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スキナー以後の行動分析学(7):生きがい論のしくみ


長谷川芳典


岡山大学文学部紀要, 1999年, 32, 69-80.


初めに
 近年、経済不況のもとでの人員整理、少子化に伴う人口構造の高齢化、介護保険制度の導入などを迎えるなかで、生きがいの問題、あるいはこれに関連する「働きがい」、「やる気」、「元気」といった問題を多面的に検討する重要性がますます高まっている。しかしながら、これまでに行われてきた研究は、意識調査、もしくは保険、年金、医療、介護など行政サイドの項目についての調査が主体であり、そもそもどのようにして生きがいが形成されるのか、もっと生きがいが得られるような環境を作るためにはどうしたらよいのかということについて、心理学の立場からはあまり具体的な検討がなされてこなかったように思う【補注1】。「元気」についても同じようなことが言える。広野(1995)は、その書のまえがきで、“「元気」も「勇気」も心理学の用語ではない。なぜ、人間にとってこれほど大切な言葉が専門の心理学の世界では研究されないのか、わたしたちにとっては不思議だが、...”と疑問を投げかけている。
 
 では生きがいに対する心理学的アプローチは全く不可能なのだろうか。1つの方法として、「生きがい尺度」、「やる気尺度」、「元気尺度」などの心理学尺度を作り、それに基づいて生きがいの「大きさ」を測ったり、他の測定値との相関を調べるというアプローチが考えられる。しかし、いくら現状を分類整理して相関分析をしたところで、それだけでは生きがいを作ったり、やる気や元気を増やしたりする方法は見いだせない【補注2】。一般的に、個体間の差違を説明できることが個体内の変革に有用な情報を提供できるとは必ずしも言えない。
 
 本稿は、こうした事情をふまえ、個人本位の分析と変革を重視する行動分析学的立場から生きがいやそれに関連する諸問題について新たな視点の提供を試みるものである。
 
1.生きがいをどう定義するか
 
 一般に科学的・実証的な研究をすすめるためには、研究対象を客観的かつ数量的に測定する手段を確立することが必要とされている。「生きがい」についても何らかの理論を提唱する場合にも、それは同様。「生きがい」が何らかの形で測られること、「生きがい
」についての理論は、測定される「生きがいの量」を説明し、それを増やすために有効な制御可能変数を見いだすという方向で構築されなければなるまい。
 
 とはいえ、果たして「生きがい」というものが単一の従属変数にひとまとめにできるものなのか、その量的な測定法の信頼性や妥当性はどうやって検証されるものなのか、はなはだ心もとないところがある。仮に最大公約数的、あるいは総合指標的な、「生きがい尺度」、「やる気尺度」、「元気尺度」などを作ったとしても、それが個々人それぞれの生きがいの増加に応用できるとの保障はない【補注3】。
 
 では、その限界を認めた上でなお可能なアプローチとしてどういうものが考えられるだろうか。本稿では、1979年の来日の際の講演でスキナーが提唱した生きがいについての考えを作業仮説として検討を進めていくことにしたい。
 
Happiness does not lie in the possession of positive reinforcers; it lies in behaving because positive reinforcers have then followed. [行動分析学研究、1990, 5, p.96.]
生きがいとは、好子(コウシ)を手にしていることではなく、それが結果としてもたらされたがゆえに行動することである【補注4】
 
 ここに引用した考えは論証すべき命題でもないし、経験的に実証することもおそらくできない。検討すべき課題は、それが正しいかどうかではなく、そういう見方をすることがどういう人生観を作るのか、実際にそういう生き方をしている人が居るのか、それと違った生き方もあるのか、というように調べ上げていくことである。以下に述べることは、スキナーの考えが正しいかどうかの論証ではない。「スキナーの考えを取り入れたらこういう提案ができるが如何だろうか」という議論であることにご留意いただきたい。
 
2.行動分析学的な視点で生きがいをとらえるとはどういうことか
 スキナーの考えをもう少し詳しく見ていこう。スキナーの考えは、「行動」、「好子」、「結果」という3つの概念から成り立っている。これら3者のあいだに「好子結果としてもたらされたがゆえに行動する」という良好な状態が保たれた時に生きがいを獲得することができるということを意味している。
 裏を返せば、行動と好子のいずれかが欠けてしまうと生きがいは得られないということを意味する。すなわち、
 
(1)[行動× 好子○]行動せずに好子(positive reinforcers) だけを受け取っても生きがいにはならない。
(2)[行動○ 好子×]行動しても何も結果が伴わなければ生きがいとはならない。
 
 (1)は、まさにスキナーの“in the possession of positive reinforcers”という状態に該当する。好子の獲得はそれ自体では生きがいにはなり得ない。行動の結果として伴って初めて生きがいを構成するということだ【補注5】。
 
 (2)のような“行動しても何も結果が伴わない”状態は消去(extinction)【補注6】をもたらすことで知られている。生きがいを喪失した状態はしばしば「気力喪失」や「やる気喪失」の状態にあると言われるが、後でみていくようにじつは行動に対して具体的で確実な結果が伴っていない消去の状態にあることが多い。「気力」というような体の「内部状態」ではなく「外から」の結果の有無が影響を及ぼしている可能性があるのだ【補注7】。逆に、見かけ上何も結果が伴っていないにもかかわらず行動が頻繁に生じている場合は、本人が言語報告できないような何らかの結果が伴っている可能性がある。
 
3.行動随伴性による分析の必要
 「好子結果としてもたらされたがゆえに行動する」という考えは、行動の直前条件、行動、直後の変化の関係を述べたものであり、一般に「行動随伴性」(behavioral contingency)【補注8】と呼ばれている。単に「好子が結果としてもたらされる」を良しとするのであれば、パートタイムで働くことも、バイキング形式で料理をたらふく食べることも、あるいはTVゲームに熱中することも、すべて無条件に生きがいをもたらすはずであるが、それだけで満足する人は居ないであろう。生きがいを行動分析学的視点でとらえるためには、行動随伴性概念に基づいて、もっと細かく分析をしていく必要がある。以下の順序で検討を加えることにしよう。
 
@随伴する結果は生得的な好子(または嫌子)であるのか習得性好子(または嫌子)であるのか
A習得性好子である場合、それはどのようにして形成されたものなのか
B結果の随伴のしかたは規則的か不規則的か(→強化スケジュールの問題)
C結果は行動に内在的なものか、第三者によって付加されたものか
D好子出現の随伴性か、好子消失阻止の随伴性か
E結果の随伴が間接効果的であるばあい、そこにはどのようなルール(行動随伴性を記述したタクト)が有効にはたらいているか
Fそのルールを守る行動は、直接的には何によって強化されているか。
Gどういう確立操作(好子や嫌子の効力を変えるための操作)がはたらいているのか
H時間的・空間的にみてどのような結果が行動に影響を与えているか
 
4.好子の質、価値、所有
 ひとくちに「好子結果としてもたらされたがゆえに行動する」と言っても、もたらされるものが生得性好子である場合と習得性好子である場合では、その効果の持続性が異なり、このことは生きがいの内実にも大きな影響を及ぼす。
 
(1)生得性好子
 行動に生得性好子【補注9】が伴うことは本来、無条件に生きがいとなるはずだ。それは動物の個体の維持や繁殖に必要な事象(食物、水、適温、空気、性的興奮)と密接に対応している。別の見方をすれば、進化の過程では、個体維持や繁殖に有用な刺激が好子になるような種が進化の過程で結果的に生き残ったとも言える。生物の個体の維持や繁殖に必要な事象が生得性好子にならないような動物は仮に突然変異で地球上に存在しても、適応的に行動できないので瞬間的に滅び去ってしまうだろう。例えば、食物が好子にならない動物は直ちに飢え死にするし、性的興奮が好子にならない動物は子孫を増やせないので一代限りで消滅してしまう。 人間以外の動物がもし生きがいを感じることがあれば、それは間違いなく行動に生得性好子が伴った場合であろう。
 
 しかし、人間、少なくとも現代人では、生得的好子が伴うことは必ずしも第一義的な生きがいとなならない場合がある。これはなぜだろうか?
 ひとつは、人間にとっての生得性好子は、あくまで原始人向けに形成されたものであるということ。例えば食料が十分に確保できない大昔にあっては、糖分や脂質は生き延びるための重要なエネルギー源であった。その後文明が進歩して物余りの時代が到来したが、生物的なレベルでの人間は大昔と殆ど変わっていない。それゆえ、好きな物を好きなだけ食べていると太りすぎや成人病を招く恐れが出てくる。その意味では、文明の進歩は、人間が生得性好子によって強化される楽しみに制限を与えるようになったと言ってもよいだろう。
 
 もうひとつ、生得的好子が繰り返し提示されると飽和化が起こりやすいという問題もある。例えば、いくら甘党でも甘い物を食べ過ぎれば見るのもイヤになるだろう。これは水でも、性的な刺激でも同様である。飽和化がおこりやすいということは、特定の生得性好子で強化される行動は長続きしないことを意味する。
 
 実は飽和化も個体の維持や繁殖に重要な役割を果たしている。もし、1つの生得性好子が常に他の好子よりも強い強化力を持ち続けていたとすると、その個体は、永遠に同じ行動ばかりを繰り返すことになってしまう。食物が最優位の好子である動物が出現したとしても、食べることばかりに専念して子孫を増やそうとしないので絶滅。交尾することが最優位である動物は食べることを忘れて飢え死にしてしまうだろう。個体の維持と繁殖のバランスを保つように、飽和化と(その反対概念である)遮断化によって生得性好子の強化力が相対的に変化するしくみを備えた動物だけが結果的に地球上に生き残ったと言ってもよいかと思う。
 しかし、飽和化が起こりやすいということは、生得性好子だけが獲得されるような生き方は刹那的であって永続性のある楽しみが得られないということの証明にもなる。いくら美味しい物でも毎日食べていれば飽きてしまうし、セックスばかりしていても空しくなっていくばかり。
 
 この飽和化はどんな金持ちでも避けて通ることができない。というか、むしろ何でも楽々と手に入れることができる人のほうが、物余りによって飽和化が起こりやすい。生得性好子を享受することを生きがいとし、かつ飽和化を避ける方策としては論理的には少なくとも次の4つの方法が考えられる。
 
@生得性好子の出現機会を一時的に断ち、確立操作(=「遮断化」に相当する)によって好子の強化力を高める。
A生得性好子が生理的に求められるように体を変化させる。
B複数の生得性好子をローテーションさせることによって、単一の生得性好子への飽和化を避ける。
C生得性好子を出現させるまでのプロセスをあえて困難にし、そこ(=好子出現という「目標」)に到達するまでの行動とそれに内在する結果によって楽しむ
 
 @の方法は、あえて断食をするなど、意図的に生得性好子への接触機会を断つこと。夫婦間の接触(日常会話であれセックスであれ)も、毎日顔をつきあわせているよりも単身赴任で時たま顔を合わせたほうが感激が大きいのは遮断化の効果であると考えられる。
 
 Aの方法は、激しく運動するなどして、食物や飲み物への生理的なニーズを高めること。厳しい練習のあとや山登りの最中に食べる食事が美味しく感じられるのは結果的にこうした確立操作をみずから行ったためと考えられる。
 
 Bの方法は、例えばラーメンの味を楽しもうとしたら、毎日ラーメンばかりを食べず、週に6日は和食や洋食をとるようにローテーションさせること。これによって飽和化が解消し、より美味しいラーメンを食べることができる。ローテーションは、こうした食事のメニュー内ばかりでなく、質的に異なる生得性好子の間でも可能だ。基本的には1番目の方法と同様だが、遮断化の期間に我慢せず、別の生得性好子を受け取っておこうというようなもの。但しそれなりの資金が無ければ実現できない。
 
 Cの方法は、例えば手間ヒマかけて料理を作ったり、釣った魚を料理したり、家庭菜園で穫れた野菜を楽しむことなどが相当する。これは、「価値は物そのものではない。行動と一体となって生み出されるものである。」と一致する考え方である。山登りでもそうだが、ロープウェイなどであまりにも簡単に頂上に達してしまうと感激はうすいものだ。目標を達成した瞬間にはもはや「それが結果としてもたらされたがゆえに行動すること」は中止される。
 
 生得性好子が獲得された瞬間というのはある意味では飽和化の始まりになる。よく「楽しみは先にとっておく」という人が居るが、これは実は「最終結果の出現を先延ばしすることで、そのプロセスに付随する行動内在的な結果を楽しんでいる」ことにすぎない。
 
 あまりにも物質的に贅沢な環境にあると、生得的好子は容易に手に入っても、肝心の「それが結果としてもたらされたがゆえに行動すること」が保障されなくなる。そこで、自分で釣りをしたり、家庭菜園を作ったり、レストランではなく手料理を楽しむというような行動が起こる。平安・鎌倉・室町などの時代の貴族や武士がわざわざ地位を捨てて清貧な隠遁生活を楽しもうとするのは、生得性好子の効力を高めるための確立操作を行っていたと考えることもできる。
 
(2)習得性好子
 習得性好子【補注10】は裏付好子【補注11】と密接に結びつくことによって好子としての機能を獲得する。それはふつう生活環境の中で個々人の経験に基づいて形成される。生活様式が似通っている狩猟民族であれば、獲物という共通の裏付好子のもとで、強い弓とか鋭い槍というように獲物と対提示されるものが習得性好子になりやすい。それゆえ各人の習得性好子は非常に似通ったものになるだろう。これに対して、現代のような複雑な社会の中では、その形成のプロセスはきわめて多種多様になる。価値観が多様になるというのは、習得性好子の形成のしかたが多様であると言い換えてもよいだろう。
 
(3)般性習得性好子としてのお金
 習得性好子の中でも、多数の裏付け好子と一対多対応の形で結びつくようなものを般性習得性好子という。1つの社会の中で形成される般性習得性好子は共通性をもちやすい。その社会の文化や習慣、道徳等を強く反映するためである。そのため、ともすれば、ほんらいは習得性好子であるものを生得的好子であると錯覚してしまう恐れがある【補注12】。
 
 お金は諸々の般性習得性好子(般性習得性強化子)の中でも特に強い強化力をもつ。産業労働に対しては給料が支払われるし、種々の民事裁判も最終的にはお金に換算されて解決される。資本主義社会においては、お金と全く無関係に生きがいを論じることは難しい。また、裏付け好子との関係が一対多対応の関係にあるため飽和化が起こりにくいことも、永続性があり強い強化力をもつという点でお金を特徴づけている。このことがお金に対する強い執着を生み出すことになる。
 
 お金を求めることはしばしば賤しいことだとされる。しかしそれはお金自体が悪だからではない。お金が随伴することによって行動そのものが変わってしまい、もともとその行動に内在的に随伴していた好子が隠蔽されてしまうことが問題なのだ。
 
 たとえば半ば趣味のつもりで野菜を作っている人が、無人販売所にその野菜を出したところ高値で売れたとする。そのことに気をよくして本格的に野菜を作りだし、ついにはそれが本業になったとしよう。この場合、当初は、野菜が育つこと自体や、収穫された野菜を自分で味わうといった内在的な好子で強化されていた栽培行動が、お金という付加的な好子の随伴性によって強化されるようになる。
 となると、もともとは農薬を使わず手間ひまかけて美味しい野菜だけを作ろうとしていた行動は、「どのような野菜を作れば高く売れるか」、「いかにコストを減らして大量に作るか」などの視点から大幅に変容し、もとの行動内在的随伴性が失われていくことになる。ボランティア活動をしている人にお金を差し出すと激怒される場合も同様だ。これは、行動に内在する好子や、被援助者の笑顔などの社会的な好子が伴うことによる随伴性が破壊されることへの怒りであろう。
 
 お金はほんらい何らかの裏付け好子との交換を前提として強化力をもつものであるが、現代のように裏付け好子の数があまりにも多いと、何と交換するかが不明確なままにマネーゲームに走る場合が出てくる。マネーゲームとか財テクというのは、TVゲームと似たところがあって、それ自体「投資する」行動とその結果としての儲けというによって独立的に強化される。これが講じるとお金の亡者になってしまう。
 
 なお、お金が本当に般性習得性好子になっているかどうかは、もう少し検討の余地が残っている。特に今のような、給料が銀行口座振り込みとなり何でもクレジットカードで決済できるような社会になると、タンジブルなお金というものが数字の増減だけに置き換わってしまうようになる。こういう状況のもとでは、もう少しルール支配的なもので、金額は単なる弁別刺激、かつ別の強化子によって行動が維持・強化されている可能性がある。これについては改めて検討を加えることにしたい。
 
 ともあれ、お金の価値はそれ自体にあるのではない。自分の日常生活の行動がどういう形でお金によって強化されているのかを見極めることが自己理解の大切なステップとなるであろう。 
 
(4)所有と生きがい
 次に、お金と関係の深い「所有」について簡単にふれておこう。
 
 まず、『新明解国語辞典』(第五版, 金田一, 1998年)で「所有」の意味を調べてみると
 
所有:自分に属するものとして、自由な使用(処分)が認められること。
所有権:何かを自分の物として使用・収益・処分すること。
 
となっている。この辞典も示すように、この世界のものは何でも所有できるわけではない。所有できるのは、人が使用したり、処分したり、収益を得たりできるものに限られるのである。 たとえば、どんなにお金を出しても、太陽の黒点を所有することはできない。それを使用することも、処分することも、そこから収益を得ることもできないからである。 同様に、空気、海水、日光のように無尽蔵にあるものは普通は所有の対象とはならない。他人と自分との権利を差別化する必要が生じないからだ【補注14】。
 
 要するに所有とは、個々人あるいは集団が特定の物に関わりをもつ機会を占有するための約束事であって、本質的な価値には結びつかない。誰でも平等に使えるようにしても、資源が乏しければ暴力を伴った衝突が起きる。関わり方の差別化を社会的に保証する約束事を作ればこうした無駄な争いが回避できる。こうした有用性のあることが、所有を前提とした行動を社会的に保護する体制をつくりあげたものと思う。
 
 こうして考えてみると、所有というのは絶対的な真理でも生まれながらに付与された権利でもない。この視点から、所有と生きがいとの関係を見直してみる必要があるだろう【補注15】。
 
 日常社会ではしばしば「所有欲」という言葉が使われるが、欲という言葉は、好子の確立操作に依拠する部分と行動随伴性に依拠する部分に分けて考えてみる必要がある。「自分のパソコンが欲しい」というのは、パソコンと関わる(=パソコンの操作をして文書処理や計算をしたりネット活動をすることなど)機会を得るための活発な行動と一体となって生じる感情であって、先に「欲」があってこれが原因で行動が生まれるというような固定観念は問い直さなければならない。
 
(5)借用
 「所有」と似た概念に「借用」がある。この違いは、結局のところ対象との関わりの機会についての制約の違い、収益や処分に関する行動の制約の違い、そしてコストに帰着されるように思う。具体的に、持ち家と借家、自家用車とレンタカー、購入した本と図書館の本の違いを考えてみればよいだろう。
 
 政治が安定し、種々の権利が保護され、契約がきっちりと履行される社会になればなるほど、「所有」と「借用」のあいだの質的な違いは消え、単なる量的な違いだけが比較されるようになってくるだろう。また、バブル崩壊後は、土地や家を所有することが必ずしも財産の保全につながらない現象も起こるようになってきた。こうした状況をふまえるならば、「所有」に対する極端な執着を避けることも、生きがい問題を考える重要な着眼点になるかと思う。
 
5.結果随伴の規則性、不規則性
 「好子結果としてもたらされたがゆえに行動する」という考えは、単に結果が大きければよいという意味ではない。結果が同じ量であっても、その随伴のしかたによって異なった影響を及ぼすことは、日常的にも実験的にも知られている。
 
 ゲームやギャンブルなどへの熱中で知られているように、いっぱんに不規則に伴う結果のほうが規則的に伴う場合よりもより多くの行動をひきおこす。こうした事例は、実験的には強化スケジュールとして検討されている。動物を被験体とした実験研究でも、一定回数の反応に対して好子が随伴する定比率強化より、不定数の反応に対して好子が随伴する変比率強化のほうがより高率の反応を生み出すことが知られている。例えば、20回ボタンを押すごとに必ず1回餌が出るよりは、必要回数は平均では20回ながら、そのつど、1回、30回、10回、50回、3回、...というようにランダムに変わったほうがより多くの反応を生み出す。
 
 結果を不確実に与えることのほうがなぜより大きな楽しみを与えるかについては、いろいろな説明が考えられる。自然環境への適応という観点から見れば、獲物を獲る動物であれ、木の実や果物を食べる動物であれ、餌探しという行動に伴う結果は必ずしも一定とは言えない。堅実な結果よりもある程度不確実に与えられる結果に対して強化されやすい個体のほうが結果的に適応しやすく、生き残って今の人間を作り上げたと考えることもできるだろう。大量の食物を必要とするために不確実な餌の供給では個体を維持できないような動物、例えば、大量の草を食べるウシやヒツジ、ヤギなどの草食動物においても、同じように不確実に結果を与えられるほうが好まれるかどうかは、定かではない。
 
結果の伴い方の規則性・不規則性による区別のほか、行動の量に応じて結果の量が増えるタイプ(率スケジュール)と、時間的なタイミングに依存して結果の伴う確率が変わるタイプ(時隔スケジュール)に大別することができる。
 
 強化スケジュールは労働の生きがい問題に大きく影響する。最低限のノルマを果たせば一律に給料が支払われる時間給と出来高払いの場合では、作業量、作業時間、ストレス等に相当な違いが出る。近年日本でも導入されつつある、裁量労働制もこの観点から検討していかなければならない【補注16】。
 
6.行動内在的随伴性と付加的随伴性/好子出現と好子消失阻止/ルール支配行動
 上記3..に掲げた項目のうちCとDに該当する部分については長谷川(1997)に詳しく述べたのでここでは概要だけ記す。
 
(1)行動内在的随伴性と付加的随伴性
 行動内在的随伴性と付加的随伴性【補注17】は、生きがいの問題と大きく関わっている。スキナーは、産業革命以後、仕事が細分化されてその1つ1つが別の人たちに割り当てられるようになったために、金銭以外の強化子が何もなくなってしまったことを問題視している(Skinner, 1979)。産業革命以前の職人たちには、仕事のどの段階にも、“完成”という、仕事に内在化(ビルトイン)された結果が随伴していた。今でも、伝統工芸の職人にインタビューすれば、必ずといってよいほど、“作ることの喜び”が伝えられる。これに対して、オートメーション化された工場の労働者は、モニターに映し出された映像を見ながら、機械的にボタンを押す。この場合、自分が操作している生産物を直接見たり触れたりする機会はない。また、自分の操作が製品全体の完成にどういう貢献をしているのかさえ、はっきりと確認できない場合すらある。また、事務系の職員は、毎日、書類に数字を書き込み、判を押す。あるいは、パソコン画面に向かって、機械的に文字を打ち込む。ここにも、ビルトインされた行動の結果は見えてこない。
 
 現代でも、農林業や漁業に従事する人々の場合には、労働にビルトインされた結果が随伴する度合は大きいものと思われる。サラリーマンの中に、いわゆる脱サラで、農村に移り住む者がいるのも、おそらく、会社勤めという付加的な随伴性ばかりの生活に耐えきれなくなったためではないかと推察される。
 
 しかし、農林業や漁業と言えども、経営が企業型になり、機械化が進むと、“種を蒔いて、苗を育てて、収穫する”とか“仕掛けを工夫して、お目当ての大きな魚を釣る”というようなビルトイン随伴性に代わって、収穫を増すための農薬の大量散布や、規格外や採れすぎた生産物を捨て去る、あるいは、トロールで、魚をごっそり捕獲する、というような行動が出てくる。その行動を維持・強化しているのは、言うまでもなく、付加的な好子(=お金)に他ならない。こうなれば、第1次産業の従事者であっても、もはや労働に内在した好子によって強化される機会が失われてことになるだろう。
 
(2)好子出現か好子消失阻止か
 行動と結果との関係は、大きく2通りに分かれる。1つは「Xという行動すればYという結果が生じる(Xという行動をしなければYは生じない)」というものでこれは基本随伴性と呼ばれる。これと別に「Xという行動をしなければYという結果が生じる(Xという行動をすればYは生じず、現状が維持される)」という別の関係が論理的に想定できる。こちらのほうは阻止の随伴性と呼ばれる。後者の例としては、「防災の準備をしなければ災害が生じる」とか「観葉植物に水をやらなければ枯れてしまう」というような行動・結果関係が想定できる。
 
 好子出現の強化随伴性と好子消失阻止の強化随伴性の違いは、ほんらい楽しいはずの行動がなぜ義務的に感じるのか、という問題を考える上で重要である【補注18】。もともと働いて給与を得るという随伴性は「好子結果としてもたらされたがゆえに行動する」ことの典型であるように見える。最初は、自分の適性を考え好きな仕事を選んだ人であっても、時には、仕事がつまらない、のんびり休暇をとりたい、と考えることがあるだろう。しかし、今、仕事をやめると給料がもらえなくなり、家族は路頭に迷うことになるので、やむを得ず働き続ける。こうなると、その人にとって、仕事をすることは、給料という好子提示の随伴性によって維持されているのではなくて、“仕事をやめれば給料を失う”という、好子除去阻止の随伴性によって維持されていることになる。スキナー自身、このことを非常に問題視しており、労働者たちは賃金のために働くのではなく、解雇されて生計
がたたなくなることをおそれて働くようになってしまった、と指摘している(Skinner, 1979)。
 このように、初めは好子提示の随伴性によって維持・強化されていた行動が、その後の日常的な反復の中で、いつしか、好子除去阻止の随伴性によって維持されるようになることは、往々にしてありうることだ。毎日続けている行動を義務的に感じることがあるとしたら、こうした随伴性の変化によるものと考えるべきであろう。
 
7.ルール支配行動と確立操作
 
 ルール支配行動は「行動随伴性を記述したタクトが生み出すタクトが生み出す言語刺激(=「ルール」)によって制御される行動 ”(杉山ほか, 1998)として定義されている。またこの定義中の「タクト」は“物や出来事、あるいはその特徴が弁別刺激で、般性強化により形成・維持されている弁別刺激と反応との間に1対1対応のない言語行動”として定義されている(杉山ほか, 1998)。「〜すれば〜という結果が生じる(=基本随伴性)」とか「〜しなければ〜という結果が生じるが、〜すれば現状維持(=阻止の随伴性)」というような随伴性が何らかの形で言語的に記述され、それに従うような行動が形成、維持されている時にそれが「ルール支配行動」と呼ばれる。  杉山ほか(1998)ではルール支配行動は「行動随伴性の言語的記述」によって制御されるというが、この場合の言語的記述は、明文化されたものばかりでなく、絵や図による記述、さらには漠然としたイメージのようなものも含まれる可能性がある。
 
 高度に発達した文明社会の中で生活する人間の場合、直後の結果によって維持・強化される行動よりもルール支配行動として維持される行動のほうが圧倒的な比率を占めるようになる。「この仕事をすれば月末に賃金をまとめて支払う」、「受験勉強をすれば1年後に大学に入れる」、「お金を貯めて10年後にマイホームを手に入れる」、さらには「善行を尽くせば天国に行かれる」というように「天国」という死後の仮想的な結果で維持される行動のように、世の中にはルール支配的な行動が満ちあふれていると言ってよいだろう。
 単にルール支配行動を分類記述するだけであれば、「ルールの理解」、「ルールの認知」、「ルールへの自覚」という言葉を使っても何ら問題は生じない。しかし、ルール支配行動がどのような仕組みである時には維持・強化され、ある時はうまく遂行されないのかを明らかにしようと思ったらそういう表現では不十分だ。例えば「あなたはルールへの理解が足りない。もっと自覚しなさい!」と言われるだけでそれがうまく遂行されるようになるか言えばそんなに甘いものではない。 大切なのは、ルールに従う行動がどのような形で維持されているのか、ルールを守った場合と守らない場合にそれぞれどういう結果が生じているのかを明らかにすることにある。
 
 ルールは、現在の行動と将来の結果を言語的に記述したものである。人生の目的とか将来の目標と呼ばれるものもこれに含まれる。ただ、将来の結果としてどんなに素晴らしい夢を描いても日々の準備行動がそれ自体に具体的な結果が伴わなければ長続きしない。「目標に向かって進む」ことを生きがいにするためには、日々の行動にもそれなりの具体的な結果を随伴させる必要がある。
 
8.間接効果的な随伴性における行動と結果の時間・空間的関係
 
 ルール支配行動における結果の遅延といっても、行動とその最終結果までの遅延は、数時間、数日、数週、数ヶ月といった単位から、数十年、さらには自分の死後を想定して何百年、何千年といった後まで想定される場合がある。また、その結果の及ぶ範囲は、自分自身だけの場合もあるし、家族や親戚、さらには地球人類全体に至るというように空間的に大きな広がりをみせる場合がある。
 以下、時間的・空間的に離れたところに想定されやすいと思われる結果を大ざっぱにまとめてみた。それぞれのセルに関係したルール行動を維持するには、それぞれに固有の確立操作あるいは、ルールを守る行為自体への直接的強化が随伴しているものと考えられる【補注19】。
 
(1).直接効果空間  
 自分の行動が直接自分自身に影響を与える。ただし直接効果的な随伴性と異なって、結果がある程度累積した時に最終結果に辿り着くというタイプ。
 
直接効果空間×近未来 論文執筆、引っ越し作業、花壇の世話など。自分が直接関わる空間の中で個別的な行動が累積され、数日〜数ヶ月で結果をもたらす場合。
 
直接効果空間×未来 成人病予防のために適切な食物を選ぶ、お金を貯めて家を建てる、老後の楽しみのために庭師の資格をとるなど。同じく自分に直接の影響が及ぶものの、累積的結果として意味をなすのが数年から数十年後となる場合。
 
直接効果空間×死後 自分の子供や家族を自分自身の延長上に一体化して、死後に生活資金や財産を残すために働く場合。
 
(2).間接効果空間 
 身の回りから地球環境全体に至るまでの空間。数字の上では自分の行動が何らかの影響を及ぼすが、その効果はあまりにも小さく、直接的に結果を確認できない場合。自分が行動してもしなくても影響は無いが、全員が自分と同じ状態を保てば深刻な事態も起こりうる。
 
間接効果空間×近未来 国勢選挙の投票行動など。結果の出現自体は即日開票として反映。特定候補に票を入れることは数字の上ではその候補の当選に貢献するが、直接的にはその効果を確認できない。
 
間接効果空間×未来 数年から数十年後に影響が出てくるような結果。ゴミの分別収集強力、生活排水への配慮など。
 
間接効果空間×死後 同じ環境問題でも子孫や何百年も後の人類にとってプラスになるような結果を想定している場合。このほか、革命のために自分の命を捨てる行動なども、死後に想定した結果が関与していると考えられる。
 
(3).超現実空間 自分の行動の影響が効果が直接的にも間接的にも、客観的に確認できない世界に結果を想定している場合。(2)と(3)は個人的な宗教観で区別するものではない。あくまで自分の行動の効果を測るためのインジケーターのようなもの【補注20】が自分の行動と独立し客観的に設置できるかどうかによって判別するべきであろうと考える。
 
超現実空間×近未来 現実に起こった結果に、神さまが褒めてくれたとか、神の怒りをかったといった非現実的な結果を付与する場合。
 
超現実空間×未来 このまま努力すれば神は必ず認めてくれるというような形で、数年から数十年後の結果に非現実的な結果を付与する場合。
 
超現実空間×死後 天国とか地獄というようなものを想定し、修行とか善行のような現在の自分の行動が死後に大きな結果をもたらすと仮定する場合。
 
(4).目的とプロセス
 ルール支配行動における最終的な結果はしばしば「目標」と呼ばれる。目標を達成するための個々の準備行動を熱心に行うことはしばしば「努力」と呼ばれる。準備行動は、最終的な結果への到達の度合いによって強化されるばかりでなく同時に準備行動が直接もたらす結果によっても強化されるものと考えられる。
 
 同じ山登りでも、日本百名山の早回りに挑戦している人の場合には、とにかく頂上に立つことだけが意味のある結果となる。この場合は、ガスがかかっていて周囲の景色が何も見えなくても、登頂を達成するだけで強化されることになる(但し、この人の最終目標は登頂ではなく百名山達成と最短所要日数ということになる)。しかし山登りを楽しむ人の場合は、登頂それ自体よりも、山麓での自然とのふれあいや尾根筋での景色の変化のほうがむしろ意味のある結果として伴っている場合が多い。そういう山登りを楽しむ人は、時間が足りずに頂上の近くで引き返すことになってもそれほど残念がることはないだろう。
 
 ルール支配行動の中には、最終的な結果の達成のほうに意味があるケースと、最終的な結果よりも途中のプロセスで直接的な結果を得ることに意味のあるケースとがある。
 
 前者は例えば災害現場での救助、人質の救出、外科手術など。もちろん失敗しても最大限の努力には労いの言葉がかけられるではあろうが、これらの場面では人の命を救うという目標を達成することが至上命題であって、極端に言えばどれだけ努力をしたかはどうでもよいことになる。「努力さえすれば結果なんて」という見方は単なる慰めの言葉としてしか意味を持たない。
 
 いっぽう、上記のような形で山登りを楽しむケースでは登頂それ自体にはあまり意味はない。ロープウェイであっさりと登っても感激が少ないのは、登山途中、つまりプロセスに対して直接的な結果を体験していないためであると言える。
 
 最終結果よりも努力のプロセスが尊重されるのは、そこで身につけた技能に汎用性がある場合に多い。スポーツの大会で惜しくも優勝を逃したとしても、そこで身につけた力は次の大会で発揮される。資格試験に落ちても、翌年の試験で合格できる確率が高まる【補注21】。
 
 行動と結果をセットにして考える立場をとる限りにおいては、人間の生きがいを最終結果(最終目標)の達成におくことは妥当とは言えない。達成に向けたプロセスのそれぞれの段階で努力するにあたって、目標達成に結びつくような個別的な結果、あるいは目標とは無関係であるがそのプロセスを遂行しなければ決して出現しないような好子が随伴すること、それがもたらされるがゆえに行動することが生きがいにつながる。 目標を達成した瞬間にはもはや「それが結果としてもたらされたがゆえに行動すること」は中止される。目標を達成した冒険者があまり大した感激を見せずに新たな目標を模索せざるをえないのはそんなところにある。最終目標の達成に価値が見いだされるのは、個人の生きがいのレベルではない。その達成が他者や集団を利するからこそ、その枠組みの中でだけ評価されているに過ぎない。
 
9.行動分析学的視点からどういう提案が可能となるのか
 
 終わりに、今回示したような視点をもつことによって、生きがい問題についてどういう具体的な提案ができるのかについて考えてみることにしたい。
 
 これまでに述べた通り、行動分析学的な視点の最大の特徴は、行動の原因を心の内部に求めるのではなく、外界への働きかけとして自発された行動とその結果との関係の中でとらえようとするところにある。従って、仮に生きがいを喪失している人がいた場合、その原因は心の内部ではなく、その人が自発する行動に対する結果の随伴の仕方に問題があるというように考える。やる気を失うというのは、やる気という内部のエネルギーが失われたのではなく、当該の行動に対して具体的な結果が適切に伴っていない、あるいは結果が伴ってもそれが好子として機能していないと考えるわけだ。こうした見方をとることで、より建設的かつ具体的に、生きがい喪失を改善できる可能性が高い。
 
 2.で指摘したように、「好子結果としてもたらされたがゆえに行動する」というスキナーの考えからは
 
@行動せずに好子だけを受け取っても生きがいにはならない。
A行動しても何も結果が伴わなければ生きがいとはならない。
B結果が伴わなくても生きがいだと感じるのは、本人が結果に気づいていないだけだ。
C行動しなければ決して生きがいは得られない。
 
という具体的な指針が敷衍できる。これらは高齢者の生きがい喪失や学校教育での「やる気」問題の解決に大きく関わった主張である。
 
 例えば高齢者福祉を考える場合、単なる生活資金の支給や医療費の無料化では生きがいが獲得できないことが@〜Cに基づいて主張できる。少なくとも健康なお年寄りの場合は、年金の額を倍増させるよりは、行動内在的な結果が確実に随伴するような労働機会を保障することのほうが大切であると言えよう。
 
 学校教育場面においても、勉強であれスポーツであれ、努力に応じて結果が伴うようなシステムを確保することが大切だ。
 
 例えば秋に行われる運動会。紅白に分かれて得点を競うことの意味づけが今ひとつはっきりしない。単なる親睦目的ならばそれで結構かもしれないが、教育目的で得点を与えるというならば、各自の努力がその量に応じて評価されるような随伴性のしくみを設定なければ意味がない。 具体例としてリレーを挙げてみよう。競技前に2〜3回しか練習しないのであれば、単に「もともと足の速い人が居たから勝てた」(あるいは「もともと足の遅いひとが居たから負けた」)というように、勝ち負けの原因は努力ではなく参加者のもともとの能力に帰属されてしまう。得点種目として設定する以上、事前にもっと練習をさせ、努力することが勝利に結びつくのだということを体験させなければ意味がない【補注22】。
 いま述べたような主張に対しては、得点とか競争にこだわらせるのは教育上よろしくないとクレームをつける人が居るが、これは競争の功罪を正しく理解していないことからくる感情的な反発にすぎない。同じ競争であっても、努力に応じて好結果がもたらされるような競争であれば動機づけとしては大いに有効であり、生きがいにつながる。仮に競争で負けても「今回は努力が足りなかった。次はもっと努力しよう」という好ましい原因帰属がなされるはずだ。
 いっぽう、努力が正当に評価されないような競争、例えばもともとの能力、体力、体格の違いだけで結果が決まってしまうような競争とか、裏技(他者をおとしめるような不正行為)を使うと努力しなくても勝てるような競争は教育場面ではゼッタイにやめさせなければならない。また「競争は常に悪だ」という固定観念のもとに、努力に応じて結果が伴うような随伴性の導入までを排除してしまうのも間違っている。これは競争原理一般についての考え方にも繋がる問題であるが、要するに、競争原理自体の是非を一般論として議論するのは不可能。努力が正当に評価されるような競争を導入する一方、別の不適切行動が付随的に強化されるような競争は改善もしくは排除していくという姿勢が大切である【補注23】。
 
 高校までの教育と大学入試との関係も同様。勉強であれスポーツであれボランティア活動であれ、とにかく、「行動すればするほど、それに応じて、より多くの結果が伴う」のような随伴性が用意されていなければ努力は生じないし、そこからの生きがいも生まれない。。そういう意味では、抽選によって入学者を決める方式は努力を否定する随伴性であると言えるし、逆に、いろいろ弊害があるにせよ、受験勉強は努力を肯定する随伴性であると言える【補注24】。学力検査だけで選別する現行の入試制度を改善するのは大いに結構であるが、努力を無駄にするような選抜方法はいけない【補注25】。努力に応じた評価が正当になされないような教育システムでは、たとえどんなに「ゆとり」を与えても生きがいには繋がらない。
 
 本稿では社会心理学領域で従来より検討されてきた「自己」や「アイデンティティ」概念には一切ふれていない。また、近年注目されている共有現実性(shared reality)、文化心理学的視点、相関存在論、方法論的個別主義から方法論的関係体主義へのパラダイムシフト、関係集約型タイプとしての「間人」(the contextual)と、個体集約型タイプとしての「個人」(the individual)の区別といった問題についても言及していない【補注26】。これらの概念が、行動随伴性の枠組みと別の独立要因として意味をなしうるのか、それとも随伴性をより有効に働かせるための補助的有用情報にすぎないのか、については本稿の続編以降で論じる予定である。
 
 行動分析学の伝統的な研究スタイルが「生きがい」問題をより具体的に扱えるかどうかについてはまだ検討の余地が残っている。というのは、ほんらい行動分析学は「死人テスト」(補注4参照)をパスした具体的な行動を対象としているからである。それゆえ、特定の具体的な行動の改善には大きな力を発揮する。たとえば上に述べた高齢者の場合、高齢者の問題行動をどう改善するかとか、自立に役立つ行動をどう形成していくかということにおいては他分野の追随を許さない。しかし、が、個人の行動リパートリー総体の中で、種々の行動がどのような階層をつくりバランスを保ち全体としてどのような生きがいを与えているかというような問題については、未だ十分な方法を確立しえていない。
 
 こうした点から、今後の検討においては、個々人それぞれの日常生活行動にどういう結果が随伴しているかについて具体的な実例を収集し、さらに個々の行動が総体としてどういう階層をなし、どのようにバランスを保ちながら生きがいをもたらしているのかを実証していく必要がある。この連載の続編では、具体的な聞き取り調査の結果や、いわゆる「生きがい本」に効用についても論じていく予定である。
  最初にお断りしておくが「行動随伴性」というのは宗教ではない。本稿は、決して行動分析学的視点の優越性を主張するものではない。この視点を導入することで、こういう見方もできる、こういう具体性のある提案もできるというように、生きがい研究に対する可能性を広げることを目的とするものである。冒頭にも述べたように、
 
Happiness does not lie in the possession of positive reinforcers; it lies in behaving because positive reinforcers have then followed.
 
 というスキナーの考えは論証すべき命題でもないし、経験的に実証することもおそらくできない。検討すべき課題は、それが正しいかどうかではなく、そういう見方をすることがどういう人生観を作るのか、実際にそういう生き方をしている人が居るのか、それと違った生き方もあるのか、ということを調べ上げていくことである。結果的に生きがいに満ちた状態、あるいは逆に生きがいを喪失している状態が合理的に説明でき、それを上回る説明が無く、かつ例外的事例が見出せなければ、スキナーの考えの妥当性や有用性が高められたということになる。行動随伴性による分析というのも、複雑な現象に対する1つの切り口のようなものだ。有効性が認められる限りはその見方を持続すればよいし、逆にあまり役に立たなくなれば別の見方に改善すれば(あるいは切り替えれば)よい。生きがいの理論には正しい理論とか間違った理論というものはない。それが絶対的な真理であるかどうかなど考えるのは無意味で非生産的な議論を生み出すだけである点を付け加えさせていただく。
 
 
補注
【補注1】大学生協の「和書検索発注サービス 書籍検索」を用いて、「生きがい」をキーワードにあててみると188冊(「生き甲斐」では152冊)が、また「心理学」をキーワードにあててみると2257冊がヒットする[1999年1月31日現在]。ところが、「生きがい」と「心理学」をAND条件で結んで検索してみると、わずか7冊(「生き甲斐」&「心理学」では5冊)だけに絞り込まれてしまった。同じく「Superちょいす君岡山大学附属図書館版」によれば、「生きがい」キーワードで346冊(「生き甲斐」では26冊)が、また「心理学」キーワードでは2000冊オーバー。[1999年9月30日現在]。ところが、「生きがい」と「心理学」をAND条件で結んで検索してみると、わずか6冊(「生き甲斐」&「心理学」では0冊)だけに絞り込まれてしまう。ほんらい「生きがい」は心理学の根本問題であるはずなのだが、心理学者が正面から取り組んだような本は意外に少ないことが分かる。
 
【補注2】例えば何がしかの調査研究によって「年収2000万円以上の人のほうが500万円以下の人より生きがいを感じている」という結論が得られたとしよう。これは生きがいについての個体差を説明することにはなるが、年収500万円以下の人々がより大きな生きがいを得るためには何の具体策も提起できない。強いて言えば、年収を4倍に増やす財テク法を伝授するぐらいのものだ。
 
【補注3】じっさい、素朴な概念としての「生きがい」には「楽しさ」と似通ったところがある。個々人の範囲では、ある時は楽しくある時はあまり楽しくないという変動があることは確かだが、では他の人と自分とどちらが楽しい状態にあるのか比較測定できるかどうかは疑問。素朴な概念としての「生きがい」はまた「美味しさ」と似通ったところもあるように見える。個々人の範囲では確かに美味しい食物と美味しくない食物があるが、ある人が美味しいと感じる食物が別の人にとっても美味しいものであるとの保障はない。個々人の生きがいがこのような楽しさとか美味しさと同じレベルの概念であるとすると、客観的かつ単一の指標との数量関係によって生きがい研究を進めることは非常に困難であると言わなければならない。結局のところ個別的な価値観から独立して「生きがい」を一般的に論じることには限界があると言わざるを得ない。
 
【補注4】訳は佐藤方哉を参考にしたが、本稿では「happiness」を「幸福」ではなく「生きがい」として訳出した。もともと英語には「生きがい」に相当する言葉が無く、「well being」とか、飯田(1996)のように「the real aim」という訳語をあてられることさえある。スキナーの言う「happiness」は幸福一般の定義というより具体的に「生きがい」を感じる状況について述べており、そのまま日本語の「生きがい」に当てはめて差し支えなかろうと考える。また、「positive reinforcers」の部分は、本稿では杉山ほか(1998)の訳語に従って「好子」と訳した。それぞれの基本的な意味は以下のとおり。
行動(behavior):ここでいう行動はオペラント行動に限られる。オペラント行動は生活体が環境に対して能動的に自発される行動。「死人にできることは行動ではない」という「死人テスト」(杉山ほか, 1998参照)により棄却されるような受身形(「〜される」)や否定形(「〜しない」)の行動表現は含まれない。
好子(positive reinforcers):行動の直後に出現するとその行動の将来の生起頻度が増加(もしくは高頻度で安定的に出現)するような刺激、出来事、条件。食物やお金のような具体的な「もの」ばかりでなく、音、加速度、完成、創作、社会的賞賛など幅広い事象が好子になりうることが知られている。
結果(consequence):「行動と結果」という時の「結果」と言う時には、必ずしも自然科学的な意味での因果関係は前提とされていない。第三者がそちらの都合で付加されるような結果もある。また、必ずしも、具体的なモノに限られるものではない。ジョギングの後に生じる爽快感も、山登りの結果として生じる頂上からの景色も、作業を完成させていく時に生じる具体的な刺激変化もすべて結果になりうるものである。
 
 
【補注5】狭い部屋に閉じこめられる代わりに何でも好きなものが食べられる刑務所と、自由に農作業ができるが自給自足を強いられる刑務所とどちらを選ぶかと問われたとする。最初はおいしい食べ物にとりつかれた囚人も居るだろうが、最終的には圧倒的多数が後者の刑務所を選ぶようになるに違いない。また、どんなに価値のある宝石であっても宝箱に入れておくだけでは幸せにはなれない。むしろ小さな宝石を手に入れるために日々働くことのほうが幸せをもたらす。(1)はそういうことを意味しているのである。
 
【補注6】杉山ほか(1998)の定義では消去は「これまで強化されていた行動に対して、強化の随伴性を中止すると、強化の随伴性を導入する以前の状態までその行動は減少する」という基本原理として定義されている。ここでは過去の強化の履歴の有無に関わらず、一般に、結果が伴わない行動は生きがいに結びつかないことを主張している。
 
【補注7】対処行動がすべて無効な状況で形成される学習性無力症(learned helplessness)もこれに近いものと考えられる。
 
【補注8】杉山ほか(1998)の定義では行動随伴性は「ある条件の下である行動をするとある環境の変化が起こる、という、行動と環境との関係」として定義されている。但しこの記述だけでは「阻止の随伴性」は定義できない。阻止の随伴性の場合は「ある条件の下である行動をしても環境の変化は起こらないが、その行動をしないと環境側が勝手に変化するという場合の、行動と環境との関係」として定義する必要がある。
 
【補注9】杉山ほか(1998)の定義では生得性好子は、「他の好子と対提示されなくても好子である刺激、出来事、条件のこと」(杉山ほか, 1998, p.132)として操作的に定義されるが、実質的には、食物、水、性的刺激など、個体維持や繁殖に有用な刺激がこれに相当する。生得性好子の本来の意味は、経験や学習を必要とせずに好子となる刺激、出来事、条件のことである。性的刺激は基本的には生得性好子と言えるが、一定の成熟を必要とし、また特殊な経験や遺伝的要因によって好子となる刺激の質が大きく変化する場合もある。
 
【補注10】習得性好子というのは「他の好子と対提示されることで好子としての機能を持った刺激、出来事、条件」(杉山ほか, 1998)として定義されているが、「対提示」が条件性好子を生み出す必要十分条件になっているかについてはもう少し検討してみる必要があるように思う。何らかの経験によって好子としての機能を獲得した刺激等であることは間違いない。
 
【補注11】杉山ほか(1998)の定義では裏付好子は「習得性好子を好子として機能させているもともとの好子」。
 
【補注12】本文では般性習得性好子としてお金の例を挙げたが、Skinner(1953)の『科学と人間行動』の中では、ほかに「注目」、「承認」、「愛情」、「従順」にふれられている。以下の引用部分はいずれも『科学と人間行動』の第5章(原書78頁)から。訳は長谷川による。
 
注目
 人々から注目されることが強化的であるのは、それが他の強化を得るための必要条件になっているからである。いっぱんに、注目してくれる人々だけが私たちを強化してくれるのである。特に強化を与えてくれる可能性の高い人々からの注目、つまり両親や先生や恋人からの注目は、特に良好な般性好子である。それゆえ、注目を得るための行動が特に生じやすい。特別の注意をひきつけるための言語反応も多い。“ほらそこ(Look)”、“ごらん(See)”、あるいは名前を呼びかける用法などがこれにあたる。注目を得るという理由で広く生じやすい特徴的な行動としては、他に、仮病、うるさくする、目立ちたがる(自己顕示癖)をあげることができる。
承認
 注目だけでは不十分な場合も多い。承認してくれた範囲の行動に限って強化してくれる人も別にいる。となると、その人が示す承認のしるしは何であれ、それだけで強化的になる。微笑みをもたらしたり、“そのとおり”とか“よし”とか、その他、賞賛を示す言語的反応は何であれ強められる。この般性好子は、特に教育場面で、行動を持続させたり作り上げたりする目的で使われる。例えば、子供でも大人でも、正しく話せるように教育する場合、適切な行動が生じたときに、“その通り”という言葉を与える。
愛情
 さらにもっと強力な般性好子として、愛情がある。これは、一次好子としての性的交渉と特に密接な結びつきがあるだろうが、愛情を示す者は誰でも他の種類の強化も与えてくれるので、その効果は般化する。注目や承認や愛情を定義したり、観察したり、測定したりするのは難しい。それらはモノではなくて、行動の様相である。その物理的特徴の表出は微妙であり、それらを研究対象とする科学者ばかりでなく、それらによって強化される個人にとっても、困難を伴うものである。誰かが注目しているとか、承認しているとか、愛情を示している、といったことが容易に分からなければ、私たちの行動が強化される環境は一貫性を欠くことになる。となれば、行動が弱くなったり、間違った時に生じたりする恐れがある。注目や愛情を得るには何をすればよいのか、あるいはいつそれをすればよいのかについては何も分からない。注目を得ようと躍起になっている子供、愛情のサインを熱望する恋人、プロとしての賞賛を求めている芸術家は、辛抱強く待つ行動を示す。これは6章で論じるように、間歇強化の結果としてのみ、生じるものである。
従順
 これ以外の般性好子としては、他者への従順があげられる。いろいろな強化を与えるように無理強いさせられると、その人の黙従を示す姿勢は、何であれ般性好子となる。ガキ大将は、相手が臆病な姿勢を示すことで強化される。支配階級に属する者は、敬意を払われることで強化される。威厳や尊敬も、他の人々は特別の振る舞いをすることが保証される限りにおいて般性好子となる。わがままを通し続けるのが強化的であるのは、制御のために制御をするような人々にみられる。注目や承認や愛情が微妙であるのに対して、服従の物理的表出はもっと目立つ。ガキ大将は自分の縄張りにはっきりとした目印をつけることにこだわるだろう。また儀式をとりおこなえば、身分の差や自分への敬愛が強調される。
 
【補注13】たとえばラーメンが好きな人は、ラーメンのニオイにも美味しさを感じて、そのニオイのする店のほうに向かう。この場合、ラーメンのニオイはラーメンの味を裏付け好子とする習得性好子になっていると考えられる。
 ところが何らかの事情で一日三食それも毎日のようにラーメンを食べていると見るのもイヤになってくる。これが飽和化だ。こうなるとラーメンの味ばかりでなくニオイのほうも強化力を失ってくる。これは味とニオイが一対一に対応しているためでもある。
 これに対して、毎回500円玉を出してラーメンを食べている人のことを考えてみる。「500円玉→ラーメン」という交換を何度も繰り返すと、500円玉はラーメンの味を裏付け好子とする習得性好子になってくるだろう。しかし、この場合、ラーメンを食べ過ぎても500円玉への魅力は変わらない。なぜなら、500円は他のものとも交換できるからである。
 
【補注14】同じ宇宙にあるものでも、収益の対象になるならば不完全ながら所有することができる。もし月のクレーターとか小惑星に名前をつけたり改名したりする権利が売買されるようになれば、そこに限定的な所有権が発生するだろう。
 
【補注15】近年、社会主義国の崩壊あるいは開放政策の導入のなかで、私有権を認めることが経済発展の原動力になっているかのような主張がなされてきた。しかし、本当に原動力になっているのは、結果として得たものを所有することではない。結果分配の平等主義や計画経済に代えて、物を得るために行動し、その働きに応じて結果を得るという比率強化のスケジュールが導入されやすい環境を作ったことが「活性化」を生み出したと考えるべきである。 単に私有権が認められても、働きに応じて結果を得るシステムが機能しなければ経済の混乱が続くことは言うまでもない。
 
【補注16】Skinner(1953)は『科学と人間行動』の第6章102〜103頁の中で、裁量労働制のもととなる比率強化スケジュールについて次のように述べている[訳文は長谷川による]
 
 [固定比率スケジュールは]教育場面でよく使われるスケジュールだ。そこでは、学生はある課題や論文やその他一定量の仕事が完成した時に強化される。専門的技能にたいして支払われる報酬、あるいは歩合制の販売などが、本質的にはこのスケジュールに基づいている。産業労働では、出来高払いの仕事として知られている。 これ自体は、ふつうは雇い主に気に入られる強化システムである。所定の結果を生むのに必要な労働コストが前もって計算できるからである。
 
 固定比率強化は、率があまり大きくない場合には非常に高い反応率をもたらす。これは入力-出力関係に従うはずだ。反応率がちょっと上がると強化頻度も増える。その結果、さらに反応率が増えていく。もし他の要因が介在しなければ、反応率は最高限度まで達するはずである。組織的労働場面でこれを制限する要因として感じられるものと言えば、単なる疲労である。このスケジュールによってもたらされる高率の反応と長時間の労働は、健康に危害を及ぼす危険がある。出来高払いの仕事に対してふつう労働組合が猛烈に反対する主たる理由はここにある。
 
 このタイプのスケジュールに対しては別の反対理由もある。反応率が増えるにつれて、強化を与える側の会社組織がより大きな率を設定していくことである。実験的検討で、最初の段階で反応10回ごとに強化したあと15回ごとの強化に切り替える。最初からは無理でも、こうすれば、100回ごとの強化でも可能であることに気づく。産業労働の場合でも、出来高払いのスケジュールによって生産性を上げた労働者は、非常に多くの週給を受け取るだろう。それを実感した雇い主は、同じ基本賃金あたりで要求する仕事の量を増やせると確信する。比率強化が続けられると、固定時隔強化と同様に、強化の直後の行動の生起確率は非常に低くなる。この効果は定率の値が大きいときに特徴的に表れる。この時点で生活体は、次の強化から「遙かに遠い」位置に置かれるからである。出来高払いのスケジュールが使われる場合、それが産業労働、教育、営業販売、専門職などどれであっても、1つの作業が終わった直後になると特に、無気力や無関心な状態が観察されることが多い。いったん反応が始まると、反応をすればするほど状況は改善され、強化が生じる確率が高まっていく。生活体がより高速で反応するにつれて、ゆるやかに加速されるカーブが描かれる。高い率を課するの定率スケジュールのもとで最終的に行き着くこのような状況は、全体的な反応遂行にとっては効率的とは言い難い。どちらかと言えば与えられた時間を有効に使わなくなるし、高速の反応をすることは著しい疲労をもたらすだろう。
 
 比率強化についての実験的検討によれば、生活体の種類と強化の測度に応じて、行動維持が不可能になるような率の限界値があることが明らかにされている。この限界値を越えた率のもとでは、脱力(abulia)と呼ばれる(第5章参照)極度の消去に陥る。一連の反応と反応との間に長時間、不活発な状態が起こるようになる。これは身体的な疲労ではない。別のスケジュールのもとでは容易に行動が起こるからである。これはしばしば「精神的」疲労と呼ばれる。しかしこの名称を使っても何も新しい知識を付け加わらない。一定の値以上の高比率を課する強化に対して生活体は行動しないという事実だけが意味を持っているのだ。比率強化についての実験的研究と日常生活への実用的な応用のいずれにおいても、高比率を課することによる過労の最初の徴候をこの休止期で観察することができる。ハトが完全な「脱力」に陥って反応を全く止めてしまう前に、しばしば強化後に一定時間反応を休止することがある。同様に、学期末リポートを締め切り間際に猛烈なスピードで仕上げた学生は、新しい研究課題に取り組むことに困難さを見出すであろう。
 
 比率強化で極度の疲労が起こるのは、自己調整メカニズムが働かないためである。時隔強化[長谷川注:時間給のようなスケジュール]はこれに対して、消去に向かうどんな行動傾向に対しても逆向きの強化が働く。というのは反応率が下がると、それに応じて、より少ない反応でも次の強化を受けられるようになるという事実があるからだ。変動時隔スケジュールにもまた自己維持機能がある。生活体は、所定の反応率のもとで、どういう長さの時隔のもとでも反応を安定させることができるからである。
 
【補注17】杉山ほか(1998)では、行動内在的強化随伴性は“行動に随伴して、誰かが関わらずに、自然に、好子が出現したり嫌子が消失する”、付加的強化随伴性は、“行動に随伴して、意図のあるなしにかかわらず、誰かによって、好子が提示されたり嫌子が除去される”随伴性としてそれぞれ定義されている。なお行動内在的随伴性は、杉山ほか(1998)の旧版(暫定私家版)では「ビルトイン随伴性」という訳語があてられていた。
【補注18】たとえば、小鳥をペットにして育てたとする。この場合、育てるという行動は、小鳥の可愛らしい動きやさえずりによって維持・強化されているので、好子提示による随伴性が関与していると考えられる。しかし、小鳥は1日でも餌や水をやらないと死んでしまう。そこで、どんなに体調が悪くても、忙しくても、毎日、餌やりや鳥かごの掃除をする必要がある。こうなると、餌やりや掃除は、小鳥が病気になったり死んだりすることを阻止する目的で行われることになり、言い換えれば、小鳥という好子が消失する(=死ぬ)ことを阻止する随伴性、つまり“好子除去阻止の随伴性”によって維持されるようになってくる。
 
【補注19】ルール支配行動を維持するためには、それを守ることが強化的であり、破ることが嫌悪的になるような、何らかの随伴性を付加してやる必要がある。たとえば、宗教団体は、毎週のように信者を集めて、信者たちの宗教行為を強化し、宗教に反応する行為があればそれを咎めて罰を与える。また、天国や地獄を描いた宗教画や彫刻や訓話などは、死後に随伴する(と説かれている)仮想の世界のリアリティを高める効果をもたらす。
 地球上の世界においても、環境の保護や防災や健康管理の問題などは、すべて、何十年、何百年もあとに随伴する、長期間遅延後の結果が関与している。それゆえ、日常生活の中では、環境が破壊されてしまった地域の惨状を写真で見せるとか、戦争体験者の話を直接聞くとか、成人病発生のプロセスを細かに説明するというように、毎日の行動に直接結びつくような、より具体的な結果を随伴させる工夫がなされている。とはいえ、付加的な随伴性が常に用意されるとは限らないし、付加的結果の効果の大きさは限られたものにならざるをえない。世界各地で依然として環境破壊が進むのは、目先の利益(直後の好子提示随伴性、もしくはより遅延期間の短い随伴性)が、環境保護という、遙かに長い遅延期間後に与えられる結果よりも優先的に働くからである。
 ルール支配行動は、一方で、理性的で人類の将来に有益となるような行動を強化するが、他方で、ルールの設定のネジの付け間違いがある時には、とんでもない反社会的な行動を起こすことになる。オウム真理教が起こしたサリン事件等、最近では、別世界で生まれ変わるために、ヘールボップ彗星の地球最接近日に集団自殺した「ヘブンズ・ゲート」の事件が痛ましい。宗教団体以外でも、左翼・右翼を問わず、自分たちの将来にある種のユートピアという結果を仮設して、一般市民を殺傷するような反社会的行動に走る者たちがいる。そういう意味では、無条件にルール支配行動をたたえるわけには、いかない。
 
【補注20】ここでいうインジケーターとは、自分の行動の結果が第三者によって客観的に測定できる指標を持ち合わせているかどうかという意味。例えば、体重計、体脂肪計、回収した空き缶の量、寄附金額など。こういう数量的指標があれば、自分の行動はその数値のフィードバックによって強化することができる。指標が無い場合は、周囲の励まし、宗教的権威による認証といった別のタイプの結果がなければ行動を直接強化することができない。
 
【補注21】大相撲では、若手力士が立ち会い直後のはたき込みや引き技で勝とうとするとこっぴどく批判されることがある。これは、そういう安直な勝ち方にはまってしまうと積極的に攻める技を磨くことができず結局は強い力士になれないからである。「目先の勝利」よりも「自分の型で攻める努力」のほうが評価されるという点では、ここでも「努力さえすれば結果なんて」が一定の範囲(=極端に力士の地位を下げない範囲)で成り立つ。
 
【補注22】もっともクラス全員が同じ量の練習をしたのでは相対的な順位はあまり変わらない。となれば、順位ではなく、個々人のタイムで競うというのも一案だろう。順位はいつも最下位であっても、個人記録が伸びたことに得点を与えてやれば、努力に応じた強化が可能となる。
 
【補注23】 ここに述べたことを運動会に適用していくためには、もっと多様な競技を導入していく必要がある。いまの運動会の大部分の競技は、体格のよい子が一位になれるようにできている。体の小さい子でも特技を発揮できるよう、鉄棒競技を入れるとか、縄跳び選手権をやるとか、いろいろ工夫できると思う。足の弱い子のためには剣玉選手権があってもよいし、障害児のための車椅子競争があってもよい。自分が努力したら必ず金メダルがとれるような種目を開発することが大切ではないかと思う。
 
【補注24】確かに受験勉強というのはあまり楽しいものではないし、学問の本質的な楽しみと無関係な受験技術を身につけさせたり、理解を広げることよりも成績の順位を上げることに関心が向くといった弊害があることは承知している。ただ、いかに弊害があるにせよ、最低限、「努力をすればそれなりの結果が得られる」という「精神修養」の場を提供していることは間違いない。もちろんこれは勉強だけでない。スポーツでも、各種の職人技でも一緒だ。
 
【補注25】入試に際して、抽象的に「人物」とか「個性」、「適性」などと言われても、高校生は自分がどう努力してよいのかさっぱり分からない。もしそれが生まれつき決まっているものであるならば何も努力しても無駄。相手が選んでくれるのをひたすら待つということしかできない。
 そういうことをふまえて、最近話題のAO入試や推薦入試についてより建設的な意見を述べるならば、ただ抽象的に「○○を重視」と規定するのではなく、高校生が努力の対象にできるような具体的な行動を明示してもらいたいということになる。それは別段、学校の授業科目でなくてもよい。スポーツ一般はもとより、歌や演奏、パソコン技術、さらには将棋、囲碁、チェス、オセロ、TVゲームでも構わないし、自転車による日本一周体験でもよい。アニメについてのクイズ王でも、料理選手権でもよい。何か1つでも具体的な項目を満たせば合格ということにしておけば、高校時代の努力が報われそれをバネにした積極的な活躍が入学後に期待できる。 なお最近、教員採用試験においても「学力よりも人物本位」の選考、という方針が打ち出されたと聞く。このこと自体は結構だと思うが、「人物本位」という以上は、志望者が何を努力すればよいのか具体的な行動目標を明示することが必要であろうと思う。従前のように「学力重視」と言えば志望者はそれなりに勉強に励むが、学力は最低基準を満たせばよいと言われればそれ以上の努力をしても無駄になってしまう。それに代わって何を磨くべきかが明示されていなければ、言葉は悪いがなまくら人間ばかりが残ってしまうのではないだろうか。
 
【補注26】1999年9月25日に京都大学文学部で行われた「第27回京都心理学セミナー:自己と他者--アイデンティティの根源を求めて」(企画・司会:金児暁嗣氏、講師:遠藤由美氏、北山忍氏、濱口惠俊氏)において、これらに関する有意義な話題提供があった。
 

引用文献