1では87タイトルを示している。副題の一部は省略してある。




 表1に掲げた書籍の著者の中には、心理学の研究者が科学的な立場から性格を論じたもののほか、心理学会等には所属せず、自称“心理学研究家”として、もっぱら売れるための本を書いている者も見受けられる。しかし、読者の側から見れば、著者が大学の先生であるのか、自称心理「学者」であるのかは、どうでもよいことだ。とにかく、表1に示したようなタイトルの中には、性格関連の語句が多数含まれている。性格を知ることに対する期待がいかに大きいかを示す1つの資料となるであろう。
 心理学者たちからの猛烈な批判を受けながらも、未だに“血液型性格判断”が廃れないのも、性格に対する過剰な期待の現れであろう。じっさい、同じ学術情報センターのデータベースで“血液型”をキーワードに検索すると、182冊が該当した。この中には、輸血や肉親鑑定などに関係すると思われる書籍や、単に“血液型”というタイトルで判断がつかない書籍が48冊含まれていたが、残りの134冊は、タイトルや著者名から判断して、いわゆる“血液型性格判断”に属する書籍であると推測される。また、“性格”と“血液型”をAND条件にして検索した場合の該当数は83冊にのぼった。
 性格を知るためには、ふつう何らかの“性格テスト”を実施する必要があるが、血液型性格判断であれば、その人のABO血液型さえ判れば事足りる。あらゆる人間をA、B、O、ABの4通りのパターンに分けてステレオタイプ化する。実際は、どの型を見ても、誰にでも当てはまるような特徴を、形容詞を変えてちりばめてあるだけのことが多いのだが、そういう本を読むことで、自分が気づかなかったような特徴が発見できたような気分になってしまうのである(長谷川芳典, 1994a,pp. 121-129.参照)。
 自分の性格を知ること、あるいはもっと総体的統合的な意味で、パーソナリティという視点から自分を理解しようという試みは、しかしながら、以下の点で限界をかかえている。
 第一に、状況を越えた行動の一貫性を過大評価する恐れを含んでいる。これは、Mischel(1968)に始まる「一貫性論争(consisntency debate)」に端を発したものである。Mischelは、人間行動に通状況的一貫性(cross-situational consisntency)がないという客観的データに基づいて、そのような一貫性を前提とするようなパーソナリティを否定した。この主張は、パーソナリィ心理学研究者にとっては死活問題であり、感情的な反発もあれば、誤解や曲解もあるが、専門的な議論については、すでに渡邊・佐藤(1993)が詳しく論じているので、本稿ではこれ以上、立ち入らない。
 専門的な議論は別として、「状況を越えた行動の一貫性」が、素朴なレベルでの自己理解を固定し、自分の行動の可塑性・柔軟性を否定してしまう恐れはないだろうか。例えば、性格テストで「内向的だ」という結果が出ると、何かのパーティに誘われた時にも、「どうせ内向的なんだから、行っても面白くない」と考える。あるいは、「支配性や協調性がない」という結果が出ると、リーダーに選ばれても辞退してしまう。そういう消極的な対応は、未知の環境に挑戦する可能性を妨げることになる。
 第二の問題は、何か行動が生じた時に、その原因を、その人の「性格」や「能力」ばかりに帰着させ、環境や状況の影響を過小評価する恐れである。たとえば、ある少年が家庭内で暴力を振るうようになったとする。この少年に対して“攻撃的”とか“非協調的”といったレッテルを貼るのは簡単である。しかし、それでは何も解決できない。まして、その少年が暴力を振るうのが学校から帰った直後だけであり、休日にはまったく起こらなかった、というようなことがあれば、この少年の外部的な関わりをもっと詳細に調べる必要が出てくるのではないか。
 歴史的な事件では、大統領のような政治的リーダーの有する「強大な力」によって行動を説明しようとする傾向があると指摘されている(Tedeschi, Lindskold, & Rosenfeld, 1985)。じっさい、多くの歴史小説では、登場人物の性格や能力の事件への関与が最大限に強調されている。そのため、たとえば、急逝後1年を経ても空前の刊行ラッシュが続いている司馬遼太郎氏の著作の内容について、高い評価がある一方、「司馬史観は個人の力を強調する個人肥大史観です。...」(佐高信氏)という意見が出されている(朝日新聞記事、1997年2月11日)。
 もっとも、歴史小説にかぎらず、小説全般において、主人公の性格や能力の影響を過大に評価することは、やむをえないことであるかもしれない。環境や状況の影響を強調したような小説は、よほどユニークな状況設定にしない限りは、読者の心をひきつけることができないと思われるからだ。とはいえ、幼少の頃から、登場人物の性格や能力の影響を過大に評価した小説ばかりを読んで育つことが、環境や状況の影響を過小評価する人間観の形成に一役かっている可能性は否定できない。
 第三の問題は、そもそも性格やパーソナリティは行動の原因にはならない、という根本的な主張である。近年の特性論的な性格理論は、他者との相対的比較を前提としている。しかし、行動は、その個体と環境との関わりの中で生じるものである。他者との比較の中に原因が見い出せるはずがない。
 ここで、人間を離れて2つほど例をあげてみよう。たとえば、部屋の中にチューリップとサボテンの鉢植えが置いてあったとする。ところが、長期出張の時にうっかり水やりを忘れてチューリップが枯れてしまった。いっぽう、サボテンは、へいちゃらである。この場合、チューリップが枯れた原因は何か、と聞けば、誰でも、水をやらなかったことが原因であると答えるだろう。決して、チューリップがサボテンに比べて乾燥に弱いために枯れたとは考えない。
 もうひとつ、1995年度岡山大学公開講座で紹介した例をあげておこう(インターネットホームページhttp://www.okayama-u.ac.jp/user/le/psycho/member/hase/h31/lec9701koukai-1.html参照)。ここに、紙と石がある。それぞれにマッチの火を近づける。その結果、紙は燃えたが石は燃えない。それでは、紙が燃えた原因は何か? 答えは言うまでもなく、マッチの火を近づけたためである。紙に「燃えやすい性質(→性格)」があったためでは、決してない。
 ここで人間に話を戻そう。同じ条件のもとで、Aさんが、ある行動をし、Bさんは、それをしなかったとする。しばしばそれは“性格の違い”によって説明されだろう。しかし、Aさんは、無人島でも同じ行動をするかもしれない。そこには、比較する人がいない、それでも行動は起こる...。
 もちろん、性格を調べることは行動の予測には役立つし、その人の最適の環境条件を見つける手がかりになるかもしれない。しかし、行動を増やしたり維持したり、逆に減らしたりしようとする場合には、別の原因を探らなければならない。(ある植物がサボテンの仲間であることがわかれば、水やりを控えるだろう。しかし、その際に重要なのは、どの位の頻度で水やりをすればよいかということであって、チューリップの水やりの頻度と比べて何%にすればよいかということでは、決してないのである)。
 さて、ここで、少し視点を変えて、質問紙法の性格テストについて考えてみたい。もし、性格テストの質問の中に特定の行動傾向の有無を尋ねる質問が含まれていると、そのテストの的中率は当然高まるものと予想される。じっさい、ちゃんとした性格検査の中にもこのような質問項目が含まれているのである。たとえば、企業の採用試験や学校などで未だに使われている有名な“YG性格検査”の質問項目の中には、
といった質問が含まれていて、これらに○(項目によっては×)をつけると、“社会的外向性が低い(社交的でない)”と判定されることになっている。ここで、たとえばAさんが友達ができずに悩んでいたとしよう。Aさんは、これらの項目に○(項目によっては×)をつけるので当然“社会的外向性が低い(社交的でない)”と判定される。となれば、“社会的外向性が低い”というのは友達ができない原因ではありえない。要するに、

“あなたはAをしますか”→“はい、Aをします”→“あなたはAをする性格です”→“あなたがAをしたのはAをする性格だからです”

と言っているようなものだ。。判定をするための質問の中にズバリ“友達ができるか”という質問が最初から含まれている以上、予測が的中するのはあたりまえであると言えよう。
 もちろん、ちゃんとした手続にのっとった質問紙性格検査では、種々の統計法を駆使して質問項目の選定が行われており、ある質問に「はい」と答えたからといって質問内容どおりの性格であるなどといった安易な判定はなされないようになっている。たとえば、“いつもほんとうのことを言うとは限らない”とか“時々腹を立てる”という質問に×をつけたからといって、品行方正で温和な性格であると判定されるわけではない(実際これは、MMPIという性格検査で、自分を飾ろうとする傾向を調べるための質問項目に含まれているものである)。しかし、そういう工夫がなされていることは認めたとしても、大部分の質問項目では、質問の内容と判定される行動傾向のあいだには表面的にかなりの類似性が認められることは否定できない。
 以上述べてきたように、性格というのは、大ざっぱに言えば、現在の自分の行動の傾向を、他者との比較のもとに分類整理しパターン化したものであると言ってよいだろう。それを知ることは、ある場面での行動の起こりやすさを予測したり、適性のようなものをおしはかる資料にはなるだろうが、自分の行動の真の原因を把握することにはつながらず、従って、行動を変える手がかりにもならない。そういう意味では、どんなに自分の性格を知っても、それをもって自分を理解したことにはならない、と言い切ることができる。

2. 行動随伴性による自己理解


 性格を知ることが、必ずしも自分を理解したことに繋がらないとするならば、それに代わるものとして何があるのか。本稿は、その1つとして、行動随伴性による自己理解の道を提唱するものである。
 行動随伴性による自己理解とは、日常生活上で、時間的あるいは“精神的”に大きなウェイトを占めているような行動を列挙し、その原因をさぐる中で、現在の自分を把握し、将来を見通そうとするものである。なお、ここでいう“精神的”とは、その行動に従事する実質時間は少なくても、それ以外の時間で、その行動に関係する言語反応などが多発するような行動、たとえば、人によっては非常に緊張するような結婚式のスピーチとか、開会式での挨拶などがこれに相当する。
 行動随伴性の概念は、B・F・スキナーによって初めて提唱されたものである。その詳細については、すでに、本稿を含む一連の論文の中で、詳しく述べているので(長谷川芳典, 1992a; 1992b; 1993; 1994b; 1995)、繰り返しは極力避けることにするが、その基本的な考え方は、個体と環境との関わりの中に行動の原因を求めること、つまり、

直前条件→行動→結果

という随伴関係によって行動を説明しようとするものである。
 ここで、1つだけ補足しておこう。上記の随伴関係の記述では、“行動とその結果”をもって行動を説明しようとしているが、1回しか起こらないような行動を説明できるのかという疑問が起こるかもしれない。たとえば、自殺という行動は、死という結果を招くが、死んでしまった後では、いかなる行動も生じない。これについては、そもそも行動分析で扱う“行動”という概念が、個々に生起する1回限りの反応ではなくて、同じように機能しながら繰返し生じる、ひとまとまりのクラスを対象にしている、という点に留意する必要がある。ただ、自殺行為のように1回で完結してしまう行動であっても、よく調べてみれば、過去に類似の行動が起こっている可能性はある。たとえば、困難な状況に直面するとすぐに逃避してしまう行動の頻度が多いとか、あるいは、死後の世界にあこがれていて、自殺して別の世界に住むことを主張している宗教団体の活動に参加する頻度が高いというようなことがあるかもしれない。そのような行動が事前に観察できれば、それを制御することで、自殺行為を事前にくい止めることも可能となるであろう。
  スキナー自身が提唱した随伴性は、基本的に4通りであった。すなわち、正の強化子(ここでは、以後、杉山ほか(1995)の訳語にしたがって、代わりに“好子”と呼ぶことにする)、または、負の強化子(同じく、以後“嫌子”と呼ぶことにする)が(=2通り)、行動の直後に提示されるのか、除去されるのか(2通り)、という組み合わせ(2×2=4通り)から成り立つものである。
 その後、Malott, Whaley, & Malott(1993; 1997)によって、スキナーが提唱した基本随伴性とは別に、新たに“阻止の随伴性”と呼ばれる4通りの随伴性概念を追加することが提唱された。この概念を新たに設けることの意義については、長谷川(1995)及びHasegawa(1996)で詳しく述べているので、ここでは極力繰り返しを避けることにするが、基本的には、“阻止の随伴性”は、現在の環境を同じ状態に保つという“保守の随伴性”を意味している。つまり、放っておけば環境側が勝手に変化するような状況において、

行動する→現状維持
(行動しない→環境が勝手に変化)

という随伴性が、行動の原因となりうるという考え方である。この概念は、行動分析学者のあいだで一般に受け入れられた概念には成熟していないが、長谷川(1995)及びHasegawa(1996)が強調しているように、この随伴性にもとづく行動変容には適応上の意義が認められるほか、これを導入すると、“〜しない”というような余事象的で具体性のない行動現象を除外しながら、当該の行動事象を的確に説明することが可能となる。


3.行動随伴性の分類の概略


 さて、行動随伴性概念は、これまで、個々の行動の原因をさぐったり、改善をはかるための手段として活用されてきたものの、自己理解というグローバルな観点からは、あまり考慮されてこなかったように思う。
 個々の行動の原因を探るだけであれば、上に述べた8通りの随伴性だけも事足りる。しかし、自己理解をはかるためには、ある行動が、ある個人において義務的に働いているのか、それとも生き甲斐となっているのか、というようなことまで考慮していく必要がある。そのためには、さらにきめの細かい分類が必要であるように思う。
 本稿では、その基本的枠組みとして、全部で64通りの質的分類を提唱することにしたい。表2にその概略を示す。なお、表2では、分類の表記を簡潔にするため、各分類項目に合致する場合に付すことになる略号を合わせて示している。
表2:行動随伴性の詳細な分類

(1)結果の質

項目1.
好子(positive reinforcer, ps)か、嫌子(negative reinforcer, ng)か。
項目2.
非学習性強化子(unlearned reinforcer, un)か、学習性強化子(learned reinforcer, lr)か。

(2)随伴の基本形式

項目3.
結果事象は、出現(appearance, ap)するのか、消失(disappearance, ds)するのか
項目4.
行動は、環境の変化をもたらすような改革の結果(reform, rf)をもたらすのか、環境側の
勝手な変化を阻止するような保守の結果(conservation, cn)をもたらすのか。

(3)随伴の様態

項目5.
行動の結果は、その行動が必然的本質的にもらたらすもの、つまりビルトイン(built-in, bl)されたものか、行動とは本来無関係なものが付加された(added, ad)ものなのか。
項目6.
行動の結果は、直後(immediate, im)か、遅延後(delayed, dl)か。なお、行動の結果が直後に生じないのにもかかわらず、その行動が維持・強化されている場合には、“ルール支配行動”を考える必要がある。

 上記の表に基づく分類とは、個々人が日常生活上で、時間的あるいは“精神的”に大きなウェイトを占めているような行動を列挙した上で、表の1.〜6.それぞれの二者択一項目のどちらに該当するのかを選び、略号の配列で表すことである。具体的な分類例を2つほど示すと、次のようになる。

具体例
[1]面白くない仕事だが、遊ぶお金が欲しいのでアルバイトする。
→[ps,lr][ap,rf][ad,dl]

[2]下宿のトイレの掃除をする。お金は、もらっていないが、ニオイが消えてすっきりする。
→[ng,un][ds, rf][bl,im]

 具体例の[1]は、アルバイトという行動が、お金によって強化されている。この場合、お金は好子psであり、これは学習性好子である(お金は、社会的な文脈の中でしか価値をもたない)。また、この場合、行動によってお金が提示されるので、分類項目3は出現ap、かつ改革rfとなる。さらに、お金の提示は、雇用者によってアルバイトの報酬として付加された結果であるので、分類項目5.はad、最後に、アルバイトの報酬は、ふつう、週給や月給として支払われるので、分類項目6.はdlとなる。以上により、[ps,lr][ap,rf][ad,dl]という配列として分類されるのである。
 もうひとつの具体例[2]における結果は、嫌なニオイの消失ということにある。悪臭は、学習を必要とせずに嫌子となり、また行動の結果、環境が改革されるので、分類項目1.〜4.は [ng,un][ds, rf]となる。さらに、ニオイの消失は、掃除という行動がもたらす本質的な結果であり、行動後速やかに生じる変化であるので、分類項目5.と6.は、[bl,im]となる。以上から、[ng,un][ds, rf][bl,im] という配列として分類されるのである。

4.行動随伴性の分類にあたっての留意点と、自己理解への活用


 本稿で提唱する基本的枠組は以上であるが、次回以降にさらに話を進める前に、それぞれの分類が、生きがいや義務的行動などとどう関与しているのかについて、いくつか留意すべき点がある。本稿の残りの部分では、その指摘を行うことにしたい。
項目1.
 長谷川(1992a)が指摘したように、ある刺激事象が好子となるのか嫌子となるのかは、行動の変容の結果を見ないと断定できない。たとえば、授業中に騒いだ者に“校庭一周”を命じることは、ふつう嫌子の提示になると考えられるが、授業が嫌で外で走り回りたい子供にとっては、逆に好子の提示になるのである。
項目2.
 ある好子なり嫌子なりが、非学習性のものか、それとも学習性のものかは、見極めが難しい場合も多い。たとえば、他人から注目されることは、人間という社会的動物にとって、非学習性の好子であると考えられがちである。しかし、Skinner(1953, p.78)が指摘しているように、 人々から注目されることが強化的であるのは、それが他の強化を得るための必要条件になっているからであるという見方もある。注目してくれる人々だけが私たちを強化してくれるのである。特に強化を与えてくれる可能性の高い人々からの注目、つまり両親や先生や恋人からの注目は、特に、事後に強化を受けやすい。こう考えると、“注目”は、学習性好子ということになるだろう。また、食べ物は一般に、非学習性の好子であると考えられるが、おいしい味というのは、実はパブロフ型の条件づけによって形成される場合が多い(長谷川, 1996参照)。また、時として社会的文脈の中で、味の好みが形成される場合もある(谷口・長谷川, 1996参照)。
 このように、厳密な意味で、学習性、非学習性を区別することは難しいが、たとえば生きがい問題を論じる場合には、ある人の主たる行動が、非学習性好子によって維持されているのか、学習性好子によって維持されているのか、を区別することには、それなりの意義があると考えられる。
 いっぱんに、非学習性の強化子は、進化の過程で、適応に有用な刺激が結果的にその機能を獲得したものと考えられる。したがって、人間という種が別の種に進化しない限り、非学習性好子は、常に行動を強化しうるものであるし、非学習性嫌子を避けることは、その個体の生存確率を高める結果をもたらす。ただ、文明の進歩によって、大昔には確実に適応に役立っていたものが、現在では逆に健康を損ねるもととなる場合もある。Skinner(1953, p.84)は、そのような非学習性好子の一例として、糖分(甘味)をあげている。大昔には、糖分をたくさん摂取することは、その個体の生存確率を高める効果があったが、現在では、逆に、糖分をとりすぎることは成人病の原因になっている。
 このように、現代では、非学習性の強化子だけで強化されて行動することは、必ずしも最適とは言えない側面をもっている。悪く言えば、食欲と性欲を満たし、それを妨げる者には攻撃を加えるという“爬虫類的”人生、あるいは、その場かぎりの快楽だけを追求する刹那的な人生をおくることになりかねない、という問題をかかえているのである。
 これに対して、たとえば、芸術とか、科学的発見とか、仕事の完成というような学習性好子によって日常行動の大半が強化されている人は、きわめて文化的な生活を送っているということができるであろう。
 しかし忘れてはならないのは、学習性好子の中でも最も強力なものは、お金であるということだ。ひたすらお金を儲けることだけに人生の大半を費やす人もまた、学習性好子によって行動している人間なのである。このほか、TVタレント、人気商品、流行、ゲームなどの刺激事象は、それぞれに関連する企業が、いかに多くの収益をあげるかという目的で宣伝活動を行い、その条件づけの成果として形成された学習性好子であると考えられる。そういうものばかりに踊らされて、仕組まれた学習性好子を追い求めることが、本当の生きがいになるのか、という点を見極めていく必要がある。
項目3.
 ふつう、提示(出現)とは、環境に新たな刺激事象を付け加えること、除去(消失)とは、環境から特定の刺激事象を取り去ることを意味している。通常、この区別で混乱することはないと思われるが、以下のような、まぎらわしい事例もある点に留意しておく必要がある。
 たとえば、砂漠で遭難した人が水を求めて歩き回った結果、やっとコップ一杯の水を獲得したとする。水を与えることは、それとも“渇き”という嫌悪事態から逃れられたという意味で、嫌子除去になると思われるかもしれない。しかし、この場合、行動に影響を与えたのは、水である。水は、溺れている時に無理やり飲まされるような緊急事態は論外として、ここではあくまで好子として機能している。砂漠で極度の渇きを経験するということは、長時間、水との接触を断たれたという遮断化(deprivation)を意味している。遮断化は、強化ではない。特定の好子や嫌子に対する生体側の感受性を変える確立操作(estabilishing operation)と考えなければならない。
項目4.
 これに関しては、長谷川(1995)及びHasegawa(1996)で詳しく論じたので、詳細は述べないが、ほんらい楽しいはずの行動がなぜ義務的に感じるのか、という説明をするさいに、きわめて重要であると考える。
 たとえば、小鳥をペットにして育てたとする。この場合、育てるという行動は、小鳥の可愛らしい動きやさえずりによって維持・強化されているので、好子提示による随伴性が関与していると考えられる。しかし、小鳥は1日でも餌や水をやらないと死んでしまう。そこで、どんなに体調が悪くても、忙しくても、毎日、餌やりや鳥かごの掃除をする必要がある。こうなると、餌やりや掃除は、小鳥が病気になったり死んだりすることを阻止する目的で行われることになり、言い換えれば、小鳥という好子が消失する(=死ぬ)ことを阻止する随伴性、つまり“好子除去阻止の随伴性”によって維持されるようになってくる。
 サラリーマンの労働も、同じようなことが言える。最初は、自分の適性を考え好きな仕事を選んだ人であっても、時には、仕事がつまらない、のんびり休暇をとりたい、と考えることがあるだろう。しかし、今、仕事をやめると給料がもらえなくなり、家族は路頭に迷うことになるので、やむを得ず働き続ける。こうなると、その人にとって、仕事をすることは、給料という好子提示の随伴性によって維持されているのではなくて、“仕事をやめれば給料を失う”という、好子除去阻止の随伴性によって維持されていることになる。スキナー自身、このことを非常に問題視しており、労働者たちは賃金のために働くのではなく、解雇されて生計がたたなくなることをおそれて働くようになってしまった、と指摘している(Skinner, 1990)、。
 このように、初めは好子提示の随伴性によって維持・強化されていた行動が、その後の日常的な反復の中で、いつしか、好子除去阻止の随伴性によって維持されるようになることは、往々にしてありうることだ。毎日続けている行動を義務的に感じることがあるとしたら、こうした随伴性の変化によるものと考えるべきであろう。
項目5.
 杉山ほか(1995)では、ビルトイン随伴性(好子提示の場合)は、“誰かがかかわらなくても好子が自動的に反応に随伴してしまう強化随伴性”、また付加的随伴性(好子提示の場合)は“意図的にせよ意図しないにせよ、誰かによって好子が反応に随伴する強化随伴性”として定義されている。この日本語版『行動分析学入門』(翻訳書ではない)のもとになっているMalott et al.(1993)にも、2つの随伴性についての同じような定義があり、“誰か(someone)”のところには脚注があり、自己強化の場合にはその人本人が“誰か”と同一人物になること、葡萄を食べると葡萄の甘みがするのがビルトインであり、文章を書いたあとで葡萄を食べるのは付加的であると補足説明がされている。ところが、その第3版にあたるMalott et al.(1997)では、ビルトイン随伴性と付加的随伴性についての記述が同じ章やSubject Indexから削除されてしまった。その理由については、著者に直接問い合わせていないので定かではない。確かに明確には区別できないケースもある。しかし、筆者自身は、この区別は非常に基本的かつ重要なものであると考えている。
 というのは、ビルトイン随伴性と付加的随伴性は、生きがいの問題と大きく関わっている、と考えるからである。スキナーは、産業革命以後、仕事が細分化されてその1つ1つが別の人たちに割り当てられるようになったために、金銭以外の強化子が何もなくなってしまったことを問題視している(Skinner, 1990)。産業革命以前の職人たちには、仕事のどの段階にも、“完成”という、仕事にビルトインされた結果が随伴していた。今でも、伝統工芸の職人にインタビューすれば、必ずといってよいほど、“作ることの喜び”が伝えられる。これに対して、オートメーション化された工場の労働者は、モニターに映し出された映像を見ながら、機械的にボタンを押す。この場合、自分が操作している生産物を直接見たり触れたりする機会はない。また、自分の操作が製品全体の完成にどういう貢献をしているのかさえ、はっきりと確認できない場合すらある。また、事務系の職員は、毎日、書類に数字を書き込み、判を押す。あるいは、パソコン画面に向かって、機械的に文字を打ち込む。ここにも、ビルトインされた行動の結果は見えてこない。
 現代でも、農林業や漁業に従事する人々の場合には、労働にビルトインされた結果が随伴する度合は大きいものと思われる。サラリーマンの中に、いわゆる脱サラで、農村に移り住む者がいるのも、おそらく、会社勤めという付加的な随伴性ばかりの生活に耐えきれなくなったためではないかと推察される(実際には、これに加えて、項目4の好子除去阻止の随伴性からも逃れるためであろう、と推察される)。
 しかし、農林業や漁業と言えども、経営が企業型になり、機械化が進むと、“種を蒔いて、苗を育てて、収穫する”とか“仕掛けを工夫して、お目当ての大きな魚を釣る”というようなビルトイン随伴性に代わって、収穫を増すための農薬の大量散布や、規格外や採れすぎた生産物を捨て去る、あるいは、トロールで、魚をごっそり捕獲する、というような行動が出てくる。その行動を維持・強化しているのは、言うまでもなく、付加的な好子(=お金)に他ならない。こうなれば、第1次産業の従事者であっても、もはや労働に内在した好子によって強化される機会が失われてことになるだろう。
項目6.
 杉山ほか(1995, p.280)は、“反応後、数秒以上たってから好子が与えられるときはルールによる制御を考えなさい”として、人間の場合、じつは、直後強化ではなく、ルール支配行動に依拠した遅延強化に基づく行動が多いことを指摘している。じっさい、給料の支払いは毎月1回であるし、受験生が大学入試合格をめざして勉強に励むのも、ずっと後に結果が与えられる。そういう意味では、現代の社会で、“文化的”な生活を送っている人の日常生活行動のかなりの部分は、遅延強化によって維持・強化されている可能性がある。
 ただ、遅延といっても、その長さは、時間、日、週、月といった単位から、数十年、さらには何百年、何千年といった、単位に及ぶものもある。また、多くの宗教のように、日常生活行動に対して随伴する究極の結果は、その人の死後に提示されると説いている場合がある。例えば、善行をつめば天国に行かれるとか、逆に、人が見ていなくても悪いことをすれば地獄に堕ちるといったルールである。
 いっぱんに、ルール支配行動は、“朝三暮四”という言葉でヒトとサルを比較したことから示唆されるように、ヒトに固有の、目先の結果にとらわれない理性的な行動をもたらすと考えられる。いっぽう、直後強化のみで行動する人間は、刹那的で、将来に対する見通しを持てない。
 しかし、ルール支配行動を維持するためには、それを守ることが強化的であり、破ることが嫌悪的になるような、何らかの随伴性を付加してやる必要がある。たとえば、宗教団体は、毎週のように信者を集めて、信者たちの宗教行為を強化し、宗教に反応する行為があればそれを咎めて罰を与える。また、天国や地獄を描いた宗教画や彫刻や訓話などは、死後に随伴する(と説かれている)仮想の世界のリアリティを高める効果をもたらす。
 地球上の世界においても、環境の保護や防災や健康管理の問題などは、すべて、何十年、何百年もあとに随伴する、長期間遅延後の結果が関与している。それゆえ、日常生活の中では、環境が破壊されてしまった地域の惨状を写真で見せるとか、戦争体験者の話を直接聞くとか、成人病発生のプロセスを細かに説明するというように、毎日の行動に直接結びつくような、より具体的な結果を随伴させる工夫がなされている。とはいえ、付加的な随伴性が常に用意されるとは限らないし、付加的結果の効果の大きさは限られたものにならざるをえない。世界各地で依然として環境破壊が進むのは、目先の利益(直後の好子提示随伴性、もしくはより遅延期間の短い随伴性)が、環境保護という、遙かに長い遅延期間後に与えられる結果よりも優先的に働くからである。
 ルール支配行動は、一方で、理性的で人類の将来に有益となるような行動を強化するが、他方で、ルールの設定のネジの付け間違いがある時には、とんでもない反社会的な行動を起こすことになる。オウム真理教が起こしたサリン事件等、最近では、別世界で生まれ変わるために、ヘールボップ彗星の地球最接近日に集団自殺した「ヘブンズ・ゲート」の事件が痛ましい。宗教団体以外でも、左翼・右翼を問わず、自分たちの将来にある種のユートピアという結果を仮設して、一般市民を殺傷するような反社会的行動に走る者たちがいる。そういう意味では、無条件にルール支配行動をたたえるわけには、いかない。

5.行動随伴性と自由


 スキナーは、人間は、好子提示という結果が随伴するような行動は“したいことをしする”と感じ、一方、罰からの逃避や回避によって何かをする時には“しなければならないことをする”と感じるものであると論じた。そして、罰なき社会の探究こそが幸福の探究に他ならないと、結論づけた(Skinner, 1990)。
 もし、この考えを受け入れるならば、日常生活行動の大半が好子提示の随伴性によって維持・強化されている人間は幸福であり、自由であると感じていることになるが、果たしてその通りなのか、またそれは可能なのだろうか。
 この件に関して、筆者は、昨年(1996年)10月の『行動主義と行動の諸科学に関する国際会議』の会場で、『Elementary principles of behavior.』(Malott et. al., 1993; 1997)の第一著者であるR.W.Malottに直接意見を求めたことがある。彼は、Skinnerの“罰なき社会”についてが、空想の産物であり、誤りであるとの見解を述べた上で、ソファの近くの壁を示し、“この壁にぶつかれば痛いだろう。だから、我々は、壁にぶつかることを回避するように歩く。これはpositiveな統制ではない。Skinnerの理想社会でも壁をなくすことはできない”というような意見を述べた。筆者もこれに同意した。どのような理想社会になっても、我々は真空空間に生きているわけではないので、障害物を避けて通る行動をせずに生活するわけには、いかない。つまり“嫌子提示阻止の随伴性”から全くフリーであるような社会は実現不可能であることになる。また、項目4のところに述べたように、好子提示によって維持・強化されている行動であっても、それが長期間反復され日常化していけば、好子除去阻止の随伴性が必ずつきまとってくるのである。つまり、日常生活の行動の大部分が好子提示の強化随伴性によって維持・強化されていくように生活環境の改善することはよしとしても、嫌子提示阻止や好子除去阻止の随伴性から完全に逃れることは不可能であり、それらを生活の一部にありのままに受け入れていく姿勢が必要かもしれない。より自由な生き方をめざすにはむしろ、非学習性好子と学習性好子のどちらを重視するか、あるいは、ビルトイン随伴性と付加的随伴性のどちらを重視するのか、といった点での省察が必要ではないかと、思われる。

6.今後の展望


 本稿は、性格や知能といった内部に仮定された特徴によってではなく、その人が環境との関わりの中でどのような行動随伴性に晒されているのかを把握することで、自己理解する道をさぐることを目ざすものであり、今回は、その第1回目として、基本的な枠組みを提示することを目的に執筆された。
 従来、行動随伴性の概念は、特定の行動の原因を把握したり、それを増やしたり、逆に減らしたりするための技法を発見する目的で導入されることが多かったように思うが、本稿では、もっとグローバルな視点に立って、自己理解の新たな方法としてこれを活用することを提唱するものであった。
 今回は、紙数の都合で、その基本的な枠組を提唱するにとどめるが、個々人が、自己理解をはかっていくためには、大ざっぱに言って、次のような手順をふむことが必要であろうと考えられる。

[1]まず、毎日、自分がどのような行動を行っているのかを質的・量的に記録する。
[2]それぞれの行動について、どのような随伴性が関与しているのかを、暫定的に分類し、記号、 もしくは色・図形により表記する。
[3]必要があれば、自分自身で、もしくは周囲に協力を求めて環境条件を少しだけ変え、上記[2] の妥当性を、体験的(=実験的)に検証する。
[4]主として関与している行動随伴性のパターンの特徴が、生きがいや義務感とどう関係しているのか、分析する。

 この手順にしたがって自己理解をはかることは、性格を知ることによる自己理解とどこが違うのか。それは、何よりも、自分の行動の特徴ではなくて、行動の原因を把握できるということにあると思う。行動の原因が把握できれば、それを変えることによって、自己変革をめざすことができる。
 たとえば、ある人が仕事をほったらかしにして、毎朝毎晩ヘールボップ彗星ばかりを見物していたとしよう。性格による自己理解では、単に“自分は熱中しやすい性格である”というレベルにとどまるが、行動随伴性に基づく理解では、なぜ、彗星を見物することが強化されているのかを把握し、必要に応じて、その随伴関係を修正し、適度のレベルまで行動を減らすことが可能となってくる。
 あるいは、勉強がすすまない人がいたとする。この場合でも、性格に基づく理解では“飽きっぽい性格”、“長続きしない性格”、“根性がない”、“集中力がない”など、いくらでもレッテルを貼ることはできるが、肝心の、勉強に熱中させるための方策はどこからも浮かび上がって来ない。いくら“根性をつけろ”とか“性格改善”などとお題目を唱えても、何も変えることはできないのだ。行動随伴性に基づく自己理解では、勉強行動に対して現在どういう結果が随伴しているのか、また、勉強行動と競合するような別の行動はないか、ということが克明に調べられる。もちろん一朝一夕に改善するというわけにはいかないであろうが、行動改善のための着実な指針を示すことができるはずである。
 さらに、個々人をとりまく種々の随伴性を、上にあげた64通りのパターンで分類することによって、自分自身の日常生活が、主としてどういう随伴性によって維持されているのか、特定の随伴性パターンに偏っていることはないのか、を理解することができるだろう。すでに例をあげたように、このことは、生きがい喪失や、日常生活が義務的に感じられる原因をさぐる上でも役にたつ。
 もうひとつ、ちまたでは、さまざまな“生きがい論”、“人生論”、“自己啓発論”などが、書店の店頭を賑わし、そして大半は、数ヶ月もたたないうちに姿を消していく。こういう本が、どういうパターンの行動随伴性を強調しているのかを把握すれば、そこで何が新しい主張なのか、何が具体性に欠けているのかを的確に把握し、短期的な流行に惑わされない、自分本来の人生論や生きがい論を確立させることができるであろう。
 最後に、行動随伴性に基づく自己理解は、性格類型による自己理解のように、自分の特徴を固定化する危険性がない。解釈の心理学ではなく、常に、自己変革をめざす心理学の立場に立つものであることを強調しておきたい。

7.引用文献


長谷川芳典 (1991). おいしさの起源.異常行動研究会誌, 31, 5-13.
長谷川芳典 (1992a). スキナー以後の行動分析学:(1)その基本的位置づけ. 岡山大学文学部紀要, 18, 49-67.
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Malott, R. W., Whaley, D. L., & Malott, M. E. (1993). Elementary principles of behavior. (2nd. ed.).New York: Prentice-Hall.
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谷口崇典・長谷川芳典 (1996). 食物の好み形成に関する社会的要因. 中島義明・今田純雄 (編). 『人間行動学講座 第2巻 食行動の心理学』, pp.202-216. 朝倉書店.
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渡邊芳之・佐藤達哉 (1993). パーソナリティの一貫性をめぐる「視点」と「時間」の問題. 心理学評論, 36, 226-243.