1. はじめに
本稿では、心理学の実験が物理学や生物学の実験とどのように異なるのかを比較対照しながら、その意義と限界について論じることを目的とする。
心理学が思弁を排して哲学の世界から独立した近代科学としての道を歩むようになって以来、実験的方法は心理学研究の中で、最も重要な研究方法の1つとして位置づけられてきた。しかしながら、心理学の実験は、実験操作の段階から結論を導く段階に至るまで、さまざまな点で、物理、化学、生物などの実験と本質的に異なっている。この違いを自覚せずに、高校までの理科の延長として心理学の実験をすすめてしまうと、とんでもない落とし穴に陥る恐れがある。紙数の関係から、第一回目の今回は、実験的方法とは何かについて概略を捉え、特に心理学の実験と自然科学一般の実験との違いの大枠をとらえることにしたい。続編においては、具体的な心理学実験をいくつかとりあげながら、心理学研究における実験的方法の意義と限界について検討し、特に、仮説演繹的あるいは仮説検証法的な実験が果たして生産的な心理学研究をもたらすかどうか、基礎的な心理学研究の成果は果たして現実の人間行動の理解や改善に役立つものであるのか、について論じていくこととしたい。
2. 実験的方法とは何か
2.1. 実験的方法の定義
具体的な事例の検討に入る前に、実験的方法とは何か、をはっきりさせておこう。そもそも高田(1987)によれば、実験の語源は、プリニウスの『博物誌』にまでさかのぼることができる。『博物誌』には日常的な経験を指す用例が多いものの、何かを試す、試験する、という形で使われている場合も見出されると指摘している(p. 7)。自然科学一般を含めた現代的な意味での「実験」は、さまざまな形に定義されているが、基本的には、次の2つの基準を満たすことが必要ではないかと思われる。
(1)研究対象に対して何らかの働きかけを行うこと。
(2)システマティックな働きかけであること。
このうち(1)は、実験的方法と観察による方法を分ける明確な基準であると言えよう。しかし、(1)の基準だけであると、ヒト以外の動物を含めて、外界に能動的に働きかけるという意味でのオペラント行動は、すべて実験であるということになりかねない。しかし、単に行き当たりばったりにいろいろと試してみるのは実験とは言えないだろう。(2)は、そのような必要から設けられた基準である。とはいえ、「システマティック」の内容は、実験の目的やタイプによってさまざまに異なる。次に、この点を詳しくみていきたいと思う。
2.2. 実験のタイプ
さて、ひとくちに実験的方法といっても、目的や手法によっていくつかのタイプに分けられる。
まず、牧野(1973)は、実験の型を、「Whatタイプ:行動の規定要因を明らかにする要因決定実験」と「Howタイプ:条件と行動との関数関係を追求する関数決定実験」に分類している、この文献は心理学の実験について書かれたものであるが、WhatタイプおよびHowタイプという分類は、自然科学一般についても、あてはめることができるだろう。
しかし、実験を行うにあたっての要請や目的といった観点から見ると、実験のタイプはさらに細かく分類することができる。ここで話を分かりやすくするために、「植物の生育に光は必要かどうか」という理科の実験を例として考えてみることにしよう。
仮に何の予備知識も持たない宇宙人が地上に降り立ったとすると、そもそも生育に必要な環境として何を揃えればよいかが分からないだろう。そこで、地球上の各地、たとえば、ジャングル、温帯、南極、砂漠、高山、洞窟などの植物の生育状況を観察した上で、ほとんどの植物の生育にはおそらく光が必要であろうとの仮説を立てることになる。但し、この時点ではまだ前節(1)の基準に挙げた働きかけが行われていないので実験とは言えない。
次にいよいよ、陸上植物を対象に実験を開始する。と言っても、高さ10メートルを越えるような大木や、管理が難しい熱帯植物を対象とするわけにはいかない。そこで、比較的安価で手軽に栽培できる植物が最初の実験対象として選ばれる。対象となる植物は、任意に選ばれたものではなく、あるていど実験者に都合のよい植物が選ばれているという点に留意しておく必要がある。ここでは便宜上、シクラメンが選ばれたものとしておこう。
ここでようやく、実験に入る。まずは、光が必要かどうかという質的な判定から行う必要がある。これを確認するには、ふつうは、何株かのシクラメンを2群に分けた上で、光を照射する条件と、暗黒の条件でシクラメンの生育にどのような違いが見られるかを観察すればよい(=群間比較)。また場合によっては、光をあてながら育てていた数株のシクラメンを、時期をずらして突然暗い箱の中に入れるという実験もできる。光を遮断した時期に依存してシクラメンが枯れ始めたら光が必要であることが検証されたことになる(=個体内比較:多層ベースライン法)。いずれの方法においても、「光をあてるかどうか」という働きかけがシステマティックに行われるので、この段階は明らかに実験的方法が用いられていると言ってよいだろう。またいずれの実験とも、光という要因が関与していることを確認するための要因決定実験[これを(a)タイプとする]であると考えることができる。
ここまでの段階の実験は、シクラメンという特定の植物の生育にとって、特定の量の光が必要であることを示したにすぎない。研究の方向はここで2つに分かれる。1つは、シクラメンの生育に最も適した日照条件を確定する定量的な検討[これを(b)タイプとする]である。いくら光が必要と言っても、真夏の炎天下に晒していたのではシクラメンは枯れてしまう。いっぽう、室内の暗いところばかりに置いていても花が咲かなくなってしまう。最適の日照条件を知ることは、栽培上不可欠な知識となるであろう。
しかし上記の(b)で得られたデータが、シクラメン以外の植物にも当てはまるという保証はまったくない。そこで、もう1つの方向として、すべての陸上の植物の生育に光は必要なのかというように一般化を押し広げる検討が必要になってくる。
もっとも、「法則」というものは、その適用範囲が広いほど重んじられる反面、いろいろな例外規定を設ける必要に迫られることも多い。周知のように、キノコやカビ類は光合成を行わずに生育するので、必ずしも光を必要としない。「カビは光を必要としない」という事例は、「すべての植物の生育には光が必要である」という「一般法則」に対しては1つの反例示しており[これを(c)タイプとする]、大きな発見であると言えよう。とはいえ、あまりにも一般性の高い抽象法則を否定したところで何も生まれない場合もある。より建設的な視点に立てば、植物の中で光を必要とするものはどのぐらいの種類に及ぶのか、それも炎天下が好まれるのか、日陰気味のところが好まれるのかというように法則の及ぶ範囲を広げ、その生起条件を確定する研究[これを(d)タイプとする]のほうが重要になってくる場合もある。
(c)のように反例を示すことに意義があるのか、それとも(d)のようにその法則が及ぶ範囲を確定するほうが意義があるのか、という判断は、研究対象の性質や文脈によって異なってくるものと思われる。広く支持されている法則に対してそれが成り立たない事例を1つでも示すことは、時としてその領域の研究を活性化し、対象に対する認識を根本的に変えるインパクトを与える場合もあるだろう。反面、(d)のような作業を地道に行うことのほうが実用上役に立つ場合もある。上記の例で言えば、(c)の形で反例が提示されれば、光合成をせずに生育する植物の仕組みが明らかにされ研究の発展へとつながるであろう。いっぽう、(d)タイプの研究を地道に進めることも、園芸植物や農作物等の栽培の効率化のうえから同じように重要であると言えよう。
以上、簡単な理科の実験を例にあげる中で、少なくとも(a)から(d)までの4つタイプがあることを示した。もういちどこれらを整理すると次のようなタイプとなる。
(a)ある要因の関与を確認するための実験(「要因決定」実験)
(b)ある要因の関与の度合いを量的に決定するための実験(「関数決定」実験)
(c)広く支持されている法則に対してそれが成り立たない事例を示す実験(「反証」実験)
(d)ある法則の及ぶ範囲を広げ、その生起条件を確定するための実験(「生起条件探求型」実験【補注1】)
2.3. 実験操作や結論導出は、実験のタイプによってどう変わるか。
上に述べたタイプの違いによって、実験操作のあり方や結論の導き方は大きく変わってくるはずである。
(a)のタイプでは、とりあえず特定の要因が関与している可能性を示せばよいのであるから、操作する変数の値は、実験者が最も都合のよいように、つまり最も結果が出やすいように定めてもかまわないことになる。上記のシクラメンの例でも、光を全く与えない条件と、実験者にとって最も好条件な日照量を与える条件を比較すれば研究の目的は達成される。このタイプの実験から導き出される最も控えめな結論は、「当該の研究対象において、設定された条件のもとで、当該の変数がある値をとることは、その現象の必要原因となっている」というところであろう。シクラメンの例で言えば、「シクラメンという品種において、一定の量の光を一定時間与えることは、生育の必要条件である」というのが妥当な結論ということになる。
(b)のタイプは、独立変数(ここでは実験者によって操作される変数)と従属変数(観測される変数)のあいだの関数関係を決定するような場合をいう。(a)では、独立変数の値は、実験者の都合に合わせて選ぶことができたが、(b)では、独立変数の値は、常識的な範囲でできる限り細かく設定するほと精密な関数関係の把握につながる。但し、ハレ(1984, p.8)が、温度と体積の間の関数関係を例にとって指摘しているように、いくら独立変数の値を細切れに設定したとしても、その隙間の部分で従属変数がどのような値をとるか、つまり直線的に変化するか三角関数のように揺れ動くかといった可能性は無数にある。関数の質について何らかの理論的裏付けがない限りは、実験データだけから帰納的に関数関係を決定することは原理的に不可能であると言わねばならない。
図1 左パネルは、1、3、5の3点で測定した場合の関数のパターンを示す。3点のデータだけからはAのようなパターンなのかBのようなパターンなのか決定できない。右パネルのように独立変数の値をより細かく設定すれば、Bのパターンは排除されるが、Cのようなパターンは排除できない。排除できないパターンは無数にあるため、実験データから関数の型を決定することは原理的に不可能であることがわかる。ハレ(1984)からの翻案による。
(c)の反証実験は、一例でも反例を示せばよいわけであるから、当該の法則が及ぶと考えられている範囲の中から、実験者に最も都合のよい値を選んでも構わない。ここで導き出される最も控えめな結論は、「当該の法則が及ぶと考えられていた範囲の中でも、その法則は必ずしも成り立たないことがある」ということになる。「植物の生育に光が必要か」という問題について言えば、適当に選んだキノコ1種類の生育例をあげて、光が必要ないことを示せば事足りる。
(d)は多数の実験の積み重ねの中で地道に発展を重ねるタイプであり、1つの実験から得られる結論はきわめて控えめなものとなる。つまり「今回の実験によって、当該の法則は、○○という条件でも成り立つことが確認された」というのが妥当な結論であろう。
2.4. 「大きな理論」、「小さな理論」と実験のタイプ
以上に述べた実験のタイプと結論の導出の問題は、仮説演繹の手続に基づく検証実験と、帰納法的な手法という論理学や哲学の問題へと必然的に発展するものであるが、これについては、本編の最後で簡単にふれ、細かい議論は続編にて具体的な実験例を引用しながら論じることとしたい。、ここでは最小限度の議論として、「大きな理論か小さな理論か」という問題については、ふれておくことにしたい。
「大きな理論」というのは、広範囲の対象に対してあまねく成り立つ普遍的な理論をめざすものである。「小さな理論」は、これに対して、普遍的な法則が成り立つかどうかを問題にするのではなく、ある特定の場面において、その法則が成り立つかどうかを検討していこうというものである。ただし、実際にはその中間に位置するような理論もあるので、「大きな」とか「小さな」は、厳密な基準で分類されるというよりも、あくまで研究の視点を特徴づけるための形容表現であると了解していただきたい。
上にとりあげた「植物の生育に光は必要か」という問題を例にとれば、「大きな理論」の立場では、「すべての植物の生育に水は必要かどうか」という一般性の高い理論の妥当性を検証することになり、シクラメンは1つの検証の道具として位置づけられる。いっぽう、「小さな理論」では、まず、シクラメンの栽培それ自体が重要であって、「『陸上植物の生育に水は必要だ』という法則はシクラメンにおいても適用できるだろうか」という発想をとる。
上記の分類との関連で言えば、「大きな理論」では、(a)の要因決定実験は、何らかの研究対象で成り立っただけでは不十分である。研究の出発点としては、実験者に最も都合のよい材料が選定されても構わないが、想定されている研究対象の範囲の中からどのような材料を任意に選んでも成り立つという形で理論を実証していかなければならない。また、この立場では、(c)のような反証実験は非常に深刻な結果をもたらし、場合によってはその理論が根底から覆される恐れも出てくる。
いっぽう、「小さな理論」では、(a)は、何らかの研究対象で1つ成り立つことが示されていれば十分である。(c)の反証は、ほとんど意味をなさない。「問題とした研究対象では、その法則がうまく当てはまらなかった」とするだけである。【補注3】
「大きな理論」、「小さな理論」は調査研究を含め、因果モデル構築と密接な関わりをもっている。豊田(1998)は、まず、「このため因果律は人間の思考に属しており、人間の視覚や思考から独立に実在するものではない。(p. 157)」とした上で、因果モデル構成にあたっての次のような点に留意する必要があると指摘している。
・データはモデルを積極的に確認しない。
・因果律は常に不定であり識別できない。
・因果モデルは要請の範囲で構成される。【補注3】
・【「実験研究では因果関係を積極的に示せても、相関的研究では分析者が想定した因果関係と矛盾しな い状態が示されるだけである」との】主張は「実験的研究ではライバル仮説を排除する手立てが提供 される可能性が高い」と言い換えるべきである。実験研究・相関研究にかかわらず、データは因果関 係を積極的には示さず、常に分析者が想定した因果関係と矛盾しない状態が、少なくとも一つはある ことが示されるだけだからである。
以上の指摘は、いずれも「小さな理論」の立場を示すものと言える。上記の留意点、共分散構造分析の立場から指摘されたものであるが、じつは、行動分析学も「因果律」について同じ立場をとっている。行動分析学的にみれば、科学的認識は、広義の言語行動の形をとるものだ。人間は、普遍的な真理をそっくりそのまま認識するのではなくて、自己の要請に応じて、環境により有効な働きかけを行うために秩序づけていくというのが、基本的な視点となっている【補注4】。
3.心理学の実験の特色
以上、簡単な理科の実験を例に、自然科学一般が少なくとも4つのタイプに分かれ、それによって実験操作や結論の導出に違いが生じてくることを指摘した。心理学の実験でも、以上に述べた点は基本的にそのまま当てはまると考えられる。特に「大きな理論」か「小さな理論」かという視点の違いは、要因操作や結論の導出に影響を及ぼすものと考えられるが、これについては、具体例を含めて続編にて検討を加えることにしたい。ここでは、「大きな理論」と「小さな理論」のいずれにおいても留意すべき要因操作上の諸問題をまとめ、具体的な事例の検討に備えることとしたい。
3.1.文脈によって変わる刺激
心理学の実験が自然科学の実験と大きく異なる点としては、まず、特定の刺激、特に社会的な刺激は文脈によって大きく変わるという点に注意をはらう必要がある。ハレ(1984, p.16)は、この点に関して、まことに適切な指摘をしている。
.....微笑は、これに先行し、あるいはこれに伴う他のすべての行動に応じて、さまざまに異なる意味を持ちうる。その前後関係や付随するもののいかんによっては、微笑は脅迫を強める以外の何物をも意味しない、ということもありうる。というわけで、微笑が独立変数となり、他人に対するその効果を従属変数、微笑が起こる情況パラメーターとして固定する、といった微笑の効果に関する実験などというものは全くあり得ない。
微笑に限らず、視線、相づちなどは、いずれも文脈から独立した刺激としては意味をなさない。金銭的な報酬は、ボランティア活動をしている人々にとっては時として嫌悪的な効果をもたらすことなどにも注意をはらう必要があるだろう。
3.2.多数の要因の同時関与
刺激そのものの及ぶ効果が安定していたとしても、別の刺激が同時に多数関与していれば、その単一の効果を検出することはきわめて困難となる。
これに関して、豊田(1998)は、次のような難しさを指摘している。
「実験的研究ではライバル仮説を排除する手立てが提供される可能性が高い」と述べたが、論理的には、非常に高次なベクトル空間のほんの1点において、そのきわめて近傍に位置したライバル仮説を排除しているにすぎない。非常に多くの要因が影響している研究領域では統制による実験的方法のみで因果関係を導くことは難しい。
3.3.定義のあいまいさ
物理学や化学に比べると、心理学における刺激や行動の定義は、研究者によってマチマチであり、ときとして不明確なままに論じられることさえある。もちろんどんな分野でも、ある概念に含まれるかどうかの境界には多少の不確定部分があるだろう。しかし、「H2O」の定義に比べると、上記の「援助行動」はもちろん、「劣等感」、「創造性」、「不安」など、どれもこれも遙かに多種多様な定義が可能である。ある研究で「不安」について何らかの法則が得られたからと言って、異なる形で定義された「不安」にもそれが当てはまるという保証はない。
3.4. 極度の単純化、人工化への警鐘
以上、3.1〜3.3に指摘したような問題があるにもかかわら、心理学の実験では、実験がきわめて人工的な状況や課題で行われること、扱う要因と反応が極度に単純化されている場合がある。
中谷(1985)は、記憶研究を例にあげてこの問題を指摘している。そこでは、かつて記憶研究が単純な無意味綴りを実験材料として行われてきたために「現実の記憶場面で重要な役割を果たしている記憶方略の問題、記憶の構造化や体制化の問題などがむしろ見落とされる結果となり、人間の記憶があたかも機械的な反復のみによって形成されるかのようにとらえられてしまった」という弊害が指摘されている。
もちろん、単純化、人工化がすべて悪いというわけではない。実験的行動分析の中で伝統的に対象とされてきた、ネズミのレバー押しやハトのキーつつきは、単純かつ人工的な環境の中で測定される反応ではあったが、強化スケジュールでは、こうした単純化が功を奏し、日常生活行動の労働パターンと強化量との関係を質的・量的に解明するうえで大きな役割を果たした。
こうした「人工性」および「極度の単純化」の弊害については、次回以降に、具体的な実験例をあげながら、論じていくことにしたい。
3.5. 標本の無作為抽出のさいの困難
集団を対象とした実験では、母集団が想定される。母集団についての正確な情報を得るには偏りなく標本を抽出する必要があるが、心理学の実験では、実際には、大学生など特定の集団、それも特定授業の受講生や、教室、サークルなどに依頼して人集めをする場合が多く、集団特有の性質が反映しやすい。落下の法則を測定する実験であれば、実験者の好みの石を拾ってきて行っても、河原の無数の石の中から無作為に石を抽出しても結果は変わらないだろうが。
3.6. 無作為な割付に絡む問題
研究対象をいくつかの群に分け、異なった条件を設定して群間比較(=個体間比較、betwenn-subject)を行う実験では、統計的検定の立場から、実験的方法と観察による方法とを明確に区別しておく必要がある。
研究対象に能動的に働きかけを行う研究はすべて実験研究であると思われがちであるが、群間比較の場合には、もうひとつ、群分けの際に無作為な割付けがなされている点が大きな意味をもっている。橘(1986)が指摘しているように、無作為な割付けは無作為抽出とは全く別の問題であり、各被験者(被験体)は各処理群に割付けられる可能性を等しくするようが手続きのことをいう。
観察研究では、未知の独立変数の効果を無作為の割付けによって取り除くことができないので、仮に群間に有意な差が見られたとしても、研究者が割付けにあたって想定した要因に基づく差があると断定することはできない。また、因果関係なのか、共通原因のもたらす相関関係であるのかを断定することもできない。
例えば、オス・メス各20匹のネズミをそれぞれ実験群と対照群にランダムに10匹ずつ振り分けたとしよう。この場合、実験群と対照群の間の振り分けは無作為であるが、オスかメスかという振り分けは無作為ではない。したがってオスとメスの間に何らかの有意差が見られたとしても、直ちにそれを性差に帰着させるわけにはいかない。例えば体重の違いが原因になっている可能性もあり得る。
健常児と障害児の比較、年齢の差の比較、日本人と外国人との比較なども同様の理由で全て観察研究に分類される。例えば、長期海外旅行を志向する比率が高齢者と若年者で違っていたとしても、直ちに年齢の違いを原因と見なすわけにはいかない。収入の差であるかもしれないし、仕事上の制約であるかもしれないからだ。
無作為な割付に関する留意点は、心理学ばかりでなく、行動科学、医学、教育学全般において当てはまるものであることを付記しておく。
3.7. 個体内比較法における研究対象自体の変化
上記3.6.のような集団比較ばかりでなく、心理学では、しばしば一個体あるいは少数の個体を対象として個体内比較(within-subject)による実験的検討が行われることがある。
Barlow & Hersen. (1984)によれば、心理学や生理学の分野で行われた最初の実験は、単一個体の実験であった。例として、ブローカによる言語中枢を見出した実験、フェヒナーによる精神物理学の手法、エビングハウスによる記憶の実験、パヴロフの条件反射の実験などを挙げている。単一個体もしくは少数個体の実験が行われる1つの理由は、特殊な患者を対象とする場合のように、サンプル数がきわめて少ないことにある。このほか、行動分析学のように、「個体ごとの学習のプロセスは、かならずしも平均値の変化では把握できない」という視点から、積極的に個体内比較を取り入れている分野もある。
個体内比較における問題は、研究対象が、発達や過去経験によってそれ自体変化していくことにある。仮に要因を操作して何らかの変化が生じたとしても、それだけでは要因操作の効果なのか、発達や経験蓄積による変化なのかは見分けがつかない。Barlow & Hersen. (1984)が詳しく論じているように、これを克服するには、反転計画法とか多層ベースライン法といった、独自の実験計画法をとりいれなければならない。ただし、このような方法を取り入れたとしても、そこで導き出される結論は、厳密には、対象とした単一もしくは少数個体だけであてはまるものである。そういう意味では、個体内比較に基づく実験研究は、基本的に「小さな理論」の立場、あるいは「生起条件探求型」実験にならざるをえない宿命を背負っていると言えよう。
4. おわりに
ピタゴラスの定理を実験によって証明する人はいない。仮に白紙の上に任意の直角三角形を描いて各辺の長さを厳密に測定して2乗したとしても、そこで得られる妥当な結論は、「ピタゴラスの定理が成り立つ事例を1つ得た」ということにすぎないのである。そもそも、物理学でも生物学でも心理学でも、1つの実験によって「ある法則(あるいはモデル)が実証」されるということは、まずあり得ない。1つの実験で示せることは、「ある法則(あるいはモデル)に合致する事例を1つ得た」ということだけである。
しかし、力学の世界では、そこらへんの石ころを拾ってきて実験しても、精巧に作られた金属物体で実験しても誤差やノイズはきわめて小さい。特定の物体を使用した実験だけから、「すべての物体」にあてはまる万有引力の法則について議論することができる。
今回例にあげたシクラメンの実験の場合でも、実験結果から容易に結論を拡張することができる。本来はシクラメンという種類の植物についてのみの結果を示しているにすぎないが、通常花壇や鉢で栽培する植物全体についても、「光は必要であろう」と推量して誤りをおかすことはない。
これに対して心理学の実験は、3章に指摘したような特徴を見れば分かるように、一般化が非常に難しいという性質をもっている。
いまから30年ほど前、小笠原(1967)は、高木(1949)[高木貞二 (1949). 現代心理学の理論的基礎. [高木貞二・小川隆・前田嘉明・外林大作 現代心理学の展開. 学生書房].を引用しつつ、心理学実験で検証されるべき法則ついて次のように述べた。
法則とは、多数の事例が集められ、そこから機能的に一つの共通な規則的関係が引き出されたものではない。もしかかる機能の論理に従うならば、そこに引き出される関係は、他の類似の事例に対しても、当てはまることが多いかもしれない。しかしそれはあくまでそうらしいと言うにとどまってそれ以上には出ない。それに対し、その関係が一般的に妥当する法則であることを確立するためには、いわゆる仮説演繹の手続きを経なければならない(高木, 1949)。すなわち予想される関係がまず仮設され、その仮命題を別の条件下の事例に演繹する。そしてその帰結として、具体的なある結果が予想される。ここにその仮設条件を具現せる検証実験が導入されることによって、予想の結果が実現するから否かが確かめられる。もし予想の正しいことが証明されるならば、初めて前の予想命題が妥当性を持つ法則として定立されるものとするのである。
この考えは、当時研究法として多くの人が受け入れていた仮説演繹的な立場を表明したものと言える。しかし、小笠原(1967)は、研究の実際の手続きにおいて、帰納法的な手法もまた不可欠な道具の1つであることも指摘し、さらに、心理学の研究に帰納法的な手法に頼らざるを得ない部分があることについて、次のような指摘を行っている。
例えば一つの命題の予想が引き出されるのは、多くの類似の事例からの帰納によってなされることが多く、また法則の決定にあたって統計的検定によるとき、多数回の試みにおける実現の確率の高さがその決め手の指標となるのであるが、この確率を云々することは、いわば機能の論理によっていることになる。なお、心理学のように発達の程度が低く、不明な事柄の多い科学にあっては、仮説演繹法がしばしば同語反復(tautology)とまぎらわしくなる恐れのあることも留意されてよいであろう。
小笠原(1967)の指摘から30年を経過した現在、当時「発達の程度が低い」とされた心理学はどこまで発達を遂げたのであろうか。少なくとも、帰納的な方法が成熟して仮説演繹的な方法で一般化が進む方向には進展していないことは確かであろう。
佐藤(1993)は、過去60年にわたる学習心理学の歴史をふりかえり、Hullがとった仮説演繹的方法、Tolmanの方法を特徴づける「現象実証型実験」、Skinnerのとった「生起条件探求型実験」を対比し、前二者が歴史的遺物と化したのに対して、Skinnerの方法がなぜ、行動分析学として発展し応用面でも多大な成果をあげるに至ったか、検討を加えている。感覚や生理学など非常に基礎的な領域を除けば、いま述べた学習心理学の領域のほか、社会、発達、人格、知能【補注5】などさまざまな領域で、仮説検証型あるいは「大きな理論」をめざす立場は敗退の一途をたどっているように思われる。続編では、具体的な実験研究を引用しながら、この主張の裏付けを進めていくことにしたい。
補注
【1】「生起条件探求型」の呼称は、佐藤(1993)の命名による。
【2】(c)タイプの実験は、普遍法則に対する反証ではなく、むしろ、一般常識観念からは予想できないような事例を見出した研究が「発見」としてもてはやされることがある。例えば、イヌにオペラント条件づけの訓練を行って「お座り」ができるようになることを示しても、おそらく研究の価値は認められない。しかし、同じ条件づけの方法を応用して「足し算」ができるようになることを示せば、おそらく「大発見」としてもてはやされる。これは、「イヌはお座りができる」というのは一般常識として当たり前であるのに対して、「イヌは計算ができる」というのは一般常識からは想像できない能力であることが、大発見としてもてはやされる一因となりうる。
しかし、もともと実証を伴っていない「一般常識観念」はいわば俗説に過ぎない。それを否定することに研究上の意義が認められるのは、その俗説が広く流布され社会的影響が大きい場合、あるいは俗説の打破を突破口に新たな研究分野が開拓されるような場合であろう。
【3】豊田(1998)は、「因果モデルは要請の範囲で構成される」ということに興味深い事例を挙げている。その1つは、B.ラッセルからの次のような引用である。
養鶏場で生まれたあるニワトリは、毎朝、農夫が目の前を通り過ぎて納屋に行くと餌がもらえるという事実に気がついた。生まれてこのかた例外なのない確固たる「因果関係」であった。しかし、ある朝、農夫は納屋から餌ではなくヒモを持って来て、そのニワトリは絞められてしまう。
ここで問題となるのは、「農夫が近づく→餌」という因果モデルの妥当性である。このモデルは、農夫がやってきて自分を絞め殺したという現象を説明できない。もし「農夫は自分を食べるために餌を与えている」という本当の因果モデルがあれば、毎日の現象と絞め殺される現象の両方を説明することができるが、賢いニワトリがいて毎日ケージの中で「農夫が近づく」ことと「餌が与えられる」関係について詳細なデータを収集しても、「本当の因果モデル」にいきつくことはとうていできない。
じつは、「農夫は自分を食べるために餌を与えている」にしても、究極の因果モデルであるという保障は全くない。もしかしたら、この地球は、というかこの宇宙全体は、ある宇宙人が実験のために作り上げた飼育ケージの中にすっぽり埋め込まれているのかもしれない。そして、農夫がニワトリを絞め殺す直前に、実験終了となって、宇宙全体が突然破壊されてしまうかもしれないのである。しかし、どんな賢い地球人も、そこで飼われているニワトリも、観察から得られたデータだけからは、「実験終了による突然の宇宙の崩壊」を予測することはできないはずである。
となると、そもそも観察データからは、絶対根本の因果モデルなど作れないということになる。そこで、「因果モデルは要請の範囲で構成される」という豊田氏の主張が意味をもってくる。
【4】自然界には確かに法則のようなものが人間から独立して存在する。それは、人類の誕生前から存在し、人類が滅亡した後でも、宇宙の構造が質的に変わらない限り、同じように存在するだろう。しかし、それを人間が認識するとなると話は違ってくる。「科学的認識は、広義の言語行動の形をとるものだ。人間は、普遍的な真理をそっくりそのまま認識するのではなくて、自己の要請に応じて、環境により有効な働きかけを行うために秩序づけていくだけなのだ。」というのが、行動分析学的な科学認識の見方と言えよう。佐藤(1976)は、この点に関して、科学とは「自然のなかに厳然と存在する秩序を人間が何とかして見つけ出す作業」ではなく、「自然を人間が秩序づける作業である」という考え方を示している。
【5】一般性の高い「知的能力」や「創造性」が存在しないことについては、Baer(1993)および長谷川(1997)を参照されたい。
※英語文献については、原書に基づいて引用した場合であっても、初学者の便宜を図るため、翻訳書が刊行されている場合は、合わせてこれを付した。