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スキナー以後の行動分析学(8):21世紀に行動分析をどう活かすか〜介護、福祉、校内暴力、英語教育、競争原理〜を中心に
長谷川芳典
岡山大学文学部紀要, 33, 17-32.
※本稿は岡山大学文学部紀要に掲載されたものです。引用される場合は印刷物として刊行されたものからお願いいたします。
1992年に開始したこの連載も2000年7月の刊行予定となる本稿で8回目を数えるに至った(長谷川, 1992a, 1992b, 1993, 1994, 1995, 1999; Hasegawa, 1996)。今回は21世紀への変わり目の直前にあたることから、スキナー以後の行動分析が現実の諸問題にどのように貢献できるのか、いくつかの具体例を挙げながら考えていくことにしたい。
21世紀への変わり目を迎えるにあたって、全国の国立大学でも、独立行政法人化論議を初めとして、さまざまな大学改革議論が行われている。その中で、21世紀において文学部がどういう社会的役割を担うべきなのか、どういう学生を育てていくのかという議論が重要な柱の1つになっている。本稿の目的はそれに応える狙いも含むものである。
本稿ではまず、行動科学の重要性についてのスキナー自身の主張を引用、次に、現代社会でさいきん関心を集めている「介護、福祉」、「校内暴力」、「英語教育」、「競争原理」という4つの話題を具体的にとりあげながら、これらの視点がどのように活かされるか検討を進めていくことにしたい。
1. スキナーが強調した行動科学の重要性
行動分析学の創始者であるB.F.スキナーは1953年に公刊した『Science & Human Behavior』(「科学と人間行動」、Skinner, 1953)の冒頭の2章の中で、自然科学が一方では、飢饉や疫病や重労働から人類を救ったのに対し、他方では爆撃機や核兵器を作りだし何百万人もの人々を死に追いやった点を指摘している。そして、反科学論や精神主義ではそれらを解決することはできず、行動科学の確立が急務であること、その行動科学では、人間行動そのものを科学的に分析すること、そこでは自然科学の「研究行動」、その成果を「応用する行動」自体が研究の対象になるということを強調した。
残念ながら、スキナーの提言は20世紀後半の50年間に十分には活かすことができず、いまなお戦争の犠牲者が後をたたない。これに加えて 人権抑圧、経済混乱、また近年では地球規模の環境汚染の問題など、人間の行動に起因した不幸は一向に解消されないばかりか、道を誤れば人類滅亡に至る危険さえはらんでいる。
とは言え、スキナーが確立した「オペラント行動」と「強化随伴性」のノウハウの一部は行動分析学を全く知らない人々の間でも経験的知識の積み重ねの中で独立的にうち立てられ、社会のさまざまな仕組みのなかに浸透している。特に自由主義社会では、命令による罰的な統制に代わって、補助金とか税金控除という形で、国の政策に協力すると正の強化が与えられるような仕組みがさまざまな形で取り込まれている。
しかし、経験的に得られた技法だけでは「この場面では、このような対策をとれば有効」という断片的な知識は集積されることがあっても、なぜそれが有効になるのか、どうすればさらに有効性を高めることができるのかについて体系的知識を獲得することができない。合わせて、多くの人々が知らず知らずのうちにそのような技法によってコントロールされ、不幸な破滅に導かれてしまうという危険さえある。それを克服するためにも、行動分析学についての体系的知識を人類の資産として広く普及することが望まれる。
さらに強調したいのは、行動分析学の体系的知識は、個別的な行動の強化や弱化についてテクニカルな情報を提供する役割を果たすにとどまるものではないということである。じっさい、『Science & Human Behavior』の後の章では、労働、価値、文化、倫理、宗教に至るまでの諸々の活動がどのような仕組みで強化されているのかが論じられている。総じて、我々は、科学そのものを研究するだけでは不十分、科学を研究するという行動自体、科学的成果を利用するという行動自体をしっかりと研究しなければ、地球を救うことができないというのがスキナーの21世紀に向けた提言であると受け止めることができよう。
2.具体的にどう活かすか
今回は紙数の都合により、これまでの連載で主張した行動分析学の視点のうち特に2点を強調しておきたい。現代の諸問題を解決していく上で、いっけん当たり前に見えるこれらの視点がいかに建設的な役割を果たすのかを論じるのが本稿の目的である。
(1)強化の原理
オペラント行動が継続的に生じている場合、その行動はそれに随伴する何らかの結果によって強化されているということ。「効果の法則」すなわち
ある行動が繰り返されるかどうかは、その行動の効果(結果)次第である
として捉えることもできる。
(2)結果ではなく、行動プロセスと結果との随伴に生きがいを見いだすとの視点。
この視点については連載第7回目(長谷川, 1999)で詳しく論じた。
Skinner (1990)の幸福の定義:
Happiness does not lie in the possession of positive reinforcers; it lies in behaving because positive reinforcers have then followed.
幸福(ここでは「生きがい」と同義)とは、好子(コウシ)を手にしていることではなく、それが結果としてもたらされたがゆえに行動することである
に基づくものである。長谷川(1999)でも述べたように、これは作業仮説のようなものであり、実験などの方法により検証される性質のものではない点に留意されたい。
2.1.介護、福祉
2000年4月1日からの介護保険制度実施を受けて、介護をとりまく福祉の問題が関心を集めている。『新明解国語辞典 第五版』(山田忠雄ほか, 1997)によれば、介護とは
衰弱しきった病人・けが人や重度の身障者、また寝たきり老人などに常時付ききりで、その生活全般の面倒を見ること。
と定義されている。今回施行された制度は、主として、寝たきりになった高齢者が家族・親類縁者とは異なる第三者から一定回数、一定時間の介護を保障されるための制度、それを支えるための公的負担の運用、資金調達システムを定めたものであると考えられる。「生活全般の面倒」が元来の介護であるとはいえ、予算上の制限もあることから、主たる業務は、レスポンデント(※脚注1)な意味での生命維持と不快な無条件刺激の除去に限定されてしまい、介護を頻繁に受けるだけでは生きがいを確保することは困難と言えるだろう。
※脚注1:生活体によって自発されるオペラント行動に対して、特定の誘発刺激によって誘発される行動をレスポンデント行動という。ここでいう「レスポンデント的」とは、空腹、暑さ、寒さ、排泄、床ずれ、清潔環境などに関連する諸刺激と、それによって受け身的に引き起こされる諸反応の総体を指す。
長谷川(1999)で詳しく論じた「結果ではなく、行動プロセスと結果との随伴に生きがいを見いだす」との視点は、外界に能動的に働きかける行動を強化する必要性、そのための社会的環境を保障すべきであるという提言に根拠を与えるものである。
例えば、被介護者が食べ物を欲しがった場合、好きな物を買ってきて口に流し込めば済むというものではない。車椅子で移動ができるならば、自分で商店街に出向いて品物を選択させれば、「買い物」という能動的な行動が強化される。時間がかかっても箸でおかずをつかむことができるならそうさせるべきである。現実には物理的、経済的な制約は伴うが、とにかく、「何もせずに手に入る」のが便利ではないということ、「能動的に働きかけた結果として手に入れる」機会を増やすことが生きがいをもたらすという視点を守っていく必要がある。
施設に収容されている痴呆のお年寄りの場合は、「能動的な働きかけ」を保障することにはきわめて困難な状況が伴う。1999年11月17日のNHK特集「縛られない老後〜ある介護病棟の挑戦〜」によれば、痴呆のお年寄りが入院している多くの病院では、危険につながる問題行動の発生を押さえるため、入院しているお年寄りにつなぎ服を着せたり柔道着の白帯のようなものでベッドや車椅子に縛り付けたりしているという。正確には「抑制」と呼ばれるが、実質的には入院患者の意思を無視して縛りつけているだけ。危険防止のためのやむを得ない措置というより、看護婦や介護スタッフの人手不足を補うための省力措置と言ったほうが当たっているような病院さえある。
そうしたなか、福岡県内の10病院が「抑制廃止福岡宣言」を出し、患者を縛らないことを大前提とした介護を始めた。番組の中では、オムツを自分の手で勝手に剥がすクセのある男性の改善の様子が紹介されていた。この男性は、それまではつなぎ服を着せられていたが縛られなくなったことで、最初はベッドの上に排便をしてしまい、そのたびに介護スタッフはシーツの取り替えに追われた。しかし、排便の頻度を詳細に観察記録し、便意をもよおしたことを事前に知らせる訓練を重ねることで、ついに便器で用を足せるまでに回復したのである。
抑制をしてはいけないかという理由づけについては、「縛ることは人権上問題がある」という人権意識上の原則論がある。しかし縛ることが絶対悪であると見なしてしまうと、運転時に着用するシートベルトやチャイルドシートも、パラシュート降下時のベルトも、岩登りの際のザイルもみな「縛っているから悪」ということになりかねない。縛ることがどういう権利を侵害しているのかということをもっと掘り下げて考えてみる必要がある。ここに行動分析的な視点を取り入れるならば、縛りが望ましくないのは「外界に能動的に働きかけ結果を得る」権利を侵害することにあるからだ。「オムツを外すから縛る(正確には、つなぎ服を着せる)」のが望ましくないのは、縛ること自体にあるのではない。もしそういう論理を貫くなら、オムツを外さないお年寄りはいつまで経ってもオムツをつけられたままになってしまう。本当に改めるべきなのは、オムツをつけなくても便意を表出しちゃんと便器で排便できる可能性のある人から、「能動的に働きかけて結果を得る」機会を強制的に奪うことにあるのだ。このあたりはまた、応用行動分析で積み重ねられてきたトイレット・トレイニングのノウハウが利用できるという点でも、行動分析学を21世紀に活かす一例になっている。
駅の自動キップ売り場で、視覚障害の人が点字表示をさぐりながら目的駅のボタンを押そうとしている場面に出くわしたとする。当人から特に依頼されたなら話は別だが、当人が特に希望してもいないのに、勝手にお金を取り上げて「どこの駅までですか、私が買ってあげましょう」というのはお節介すぎる。やはり能動的に働きかけて結果を得るという権利を奪っているからだ。
痴呆のお年寄りの人の場合に対しても、障害者の方たちに対しても、共通して言える望ましいサポートとは、代行者となって好子をそっくりそのまま手渡すことでは決してない。彼らが結果として好子を受け取れるように行動している機会を保障し、彼らの行動がより確実に強化されるような環境の整備に力を貸すということなのだ。介護制度がいくら充実してもこの機会が保障されなければ、ただ生かされるだけの屍にされてしまう。
「環境に能動的に働きかけ、結果として好子を受け取る」という幸福観、生きがい観は、定年退職後の健常なお年寄りの場合にも当然あてはまるものだ。長谷川(1999)が指摘したように、単なる生活資金の支給や医療費の無料化では生きがいは獲得できない。少なくとも健康なお年寄りの場合は、年金の額を倍増させるよりは、行動内在的(※脚注2)な結果が確実に随伴するような労働機会を保障することのほうが大切であると言える。
※脚注2:第三者から付加される結果(給料など)ではなく、行動することに必然的に伴って生じるような結果(作業の完成、収穫、環境変化自体など)。
2.2.学級崩壊、校内暴力など
近年、校内暴力など教育上の問題行動を抑止するために、道徳教育の充実が叫ばれるようになってきた。例えば、森・内閣総理大臣が2000年4月7日に行った「第147回国会における所信表明演説」の中では
戦後のわが国の教育を振り返れば、わが国経済の発展を支える人材の育成という観点からは素晴らしい成果を挙げてきたと言えます。他方、思いやりの心や奉仕の精神、日本の文化・伝統の尊重など日本人として持つべき豊かな心や、倫理観、道徳心を育むという観点からは必ずしも十分でなく、こうしたことが、昨今の学級崩壊、校内暴力等の深刻な問題を引き起こし、さらには社会の風潮に様々な影響を及ばしているとも考えられます。
と指摘されている。ここに引用した御発言の後半部分はあくまで可能性の1つとして指摘されているものではあるし、「思いやりの心」、「奉仕の精神」、倫理観、道徳心(※脚注3)を育てることは大いに結構であるが、果たしてそれだけで校内暴力を抑止できるものだろうか。
※脚注3:倫理や道徳の功罪については、スキナー自身、『Science & Human Behavior』の最終章29章「The problem of control」で論じており、Malott et al.(1997)もまた第26章の「Moral and legal control」でこれにふれている。
そもそも、すべての教育がそうであるように道徳教育でも必ず「落ちこぼれ」が出てくるものだ。校内暴力とか言っても、クラスの過半数がそれに関与しているわけではなかろう。道徳教育になじまない生徒こそが問題なのであって、それを抑止するためには別の手段を講じなければなるまい。でなければ、
人間というものは、「思いやりの心」、「奉仕の精神」、倫理観、道徳心などについて十分に教育しないと、学級崩壊、校内暴力等を起こすものである。
という性悪説に陥ってしまう。
これを考えるにあたっては、(1)として挙げた「強化の原理」が大きな意味をもってくる。つまり、学校内では暴力行為など具体性のある問題行動が生じているということは、何かしら強化されているという視点である。その強化因を取り除かなければ問題行動の発生は決して防ぐことができない。
2000年春に名古屋市緑区の中学を卒業した少年(15)が、在校時に同級生らに5000万円を恐喝されていたという事件が報じられていた。これを例に、上記の問題を考えてみよう。
このように多額のお金が恐喝されたということを同級生らのモラルの欠如だけで説明することは到底不可能であろう。第一の視点を取り入れるならば、被害金額が肥大化した背景には、「イヤだ」と断る権利がきっちり守られていなかった点、それと、母親を含めて被害者側が、「お金を出す」という結果を与えることによって未成年の犯罪行為を強化してしまった点を考慮に入れる必要が出てくる。
行動が強化されるプロセスには、個人が自然界に働きかけて結果を得るという「人間行動←→自然」という強化のほかに、「人間行動←→人間行動」というように複数の行動が相互に相手方の行動を強化してしまうような事例がある。
・泣き止まない赤ちゃんを母親があやす。
・それによって泣き止むという結果が生じれば、「あやす」行動は強化される。
・いっぽう赤ちゃんにとっては、「泣く」(ここでは、悲しいから泣くというより、オペラント的な意味での「泣く」を意味し、「すねる」、「ぐずる」を含む)といった行動を自発することは「あやす」ことがもたらす諸々の好子を出現させることになるので、ますます頻度が増える。
・赤ちゃんがますます泣くので、母親は一日中かかりっきりになってしまう。
というのがその一例(杉山ほか、1998、 p.35-36参照)
この種の相互強化は「社会的悪循環」とも呼ばれる。良好な人間関係を保持できない問題児が、いたずらや嫌がらせをすることで注目され、その注目自体が好子となるような事例もある。暴力団による会社や個人への恐喝も同様で、脅かしに屈して金を出すことがますます恐喝行為を強化しているという側面がある。したがって、これらを消去するためには、まず何よりも、問題行動を強化しない環境づくりが大切だ。
もっとも、脅かしに対して初期の段階にきっぱり「イヤだ」と断るためには、そのことによる逆恨みを絶対に起こさせないようなきっちりした権利保護のシステムが必要だ。
権利優先主義が学級崩壊や校内暴力の一因になっていると主張するレトリックがまかり通っている風潮もあるように見受けられるが、今回のようなケースではむしろ権利がきっちり守られないことが原因になっていることにも目を向けていかなければならない。これを保障するために、生徒たち自身がこの権利の意味を理解、実践することはもちろん、学校、家庭、地域、警察がそれぞれの持ち場において、きっちりとこれを保護していく体制を作ることが大切である。
道徳教育に関連してもう1つだけ、行動分析学的な視点の有用性を強調しておこう。「思いやりの心」、「奉仕の精神」、倫理観、道徳心などを育てること自体は大いに結構なことなのだが、それを教育の場面で形成するためには、別の側面も考慮していく必要がある。すなわち、道徳や倫理によって住みやすい生活環境を実現するためには、
人間は特定のルールに一致した行動をするものだ。あるいは「過去の言動や行動と整合性のとれた行動をするものだ。
という前提が必要だという認識である。もしこのような一貫性が無ければ、いくら熱心に教育をしても、それは状況に限定して自発される行動に終わってしまう。学校の中ではちゃんと先生にお辞儀し、ゴミはゴミ箱に、級友とは仲良くしている生徒が、いったん学校の外に出ればたちまち、ゴミはポイ捨て、気に入らない通行人にイチャモンをつけるということだってありうるだろう。思いやり精神を強調する教師が、嫌煙者の隣でタバコをふかすということも起こりうる。
人間行動の一貫性をめぐる議論については、和田(1996)が精神医学の立場から、
【分裂病と躁うつ病の2つが】人間の精神的な退行の行き着く果てだとすれば、人間のパーソナリティは分裂病に引かれやすい人と躁うつ病に引かれやすい人に分かれるはずである[p.82]。
という仮定のもとにメランコ人間(躁うつ病型)とシゾフレ人間(分裂病型)という大別を提唱し、
シゾフレ人間にとっての首尾一貫とは、今の周囲の世界に合わせることであり、メランコ人間にとっての首尾一貫は、自分のそれまでの言動や、自分の常識、自分の秩序に合わせることなのだ。メランコ人間にとっては、それまでとってきた態度を平気で変えて、周りの言っていることに何でも合わせるシゾフレ人間の言動が非常にチャランポランに見えるだろうが、シゾフレ人間にとっては、それで首尾一貫しているわけである[p.111]。
として、一貫した行動をとることについての本質的な差違がありうることを指摘した。しかし、社会一般の諸々の行動特性を考える比較軸を設けるだけであるならば、「メランコ人間」は「原則堅持型人間」、「シゾフレ人間」は「柔軟対応型人間」と置き換えれば済むこと。精神医学的な背景は必ずしも必要ないように思える。
行動分析的視点から見れば、「原則堅持型人間」とは、「特定のルールに一致した行動をすること」、あるいは「過去の言動や行動と整合性のとれた行動をすること」というように、自己のルールや過去に一致すること自体が強化的になっているような人間、「柔軟対応型人間」とは、周囲の状況に一致すること自体が強化的になっているような人間として捉え直すこともできる。この場合、好子(正の強化子)の所在が「自己のルール」か「周囲」かというように異なることは確かだが、人間の精神的な退行の行き着く果てが何かということまで論拠を求める必要は無くなる。
ところで和田(1996)はこの2つのタイプの人間が
国が勃興期で、頑張れば頑張るほどいい暮らしができるが、頑張らないと貧乏しなければならない時代→メランコ人間が増える
国が非常に貧しく食うや食わずの時代、あるいは非常に豊かになってみんなと同じでも食べていける時代→シゾフレ人間が増える
というように時代により変化する可能性を指摘している[p.115〜116] 。この仮説は今後の検証を待つ必要があるが、行動分析的に捉え直すならば、個人の一貫した努力に対してその社会がどういう結果を用意しているのかということはその国の経済発展の度合いなどによって異なることは間違いない。用意される随伴性が異なれば、「原則堅持型」の行動と「柔軟対応型」の行動が強化される度合いも当然変わってくる。結果的に、勃興期や国の変革期には立志伝や国の変革に命を捧げる行為が尊ばれる一方、経済が発展・安定し価値観が多様化してくると「原則堅持型人間」はむしろ融通のきかない頑固者としてケムたがられるようになるというのはありうることである。具体的には、
・建国の父とか革命の指導者が国民から崇拝される国→前者
・原則論を振りかざして特定の政治理念を頑なに守ろうとする政治家よりも連合政権の離合集散、新党結成、政党間の移籍などに柔軟に対応できる政治家のほうが国民の支持を集める国→後者
と言えよう。
元の話題に戻るが、「柔軟対応型」の行動が強化されやすい社会環境のもとでは、いくら道徳教育に力を入れても、その成果は学校内、あるいはその授業の時間中だけで発揮される可能性がある。もしそれを避けようとするなら、より多様な場面において、まず、他所や過去に生じた行動と一貫した行動をとることが強化されるような仕組みを整備することが先決である。
2.3英語教育
国際社会への貢献が取りざたされる中で、近年、英語教育の重要性が強調されている。小学校段階から英語教育を導入する動きのほか、「21世紀日本の構想」懇談会の答申の中に盛り込まれた「英語を第二公用語とすることも視野に入れる必要がある」という提言、また企業の中には、英語検定試験の成績を昇進の条件として定める企業も出てきた(※脚注4)
※脚注4:2000年2月22日の朝日新聞記事によれば、IBMは2001年3月から、課長相当職以上の場合はTOEICで600点、次長相当職の場合には730点以上を昇進の条件とすることを決めたという。このほか、課長職などに検定試験の定期的な受験を義務づけている企業も多い。
そのいっぽう、中学、高校で6年間も英語教育が行われながら、日本人の多くが英語を上手に話せない、あるいは書けないという点については、しばしば指摘されているところである。これについては、日本語と英語の文法上の違いなど複数の要因が絡んでおり、教育場面で劇的効果を得るような改善をはかることは困難であろうとは思われるが、行動分析学からは次のような視点を提供することが可能である。
それは、「英語を話す」、「英語で書く」ということも1つのオペラント行動であるとの認識。「強化の原理」の視点に基づいて体系的に得られた以下のような諸技法を適用していくことが可能だ。
いっぱんにオペラント行動の自発頻度を高め精緻化するためには、シェイピング、分化強化、分化弱化などの技法が有効とされている。その前提としてはまず曖昧・不定型のものを含めて関連する一連の反応クラスが一定頻度以上に生じることが不可欠である。
一例として、箱の中のネズミに
室内の照明が明るい時だけ、壁から突き出ているレバーを10回押して餌を得る
という行動を形成させるにはどうしたらよいか考えてみよう。オペラント条件づけの教科書を見ればすぐに分かるように、これは正の強化、つまり、ネズミが基準を満たした直後に餌を提示するという条件づけによって実現させることができる。
しかし、何の学習経験も持たないネズミを箱の中に入れて、いきなりこの複雑な基準(=「照明が明るい時にレバーを10回押せば餌が出る」という随伴性)に晒したところで、まず成功の見込みは無い。ネズミは最初のうちは箱の中を動き回り探索したり出口を探したりするかもしれない。偶然にレバーにぶち当たって回路のスイッチを閉じることもあるだろうが、10回続けてぶつかることは無いので、まず餌は出てこない。そのうち隅のほうでうずくまって居眠りをするに違いない。
ではどうすればネズミを訓練することができるのか。それにはシェイピング(shaping)の手続がぜひとも必要だ。
・シェイピングの第一段階では、ネズミがレバーが設置されている壁面に近づく方向に少しでも動いた時に餌を提示する。こうするとレバーのある壁面に近づく行動が次第にたくさん自発されるようになる。
・そこで第二段階では、壁面のどこでもよいから、ネズミが前足を触れた時に餌を出すようにする。これによって、壁面に足をかける行動がたくさん自発されるようになってくる。この時には1.の条件を満たしただけではもはや餌は出ない。
・さらに第三段階では、壁面の中でもレバーの部分に足を触れた時だけ餌を出すようにする。
・第四段階では、ネズミがレバーを一定以上の力で押さえた時だけ餌を出す。
・第五段階では、レバーを押した瞬間ではなく、「押して、離した瞬間」に餌を与えるようにする。この手続を怠るとレバーを押しっぱなしにするネズミが出てくる。
以上のようなシェイピングを経て、レバー押しが頻繁に自発されるようになった段階で、今度は、レバー1回ではなく、3回、5回、10回というように一定回数だけ押した時だけ餌を与えるようにする。これができるようになった後で初めて、「明るい→餌あり」、「暗い→餌無し」という弁別訓練に入るのである。
以上の訓練で大切なことは、少なくともシェイピングの初期の段階では「誤反応」であっても強化するということ。初めから、誤反応と正反応の区別をするのではなく、よく似た反応がたくさん起こるように強化し、反応が頻繁に生じるようになった段階で適切な部分だけを分化強化し、さらには手がかりとの対応関係(=弁別)を学習させていくということである。
さて英語教育の場合は、どうだろうか。学校で教わるということもあって、誤反応には学習の初期の段階から罰(=テストで減点される、先生から矯正されるなど)が与えられる。このことが結果的に、「話す」、「書く」という反応全般を自発しにくくしている可能性がある。一定以上の頻度で反応が自発されなければ、分化強化や弱化の技法によりそれを精緻化することも困難。このことが、「英語を話せない」、「英語を書けない」日本人を作っている可能性がある(※脚注5)。
※脚注5:英語を日本語に訳す課題の場合には、最終的には「訳された日本語」、つまり英語ではなく日本語を「話す、書く」という反応が要求される。日本語を話したり書いたりする時には、文法上の誤りを指摘される頻度は相対的に低く弱化されにくい。日本語と英語の文法上の違いがあるにも関わらず、英文読解や英文和訳がそれほど苦手とされないのはこの理由によるものと考えられる。
この「話す」、「書く」反応の自発を弱化する仕組みは、海外旅行や学会発表で英語を使おうとする時にも常につきまとう。これはおそらく「誤反応は恥である」という日本人特有の自己強化・弱化スタイルにも影響されている可能性がある。そして、ヘタな英語、あるいは文法的に間違った英語を使う人をバカにするような風潮(=誤反応を弱化する社会的な随伴性)が、「話す」、「書く」行動全体を抑え込んでいるのである。
ではどうすればよいか。一口に言えば、間違った英語を使ってもそれをけなしたり、罰を与えたりしないことだ。その方策の1つとして、日本人が誇りをもって使える「日本型英語」を推奨するということが考えられる。
「日本型英語」の基本は、日本人が使う英語表現は「常に正しい」と見なすことだ。もしそれが文法的に間違っていたとしても誤りとはしない。そういう表現が「日本英語」に含まれているのだと考える。 1つの日本語の文に対しては、正規の英語表現も「日本型英語」による表現もどちらも許容される。正規の英語表現を知っている人はいくらでもそれを使うことができるが、「日本型英語」を使ったからと言って蔑まされることは決してない。
「日本型英語」がネイティブな英語と異なっているために英米人に伝わりにくい場合、あるいは誤解を与える場合がある時は、それを「正す」のではなく、むしろ英米人側に日本型英語特有の表現について理解を求めていく。このようにして、多くの英米人を前にしても文法的な間違いに気兼ねすることなく、自信を持って「日本型英語」が使われるようになれば「話す」反応や「書く」反応が多発されることで結果的にネイティブな英語に近い表現を身につける機会も増えていくものと予想される。 もちろん「日本型英語」をずっと貫いていってもよい。和製英語は誤りなのではない。日本語文法の特徴に依拠した独自の日本型英語なのだと考えてもよいではないか。
このように「自分が使う日本型英語は常に正しい」と考えていくことに対しては、それでは、個人個人がそれぞれ好き勝手に固有の表現を使うことになって言語としては成り立たず意思の疎通が図れないのではないかと考えるむきもあるだろう。しかし、もともとネイティブな英語でろくに意思の疎通が図れないなら同じことではないか。それと言葉というのは、コミュニケーションのやりとりの中で自然に共通化が進んでいく特徴をもっている。まずは何でもよいから自発することだ。
もともと、ネイティブな英語と言っても、イギリス英語、アメリカ英語、オーストラリア英語ではかなりの違いがある。パンツ(pants)とかベスト(vest)の使われ方を見てもわかるし、haveとかdoの使い方にもいろんな違いがある。これらはイギリス起源の英語がアメリカ大陸やオーストラリア大陸で使われていく過程で、日常生活に都合のよいように変容していったものであり、米語をイギリス英語の誤用と考える人は居ない。従来、日本人が使う英語には日本語起源の特有の「誤り」があると指摘されてきた。日本語起源であるならば、個々の日本人が使う「日本型英語」にも共通した特徴が含まれているはずである。みんなが「日本型英語」を使えば使うほどその共通の特徴が法則化されていく。英米人もそれを把握した上で日本型英語を理解するようになるだろう。
では学校の英語教育では、このことからどういう改善が可能だろうか。上に述べたように、少なくともシェイピングの初期の段階では「誤反応」であっても強化するということ、初めから、誤反応と正反応の区別をするのではなく、よく似た反応がたくさん起こるように強化し、反応が頻繁に生じるようになった段階で適切な部分だけを分化強化し、さらには手がかりとの対応関係(=弁別)を学習させていく必要がある。これを活かすためには、生徒が誤反応を自発しても決して弱化しないことだ。例えば英語の小テストで英作文問題を10題しか出さなかったとすると、10題中4題の解答に誤りがあれば最大40点分が減点されるが、これは誤反応を弱化したことになるので望ましいテストとは言えない。むしろ、100題とか200題というように制限時間内には決して全問解けないぐらいのたくさんの問題を出して、(ここではネイティブな英語文法からみて)正しくできた解答の数をそのまま点数とする。満点というような上限は設けない。もちろん減点もしない。こうすれば、英語で書く、話すという全般的な反応(誤反応を含む)の自発を弱化する恐れは小さくなるはずである。
以上の英語教育についての提言はあくまで可能性を示唆しただけであって、その有効性は今後の検証に委ねられる。現段階で少なくとも言えることは、英語教育の中に適切な強化随伴性が設定されていなければ、ただやみくもに授業時間を増やしても必ずしも上達は期待できないということ。上達できるのは、最初から正反応の出現比率が高い「優秀な」生徒に限られるであろう。
2.4.競争原理
さいきん、戦後の「機会の公平のみならず結果の平等を追求する平等至上主義」を廃し(讀賣新聞, 1999年元旦社説)、自由主義経済環境はもとより、企業内人事でも大学間においても積極的に競争原理を導入しようという論調が強まってきた。平成10年10月26日付けの大学審議会答申のタイトルでも「21世紀の大学像と今後の改革方策について(答申)−競争的環境の中で個性が輝く大学−」というように副題に「競争的環境」という言葉が用いられるようになった。
競争原理を肯定する国内の代表的な論調は、堺屋・渡部(1996)にみることができる。それによれば、競争の原理は、生命発展の不変の原理であり、競争がなければ進歩はなく、進歩がなければ生き残れないということが、この世の宿命として主張されている。
しかし、ひとくちに競争原理といっても、それを社会全体の進歩に関連づけるか、個人の生き方に関連づけるかによって見方は変わってくる。おおむね次の3つの基本的立場があるように思われる。
・進歩のために競争は不可欠であるというように、競争の存在を是とする立場。
・競争を肯定も否定もしないが、とにかく現実に競争がある以上、そこで生き残れるように頑張ろう、というような形で処世術を説く立場。
・進歩の根源は競争ではない。結果として生き残ったものの良さばかりを見てしまうことによる錯覚にすぎない。競争の無い社会をつくり、自己努力の中でお互いに進歩していこう、というように競争を否定する立場。
競争原理を行動分析学的にとらえる前に、「競争が進歩をもたらすかどうか」について考慮しておかなければならないことがある。競争原理の有効性の論拠として自然選択(natural selection自然淘汰)の問題がアナロジカルに引き合いに出されることがあるが、実際には自然選択の結果が常に進歩をもたらすとは限らないという点だ。
たとえば、ある草原に何種類かの草花があったとする。もしこの地域が砂漠化していったとすれば、乾燥に強いサボテン型の草花が生き残るだろう。またもし次第に木が生えて日陰が多くなってきたとすれば、蔓性の草花が生き残りやすい。その他、病害虫への強さ、温度変化への強さ、種の数や散らばり方などさまざまな要因が関与し、10年後、100年後の生き残りが決まっていく。100年後の草原の姿が今より進歩した姿かどうか、これは何とも言えない。
この問題に限らず、そもそも何をもって進歩とするのか、進歩は単一の物差しで測れるものなのか、といったことをきっちりしておかないと「競争原理」に依拠した議論は進まない。
さて、「競争原理」は人間行動をダイレクトに制御する要因なのだろうか。行動分析学的に見れば否である。「競争原理」が個人の行動や集団の活動をしばしば高めるのは、「〜すれば現状が維持される。〜しないと現状が失われる。」という「好子消失阻止」や、「〜すれば平穏。〜しなければ破滅」という「嫌子出現阻止」の随伴性が有効に働くためと考えられる。
例えば、競争環境に晒されていない企業は、需要に見合った分だけ物を生産し、コストに一定の利潤を付加して販売すれば、何代にもわたって経営者や社員の生計を維持することができる。ところが、ライバルの企業が表れると、コストを下げかつ製品の質をいかに高めるかという努力が要請されるようになる。それを怠ると企業は倒産し、生計を維持できなくなる。これがまさに、「〜すれば現状が維持される。〜しないと現状が失われる。」という「好子消失阻止」の随伴性である。
このように、競争原理は、技術開発を促進し、結果として消費者の利便性を高める。しかし、その反面、それが表に出にくい場合には「手抜き」の一因にもなる。1999年9月30日に茨城県東海村で起こった臨界事故がその一例。作業工程上に違法な「裏手順書」があったほか、被曝者の救出にあたって消防署に放射能事故であることが伝えられていなかったこと、付近住民への退避勧告が大幅に遅れたことなど、人間行動の管理・制御の面での欠陥が次々と明るみに出たことは記憶に新しい。
ではなぜ安全管理面での「手抜き」が起こりがちなのだろうか。それは、競争というものが行動のプロセスではなくプロダクトを評価する宿命を背負っているからである。何かを製造する場合、勉強をする場合、スポーツ競技の場合、どれをとってもそうだが、「行動とその結果」を細かく見ていくと、行動のプロセス(製造工程、安全管理、勉強の努力、練習など)が評価(あるいは強化)される場合」と「行動のプロダクト(成果、生産物、成績、勝敗など)が評価(あるいは強化)される場合」に分かれることに気づく。資本主義社会では特にプロダクトの質と価格が決定的となる場合が多い。大相撲の力士のように、一生懸命ケイコをするというプロセスが本場所の勝敗というプロダクトに直接跳ね返る場合には「手抜き」は生じにくい一方、プロダクトに直接反映しないようなプロセスは出来る限り省力化されていく。このこと自体はコスト削減と大量生産をもたらすという点で決して悪いとは言えないのだが、同時に、いま述べたような安全管理を怠りやすい状況も作り上げてしまう。東海村の臨界事故も結局はコスト削減に起因していたと指摘されている。
上に引用した「機会の公平のみならず結果の平等を追求する、平等至上主義」批判に対してもう少し補足しておく。いまのプロダクトとプロセスの問題を重視するならば、「結果」や「成功」がどのような努力によってもたらされたものであるのかについて、もっと細かく見ていく必要があるように思う。
ひとくちに金持ちと言っても、「努力して成功した人々」と親の資産を機械的に受け継いで「働かなくても贅沢ができる」人々が居ることは事実だ。讀賣新聞が1999年元旦の社説で主張した「高すぎる相続税」や「累進税率」の改革が前者の人々の努力を正当に評価する結果を与えることは確かであるが、後者の人々も同じように優遇してしまう可能性がある。
さらに、「成功者」でない人々についてももっと細かく見ていく必要がある。成功者でない人々は決して努力していない人々ばかりではない。改善されてきたとは言え、農業政策の変更や環境破壊の犠牲になり「働けども働けども楽にならない」人々が依然として存在していることは事実であるし、産業労働社会にあっては、企業の倒産のように、一個人がいくら努力しても結果が報われないケースもある。
結果として得られたものをすべて平等に再分配してしまうことは誤りであるが、だからといって、「大きな結果=成功者」、「小さな結果=失敗者」とは必ずしもならない。生じた結果ではなく、それに至るプロセスが評価されるようなシステム、つまり「行動し、それに応じて結果を得る」システムを如何に保障していくかを検討していくことが大切であろうと思う。
以上「競争原理」の効用と限界について述べてきたが、反面、競争をすべて否定してしまうという風潮が一部の教育現場にあることも批判的にとらえていく必要がある。長谷川(1999, p.82)では、小学校運動会のリレー競走を例に、努力に応じて結果が伴うような随伴性の導入の意義を強調した。
要するに、競争原理自体が良いか悪いかを論じるのは不可能。競争原理というのは、異質で多様な価値観が競い合い、時には発展的に衝突を解消することによって質的な進歩をとげる可能性のある場面においてのみ有効に機能する。同質な価値観が支配する単色の世界の中での競争は、単に勝者と敗者、強者と弱者を生み出すだけで、結局は勝者が自分の権益を保持するための「弱者に文句を言わせない道具」にしかならない。このことをふまえた上で、努力が正当に評価されるような競争を導入する一方、別の不適切行動が付随的に強化されるような競争は改善もしくは排除していくという姿勢が肝要だ。このあたりを正しく区別するためにも、行動随伴性の原理を正しく適用する必要がある
3.心理学における基礎と応用のありかた
以上、行動分析学の視点のうち、強化の原理と、プロセス−結果重視の生きがい論の2つを強調しながら、現代社会でさいきん関心を集めている諸問題として、「介護、福祉」、「校内暴力」、「英語教育」、「競争原理」という4つの話題をとりあげ、これらの視点がどのように活かされるか検討を進めてきた。
「介護、福祉」のなかで論じた「結果ではなく、行動プロセスと結果との随伴に生きがいを見いだす」という視点はあくまで作業仮説である。介護、高齢者に限定せず、さまざまな職業、年齢、地域のなかでその仮説に合致する形で生きがいが実現しているのかどうかは今後の調査・観察研究に委ねられている。
「校内暴力」の問題は、社会的悪循環を断ち切るための権利保護を重視するとともに、現在の日本で「自分のそれまでの言動や、自分の常識、自分の秩序に合わせる」という行動がどう強化される状況にあるのか、注意深く見守る必要がある。
「英語教育」の中で述べた「日本人が誇りをもって使える日本型英語」の有効性についてはあくまで仮説の段階。じっさいにこういう形で英語力の上達がはかれるのかどうか、実験的にも検証していく必要がある。
最後の「競争原理」については、競争によって用意される種々の行動随伴性の特質、どういう行動を強化するのか、プロセスとプロダクトのどちらが大切であるのかといった問題について啓蒙を行い、議論を活発にしていく必要がある。
今回取り上げた行動分析の視点はごく一部のものである。これ以外にも、義務的行動の起源をめぐる問題(長谷川, 1999参照)、ルール支配行動関与の問題(Hayes, 1989)、確立操作の問題(Michael, 1982)など、行動分析学が21世紀に向けて発することのできる知見は広範囲に及んでいる。
最後に、こうした視点を現実の問題に取り入れるにあたって、大学という教育・研究機関が果たすべき役割について考えてみたい。
これまで心理学者たちの一部には心理学を「基礎的なもの」と「応用的なもの」に分け、研究分野の「棲み分け」を狙う風潮があった。これは「基礎心理学会」、「応用心理学会」といった国内学会の名称、また岡山大学文学部の改組以前にあった「心理学講座」、「社会心理学講座」という名称にも反映されていた。そうした棲み分けの前提には、数学、物理学、化学、生物学など自然科学諸分野と同様、基礎分野においてまず独立的に一般法則を定立し、その成果を現実の個別的状況に適用することが科学的な応用につながるという期待感があったように思われる。
しかし、長谷川(1998)が強調したように、「実験」という基礎的な方法1つをとっても、実験操作の段階から結論を導く段階に至るさまざまな点で、物理、化学、生物などの実験と本質的な差違があることを忘れてはならない。それは、「文脈によって変わる刺激」、「多数の要因の同時関与」、「定義のあいまいさ」、「極度の単純化、人工化への警鐘」といった人間行動を対象とする際の特殊性に依拠するものでもあるし、もっと根源的に、行動科学における理論や法則は要請の範囲で構成されるものであり、要請から独立した一般抽象理論などというものは意味をなさないとの宿命を背負っているためでもある。
それゆえ、基礎的研究と称して人工的な実験環境の中だけで何年、何十年と一般法則を追求しても結局は現実から遊離した閉じたモデルの中だけのパラメターの組み替えだけの「検証」に終始し、ヘタをすれば「理論のための理論」、「思考ゲーム」だけで役割を終えてしまう恐れが大きい。
もちろん、今回本稿で言及した行動分析学の諸原理も、もともとはネズミやハトを被験体とした実験的行動分析の中で定式化されたものではあるが、それらは決して「動物でもこういうことがあるから人間でも」というアナロジーによって人間に適用されたものではない。現実社会の人間行動への当てはめを通じて予測と制御の有効性が確認されるなかで受け入れられていったものなのである。1.に述べたように、行動分析学がもともと「科学技術の進歩」を人類福祉に役立てるための科学として創始されたことを考えるならば、基礎か応用かといった区分は今後ますます無意味なものになってくるであろう。繰り返し言うならば、
基礎分野で示唆された原理は、基礎分野の中では決して検証しえない。現実世界での適用可能性や有効範囲を確認していく中で、「法則のパワー」として実践的に検証されていくものである。
という視点を持ち続けることが大切であると考える。
.引用文献
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