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スキナー以後の行動分析学(9)
「大学力を創る」ための行動分析
岡山大学文学部紀要, 34, 77-106.
 
 
長谷川芳典


本稿は岡山大学文学部紀要に掲載されたものです。引用される場合は印刷物として刊行されたものからお願いいたします。
 
1.はじめに
 
 本稿は、近年大学教育改革の柱の1つとして全国の大学で議論の高まりを見せている「Faculty Development」の推進にあたって、行動分析の知見からどのような整合性のある提案が行えるか、検討を加えるものである。
 これまでの大学教育改革は、(1)文部省あるいは関連審議会の答申の具体化、(2)教育現場からの体験の集積、(3)外国とりわけ米国の教育システムの参照、といった多方面からの提案を集約し合意を形成することにより行われてきた。しかしその合意は、学内教員の個々の成功あるいは失敗体験に依るところが大きかった。すなわち具体的な提案が出されるたびに、それが自己の教育経験や学生時代の体験に照らし、有効であると判断できれば賛成、効果なしあるいは有害であると判断された場合には反対を表明する。そして、それらの集約に基づいて、合意の形成された部分から先に改革が推進されることになる。
 もちろん、すべての検討課題が、経験的知識の一致に基づいて合意されていくのであれば問題は無い。しかし中には、分野の違いが異なる経験をもたらし、その個々の経験の一般化にとらわれるあまりに主張が相反する方向に分かれる場合もある。また、検討される内容がいまだかつて導入されたことのない新しい仕組みを含むものである場合には、実践経験は活かされず、時として、提案の直感的分かりやすさや一般常識化した固定観念にとらわれたり、逆にポピュリズムに流されたり、ちょっとしたキャッチフレーズあるいはレトリックに引きずられて可否が決せられる可能性も否定できない。
 このような混乱は大学や学部の教育理念がしっかりと定められていてもなお起こりうるものである。なぜなら、目標に到達する手段は通常何通りもあってしかるべきであり、どの道が有効かという議論は、経験科学の成果を取り入れない限り不可能であるからだ。
 本稿は、行動分析の基本原理に照らしながら、いま全国の大学で提案されている種々の改革の中からいくつかの話題を選び◆1、それぞれがどういう効果をもたらすものであるのかを統一的に論じることを目的とする。もちろんこれ以外の視点があってもよい。重要なことは、目標理念だけでは不十分であるということ。達成するための種々の施策を検討するにあたって、施策の有効性を議論するための一貫した「実行原理」の必要性を認識しそれに基づいて合意をはかることである。
 
 行動分析の創始者のB. F. スキナーが最初の著書である『The behavior of organisms: An experimental analysis.』(Skinner, 1938)を公表して以来、行動分析は、基本原理とテクニカルな応用の両面において、教育分野に大きく貢献してきた。このうち後者の応用面については、ティーチングマシンの開発、Holland & Skinner (1961)によって自ら実践されたプログラム学習教材の開発、教授法改善などに見ることができる。現在さかんに開発が進められているインタラクティブなパソコン教材なども、多かれ少なかれその成果を取り入れていると言うことができるだろう。
 本稿ではしかしながら、それらに細かく言及する代わりに◆2、より基本的な原理に注目し、現在大学教育改革の中で具体的に提案されている諸課題をダイレクトに扱うことに紙面を割くことにする。
 
 行動分析の概念的枠組や基本原理については、本連載「スキナー以後の行動分析学」の中で繰り返し取り上げてきた(長谷川, 1992a, 1992b, 1993, 1994, 1995, 1999, 2000 )。本稿では紙面の都合から、特に重要と思われる6点だけを次章で考察し、残りは本文中に下線をつけるのみで説明を省略した。これらの用語法はとくに断らない限り、本連載「スキナー以後の行動分析学」の(1)〜(8)および、杉山・島宗・佐藤・マロット・マロット (1998)による『行動分析学入門』に基づいているので、そちらを参照されたい。
 
2.行動分析の基本原理をどう活かすか
 
 行動分析の基本原理を大学教育改革に活かす議論を進めるにあたって、初めに、「行動」、「随伴性」、「人工的強化自然強化」、「価値と習得性好子」、「先延ばし」、「強化スケジュール」という6つの概念を明確にしておく。
 
2.1.Behavior 行動
 行動分析で対象とする行動は、環境への能動的な働きかけとなるオペラント行動が主体となる。以下の議論では、生理学的な意味での筋肉や腺の活動や、パヴロフの犬の唾液分泌のように反射的に誘発されるレスポンデント行動は含まれないものとする。
 行動と非行動を区別する基準として「死人テスト」がある。死んだ人でもできるような受身形(「殴られる」など)や否定形(「動かない」など)は行動とは見なされない。例えば「授業に出ない」というのは死人でもできるので行動とは言えない。「授業に出る」というのが行動であって、それが起こらない状態が「授業に出ない」という意味になる。この基準はいっけん言葉遊びのように見えるが、問題行動を改善する際には決定的な違いをもたらす。もし「授業に出ない」を行動に含めるのであれば、「授業に出なければ罰を与える」という対策を可能性の1つとして挙げることができる。それに対して「授業に出る」だけを行動と見なす立場は、「授業に出る行動をどうやって増やすか」のみに関心が向けられるからである。
 「行動」はまた、常に具体的に定義されることが必要。例えば「やる気を出す」というのは具体性に欠けるので行動とは言えない◆3
 
2.2.Contingency 随伴性
 個体によって自発される行動は環境に何らかの変化を及ぼす。この時の、直前の条件と行動と直後の変化との関係を記述したものを随伴性行動随伴性)と呼ぶ。
 行動分析の最も基本的な視点の1つは、効果の法則、すなわち「行動は結果に左右される」と考えることにある。すなわち、目的が何であれ、意欲や熱意がどうあれ、善行であれ犯罪であれ、その行動がたくさん起こっているときには、そこに何らかの結果(刺激、出来事、条件)が随伴していると考える。その随伴のしかたには、好子出現嫌子消失好子消失阻止嫌子出現阻止という4通りの強化に分類される。ちなみに、「行動→結果」の随伴は、物理化学的な因果法則によるものとは限らない。第三者によって人工的に付加される場合(2.3.参照)もあるし、まったく偶然に伴い迷信行動を生み出す場合もある。
 結果の随伴を基本とした説明は、行動があまり生じない場合にも適用される。行動が生じない第一のタイプは、伴う結果があまりにも小さすぎたり、稀にしか伴わない場合。第二は、何らかの弱化により抑えられている場合であり、細かくみると好子消失嫌子出現好子出現阻止嫌子消失阻止という4通りに分けることができる。第三は、競合する別の行動がたくさん生じている場合。現実の世界では人間は多数の随伴性に同時に晒されており(並立随伴性)、例えば車の運転と散歩と水泳が同時にできないように、時間的空間的にみて、1つの行動がたくさん生じることで別の行動ができないというケースも多い。
 以上に述べた随伴性は、学生の勉学行動、教員の教育活動、学生と教員とのインタラクション、のすべてにおいて検討されなければならない。すなわち、学生の勉学が停滞している場合、その原因を「やる気の無さ」にしてはならない。日々の勉学行動に対して結果が十分に伴っているのか、競合する行動が強化されすぎていないかという点に目を向けるのが行動分析の視点と言えよう◆4。教育活動も同様であって、教員の「自覚」や「熱意」に頼るのではなく、教育活動にどういう結果を随伴させるのかが課題となる。さらに、学生と教員は、授業、質問、発表、成績評価などを通じて、常に結果を与え合う関係にある。教育の理念や制度がどうあれ、そのもとで生じる行動はすべて結果に左右されること、だからこそ、どういう結果がどのように随伴するのかを分析し、必要に応じて改善することが求められるのである。
 
2.3.contrived contingencies and natural contingencies 人工的強化と自然強化
 一部の教育関係者が行動分析に対していだいている根強い誤解の1つに
行動分析は、エサや飴で釣ろうとしているだけではないか?
というのがある。よく引き合いに出されるのが、
お絵かきをご褒美で強化された子どもたちは、何もご褒美を与えなられなかった子どもたちに比べて、自発的に絵を描かなくなる(お絵かきが好きにならない)
という「内発動機づけ」の実験(Deci, 1975参照)であり、そこでは強化説が否定されたなどと説明が加えられている場合がある。しかしこれは、強化人工的強化だけに限定してしまった完全な誤り。どのような行動も程度の差こそあれ、その行動をすること自体で必然的に生じる結果を伴うものである。例えば、ブランコに乗れば、揺れ自体がそれを強化する。上記のお絵かきも、紙の上に絵の具をたらしたりクレヨンでこすること自体が、描かれていく絵や作品の完成によって強化されていくのである。ご褒美が魅力的であれば絵を描く喜びが相対的に薄められるのは当然であろう。
 
 行動分析で定義されている好子には、ご褒美ばかりでなく、絵を描くことによる画用紙上の刺激変化や完成の喜びも最初からちゃんと含まれている。但し、それらは出現のしかたによって2通りに分類できる。すなわち、ご褒美のように第三者が人工的に与えられる人工的強化と、行動することに自然に好子が伴うという自然強化◆5である。
 
 教育場面において、好子が自然に随伴するような行動に対しては、わざわざ人工的に好子を付加する必要は全くない。というか、そのような行動はわざわざ教室で教えなくても勝手に夢中になるものだ。スポーツ、音楽鑑賞、魚釣りなどがそのよい例である。
 
 種々の学問も、ある程度まで究めれば自然に好子随伴するようになる。それは一般に、学ぶ楽しみ、知る喜び、未知を解明する喜び、昨日より上達した喜び、何かが操作できるようになった喜び、新しいものを創造する喜び◆6などと言われる。しかし、そうした喜びを知るためには、基礎的な技能をしっかりと習得する必要がある。算数の分からない者には数学の定理を証明する喜びは分からないし、英語のできない者にはシェイクスピアの作品の面白さを味わうことができない。無味乾燥な基礎技能に適切な大きさの好子を人工的に付加することが教育の1つの役割ということになろう。この点についてSkinner(1985, 1987)は次のように指摘している。
 教育に課せられている仕事は、卒業後の日常生活や職業生活において、ゆくゆくは強化的な結果をもたらすような行動のリパートリーを作り上げてやることである。その間にあって、教師は一時的な教育上の随伴事象を与えてやるのであるが、その一部は社会的なものである。.....【中途略】.....日常生活における自然な好子を利用しようという努力は、読み、書き、算数というよく知られている基礎技能の習得を犠牲にしてきた。というのも、この三つの基礎技能に対する自然的な好子は、まったく存在しないからである。読むことのできる生徒は、著者が著作のなかに盛り込んだ好子に接するようになるが、それでも、ある程度流暢に読めるようになるまでは、その好子に接することはできない。したがってさしあたっては、付加された好子を用いればよいのである。教室での統制のとり方やプログラム教材の適切な構成方法を理解している教師は、成功や進歩のしるしといった無条件性好子◆7を利用することができる。こうして作られる行動のリパートリーは、授業が終わったときに、楽しくかつ強化的な結果をもつようになるだろう。
(訳は岩本他[スキナー、1996、42頁]による。但し、本稿の用語の統一をはかるため、「正の強化子」という訳語は「好子」、「工夫された強化子」は「付加された好子」に置き換えた)。
 「読み、書き、算数」の事例からも分かるように、上に引用したスキナーの主張はどちらかと言えば高校までの教育を念頭に置いたものと言える。大学生に対してまで初等教育と同じように「はなまる」や「シール」で人工的に強化すべきだと言っているわけではもちろんない。しかし、大学での勉強が最初から自然に随伴する好子だけで強化されていないということは、授業中の私語やサボりなどを見れば一目瞭然である。学問に内在する好子は、TVゲームほどたやすくかつ高頻度では出現しないものである。適度に人工的に好子を付加し、必要に応じて好子消失阻止随伴性で義務的統制を行うことが教師の重要な役割ということになる。
 
 
2.4.value and learned reinforcer 価値と習得性好子
 行動分析の代表的な教科書である『Elementary principles of behavior.』(Malott et al., 1997)において、マロットは、科学には実用的な価値とは別に理論的な価値があることを強調している。
【科学には】たとえそれが世界を救うのに役立たないとしても価値がある。この考え方では、科学は芸術とか音楽と同列に論じられる。世界を救うために大きな貢献をするわけではないが、世界をより住みよい場所にし、その結果、世界をより救うに値するものにするのだ。芸術が芸術自体のためにあるように、科学的な知識を手にすること自体が目的である。(訳は杉山ほか, 1998, p.364による)。
 こうした価値を既成の学問の中から引き出し、さらに自らの手で創出できるように手ほどきをすることが大学教育の重要な目的の1つであることは言うまでもなかろう。
 
 ところでこの価値は、Malott et al.(1997)の教科書巻末のグロサリーでは次のように定義されている。
Value価値:Learned and unlearned reinforcers and aversive conditions. 習得性好子または習得性嫌子。
 この定義はあまりにもあっけなく、読む人によっては「価値を侮辱するもの」、「価値概念の価値を低下させるもの」と受け止めかねない恐れがある。
 しかしこの定義は、世の中の何に価値があるのかには一言も触れていない。あくまで、
世の中に存在する価値は、一般の習得性好子や習得性嫌子と同じプロセスにより、経験を通じて形成される。
ということを意味している。つまり、価値の中身を規定しているのではなく、価値の作られ方を述べているにすぎないのだ。
 価値はまたただ所有するのではなく、行動と一体となって初めて高められるものでもある。この点については長谷川(1999)で詳しく論じた。
 習得性好子の中には、それぞれの学問や芸術に固有の価値として見出されるもののほか、日常生活でごく当たり前に存在していると考えられる好子も数多く想定されている。Skinner(1953, p.78-79.)は、それらの例として、注目、承認、愛着などを挙げている。このほか、社会的賞賛や達成なども、生来の価値ではなく、生育の過程のなかで習得性好子として形成されていくものと考えられる。生得的でないことは、世間には人から誉められることを良しとしない人もいること、長期間失敗ばかりしていると達成を志向しなくなることなどから容易に推測できる。
 
 価値習得性好子についての以上の議論は、すべて大学教育にも関連する内容を含んでいる。大学で与えられる単位、学士、修士、博士、資格などはそれぞれ習得性好子として多くの勉学行動を強化しているが、それらだけで強化された勉学は、目的を果たした時点で停止してしまう。「単位をとったらすっかり忘れてしまう」だけの手段になってしまうからだ。大学教育が受験予備校と異なるとしたら、それは、特定の目的達成のための手段として知識や技法を伝授するばかりでなく、学問の価値を学ぶ者の習得性好子として定着させることにあるのではないだろうか。
 同時に、日々の予復習に励み課題を達成することが、社会に出てからも般性習得性好子として十分機能するようにお膳立てをすることも大切である。在学中に与えられた課題を義務的にこなしているだけでは、社会に出て仕事をこなしても、達成自体に喜びを感じない人間になってしまう。
 
 以上、2.32.4を総合したうえで、行動分析を大学教育に活かすための基本的視点を短いフレーズにまとめるならば、
(1)努力の量と質に応じて結果を与えること。そのために人工的強化を活用すること。
(2)学ぶことそれ自体に内在する価値が自然の好子として随伴するよう、その橋渡しをすること。
ということになるだろう。
 
2.5.Procrastination 先延ばし
 上記の2.3.及び2.4では、行動の直後に好子が出現するという随伴性の意義を強調してきた。しかし、すでにさまざまな行動が起こりさまざまに強化されているという日常社会の中では、しなければならない特定の行動を好子出現だけで強化しようとしても、先延ばしされてしまうことが多い。これは、その行動をしなくても最低限、現状は保障されるからである。
 Malott et al.(1997)は、それを避けるための手段として、阻止の随伴性による強化の効用を強調している◆8阻止の随伴性による強化には、
行動すれば現状が維持されるが、行動しなければ好子が消失する[好子消失阻止による強化
あるいは
行動すれば現状が維持されるが、行動しなければ嫌子が出現する[嫌子出現阻止による強化
という2種類がある。仕事がつまらなくても働き続けるのは「働かないと給料がもらえなくなる」という好子消失阻止の随伴性によるもの、防災のための工事が行われるのは「工事をしないと、やがて災害が起きる」という嫌子出現阻止の随伴性によるものと考えられる。
 
 大学教育改革において、「危機意識がないと改革が進まない」と言われるのは、好子消失阻止随伴性を利用して議論の活発化を図ったものと考えられる。例えば大学教育に競争原理◆9の導入を求めた岡地(2000)が、
猛烈な勢いで進んでいる大学の知的崩壊をいまくい止めないと、近い将来、日本社会全体が崩壊する羽目になるという危機感を、関係者は一様にもつべきではないだろうか。
ということばで締めくくっているがその例である。
 
 大学教育改革で「危機意識」を強調することはこれは自分の研究以外の問題に関心を示さない教員に対して一定のインパクトを与えているように思われる。すなわち、
教育改革に取り組めば、現状に近い研究教育環境(好子充足環境)を維持できるが、何も取り組まないと、研究環境はおろか、その日の生活さえ保障されなくなる(好子消失
というルールが有効に機能していることが改革の推進に貢献しているからである。
大学教育改革をしたら今より望ましい教育・研究条件が作り出せる
という、好子出現の強化だけでは改革が進まないのは、現状にそれほどの不足を感じていない教員にとっては、
行動すればよくなるが今は忙しい、行動しなくても現状は維持できる
という先延ばしが起こりやすくなるからである。
 
 このほか、「勉強しなければ単位を失う」、「相当に奮起しなければ留年する」というのも好子消失阻止の随伴性を利用した、勉学の先延ばしを戒めるシステムであると言えよう。
 
2.6.Schedules of reinforcement 強化スケジュール
 行動と結果は単純な対応関係にとどまるものではない。行動の量や質(回数や時間経過など)の特徴に依存して強化の内容を変えることにより行動の起こり方にも特有のパターンが出てくる。このような多様性は強化スケジュールとして分類記述されている。
 その代表的なものには、行動の量(回数)に比例して強化が与えられる比率スケジュール(ratio schedule、定比率または変比率)と、一定の時間経過後の行動が強化される時隔スケジュール(interval schedule、定時隔または変時隔)が知られている。
 教育場面では、例えば学習ドリルの枚数に応じて強化を与えるのは定比率スケジュールであり、ただ単に教室に座っているだけで出席点がもらえる仕組みは時隔スケジュールに近い。
 比率スケジュールのひとつである出来高払いの仕事では、品質の良さよりも生産量のほうが強化の対象となるため、手抜きが起こりやすく、また疲労にもなりやすい◆10。反面、行動を活発に起こす効果がある。
 履修単位を例にとれば、とにかく単位数を増やすことを推奨する指導方法は比率スケジュールによる強化と言える。この場合、勉学行動は活発化するが、合格点すれすれで単位をとろうとしたり、難易度の高い授業を敬遠する弊害が生じる恐れがある。3.1.1.で述べる履修登録科目数の上限制や3.1.3.5.で述べる「0点制」やGPAはそれを防ぐ効果をもたらす。
 
3.現実の諸課題とのリンク
 
 次に、現在、大学教育改革の中で具体的に提案されている諸課題をダイレクトに論じていくことにしたい。
 
3.1.教育のしくみ
3.1.1.履修登録科目数の上限制
 履修登録科目数に上限を設けるという議論は、1999年9月14日に大学設置基準が改正されたことに端を発している。具体的には第27条の2という「履修の登録の上限」についての条文:
 大学は、学生が各年次にわたって適切に授業科目を履修するため、卒業の要件として学生が修得すべき単位数について、学生が1年間又は1学期に履修科目として登録することができる単位数の上限を定めるように努めなければならない。
 2 大学は,その定めるところにより,所定の単位を優れた成績をもって修得した学生については,前項に定める上限を超えて履修科目の登録を認めることができる。
という努力規定がこれにあたる。この改正時には早期卒業導入(4年制の大学を3年で卒業)に伴う改正、同時に学校教育法55条の3と、学校教育法施行規則第68条の3、さらに改正後の例外規定を定める省令がセットで改正された。その趣旨は、「学生が過剰な履修科目登録をし安易に単位を修得するという現象」、またそれによって3年次までに殆どの単位を取得できてしまうという4年制形骸化を防ぐための措置ということにあるものと見られる。
 
 こうした改正は大学審議会答申に基づくものであり、その根拠としては
...単位制度の本来の趣旨にもかかわらず,学生の授業科目の履修については,講義等において必ずしも準備学習が要求されない,授業への出席状況が確認されない,学期末の試験結果のみで単位認定が行われるなどの理由から,学生が過剰な履修科目登録をし安易に単位を修得するという現象が生じ,その結果十分な学習を行わないまま3年で124単位近くを修得してしまうという指摘がある。この点に関しては,平成7年の文部省調査「学生の学習と生活に関する調査」によると,学部学生の1学期間の平均履修登録授業科目は14.5科目であり,これを1年間の履修登録単位数に換算するとおよそ58単位に相当することとなる。
と記されている。
 このように、上限制導入の原点には、大学設置基準に定められた単位数の規定◆11 があり、各大学は何らかの形で上限制の導入を検討する「努力」が求められていると言える。
 
 しかし、単に規定上の問題であるならば実状に合わせて制度を変えるという選択の道もある。ここではそれよりも、上限制を導入すると学生の行動がどう変わるのかについて、思考実験を行ってみたい。考えられる可能性は、
(1)上限制を導入すれば、抽選が実施されている一般教養科目などで、真にその授業を受けたいという学生の履修機会が確保されやすくなる。
(2) 上限制導入により、最初から出席しない学生や自己都合で中途で投げ出す学生が減れば教育効果が上がる。
(3)履修登録数に上限を設けておけば、いったん登録した科目についてはいくら辛くなっても最後まで頑張らざるをえない。
 
 このうちまず(1)だが、学部指定をせずに学生がそれぞれの時間に好きな科目を選べるような大学では大いに有効と言える。教室の収容能力には限りがあるため、希望が集中する科目については抽選など何らかの対策を講じざるを得ない。上限制を導入しても、特に人気の高い科目への希望集中は避けられないが、登録総数が減ることにより、少なくとも第二順位以下の希望は通りやすくなるはずである。
 
 (2)については、授業中に配布する印刷教材や小テスト問題用紙などの紙資源の節約にも繋がる。例えば、筆者が2000年度前期に担当した「心の科学」の授業の場合、抽選実施により履修許可者を182名に制限したにも関わらず、うち34名は登録をしただけで授業には全く出席しなかった。しかし、教える側としては、履修辞退などの申し入れがない限り、最後の回まで履修登録者分の印刷物を用意しなければならない。これは非常にムダになる。
 このほか小テストを採点してコメントをつけて返却しようとしてもその学生が来なくなれば全くのムダになる。演習主体の授業で、発表にあたっていた学生が来なくなれば授業の進行に支障が出る。グループごとの研究でも同様である。
 学生が途中で履修を放棄する原因には教員側の指導の不備もあるにちがいない。この点では、教える側も、小テストや授業中に挙手で正答を選ばせるなど、学生の理解度を常に把握しながら、授業を進める責任がある。とはいえ、学生は単なるお客様ではない。教える側は誠心誠意指導を尽くすことを約束、受ける側はその時間に出席し質問しきっちりと予復習することを最終回まで約束、その信頼関係を確立する第一歩が履修登録である。
 
 最後の(3)は、行動分析の基本概念のひとつ「並立随伴性のもとでの非両立行動」に密接に関連している。簡単に言えば、
人間ができることは時間的に限りがある。1つの行動に時間をかければ別の行動に費やされる時間はそれだけ減少する。
ということだ。欲張って履修登録してしまうと、結果的に1つの科目の予復習に打ち込む時間が制限される。予復習を怠れば当該科目を難しく感じるのは必然。授業が難しくなってきた時に安易に「これをとらなくても別の科目に乗り換えればよいや」と投げ出してしまう。この意味では上限制は、「なるべくたくさんの種類の行動をする自由」を制約しつつ、一日24時間の中でそれと常に競合状態にある「1つの行動に専念する自由」を保障するシステムであると言うこともできるだろう。
 
 以上、上限制によって変わりうる行動の可能性について述べてきたが、そこで述べたメリットを活かすためには、
(1)授業に並行して予習復習を促進するような課題を適宜与えること
(2)単に与えられた課題をこなすのではなく主体的・能動的に自学自習ができるような学習環境を整えその努力には適切な結果を与えて強化すること
(3)厳格な成績評価に基づいて単位を認定すること
が絶対に必要である。
 単に上限を設けただけでは、結局自力で準備学習をする代わりに遊びの時間を増やしたりバイトにいっそう精を出すだけに終わる恐れがある。成績評価の問題については後述する。
 
3.1.2.早期卒業制と副専攻制導入の意義
 前節で論じた上限制にはしかしながら別の問題がある。一般に、語学や数学などの科目は入学時から得意不得意のバラツキが大きい。上限を定めてしまうと、その分野を得意とする学生がより多くの上級科目を受講する機会を奪いかねない。そもそも、同じ科目を履修するにあたって、すべての学生の予復習時間を画一的に定めること自体には無理がある。
 これに対応するためには、「努力賞」を設ける必要がある。具体的には、厳格な成績評価を前提とした上で、各学年もしくは各学期終了時に基準以上の成績をおさめた学生に対して上限枠を増やす措置をとることが考えられる。これは
努力の量と質に応じて結果を与える
という行動分析の基本的キャッチフレーズ(2.4参照)にかなうものと言えよう。
 
 上限枠が増やされた学生にはさらに、早期卒業による大学院進学、短期留学、副専攻履修許可などの特典を与える必要がある。但し、このうちの早期卒業は、若い時期から世界的な業績を挙げられる分野において例外的に認められるにとどまるだろう。早期に卒業した文系の学生を好意的に受け入れる社会環境は整っていないように思われる。
 むしろ大部分の分野の学生にとって望まれることは、増やされた枠を利用して、専攻と異なる分野の科目を「医学専攻、倫理学副専攻」、「心理学専攻、統計学副専攻」、「経済学専攻、英文学副専攻」というように、副専攻として履修することである。これは、いま社会が大学に求めている、より広い視野をもった人間の養成にもつながる。
 
3.1.3.厳格な成績評価
 厳格な成績評価を求めることについて、平成10年10月26日付の大学審議会答申(大学審議会, 1998)第2章2)の「教育方法等の改善―責任ある授業運営と厳格な成績評価の実施―」は次のように述べている。
ii) 成績評価基準の明示と厳格な成績評価の実施
● 大学の社会的責任として,学生の卒業時における質の確保を図るため,教員は学生に対してあらかじめ各授業における学習目標や目標達成のための授業の方法及び計画とともに,成績評価基準を明示した上で,厳格な成績評価を実施すべきである。なお,厳格な成績評価の実施の結果,留年者による収容定員超過が生ずる可能性があるが,こうした定員超過については大学の設置認可や私学助成の際に弾力的に取り扱うことが適当である。
 厳格な評価の必要性については上記3.2.1.でもふれたところであるが、ここではそれに加えて「学生の卒業時における質の確保」という大学の社会的責任が強調されている。しかし成績評価が厳格であればよいということではなく、「教員は学生に対してあらかじめ各授業における学習目標や目標達成のための授業の方法及び計画とともに,成績評価基準を明示した上で」というように、これらはシラバスの記載内容の充実(井下, 1999参照)など、教員側の努力も合わせて求めている点を忘れてはならない。
 
3.1.3.1.成績評価の意味
 ここでもう一度、大学で成績評価を行うことの意味を3つに整理しておこう。
(1)社会的責任
(2)教える側の教育活動の評価
(3)学生の学習を助ける手段
 まず(1)については上記の答申にもある通り、大学が社会に送り出す卒業生は、専門分野および教養、外国語等について一定水準の勉学の成果を修めた者ではければならない。甘い評価で卒業生を送り出してしまうことはその大学の社会的信用を失うばかりか、国際的にも日本の大学教育に対する評価を損ねかねない。その意味で、以下の(2)、(3)からどのような要請があろうとも(1)を軽んじるような改変は許されないと言えよう。
 次に(2)に挙げたように、学生を評価することは同時に教育活動の成果の評価であることを忘れてはならない。仮に全員を不可にするような授業があるとすれば、いくら学生側に怠慢があったとしても教える側の教育責任が問われる。
 
 以上2つをふまえた上で、次の(3)こそが大学教育上最も重要な意義であることは言うまでもない。この点について原口(1999)は
われわれが授業の一環として行う試験は、本来、学生たちの学習を助けるための手段であって、運転免許や各種資格試験のように、合格することそれ自体が絶対的な意味をもつところの、所謂到達目標を示すものでは決してない。確かに試験の成績は、単位の取得や卒業の要件に関わる事柄ではある。しかし、それは飽くまでも授業の効果、すなわち、学習のプロセスとその成果を判定するための素材の一つに過ぎない。
と述べている。
 
 行動分析の視点からは、学生の学習を助ける手段として特に次の点が強調される。
(a)学生にフィードバックされない成績評価は全く無意味であるとの視点。
(b)得点のもつ強化効果弁別刺激としての役割の区別。
(c)学習の最終成果ではなく、プロセスに注目し、努力の質と量を評価する姿勢。
 まず、(a)について。試験やリポートによる評価は入学試験とは違う。評価の内容がどんなに厳正なものであったとしても、成績の原簿に記すだけで学生にフィードバックされなければ何の価値もない。入試では合否のみが公開されるが◆12、大学の授業では、単位をとれたかどうかではなく、細かい点数、得点分布、さらに、答案用紙の返却、リポートにおいてはコメントをつけて返却するなど多様なフィードバックを行うことが学習を助ける手段となる。もちろん、大学審議会答申に盛り込まれているように、評価に際しては成績評価基準を明示することが前提となる。
 なお(a)については3.1.3.5.で再度取り上げることにしたい。
 
3.1.3.2.強化効果と弁別刺激としての役割
 それでは成績評価のフィードバックは学生にとってどういう結果を与えるのだろうか。(b)に記したように、じつは、得点には強化効果弁別刺激としての役割とがあり、これらを区別することがぜひとも必要である。
(1)強化効果
 このうち強化効果とは、平たく言えば
よくできた学生を誉める、できなかった学生を叱る
ということであるが、これらがなぜ学習を助けるのか、行動分析の基本原理に立ち返ってもう少し詳しく検討しておく必要がある。
 まず、学生がその科目を熱心に勉強した場合は、その内容を理解したこと自体によって自然の好子随伴するようになり(2.3.参照)、併せて、その分野に内在する理論的な価値2.4.参照)がその学問分野の勉学を促進する習得性好子として随伴するようになる。スキー学校に通って上級コースが滑れるようになった人は、修了テストで得点を与えられなくてもさらにスキーを楽しむようになるのと同様である。この意味では、熱心に勉強する行動に高得点という好子人工的に付加する(2.3.参照)必要は必ずしもないと言える。ただ、そういう好成績をもたらすための「計画を立てる」、「規則的に勉学時間を確保する」、「図書館で資料を集める」、「ノートをきっちりとる」、「復習をちゃんとする」といった予復習行動は他の科目の勉学にも共通するところが多い。すなわち、特定科目についての予復習行動を高得点で強化することは、これから学ぶ新しい科目についての勉学行動を促進する効果をもたらすと言えよう。
 いっぽう、その科目を不可にするというのは、勉学を助ける上でどういう効果をもたらすのだろうか。これは一般には「勉強しないことへの」であると考えられがちであるが、2.1.の「死人テスト」に記したように「勉強しない」というのは死人でもできるので行動の定義には馴染まない。「不可」が勉学を促進するとしたら、それは、「これ以上単位を落とすと卒業できなくなる」という阻止の随伴性が働くからである。とりあえず「保険をかけておく」という気軽な気持ちで履修登録した科目が不可になっても、全く気にならない。阻止すべき事象が何も無いからである。すでに述べた3.1.1.履修登録科目数の上限制や、次節で述べる「0点制」の意味は阻止の随伴性を有効に働かせるためにある。
 
(2)弁別刺激としての役割
 以上述べたように、「勉学→得点」という随伴関係により事後の勉学行動が変わるならば、それは間違いなく強化(ときに弱化)の証拠となる。しかし得点は時として「結果」ではなく、行動自発の手がかりとして利用されることがある。これは一般に弁別刺激と呼ばれる。
 
 例えば高校受験生が模擬試験で500点満点中300点をとったとする。この場合、300点という総合得点が勉学行動一般を強化あるいは弱化する可能性とは別に、そこで露呈した弱点に向けていっそうの補強が行われるようになる。仮に数学は100点中90点だが、英語は40点であったとすればその受験生は英語の勉強により多くの時間を割くことになるだろう。大学教育における成績評価もこれと同様の側面がある。
 
3.1.3.3.評価否定主義の誤り
 いま述べた弁別刺激としての意義を考慮するならば、「競争を助長する」、「点数稼ぎになる」といった理由ですべての評価を悪であると決めつける否定主義は誤りであることが分かる。打者のフォームの指導をするコーチは、その選手のフォームの長所と短所を的確に評価できる目が求められる。評価を行わなければバッティングフォームはいつまで経っても改善されない。「競争を助長する」とか「点数稼ぎになる」という否定論は、上記の強化効果(併せて2.3.人工的強化の意義参照)と弁別刺激の役割に対する無理解から生まれたものであると考えられる。
 
3.1.3.4.ボーダーラインの扱い
 多くの大学では最終得点を100点満点に換算した上で、60点以上の者を合格、60点未満は不可すなわち再履修という判別を行っている。弁別刺激としての役割だけを見れば59点と60点には1という差に過ぎないが、合格と不可とでは翌年度の勉学に大きな違いをもたらす。その点では、最終成績が60点にわずかに足りない学生をどう扱うかは重要な問題となる。
 再試が制度化されている大学では、例えば50点以上59点以下の学生に限っては再試を行い、その結果を見た上で最終成績を60点に切り上げて報告することもありうる。但し、無節操に再試を繰り返し最後は全員合格にさせるというような方式は結果的に「授業をさぼっても再試を受ければ最後は合格にしてくれる」という悪習を強化することになり容認できない。
 時間的制約から再試が困難な場合には、採点基準を若干ゆるめる措置をとることもあってもよいだろう。再履修で拘束を課すよりも最低点で合格させることのほうが教育効果が高いと判断されればそちらを選ぶことになる。表1は、筆者が2000年度前期に行った一般教育科目の最終得点の分布を示す。ここでは、50点台の学生の期末試験答案を再度点検し、再履修を課すレベルではないとの判断から60点への切り上げを行ったため、50点台の度数がゼロになっている。
 
表1 最終成績で50点台を60点に切り上げた例
得点 度数(●: 5人、*:1〜4人) 人数
90〜 ●●* 13人
80〜 ●●●●●●●●●●●* 57
70〜 ●●●●●●●* 38
60〜 ●●●* 17
50〜   0
40〜 2
30〜 2
20〜 ●* 7
10〜 ●●* 11
0〜 1
受講せず ●●●●●●* 34
NOTE:筆者が2000年度に担当した一般教養科目。
 
 
3.1.3.5.「0点制」とGPA
 履修登録をしただけで授業に一度も参加せず試験も受けないという学生に対して、どのような成績評価をするべきだろうか。大学によっては、それらのケースを「評価不能」として扱い、学籍簿原本上は履修の痕跡が全く残らないという処理をしているところがある。おそらく、「評価というのは、学生が何らかの形で授業に参加してはじめて可能となるもの、一度も顔を出さない学生の評価はできない」という趣旨によるものであろう。
 しかし「評価不能」を認めてしまうことは「イヤになったら途中でやめればよい、試験さえ受けなければ0点にならない」という安易な履修登録行為を許容し、結果的に、登録者数300人、実際の受講生50人というようなアンバランスを生み出してしまう。これではどのくらいの広さの教室を用意すればよいのか、印刷物をどのぐらいの部数用意すればよいのか見当がつかない。
 
 そこで安易な登録行動を制限する方策として「0点制」を挙げることができる。いったん履修登録をした以上は一度も受講しなくても「評価不能」とはせず、「0点」として記録に残すという評価基準である◆13
 「0点制」には3.1.1.に述べた履修登録科目数の上限制と同様の効果が期待されるが、行動分析的には異なる随伴性がはたらいていると考えられる。なぜならば、上限制は「無節操にたくさんの科目の履修登録をする」という行動を物理的に制約しつつ、一日24時間の中で「少数の科目の勉学に専念する」ことを保障するシステム、行動分析的に言えば「その単位を落とすと卒業できなくなる」という好子消失の随伴性によって予復習を促進するシステムであると言える。
 いっぽう、いま述べた「0点制」のほうは、「0点」という結果を与えることによって「無節操にたくさんの科目の履修登録をする」という行動を弱化する随伴性であると考えられる。そのためには、「0点」という結果が何らかの「好子消失」もしくは「嫌子出現」と連関するものでなければならない。学籍簿にいくら「0点」が記録されても、それがどこにも公開されないのであれば何の意味もない。少なくとも、就職や大学院進学時に発行される成績証明書に記載されなければ効果は期待されない。あるいはGPA◆14のような形で、受講した科目の平均点が何らかの評価に使われるようになった時には、履修放棄がもろに平均を下げることにつながる0点制は決定的な効果を及ぼすことになるだろう。
 
3.1.4.多元的な成績評価の実際
 3.1.3.1.でもふれたように、大学教育においては厳格な成績評価と併せて多元的な評価が求められている。「多元的」は、一般的には出欠、授業中教員に指名された時に正しく解答できたかどうか、小課題の発表、小リポート提出、小テストなどの成績を期末試験成績と組み合わせて評価を行うことを意味している。またすでに前節3.1.3.1.(a)でふれたように、それらの評価は学生にフィードバックしてこそ意味をもつものである。
 紙面の制約から、本稿では多元的な評価に関連する話題として、出欠確認、小テスト、「公認カンニングペーパー」の3点に絞って検討を加えていくことにしたい。
 
3.1.4..1出欠確認、小テスト
 授業で出欠をとることについては、教員の自主的な判断を尊重している大学もあれば、毎回の報告を義務づけている大学もある。理念的な議論は別の機会にゆずることとし、本稿ではあくまで、学生の行動の何をどのように変えるのかという観点から捉えてみることにしよう。
 
 まず、出欠をとることの随伴性について。出欠が出席点として評価に影響を与える場合は、出席すること自体が得点という好子出現の随伴性により強化されるだろう。また一定回数以上の欠席があると期末試験が受験できないという規定がある場合には、単位を失うことを阻止するという好子消失阻止随伴性により強化される。
 ここで留意しなければならないのは、これらの随伴性強化されるのは「開始時刻前に教室に入り、終了時刻後に退室する」という行動だけであるという点だ。授業内容を熱心に聞くという行動は強化されないので、出席を厳格にとればとるほど、私語や居眠りが増える恐れさえある。
 これに対処するためには、例えば毎回の授業の最後の5分間ほどを使って、その日に学んだ内容を出席カードに書き込ませること、あるいは、小テストをひんぱんに行うといった方法が考えられる。教室で座っているだけでは答えることができないからである。
 このうち小テストは授業の進み具合に合わせて実施されるので、受講生自身にとっても理解度をチェックするよい機会になる。また教える側も、全員の成績が悪ければ教え方に問題ありと反省せざるをえず、次回に補足説明を行うというよう形で対処できる。もっとも授業時間の一部がテストに充てられてしまうために、全体の授業時間がそれだけ削減されるという問題がある。また大人数であれば、採点と答案返却に多大な時間を要することになる。100人規模のクラスで教育効果のある小テストを反復実施するためには、ティーチングアシスタントの雇用が前提となるだろう。
 
3.1.4..2.公認カンニングパーパー
 いっぱんに期末試験では、教科書・ノートの持ち込みを許可する場合と、持ち込み不可とする場合とがある。それぞれの分野の違いにもよるが、持ち込みを強化してしまうと、「持ち込み可だったらその場で読めば分かるだろう」という妙な安心感ができてしまって復習を怠ったり、友人のノートを丸ごとコピーして持ち込むといった弊害が出てくる。いっぽう、持ち込み不可の試験では暗記偏重になりがちという弊害がある。ふだん我々は、必要な情報は傍らの資料、辞書あるいはネット検索などで得ており、持ち込みをいっさい認めないという試験はあまりにも現実とかけ離れているとも言えよう。 
 そこで「持ち込み許可」、「持ち込み不可」に代わる第三の方法として、「公認カンニングペーパー」が推奨される。具体的には、試験中、B6版の京大カード、あるいは通常の名刺サイズのカード1枚だけの持ち込みを認める。そのカードには何を書き込んでも自由。例えば、英文専門書講読の授業であれば、訳文をぎっしり書き込んできてもよいし、単語集であってもかまわない。とにかくカード1枚に学んだことを集約するという作業をすれば結果的に試験勉強をしたことになる。これはまた、要領よくまとめるというスキルを強化することにもつながる。
 
3.2.外国語教育◆15のあり方
 大学を出たくせにちっとも英語を話せない、英語が書けないというのはよく聞く話である。また、教養部廃止に伴うカリキュラムの改革の中で、第二外国語を必修から外す大学が増えてきた。また、殆どの心理学専攻ですでに変更されているように、大学院修士課程の入試において外国語の試験を従来の2カ国語から1カ国語に減らすところが増えている。本節では、これらの議論を行動分析の基本原理に立ち返って検討することにしたい。
 さて、ひとくちに外国語教育と言っても、英語とそれ以外の第二外国語とでは考え方が大きく違う。英語の場合は現状でも中学、高校の6年間すでに基礎を習得し、入学試験でも一定レベル以上の点数を取って入学してくることを忘れてはならない。いっぽう、第二外国語は通常、大学に入ってから初めて学ぶものである。ここではまず英語と第二外国語を分けて検討を進めていくことにしたい。
 
3.2.1.英語教育の場合
 応用行動分析の手法により身辺自立などの行動を改善するための基本は、課題分析具体的獲得目標の設定、適切な強化という3点にある。もう少し詳しく記せば
(1)いま何ができて、何ができないのか。
(2)これまでにどういう訓練が行われてきたか、何が成功し何が失敗したか。
(3)具体的獲得目標を定め、適切な介入計画を立案する。
(4)計画に従い、標的行動を適切に強化。
(5)強化のしかた、介入のプロセスについて、適宜点検を行い、必要があれば修正する。
(6)達成の度合いに応じて強化基準を変える。
(7)最終的に、その標的行動自然強化だけで維持されるような橋渡しをする。
 英語教育の中でも、会話や作文など実践的なスキルを上達させようとするなら、これらと同じプロセスで教育を進めることが必要だ。上記の番号に対応させて具体的に述べれば、
(1)大学入学時点でその学生は英語の何ができて、何ができないのか。入学試験において、どういう英語問題を出題するか、どのレベルまでを合格させるかという検討もこれに含まれる。
(2)中学・高校でどういう教育が行われてきたか、何が伸ばされ何が停滞したか。またその原因はどこにあるのか。
(3)各学年終了時および卒業時までにどれだけの能力を身につけさせるのか。
(4)学生が身につけるスキルにどういうフィードバックを与え、どう評価するか。
(5)(6)授業形態すなわち、放送教材やマルチメディア教材、海外短期留学など、学生の自学自習を主体とする学習を積極的に推奨するほうがよいのか、あくまで既存の週2コマ、2年間程度のクラス単位授業として進めたほうがよいのかという問題もこの中で検討されなければならない。強化基準については、クラス単位の試験ではなく外部試験もしくは学内統一試験により評価する方法も考えるべきである。
(7)単位取得後に英語を使う機会をどう保障するか。一例としては海外留学、国際交流などの機会の確保。
といった検討が必要である。
 
 最近の英語教育改革の中では、ネイティブ・スピーカーあるいは英語教育の専門家のポストを増やしていくべきだとの主張がある。しかし、この「英語教育の専門家」という案は聞こえはよいが、実際は、「専門家さえ配置すればちゃんとやってくれるに違いない」という人任せ、「救世主」願望の無責任な議論にすぎない。なぜなら「英語教育の専門家」は、定義上、「英語をちゃんと教えられる人」だということになる。「専門家」が雇用されたにもかかわらず学生の英語力がいっこうにアップしなかったとしても
それは教える人の教育能力が足りなかったからだ。もっと能力のある人を雇用すればちゃんと教えられるはずだ
という人任せの主張が繰り返されるだけのこと、つまり「英語教育の専門家」説は決して反証されることが無い。
 もちろん、いまの全教官と同じぐらいの数のネイティブ・スピーカーや「専門家」を雇用し個別指導や少人数主体の授業を徹底的に実施すれば目に見えた成果が上がるだろう◆16。しかしそうした人的資源が確保できない以上、もっと、教育の実施形態、単位認定制度について改善をはかっていくべきではなかろうか。
 これまでの英語教育論議では、すべての学生をひとかたまりに捉えて、基礎学力の1つとしてどの程度の英語力が必要か、そのためにはどういう教育が必要かという議論が中心であったと思う。しかし、そもそも入学段階からさまざまなレベルにある学生たちを同じ教室に集めて一律に単位を認定することには問題がある。進度別にクラスを編成しても同じ名称の単位としてしか認定されないなら、低いレベルのクラスに入って高得点をあげたほうが得だと考える学生も出てくるだろう。これらを勘案すれば、今後は、教室と時間数に縛られた画一的な英語教育に代えて、体験型の自習と外部試験を重視しつつ、学生の個々の努力と成果に応じてそれだけ多くの単位が認定されるようなシステムを導入することが望まれる。◆17 
 
 個別重視の教育は、進度無視の画一的な英語教育を改善するばかりではない。そもそも、「英語を話す」、「英語で書く」という行動は、個体が能動的に発するオペラントである。実践的な英語教育の充実をめざすのであれば、学生一人一人が発するオペラントの中で正しい表現を強化し、間違った表現を弱化するという分化強化分化弱化の随伴性を用意することが何よりも必要である。
 学習者の能動的反応を個別に強化することがいかに効果的であるかは、何年間英会話の練習をしても上達しなかった人が英語圏で数ヶ月生活をしただけでペラペラになるという経験談からも理解できよう。外国では、自分が話し、書くというオペラントが適切に機能しなければ生活できないからである。また、英作文は苦手でも、コンピュータ・プログラミングなら自力で習得できたという人も多い。これは、自分の作ったプログラムが正しければ実行可能となり、間違いがあればエラーが出るというように、そのつど機械的に分化強化分化弱化がなされていくためと考えられる。
 
 もとの英語教育の話に戻るが、伝統的なラジオやテレビの英会話講座に加えて、近年、パソコンソフトなどのマルチメディア教材、ネットを通じた自習システム、英文によるWeb日記書き、英文によるネット掲示板やメイリングリスト(ML)での意見交換など、学習者の行動が個別に分化強化分化弱化されるような学習機会が整いつつある。また、留学生との交流や自らの短期留学などの機会も多様化している。「英語教育の専門家」という反駁不能な幻想にとらわれず、授業形態の根本に立ち返って、学習者の主体的・能動的な環境づくりをめざす必要を強く主張するものである。
 もうひとつ、こうした個別学習の成果を大学としてどのように評価するかという問題がある。これについては昨今、文部省の省令改正に基づいて規定に盛り込まれた、TOEIC、英検など、外部試験による単位認定制度がある。こうした外部試験は社会的にも高い信頼を得ており、学習者の具体的な獲得目標として最適といえよう。
 以上述べたような自学自習を主体とした学習を積極的に推奨するためには、もちろん、それらの指導を行う専任教員を1名以上配置する必要はあるだろう。但しその教員は、直接教壇に立つのではなく、有効な語学教材の選定、学生からの質問相談、海外短期留学の紹介および単位の読み替え、外部試験受験準備指導にあたるべきである。「英語教育の専門家」を多数配置できるだけの資金とポストがあるならば、資金の一部は自習設備の充実に、またポストは専門分野の研究職として活用することのほうが(国立大学であれば)国税の有効活用にも繋がるはずだ◆18
 
3.2.2.第二外国語教育の場合
 第二外国語教育の場合も、基本的には英語教育同様であり、上記(1)から(7)に準ずる対策を講じる必要があるが、加えて、3.2.1.でもふれた「並立随伴性のもとでの非両立行動」にも充分配慮しなければならない。もし第二外国語を教えたほうがよいか教えるべきでないかという土俵で議論するならば、教えるメリットのほうが強調されて当然である。たとえば「付論 文学部における言語教育II(3)文学部における複数言語習得の必要性」(九州大学文学部. 2000)◆19によれば
人間の思考や文化のさまざまな差異を理解するには、複数の言語の学習によって、それぞれの言語に現れた思考や文化を相対化して見る能力を身につけなければならない。そうすることで、さまざまな思考の型や価値観の多様性が認識され、異文化への理解が深まり、複眼的なものの見方が獲得される。それは究極的には日本語に対する自覚を高め、日本語文化の深い理解へと通じ、また思考や文化の差異を越えた人間の普遍性の認識と理解に通ずる。従って、それは人間性の涵養と豊かな人格の形成をも意味する。
という意義づけが行われている。これに従って複数の外国語を必修化することは非常に意義深いものになるように思える◆20
 
 しかし、学生側に充分な学習能力と時間的余裕がない場合にこれを機械的に適用することは、専門科目履修の足をひっぱり、留年を増やす恐れがある。現に私の所属する講座においても、第二外国語が必修化されていた時代には、ドイツ語2単位が不合格になったために留年を余儀なくされた学生がいた。
 このほか、学生の実践的な英語力が社会的に求められている現在、第二外国語の習得にあてる余力があるならば、少しでも英語をしゃべり英語で論文や報告を書ける学生を育てて欲しいという要請があることも事実である。第二外国語の必修化は、各大学、学部、学科における入学した学生の能力、専門課程におけるその言語の利用、卒業後の活用の可能性などを、実態調査を十分に行った上で決めなければならない。
 学年終了時および卒業時までにどれだけの能力を身につけさせるのか、具体的獲得目標を定め、適切な介入計画を立案する必要がある点は英語教育と同様である。但し、もしNHKのラジオやテレビの語学講座と同じ程度のレベルをめざすというのであれば、そのような放送教材やマルチメディア教材を主体とした自学自習および外部検定試験による単位認定ではなぜいけないのかを明確にしておく必要がある。またすでに述べたように、教室での集団授業ではなく、学生の能力努力に応じた個別学習を活かす視点ももちろん大切である。
 
 初修段階の第二外国語の授業で「外国語教育の専門家」が必要かどうかも、すでに論じた反駁不可能な「専門家」概念と合わせて慎重に検討しなければなるまい。幼稚園や小学校の外国語教育では、子どもの興味を持続させ、欠点を見極め、達成に応じて適切な強化を与える教師がぜひとも必要になる。しかし大学生が基本的な文法や単語を身につけるさいに、そういう意味で親身に指導してくれる専門家が求められるかどうかは甚だ疑問である。英語教育ですでに論じたように、有効な語学教材の選定、学生からの質問相談、海外短期留学の紹介および単位の読み替え、外部試験受験準備指導にあたる専任教員を最低限確保すれば充分ではないだろうか。
 
3.2.3.週2コマ程度の必修化ではなく副専攻制こそ必要
 以上もっぱら、英語にあっては英会話や英作文などの実践英語、第二外国語にあっては初修指導を中心に外国語教育について検討を加えてきたが、学生の中には、週2コマ程度の必修枠あるいは外部試験による認定では飽きたらず、外国語を修得することの根源的な価値、すなわち「世界の言語的・文化的多様性を認識し、多元的視点を獲得する」ことを求めてより高度な教育を求める声が出てくるに違いない。また、実践的な英語にさらに磨きをかけたいと希望する学生もいるだろう。これらの希望に対しては、しかしながら、すでに論じた履修科目登録の上限制などの絡みがあって、現状では取得単位の増加を認めるという形では対応しきれないところがある。
 そこで、すでに上限制のところで必要性を強調したように、従来の専攻とは別に外国語教育に関する副専攻を多様に設置することを提案しておきたい。こうすれば、第二外国語を学ぶ余力の無い学生が再履修で悩むこともないし、学ぶ意欲のある学生に対しては、単なる必要単位のクリアではなく、学士号と合わせて副専攻の称号を合わせて取得することが可能となり大いにやりがい◆21を与えることになる。
3.3.卒業論文指導の意義
 大学教育では学生自らが問題意識を持ち、それを主体的に分析し、結論を的確に導く力を要請することが強く求められる。教員に与えられた課題を与えられた方法で受け身的にこなすだけでは社会に出てから創造的な仕事に取り組むことができない。そのためには、教養および基礎教育段階で、客観的思考や批判的分析思考の力を磨くとともに、卒論研究を通じて主体的に問題を設定そ、先行研究や関連資料を収集し、最適の方法を取り入れ、さらに得られたデータや資料をもとに、さまざまな視点から客観的で批判的な結論を引き出すことが必要となる。「自己表現力を育てる」教育の総仕上げといってもよいだろう。
 
 一教員あたりの学生数が多すぎるなどの理由から卒論を課さない大学もあると聞く。研究室の設備や講座全体のプロジェクトを推進する必要から、教員の下請けのような形で卒論のテーマや方法が決められてしまう学部もあると聞く。しかし、上述の問題解決能力を強化していくためには、何よりも学生のテーマ選びを尊重することが大切である。そして教員は研究計画の不備の改善指導や多様な方法の紹介するにとどめ、できうる限り自力で主体的に研究に取り組めるようなサポート体制を整備していかなければならない。要するに、「〜しなさい。それをしないと卒業できませんよ」という形で特定の行動を阻止の随伴性により強化するのではなく、「こういう方法も考えられますよ」というように多様な弁別刺激提示にとどめること、その選択は学生に任せ、自然強化2.3.参照)により取捨選択が行われていくプロセスを重視することが求められる◆22
 学生の主体的な問題解決行動をシェイピングし、分化強化していくためには、1年次から各学年の指導目標を定め、主体的な問題設定や資料収集など、基礎的なアカデミック能力養成に必要なカリキュラムを充実させる必要がある。
 また卒論の評価においては、学界への貢献度など専攻分野内での水準に照らして評価するよりもむしろ
・その問題をなぜ選んだのか。
・どれだけ主体的に取り組んだか。
・異分野の視点をどこまで幅広く取り入れているか。
・成果自体ではなく、思考プロセスのほうを重視する。
・そういった評価項目をあらかじめ学生に示すとともに、大学院入試の選考基準にも含めていく。といった点も重視することが望まれる。
 
3.4教育活動の改善
 前節までは、教育のしくみや外国語、卒論指導などを改善することで、学生の勉学行動がどう変わるのかという視点から論じてきた。しかし、いっそうの改善を進めるためには、授業内容を初め、教員の行動をも変えていく必要がある◆23。本稿では紙面の都合から、「学生による授業評価」、「ネット利用による双方向のインタラクション」、「教育業績評価」という3点だけをとりあげることにしたい。
 
3.4.1.学生による教員評価、授業評価
 学生が教員の教員評価や授業評価を行うことには少なくとも2つの側面がある。
 1つは、授業はもはや教員個人の不可侵の領地ではなく、大学全体によって提供される製品でなければならないという側面である。それゆえ、大学全体の製品の品質を保つために、学内外の評価機関から多面的に評価を受けるのは当然。独立行政法人化により授業料を主たる財源にして運用されるようになれば、このニーズはさらに高まるものと予想される。
 もう1つは、教員の自主的な授業改善に役立てるための資料として活用されるという側面。上記と異なり、この場合の評価は教員の自由意志が原則となる。今回はこの2番目の側面について考察を進める。
 学生の勉学活動にとって成績評価と同様(3.1.3.2.参照)、教員にとって学生による授業評価も(1)強化効果、(2)弁別刺激、という2つの側面を持つものと考えられる。
 もし、グレイド・インフレーション(原, 1999)、すなわち教員が学生の人気を得ようとして成績を甘くつけるという行動が増えるとするならば、それは授業評価という結果によって望ましくない行動の強化された例ということができるだろう。
 このほか、評価項目によって、翌年からすぐに改善可能なものもあれば、顕著な改善は期待できないものもある。例えば、「黒板やOHPの字は読みやすいか」という項目があまり高く評価されていない時は翌年から直ちに改善が行われるだろう。マイクの音量、資料の配付方法、授業中の討論参加なども、教員が気づけば直ちに実施できるものである。これらは、評価の弁別刺激としての側面を表しているとも言えよう。
 いっぽう、「ユーモアのセンスがあるかどうか」、「教員から人格的な影響を受けたか」などは、ネガティブな評価を受けたとしてもそう簡単に改善できるものではない。
 
 授業評価が通常その授業の最終回あるいはその直前に行われることの偏りにも留意しなければならない。なぜなら回答者はその授業を最後まで聴講し続けた学生だけに限られるからである。途中で受講を放棄した学生について理由を尋ねるわけにはいかない。
 
3.4.2.ネット利用による双方向のインタラクション
 インターネットの普及により、授業時間以外にも教員と学生の間でさまざまな情報交換ができるようになった。具体例を挙げれば
(1)教員は毎回の授業の進行状況を特設ホームページに公開する。やむを得ず欠席した学生もこれを読むことにより次の時間への準備ができる。
(2)紙面の制約によりシラバスには記載できないような細かい情報を伝えることができる。
(3)付設のネット掲示板(伝言板)を活用することで、受講生はいつでも質問を出すことができる。Eメイルと異なり、掲示板は他の受講生も閲覧できるので、同一の質問に個別に答える手間が省ける。
 
実際の運用状況は長谷川の公用サイト:
http://www.okayama-u.ac.jp/user/le/psycho/member/hase/
をご覧いただきたい。
 
3.4.3.教育業績評価
3.4.3.1.教育活動を強化する必要性
 近年、自己評価、外部評価、さらには他者評価により、教員の研究活動が多面的に評価されるようになった。また実験講座の予算配分が大幅に削減され、高額の実験設備を必要とする教員は、科研費や各種助成金の配分を受けることなしには研究を続けることが困難となってきた。さらには、米国の大学と同様に定率加算金のシステムを導入せよとの主張もある(岡本, 1998)。
 このうち講座予算の削減は、次のような随伴性の変更を意味する。すなわち、じゅうらい
研究活動をすればさらに予算配分(研究活動をしなくても講座費配分により現状維持)
という好子出現の随伴性だけで強化されていた研究活動は、いまや
研究活動をしなければ予算打ち切り
という好子消失阻止の随伴性で活性化されるようになってきたのである。2.5.で述べたように、この随伴性先延ばしを許容しない強力な強化効果をもたらす。
 このような随伴性の変更は、少なくとも理工系の研究活動を活性化することになるであろうが、研究活動と教育活動に一日24時間という物理的な制限があることを考えれば(3.1.1.などで触れた「並立随伴性のもとでの非両立行動」参照)、教員が研究活動に重点を置けばおくほど、教育活動のほうが片手間にならざるを得ないことは必然である。研究との一体性が高い大学院教育ならともかく、高度の先端分野との関連性の低い一般教養科目の分担においては特に、それに費やす時間の比率が下がり、ノルマ化していく恐れがある。
 じっさいこれまで多くの大学では、研究業績だけを基準に教員の採用や昇進を決めようとする傾向があった◆24。そのいっぽう、教養部廃止後の一般教養教育では、大学や学部で割り当てられたコマ数を各教員が無給で担当するという形態をとるようになった。これは「教えたい」教育ではなく「しなければならない」教育になってしまう。つまり、質の向上に取り組む行動を強化する随伴性が適切に用意されているとは言えない現状にあるのだ。
 
 ではどうすればよいのか。学生の勉学に対してその努力に応じて結果を与える必要があるのと同様、教官が行う授業についても、熱心に教育する行動に対して、その努力に応じて適切に結果を与えていくことが必要になってくる。
 問題は、(1)「熱心な教育」をどう測定し、(2)どういう結果で強化していくかということになる。このうち(1)については、すでに3.4.1.で述べた学生による教員評価、授業評価のほか、自己評価や外部評価など、多面的な評価を導入する必要がある。いっぽう(2)については、担当コマ数や受講生数◆25に応じた◆26研究費加算、俸給加算◆27、昇給、あるいは、高い評価を得た教員に対してサバティカル休暇を優先的に与えるなど多様な強化方法を検討していく必要がある。
 
3.4.3.1.教育褒賞制度
 近年、教育活動を強化する方法として、教育褒賞制度を設ける大学が増えてきた。東京農工大学工学部の報告書(東京農工大学工学部教務係, 2000)はその制度の趣旨を次のように記している◆28
 我々,大学の教官は,研究に関して成果をあげることによって評価され,例えば,科研費が採択されたり,学会から賞を受ける等,いろいろな面での褒賞があります。しかしながら,いくら,授業を工夫し,懸命に取り組んだとしても,現在,なんら,褒賞があるわけではありません。教官にとって,授業を行うことは,採用された時点から,義務(あるいは権利)として規定され,我々はそれを実行してきているわけです。そのこと,すなわち,一生懸命,工夫して授業を行うことは,教官にとって,当然のこととして受け取られ,評価される対象ではない,と暗黙のうちに教官自身の間で考えられてきました。
 現在,研究・教育活動も含め,教官に対する社会からの要請は,多岐にわたっております。従って,忙しい中で授業を工夫し,懸命に取り組んだことについて,そのことをしっかりと評価し,優れた授業を行った教官に対して褒賞する制度を設立することが必要な時期にきたと思われます。....【以下略】
 この報告書に述べられた趣旨は、行動分析の基本原理に立ち返るならば、
(1)研究行動に対しては充分な人工的強化の随伴性2.3.参照)が設定されているのに対して、授業の工夫や懸命の取り組みについては、その努力に応じて結果が付与されるような随伴性が用意されていないこと。
(2)現在、大学教員は時間的に忙しい状況に置かれており、研究活動と教育活動は常に競合状態にあること。
という2点を指摘したものと言えるだろう。
 
 平成11年度における東京農工大の場合、褒賞制度はBT(Best Teacher)を決定し、受賞者には教員研修会での講義をしていただくこと、また次年度に新任教員の教育方法等に関する相談にのっていただくことが「授与」される具体的な結果となっている。しかしこれだけの「結果」では、すでに熱心に教育に取り組んでこられた教員を慰労する効果はあるにせよ、教員全員の教育活動の改善に有効にはたらく強化随伴性になりうるかどうかははなはだ疑問である。すでに2.5.で指摘したように、この随伴性は
教育活動に熱心に取り組めば褒賞をもらえるが今はその余裕がない、熱心に取り組まなくても現状は維持できる
という先延ばしが起こりやすくなるからである。このほか、褒賞受賞者が数名程度に限られている場合には、教員個々人が受賞する確率が非常に低く、好子出現の随伴性としても有効に働かない可能性が高い。以上指摘した問題点は、褒賞の内容に昇給や特別研究費配分を含めても全く改善しない。上に述べたように、研究費加算、俸給加算、昇給、あるいは、高い評価を得た教員に対してサバティカル休暇を与えるなど、教員の大半に結果を与えるような随伴性を設定しない限り◆29、また、何らかの阻止の随伴性2.5.参照)を導入しない限り、褒賞制度による教育活動向上には限界があると言わざるを得ない。
 
3.4.3.1.教育活動を自然に強化するもの
 以上もっぱら、教育活動を人工的に強化する方策について論じてきた。しかし、教員にとって教育活動の原点はあくまで「自分の考えが伝わる」、「自分の説明によりみんなが納得する」、「優秀な学生が育つ」といった、教育活動に内在する自然強化によって改善されていくべきものである(2.3.参照)。本稿で人工的強化の必要性を論じたのは、すでに指摘したごとく、研究活動と教育活動に一日24時間という物理的な制限があるなかで、「教員が研究活動に重点を置けばおくほど、教育活動のほうが片手間にならざるを得ない」という現状をふまえたためである点にご留意いただきたい。いくら高邁な教育理念をかかげたり、教養教育の重要性を説いて教員の奮起を促したとしても、現実の行動がきっちりと強化されるシステムを作らない限りはかけ声倒れに終わってしまうことは目に見えている。いつまでも、教育に「熱意のある教員」や教養教育に特別に関心がある教員だけの善意に頼っていたのでは進展は期待されない。
 
 
4.まとめ
 
 以上、現在、大学教育改革の中で具体的に提案されている諸課題のなかから上限制、成績評価、外国語教育、教育活動改善などの話題を選び、行動分析の基本原理がどのように活かせるのかを論じてきた。
 
 これまでに述べた内容は、全体としては、文部省関連の審議会答申や、各種のFDに関する議論の中で大勢を占めている主張に肯定的な内容となっており、特別に新しい提案を含むものではない。しかしこれは、行動分析の主張が「常識」的な教育観に迎合しているためではない。大学教育改革論議は、じゅうらい、ともすれば教育理念をめぐる抽象的な言葉選びの議論に終わってしまい、実際の具体的な改善は教員一人一人の「自覚」と「努力」に任されてしまうきらいがあった。ところが、近年のように、制度の改革を伴う段階に進んでくると、結局は「制度を変えることによって、学生や教員の行動はどう変わるか」という議論に踏み込まざるを得ない。その制度こそが行動分析で言うところの行動随伴性の設定にあたるのである。すなわち、具体性のある改革を実現しようとすればするほど、行動随伴性の有効性についての議論は避けて通れない。豊かな経験に基づく提案というのは、有効性が実践的に検証された随伴性を導入する主張にならざるをえないからこそ、結果的によく似た結論に到達するだけのことである。
 
 さらに言えば、大学で教育を行うということ自体、巨大な随伴性空間を作り上げることであると考えることもできる。学生が能動的に発するオペラント、すなわち勉学行動をいかに強化するかということが教員に与えられた使命である。分かりやすく話をすること、分かりやすい教科書を与えることも大切ではあるが、それらはしょせん一方向的な弁別刺激の提示にすぎない。重要なことは、能動的な努力の量と質に応じて結果を与えて強化することにある。この意味では、行動分析の原理を活かした改革論議は一貫した実行原理に基づく論議であり、経験談の集積や名案の羅列だけに終わることのない成果をもたらすものと期待される。
 
引用文献
・インターネット上で公開されている資料についてはurlを付した。
・下記の引用文献のうち【*】を付したものは、『Upon further reflection.』(Skinner, 1987)
という書籍の各章として再掲されている。この書籍は岩本らにより『人間と社会の省察』という書名(スキナー, 1996)で翻訳されている。
 
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Gardner III, R., Sainato, D. M., Cooper, J. O., Heron, T. E., Heward, W. L., Eshleman, J. W., & Grossi, T. A. (Eds.)(1994).Behavior analysis in education: Focus on measurably superior instruction. California: Brooks/Cole Publishing Company.
 
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長谷川芳典 (1992b). スキナー以後の行動分析学:(2)心理学の入門段階で生じる行動分析学への誤解. 岡山大学文学部紀要, 19, 45-58.
 
長谷川芳典 (1993). スキナー以後の行動分析学:(3)S−R条件づけ理論との混同. 岡山大学文学部紀要, 20, 65-73.
 
長谷川芳典 (1994). スキナー以後の行動分析学:(4)よく知られた心理学実験を再考する(その1). 岡山大学文学部紀要, 22, 21-38.
 
長谷川芳典 (1995). スキナー以後の行動分析学:(5)阻止の随伴性.岡山大学文学部紀要,24, 33-57.
 
長谷川芳典 (1997).スキナー以後の行動分析学(6): 行動随伴性に基づく自己理解(1). 岡山大学文学部紀要, 27, 71-86
 
長谷川芳典 (1999).スキナー以後の行動分析学(7):生きがい論のしくみ. 岡山大学文学部紀要, 32, 69-89.
 
長谷川芳典 (2000).スキナー以後の行動分析学(8):21世紀に行動分析をどう活かすか〜介護、福祉、校内暴力、英語教育、競争原理〜を中心に. 岡山大学文学部紀要, 33, 17-32.
 
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印刷物のほうで、「井下理」先生のお名前が「井上理」になっておりました。たいへん失礼いたしました。
 
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東京農工大学工学部教務係 (2000). 平成11年度教育褒賞制度(BT制度)報告書.
 
吉岡元子 (2000). 自己表現を育てる. [第37回大学教員懇談会「目標見えぬ大学教育-----少子化・大衆化時代の中で-------」講演. 2000年7月8日.八王子市: 大学セミナー・ハウス].

補注



1◆本稿は、当然のことながら大学教育改革の課題を網羅したものではない。取捨選択にあたっては、行動分析の基本原理との関連が明示しやすいもの、及び全国の大学において共通性の高いものを重視した。本稿で取り上げなかった諸課題よりもこれらのほうが重要性、緊急性が高いと主張するものではない。また本稿は、純粋に学問的見地から改革の意義と有効性を論じたものであり、岡山大学内部における論議とは一切無関係であることにご留意いただきたい。
2◆スキナーは『科学と人間行動』(Skinner, 1957)の第26章において、11頁にわたって教育についての行動分析的な見解を述べている。Skinner(1987、邦訳:スキナー, 1996)には「アメリカにおける教育の恥辱」、「どのようにして話すべきことを見つけるか──学生たちへの対話」などの小論、エッセイが収納されている。Epstein & Skinner (1982)にはスキナーの代表的な論文14篇のほか、1982年までに刊行された著作のリストが紹介されている。Gardner III et al. (1994)には、1992年にオハイオ大学で行われた研究集会「Behavior analysis in education: Focus on measurably superior instruction.」に関する研究25篇が収納されている。
3◆大学教育改革のキャッチフレーズとしてよく使われる「創造性」なども、具体性を伴っていなければ実現課題にはなりえない。スキナーは
「創造性」は、「教えられたこと以上」のものとして教育の究極目標に置かれるものではなく、教育の出発点から教えられるべきもの。行動分析は「行動の創造」を扱う学問体系である。
と論じている(Skinner, 1984、長谷川による要約)。
4◆ 「やる気の無さ」というのはその行動がうまく生じていない状態を言い換えた記述概念にすぎず、なぜその行動が起こらないのかを説明することができない。行動の持続はいっぱんに「動機づけ」概念により説明されるが、行動分析では、それを強化と確立操作という2つの操作概念に分けている。例えば、ラテン語の勉強が持続しない人の場合、もし、日々の勉強の成果を活かせる場がないために持続しないのであればそれは「強化されていないため」と考えられる。いっぽう、その学生が将来にわたってラテン語を使う必要がないために持続しないのであれば、それは「確立操作の不足によるもの」と考えられる、行動がうまく生じない原因としてはこのほか、「他の競合する行動が強化されているため」に、当該の行動機会が奪われている可能性を考える必要もある。いま述べた例で言えば、数学の勉強が忙しいためにラテン語の勉強をする時間が無い場合がこれにあたる。
5◆ Malott, Whaley, & Malott (1993)では、自然強化に相当する用語として「built-in(intrinsic or automatic、行動内在的)」、人工的強化に相当する用語として「added(extrinsic、付加的)」という用語が用いられていたが、第3版(Malott, Whaley, & Malott, 1997)では、行動の維持について説明した第27章を除き説明部分が削減されてしまった。いっぽう、反転実験計画法を紹介した第29章では運転技能の訓練に関連して「the natural reinforcers (自然強化)」が使われているが、「built-in(intrinsic or automatic)」概念との間で特段の区別はされていない。行動分析学の中でも、自然強化の定義や意義付けはまだ定まっていないことをおことわりしておく。
6◆ここでは「喜び」という表現を使ったが、好子となるのはそういう「喜び」をもたらした環境変化等にある。
7◆この部分ではスキナーは、「成功や進歩のしるし」をunconditioned reinforcers(無条件性好子)として分類している。この「unconditioned無条件性」はふつう生得性と同じ意味に使われるが、次の2.4.で指摘したように、これはむしろ般性習得性好子に相当するものではないだろうか。本稿ではそちらの見解をとっている。ちなみにSkinner(1953, p.76-91)は、習得性好子(原題はconditioned reinforcers)についてふれた節の中で、
複数の一次強化子が対提示されるような状況では、条件性強化子は一般化される。.....【中途略】.....私たちは、物理世界の制御にうまく成功した時、特定の遮断化から独立して、自動的に強化される。熟練した技術、芸術的創造、ボウリングやビリヤードやテニスなどのスポーツなどに熱中する傾向は、これによって説明できるだろう。(訳は長谷川による)
と述べており、「成功」を般性好子に含めている。もとのSkinner(1985, 1987)の文章は自然に随伴する好子を付加された好子と区別するために論じられたものであり、unconditioned reinforcersという言葉は、生得的好子という意味ではなく、むしろ、「条件つきで付加される好子」ではなく「行動すれば無条件に出現する好子」という意味で用いられたものと考えられる。
8◆Malott et al.(1997)は、「宗教的道徳による行動制御では地獄概念が必要か」を通じてこのことを明快に説明している。すなわち「善行をつめば天国に行かれる」というルールだけでは、「今日はできなかったが明日やればよい」という先延ばしが生じる。「善行をつまないと地獄に堕ちる」(嫌子出現阻止の随伴性)あるいは「善行をつまないと天国に行かれない」(好子消失阻止の随伴性)であれば、そのような先延ばしは生じにくい(Malott et al., 1997, p.396-397.)。
9◆「競争原理」一般については長谷川(2000)ですでに論じているので、ここでは極力重複を避ける。いちばんのポイントは、
「競争原理」はじつは「原理」はない。競争的環境の中に自然または人工的に配置される随伴性こそが行動を変えるだけだ。どういう随伴性が含まれるかによって、切磋琢磨にもなるし、共食いの争いにもなる。
という点である。それゆえ、大学教育に「競争原理」を導入する際には、一般論として自体の功罪を論じるのではなく、競争がどういう随伴性をもたらすかを慎重に見極め、最終結果ではなく勉学努力のプロセスを評価していくことが望まれる。
1◆0Skinner(1953)は、比率スケジュールの特徴について次のように指摘している。
固定比率強化は、率があまり大きくない場合には非常に高い反応率をもたらす。これは入力-出力関係に従うはずだ。反応率がちょっと上がると強化頻度も増える。その結果、さらに反応率が増えていく。もし他の要因が介在しなければ、反応率は最高限度まで達するはずである。組織的労働場面でこれを制限する要因として感じられるものと言えば、単なる疲労である。このスケジュールによってもたらされる高率の反応と長時間の労働は、健康に危害を及ぼす危険がある。出来高払いの仕事に対してふつう労働組合が猛烈に反対する主たる理由はここにある。
11◆昭和48年改正の大学設置基準では、1単位は、講義の場合15時間(教室内:教室外=1:2、但し、教室内:教室外=1:1による22.5時間、教室内:教室外=2:1による30時間も可能)、演習の場合は30時間(教室内:教室外=2:1、但し、教室内:教室外=1:2による15時間も可能)、実験等は45時間とすることが定められている。
12◆情報公開を重視する全国的な流れの中で、入試の成績や正答例などを受験生に公開する大学が増えてきた。
13◆シラバスの説明不足や学生側の誤解により、授業内容が受講目的に合わないというケースもある。それゆえ、授業開始から履修登録締切までには一定の「試し聴講」期間を設けることが望ましい。そのほか、病気などの真にやむを得ない事情を考慮すべきであることは言うまでもない。
14◆Grade Point Averageの略。
15◆本稿で論じる外国語教育には、専門分野における外国語文献講読は含まれないものとする。
16◆このような徹底教育を行っている大学としては、国際基督教大学(ICU)が知られている。吉岡(2000)によれば、そこで行われている英語重視教育というのは、英語圏の人と滞り無く会話ができるとか英語の本がスラスラ読めるといった「実用」レベルの会話力、読解力の養成にとどまるものではない。そういう「聴く」、「話す」、「読む」、「書く」といった能力を個別に養成するのではなく、それらを総合的有機的に連関させ、英語教育を通じて、基礎的基本的アカデミック能力の養成まで高めることが目標となっている。この場合のアカデミック能力とは「客観的思考」、「批判的分析思考」、「主体的問題設定」、「問題提起にむけての思考先行研究、関連資料の検索などを通じた問題解決にむけての思考」、「論理の構築にむけての思考」、「話しことば、書きことばによる自己表現へむけての思考」という内容を含むものであるという。
17◆スキナーは
30人から40人もの生徒がいるクラスを教える場合に、どの生徒にとっても最適な速度で学習を進めさせることができるような教師はいない。能力別学級編成というのはあまりに微弱な救済策である(訳は岩本他による。[スキナー、1996、182頁])。
としてプログラムされた教示を含む教授法の必要性を説いている。
18◆ここに述べていることは、大学教員が研究者であると同時に教育の専門家でなければならないとの主張を否定するものではない。研究者でない教育専門家を大量に雇用することの問題点を指摘したまでのことである。教育活動の重要性については3.4教育活動の改善で論じる。
19◆文部省の委嘱を受け、九州大学文学部を拠点校、東北大文学部等8校を協力校として平成9年度から11年度まで実施されたプロジェクトの成果をまとめた『コア・カリキュラム(文学分野)の研究・開発──21世紀の文学部教育に向けて──報告書』の一部。
20◆ ただし、ここで主張された複数言語学習の意義を活かすためには、どういう種類の外国語を教育することが望ましいのかについて、もう少しつっこんだ議論が必要である。第二外国語として開講されている科目は、殆どの大学では、ドイツ語、フランス語、比較的大規模の大学では、これに東アジアの諸言語とロシア語、スペイン語などが追加されているのみで、イスラム圏や発展途上地域の言語が扱われているのは外国語系の大学に限られている。「さまざまな思考の型や価値観の多様性が認識され、異文化への理解が深まり、複眼的なものの見方」を養うというにしては、あまりにも欧米・東アジア偏重と言わなければならない。これについて同報告書は、
.....何よりも教員スタッフの問題やカリキュラム上の諸制約(単位数・時間数)を顧慮するならば、どのような目的で、どのような外国語を、量的・質的にどの程度まで習得させるか、にはある程度の限定が必要であろう。しかしそれは、各大学の事情に応じて、各大学で決定せざるをえない。また、いわゆる教養教育としての語学教育との関連・連携は是非とも必要であるが、これも、各大学で解決すべき課題であると考えられる。
としてそれ以上の言及を避けているが、目的を達成するのであれば限られたポストの中で未開設の外国語の教育をどう行うのか、その選択を学生の素朴な関心だけにゆだねてよいものかについて、前向きの検討をしていかなければならない。
 このほか『アマゾン、インディオからの伝言』(南研子、2000年6月11日の朝日新聞天声人語からの孫引き)によれば、アマゾンの先住民の中には、「幸せ」、「不幸」、「寂しい」といった概念が存在しない生活をしている人たちがいるという。また、ある部族の言葉には過去形も未来形もなく、現在形しかなく、昨日を悔い明日を憂うということが無く、すべてが「いま」に集約され、密度の濃い時間が流れるという。こうした文化人類学関連分野とリンクさせながら上記の「さまざまな思考の型や価値観の多様性が認識され、異文化への理解が深まり、複眼的なものの見方」を養う努力も必要であろう。
21◆2.6.の「強化スケジュール」を参照されたい。副専攻制の導入は、部分的ながら比率スケジュールにより勉学を奨励するシステムであるとも言える。
22◆自然強化の活用の度合いが理工系と文系で異なってくるのはやむを得ないことだ。理工系の場合、学生だけの力で不適切な方法を選ばせてしまうと大事故に繋がる恐れも出てくる。高額な設備を利用できるかどうかによっても変わってくる。
23◆スキナーは、大学教員が教育方法の改善に取り組むべき点について次のように説いている。
大学の教師は、教えるという職業上の訓練を受けた経験がまったくない唯一の専門職であることは、長い間言われてきたことである。医者の卵は医科大学に行って医学を学び、弁護士の卵は法科大学に行って法律を学び、技師の卵は工科大学に行って工学を学ぶ。しかし、大学の教師はすぐ教え始めるのである。(Skinner, 1984、訳は岩本他、1996、178頁)。
 
24◆教育業績を基準に含めない背景には、教育業績を客観的・公正に評価する方法が確立しておらず、安易にそれを採用基準に含めると公平性を欠く恐れがあるという事情もあった。
25◆学問の性質上、受講生は少ないが大学として開講する必要のある授業(例えば特殊な外国語)については別途配慮する必要がある。
26◆授業内容についての質的な評価を含める必要があることは言うまでもない。
27◆ 大学院の授業を担当すると一定の率で俸給加算が行われるが、一般教養教育は現状ではいくらコマ数を増やしても現状では全く加算の対象とならない。
28◆ 東京農工大工学部の朝倉哲郎教務委員長による。
29◆交通安全啓発のために「ベストドライバー」制度を設けても交通違反の防止には殆ど効果が無い。なぜなら、一般のドライバーがそのような形で表彰される確率はきわめて小さく、また特に賞をもらわなくても日常生活で何も失うものがないからだ。いっぽう、無事故無違反者の免許更新期間を5年間に延長したり講習を簡素化する制度に一定の有効性があるのは、ドライバー全員にとって特典を与えられる確率が高いことと、減点や反則金など好子を消失する結果を招くことにより違反行動が弱化されるためである