過去2回の連載のうち、長谷川(1998a)は、心理学の実験が物理学や生物学の実験とどのように異なるのかを比較対照しながら、その意義と限界について論じることを目的とした。そして、文脈によって変わる刺激、多数の要因の同時関与、定義のあいまいさなどの特徴を挙げながら、心理学において実験研究を行うさいの留意点を論じた。
長谷川(1998b)では、最近の実験論文(日本心理学会発行の『心理学研究』の第68巻に掲載された原著実験論文)を引用しながら、刺激の扱いや結論の一般化における問題点について具体的な内容まで立ち入って検討をすすめた。
生協の和書検索によれば、「○○の心理」という文字列を含むタイトルの書籍は1000件以上を越え、その一部はしばしばベストセラーとしてヒットする。しかし、その大部分は、心理学者以外によって書かれた通俗本にすぎず、専門分野の研究内容と日常的関心とのあいだには大きな隔たりがある。「こころの問題に関心があって心理学専攻を選んだが、入学後にいくら心理学を学んでも、もともとの興味や関心はちっとも満たされていない」という声も聞く。このあたりについて尾見・川野(1994)は、
英語教育がご専門の広島大・柳瀬陽介氏は、第39回(2000年度)JACET(大学英語教育学会)全国大会(於:沖縄国際大学)で行われた「ワークショップ 外国語効果」の御発言の概要“「外国語効果」に関する英語教育の立場からの批判的考察”(柳瀬, 2000)の中で、高野陽太郎氏の「外国語効果」に関する論文を引き合いに出しながら、心理学における実験的研究の問題点を次のように論じて居られる。
下山(1997)は、保健管理センターの専任臨床心理士から大学の心理学の教員に転職するという自らの体験に基づき、大学の心理学教室で行われる教育・研究と、臨床場面での実践活動との違いについて次のように述べている。
と述べている。「どうも自分がやりたかったこととは違うなと思いつつ」というくだりは、佐藤(1997)の「心理学を専攻に選んで、首尾よく入学したけれど、何かちょっと違うと思っている君!」という呼びかけと共通するところがある。
しかしそれらを割り引いて考えたとしても、実験心理学の一部が、現実の問題に直面せずに、「実験のための実験」、「論文のための論文」、「後継者の再生産」にこだわり続けていることは否定できない。
単に無限に近い数の要因が関与しているだけであるならば、それらは正規分布に従うノイズとして処理することもできるし、実験室環境を作って人工的に除去することもできる。しかし、相互に連携、依存するような要因はどんなに精密な実験装置があっても操作できない。これをどう扱うかが実験的分析、ひいては科学的方法を用いることの課題になる。 南風原・市川(2001)は、Kurt Lewinの図式:
しかし、南風原・市川(2001)が同じ章のコラムで言及しているように、干渉変数を除外したり人工的に一定に保つことは、生態学的妥当性(ecological validity) を低下させる恐れがある。また、さらに重要なのは、人間の行動を左右する重要な要因が変数が「交絡する」ことを本質としていた場合、実験的方法を用いた研究がそれらを回避し、操作しやすい変数の検討にあけくれるという弊害をもたらす恐れがあることである。
※Oは"organism"の略で,「生体」をあらわす.
生物を含む世界の最大の特徴は、周囲に対して何らかの働きかけを行う要因が点在しているという点であろう。そのメカニズムがすべて物理的なエネルギーの移動や化学反応だけで説明されるとしても、能動的な働きかけとその結果が、変化にある種の方向性を持たせている点は、無生物だけの世界とは根本的に異なっている。
外界への働きかけは、植物であれば、いっぱんには、根を張ったり茎を伸ばし、養分や水分の吸収し、光合成を行う。動物の場合は、文字通り、「動く」という行動を通じて、食物の獲得、巣作り、交尾、子育てなどをする。 外界への働きかけの度合いは、その結果によって統制される。 好都合の結果が伴った場合、植物であれば、より大きく成長し、より多くの子孫を増やす。動物の場合、個体発生レベルでは当該の行動が強化・維持され、系統発生レベルでは繁殖につながる。いっぽう、不都合な結果が伴った場合、植物であれば枯れ衰える。動物の場合は、個体発生レベルでは当該の行動が弱化され、系統発生レベルでは死に絶えていく。 もちろん、これらはあくまで基本であって、時として偶然的な要因が強く働くこともあるし、また、生物はどうやら本質的に、多様性を前提とした共生を保ちながら適応していくという特徴を備えているようにも思えるが、ここでは深くは立ち入らない。
このうち(1)は、基礎数学や基礎物理学を例に挙げながら、将来の応用に期待するという立場、(2)は、伝統的な実験的方法を踏襲する限りは、現実の問題を扱うことは決してできないという立場である。
しかし、こうした(2)もしくはそれに近い立場では、実験的方法をあまりにも限定しすぎており、実験的方法の可能性を十分に探らないままに頭ごなしに排除してしまっている危険も否定できない。
そもそも、実験的方法はどのようにして成立したのだろうか、そして、(少なくとも心理学分野に限った場合)なぜ現実から遊離し、(少なくともある時期の、ある領域で)象牙の塔の中で「実験のための実験」が繰り返されるようになってきたのだろうか。
例えば、毎朝バスで通勤しているサラリーマンが、自転車と電車を組み合わせた別のルートを思いついたとする。その人が、曜日や時間帯を変えて2つの条件を比較したとしたら立派な実験的方法と言えよう。
ここで重要なのは、単なる試行錯誤だけでは実験とは言えない点だ。こちらでも指摘したように、実験的方法では何らかのシステマティックな操作が行われなければならない。システマティックな操作を行うことには次のようなメリットがある。
というクイズを例にとって考えてみれば分かる。ただ順繰りに計ると、金貨を2個ずつ選んで天秤に乗せていかなければならないので、運が悪い時には最大7回の操作を行わなければならない。システマティックな操作を行えばこれを3回に省力化することができるのである。
(2)正確な原因推測を可能にする
例えば、
ジンのソーダ割り、スコッチウィスキーのソーダ割り、バーボンのソーダ割を別々の日に飲んで、いずれも二日酔いになった。その人は、ソーダ水こそ二日酔いの原因であると結論をくだした。
というエピソードがあったとする。その人が二日酔いの真の原因を確かめるには、少なくとも同じ分量のソーダ水を飲むという日を設定しなければならない。この「実験」操作によって、より正確な原因推測が可能となるのである。
★6
「ちょっとやってみる」、「ちょっと変えてみる」、「ちょっと止めてみる」ことは、現状を点検する有効なツールである。実験という自覚があろうと無かろうと、日常生活場面で我々はすでにそれを使っているのだ。
例えば
・海外旅行に行くというのは、ご近所や職場というしがらみを一時的に除去する実験操作である。
・大学卒業後、フリーターになるというのも、自分に本当に向いた仕事を探すための実験操作であるとも言える。
・一年間の単身赴任生活をすることは、家族や夫婦関係を点検する実験操作になりうる。
・会社から一年間のボランティア休暇をもらうということは、会社という就労環境を点検する実験操作である。
上記のようなケースは、しばしば「自分をみつめる機会」、「自分探しの旅」などと呼ばれることがあるが、本当のところは、現状とは異なる環境に身をさらすことで、生活環境が自分の行動にどういう影響を与えていたのかを包括的に点検できるからこそ、自分が見つかった気分になるのである。
3.2.日常生活場面のツールから学問的な方法へ
上記の例にも示されるように、もともと、実験的方法というのは、日常生活行動の有効性を検証するツールとして確立されたのではないだろうか。人類誕生以前から実験的方法なるものが確立していたわけではない。それゆえ、そもそも「実験的方法を日常生活場面に応用できるか」などというのは、物事の成り立ちを逆立ちして捉えるような議論であると言えよう。じつは、科学的な法則や理論についても同じことが言える。
スキナーは『科学と人間行動』(Skinner, 1953)の第2章でこの点について次のように指摘している。
As Ernt Mach showed in tracing the history of the science of mechanics, the earliest laws of science were probably the rules used by craftsmen and artisans in training apprentices. The rules saved time because the experienced craftsman could teach an apprentice a variety of details in a single formula. By learning a rule the apprentice could deal with particular cases as they arose.
Machが機械についての科学を歴史的に辿りながら示したように、科学の最初の法則は職人や芸術家が徒弟の訓練に用いたルールであったようだ。ルールを用いると、経験を積んだ職人が徒弟にさまざまな細部について単一の公式で教えることができる。そのために時間の節約ができる。徒弟はルールを学ぶことによって、特定の事例について、技術が習得できたときのように対処することができる。[訳は一部意訳。長谷川による]
それでは、学問的方法としての実験法と、日常生活場面や実践場面における実験的方法はどこが違っているのだろうか。私は次の2点を指摘しておきたい。
・日常生活場面や実践場面で行われる実験では、再現性★7が保障されることが大切。ある条件、あるいは働きかけが包括的に再現できるならば、必ずしも要因に分解する必要はない。その文脈内で有効性が検証されれば十分。
・学問的方法としての実験法では、一般性★8が要求される。そのためには、実験操作の中のどの「成分」に一般性があるのか(=別の文脈でも同じ働きをするのか)を保証しなければならない。
3.2.1. 包括的な効果の検討
ここで、包括的に再現できるとはどういうことなのか、次のような仮想の事例を挙げながらもう少し考えてみることにしよう。
ある男の子がちっとも勉強しないので、2学期から女子学生Aさんを家庭教師に雇った。その後めきめきと成績が上がり自習時間も増えた。
この事例では、家庭教師の雇用に依存した望ましい変化が見られているので、とりあえず有効性が確認されたと言える。もっとも、単に2学期になって涼しくなってきたことと、日が短くなって外で遊ぶ時間が減ったために勉強をするようになったのかもしれない。
もし、上記に加えて、
その後Aさんは交通事故に遭い2カ月ほど休むことになった。その2カ月の間、子どもの成績や自習時間は一時的に停滞したが、Aさんが再び復帰すると元通りのペースで勉強に取り組むようになった。
という情報があれば、家庭教師Aを雇用することの有効性がかなりの確からしさで確認されたことになる
★9。じっさい、条件の交替に任意性が無いという欠陥を除けば、これは単一事例実験法の中の「A-B-A-Bデザイン」に近い実験手続で有効性を確認したと言えないこともない。
では、上記の事例は研究報告になりうるだろうか。否である。なぜならば、上記の例では、家庭教師Aさんが、どういう教育を行ったのかが何も示されていないからである。
・Aさんが自作した教材が有効であったのか
・自習計画の指導が有効であったのか
・何を誉めるかが的確であったのか
・誉める方法が上手だったのか
・それとも単に、その男の子がAさんに恋心を懐いていて一生懸命自習をしたためなのか
上記の事例ではこのうちのどれが当てはまり(←複数かもしれない)、どれが当てはまらないのか、何も実証されていない。Aさんと男の子という「関係」の枠外の世界に向けて一般性のある情報が何も伝えられないというのが、研究報告とは呼べない本質的な理由である。
とはいえ、この男の子の世界ではAさんの「有効性」は確認された。さらに、もしAさんが、同じぐらいの年齢の別の男の子の家庭教師を引き受けた場合、同じように効果を上げる可能性はかなり高いとも言える。対象が類似していればいるほど、「再現性」を期待できるからである。家庭教師に限らず、医者や弁護士、カウンセラーなどでも同じことだが、評判の高い「名人」にお願いするほうが有効性が期待されるという経験的知識にはそれなりの根拠があるのだ。
よく知られている個体間の実験計画では、実験群や対照群の平均値を比較して一般的な効果しか検討されない。その限りにおいては上記のような、固有の対象だけで成り立つ包括的な有効性は決して実証されない。しかし、実験法を単一事例実験法
★10まで拡張してみると話は別である。固有の現実場面では実験的方法は十分に役立つと考えられる。
さて、上でとりあげた家庭教師を雇用する話には「Aさんが交通事故に遭い2カ月ほど休むことになった」という部分、つまり、介入が中断されるという条件が入っていた。これは条件の交替に任意性が無いという欠陥を除けば、単一事例実験法の中の「A-B-A-Bデザイン」という実験手続に一致している。具体的には、「家庭教師を雇わない」という初期の状態(A1)、「家庭教師を雇った状態」(B1)、「家庭教師が一時的に来られなくなった状態」(A2)、「家庭教師が再び来られるようになった状態」(B2)というように、「A」というベースライン条件と「B」という実験条件が交替している。このうちのA2という第二ベースライン条件には、改善効果が単純な時間経過あるいは全くの偶然によるものでないことを検証する効果がある。A2条件において一時的に改善が停滞するか、もしくは望ましくない方向に一定程度後退するという事実が確認されれば、それだけ偶然変化と取り違えるリスクを減らすことができる。
しかし、いったん改善が進んだのに、なぜ後退をさせてまで「A2」条件を挿入しなければならないのか、学問的方法としての実験ならともかく、日常生活場面や実践場面で包括的な有効性を確認するだけであるなら、不要ではないかという議論も出てくる。
実際のところ、例えば
・この大学が適しているかどうかを実験的に確かめるために入学し、退学してみる
・この会社で仕事することが最適かどうかを実験的に確かめるために入社し、退職してみる
・独身生活が最良の人生であるかどうかを実験的に確かめるために結婚し、離婚してみる
というのは理論的には可能であるが、人生が短いことと周囲に及ぼす迷惑を考えると現実には実行困難であるし、無理にすべきでもない。また、入学や入社や結婚が当初は不本意で不適合のものであっても、そこでの環境や関わり方を変えることで、全く異質な新条件を創造することもできる。このあたりが、操作要因を安定的、不変のものとして捉える実験室実験と大きく異なる点であると言えよう。
3.2.2. 包括的な有効性と分析の意味の関係
ここでいう「包括的」とは、例えば、「Aさんを家庭教師に雇う」ことが男の子の教育にとってプラスになるかどうかというような議論をすることを言う。日常生活場面における「実験的な試み」を通じて、包括的な有効性はかなりの程度で検証できる。しかし、それだけでは、「Aさんが自作した教材が有効であったのか」か「自習計画の指導が有効であったのか」といった可能性のうちのどれが当てはまり(←複数かもしれない)、どれが当てはまらないのかは、何も実証されない。また、Aさんと男の子という「関係」の枠外の世界に向けて一般性のある情報が何も伝えられていないので、研究報告とは呼ぶわけにはいかない。
では、研究を目的としないならば立ち入って「分析」する必要はないのだろうか。これは、問題が何によって要請されているか、検討対象にどういう性質があるかによって変わってくる問題であり、一概に必要性を論じることはできないと私は考える。
例えば、Aさんが男の子の受験を最後まで面倒をみてくれる状況にあるならば、「うまくいっているならそれでエエじゃないか」という議論も成り立つ。ところがもし、男の子が中2になった時にAさんが卒業・就職して家庭教師を辞めなければならなくなることが確定しているとするならば、分析的な検討はどうしても必要になってくる。すなわち、上記を分析的に検討することにより「Aさんが自作した教材が有効であった」と確認された場合には、後任のBさんにも同じような教材を用意してもらうように依頼できる。同様に「自習計画の指導が有効であった」と確認された場合は、Bさんには、教材に手間をかけるよりも、子どもが計画的に自習できるように時間配分を指導してもらったほうが勉強が進むはずである。
このほか、Aさんの雇用が確保されている場合でも、分析をすることでさらに有効性を高められる可能性がある。上記で言えば、Aさんの教え方の無駄な部分を取り除き、有効な部分を増やすことができるし、万が一、中途で困難な事態が生まれた時にも、指導がうまくいかなくなった原因を速やかに把握することができる。
ここでは家庭教師雇用を例としたが、同じことは、薬の投与や心理療法など、あらゆる場面にあてはめることができる。
・5種類の薬を飲んで病気が回復に向かったとする。「治ったからエエじゃないか」ではなく、どの薬(あるいはその複合)が有効であったかを検証しておけば、次回、同じ病気にかかった時にも迅速に対処できるし、無駄な薬を飲み続けなくて済む。
・ある心理療法を受けて症状が改善されたとする。それでメデタシメデタシとも言えるが、その有効性が療法の特色にあったのか、療法を実施したセラピストの個人的な魅力や名人芸にあったのかを分析しておけば、次回、同じ症状が出た時にどう対応すればよいのか、迅速に対応できる。
このように、要因を細かく分けて分析的に検討することにはそれなりの応用的な意義がある。問題は、どのような切り口で分析に取り組むかということだろう。行動分析はそれを「課題分析」と「行動随伴性」に求める。それ以外のアプローチをとる場合でも何らかの概念的枠組みと分析ツールを用意しておくことがぜひとも求められる。分析をすること自体は、決して現実離れの原因にはならない。理論のための実験、実験のための実験にこだわる姿勢が現実離れを引き起こすのである。
3.2.3. 「現場に関わること」は「研究」や「実践」自体の行動分析
基礎心理学分野における実験法と、教育実践場面における実験的方法とはどこが違っているのだろうか。倫理面やバランス面など考えるべきことはいろいろあるが、私は、一番の違いは、研究者(あるいは実践者)と研究対象(あるいは教育対象)との関わり方にあるのではないかと考える。
基礎心理学分野における実験では、実験者は、実験場面を隔離した状況のもとで研究を進める
★11。手続さえ守るならば、実験者を取り替えても結果は変わらない。実験者自身の思い入れが影響を与えるような「実験者効果」は厳しく排除されなければならない。例えば、ネズミを実験用走路に入れる時に、正刺激の条件ではぎゅっと掴み負刺激の時は柔らかく掴むようなことがあれば、ネズミが受ける圧迫感自体が手がかりになってしまう。 教育場面でも同じようなことはよく言われる。例えば、教師が生徒に対して何らかの期待を抱くことによって、生徒の成績が教師の期待する方向へと変化する現象はピグマリオン効果として知られている。
しかしここで問題となるのは、実験者効果を排除することではない。もし教師の期待効果が成績向上に有効であるとするならば、それ自体も活用することのほうが意味がある。そのためには、「期待をもつ」ことが生徒との具体的な関わりの中でどういう行動として現れてくるのかを分析する必要がある。但し、単に、教師個人の教え方の包括的な有効性を検討するだけであるならば、とりあえずは曖昧なままでもよい。大いに期待をもって授業を進めればよいという考えも成り立つ。
以上では、実験者が被験体(被験者)に及ぼす影響を論じたが、逆に、実験の成否が実験者の研究行動に影響を与えるということにも留意しておく必要がある。ネズミを被験体としたオペラント条件づけの実験でよく使われる装置に「スキナー箱」というのがある。箱の中にバーが取り付けられており、ネズミがこれを押すと餌ペレットが機械的に与えられる仕組みになっている。実験者は、バーの押し方と餌の与え方の関係をいろいろに変化させたり手がかりを変えたりしてデータを収集する。このスキナー箱に関して、学習心理学の入門書
★12(『学習』、メドニック著 八木訳、岩波書店、1966年)に面白いマンガが引用されていた(引用元はコロンビア大学のJesterとなっている)。そこでは、スキナー箱に入れられた2匹のネズミが次のような会話をしていた。
「おい、この男を条件づけてやったぞ! 僕がこのバーを押すたびにあいつは餌をひとかけおとしてよこすんだ。」
このマンガは、「実験者がネズミを条件づけているように見えるが、じつはネズミが実験者を条件づけているのだ」というジョークとして他の本にもいろいろ紹介されている。もちろん、バーの押し方と餌の与え方の関係をいろいろに変化させる権限は実験者の側にあるのだから、実験者と被験体との関係が逆転することはあり得ない。しかし、ここで重要なのは、ネズミがバーを押すことは、やはり実験者の研究行動を強化しているという点にある。そもそもどのネズミも一度もバーを押さなかったら、実験者はネズミを被験体とした実験など続けないはずである。自分の努力に応えてくれるような結果がそこそこ得られるからこそ研究を続けるのである。
このほか、「少年野球の監督の賞賛や叱責」の例も、教えるという行動が教えられる側からの結果によって変容する可能性を示唆している。
ある少年野球のチームの調子が三角関数y=sinχのグラフのような変動をするものと仮定しよう。そしてここに新米の監督が着任してきたとする。
ここで、チームの調子は実は全くの偶然の変動であり、監督の賞賛や叱責とはまったく独立しているものと仮定する。新米の監督は、チームの調子が良い時には褒め、悪い時には叱るであろう。ところが、調子がどん底の「叱る」という行動を自発するために、結果的に、この行動の直後には「チームの調子が上向き」という結果が随伴しやすくなる。いっぽう、調子が絶好調の時に「褒める」ために、結果的に、その直後にチームの調子は下降していく。つまりチームの調子と「褒める」や「叱る」には何の因果関係が無くても、新米監督の立場から見れば、「叱る」ことだけにポジティブな結果が随伴し強化されていくことになる。
これによって、「甘やかしてはダメだ。私の長年の監督経験に基づけば、鬼になってビシビシと叱ることが向上をもたらす。」というスパルタ式の訓練思想が形成されていく。
要するに、教育実践場面では、「現場を隔離した地点から客観的に教授法の有効性を検証する」という立場とは別に、「自分が現場にどう関わるか、現場からのフィードバックによって自分自身の教育研究活動がどう変わっていくのか」という別の立場を考慮に入れる必要があるということだ。後者は、自分の行動を点検するという点でクリティカルシンキングの視点が要求されるし、その行動の望ましい部分をどう伸ばしどう維持するかというパフォーマンスマネジメントの技法(島宗, 2000参照)も求められる。
4.とりあえずの解決と今後の課題
以上、実験研究と現実世界との関わりについて論じる中で「実験的方法にも捨てがたいところがある」という視点から、その意義を再検討してきた。ここで、これまでに挙げた論点をもう一度整理し補足をしながら、今後の課題をさぐっていくことにしたい。
4.4. 「現実に向かう」だけでは「何かちょっと違う」は解消されない
2.では、心理学専攻に入学した学生が感じるかもしれない「何かちょっと違う」現象を取り上げた。ここでもういちど、学生の「期待はずれ感」はどこから来るものなのだろうか、考えてみることにしよう。
2.で引用した心理学研究に対する不満は
・“人間味がない"、“現実味がない”、“生活感がない...
・建前としては人間の現実を理解するための学問であるのだろうが,実際は現実を理解するのとは異なったこと,時には現実を理解するのに障害となることをしているのではないかとの危惧
というように集約される。しかし、ただ単に研究の内容が現実に向かえば不満は解消するものだろうか。単に現実を扱うというならば、政治や法律や経済や交通安全の話題にももっと関心が集中するはずである。それらの分野への関心が実際にはあまり高くないことを考えると、
現実を扱わないがゆえに期待はずれ
とは必ずしも言い切れないように思う。
では、関心をいだく現実とは何か。行動分析の視点からとらえるならば、それは
自分が能動的に関わり、結果を得ている世界であること。
に尽きるのではないかと思う。つまり「関心をいだく現実とは、じぶんのオペラントが強化されている世界」ということである。
自分が住んでいる世界であっても、能動的な行動が強化されなければ関心は示されない。自分の生活に身近に関係しているはずの政治に関心が高まらないのは、自分が何をしても変わりっこない(=自分の発するオペラントが強化されない)と受けとめられているためである。
次に、「関心をいだく現実」との関わりのなかで「心理学を学んでよかった」という満足感を与えるのはどういう場合か。同じく行動分析の視点からとらえるならば、それは
学ぶことによってもたらされる情報により、手がかりの不確実性、もしくは、結果が出現する不確実性が減少すること
であると考えられる。
市川(2001)は「研究の情報的価値」に関連して
・研究の最大の目的は,対象について何か新しいことが「わかる」ということにある.ここには,新たな事実(あるいは個々の事実から見出される「法則」)を発見することと,いくつかの事実を統合的に説明する理論をつくることとが含まれる.一般に,知らなかったことがわかることを,「情報」を得たという.
・1940年代にShannon(1948)によって創始された「情報理論」では,情報とは「不確定度」が減少することととらえている.たとえば,投げたコインが表か裏かということを教えられれば,2つの同様に不確かな選択肢が1つに確定したことになる.振ったサイコロの目であれば,1の目になっている確率がはじめ1/6だったものが,「奇数が出ている」と教えられれば1/3に変化し,これも情報を得たことになる.
・ここで,情報理論の基本的な考え方を参考にすると,意外性と確実性が情報の大きさを規定していることになる.
というように、情報理論を参考にした研究の情報的価値を論じておられるが、今回ここで問題としている「関心を集める情報的価値」は数学的に算出される情報量の大きさだけでは不十分であると私は考える。例えば、上記で、「振ったサイコロ」についての「奇数が出ている」という情報は、ゲームをしているとか、抽選で何かを選ぶというように、「入手された情報が自分の能動的な行動の手がかりとして利用できる場合に初めて価値をもつ」ものなのである。
俗流の心理「学」が週刊誌やTV番組で多くの関心を集めるのは、エセ心理学を知ることで、相手や自分の行動に関して与えられている手がかりの不確実度が減少すると錯覚してしまうためであろう。これは占いでも同じで、いかに非科学的であっても、迷いを消す効果をもたらすものは常に強化的である。
以上をまとめると、心理学専攻に入学した学生が感じる「何かちょっと違う」を不満に終わらせず、「ああ、そうだったのか」という満足感をもって卒業させるためには、
・現実に向かうテーマを扱うことは必要だが、それだけでは不十分。
・自分が能動的に働きかける世界について、手がかりの不確実性、もしくは、結果が出現する不確実性が減少するような情報を与えること
・その情報は、事後解釈、アナロジー、同語反復的なものであってはならない。十分な有効性があり、内的あるいは外的な妥当性を有するものでなければならない。
という3点を重視する必要があると思う。
ちなみに、「自分が能動的に働きかける世界」は個々人の生育歴の中でリパートリーとして形成されていくものであるため、時として非常に狭い世界に限定されてしまう恐れがある。趣味だけに生きる人もいる。象牙の塔に籠もってモデル構成に埋没する人にとっては研究対象だけが「自分が能動的に働きかける世界」になる。そういう意味では、学生の関心対象を固定化せず、関心対象を広げるための努力、言い換えれば、能動的な働きかけが強化される世界を広げる努力が別に求められている。
4.2.「現場(フィールド)」について
実験研究と現実世界との関わりについて論じるさいに避けて通れないのが、「現場(フィールド)」をどう定義するかという問題である。やまだ(1997)
★13によれば
現場とは「複雑多岐の要因が連関する全体的・統合的場」と定義される。これは研究の対象となる現象と研究の行われる場の特徴を象徴した用語であり,実際に研究の行われる場所そのものを指すのではない。極端にいえば実験室の中にも現場(フィールド)は存在するし,逆に,家庭や幼稚園など日常語で現場(げんば)といわれる場所で研究をしても,「単純な要因について分析する場」であれば実験室である。またこれは相対的区分であり,あらゆる中間的現場が存在する。[やまだ(1997)、p.167]
また伊藤(1997)は現場の重要な特徴に関して
現場は,どこにでもあると言っても過言ではない。近所の本屋も喫茶店も魚屋もスーパーマーケットも現場となるし,街角に机を構えている占い屋や宗教の信者たちが集まる場所も現場となる。大学のキャンパスも現場となるし,それこそ心理学実験室も現場となる。自分の家族が暮らす家の中も現場となるし,極端には自分の身体そのものが現場となる。[p.8]
と述べている。
それでは現場心理学は対象をどのように捉えようとしているのだろうか。やまだ(1997)からは、次のような3つの特徴を読みとることができる。
・人工的な操作を加えて観察するか,ありのままの自然を観察するかの問題は,実験法と観察法の区分(大山,1973)にはなるが,これは現場の特徴を示す区分とは区別すべきであろう。つまり現場という概念は研究の行われる現象の特徴を記述する用語として限定し,方法論とは独立して考えた方がよいと思われる。したがって,「ありのまま,制御を加えない,自然」などは現場の本質的特徴ではない。[やまだ, 1997, p.164〜165]
・現場研究とは,日常的感覚でわかりやすい研究をするのだというわけではない。.....実感や常識で理解できるかどうかは法則の正しさを証明する基準にはならない。現場研究はわかりやすい,実感のある,日常感覚の研究をめざすのだと誤解してはならない。[やまだ. 1997, p.166〜167]
・現場とは「複雑多岐の要因が連関する全体的・統合的場」と定義される。これは研究の対象となる現象と研究の行われる場の特徴を象徴した用語であり,実際に研究の行われる場所そのものを指すのではない。[やまだ, 1997, p.167]
これらの引用から読みとれるように、「現場(フィールド)心理学」は「現場(フィールド)」を定義するにあたって最初から研究方法を固定していない。この特徴は、やまだ(1997)の166頁の表3に簡潔にまとめられている。
「現場心理学」というと、とかく、個性記述的、仮説生成的で、参与観察や聞き取り調査を行う研究であるとの印象を受けてしまうが、以上の引用から示されるように、それらは、現場を定義するにあたっての必要条件には含まれていない点に留意しておく必要がある。
本稿では、現場(フィールド)心理学その詳しい内容に立ち入って論じるだけの紙数が無いが、とりあえず、実験心理学との関連で疑問に思われる2点を列挙しておくことにしたい。
1.「現場」は方法論と独立して定義されると記されているが、やまだ(1997)の167頁の部分には次のようなくだりがある。
....極端にいえば実験室の中にも現場(フィールド)は存在するし,逆に,家庭や幼稚園など日常語で現場(げんば)といわれる場所で研究をしても,「単純な要因について分析する場」であれば実験室である。またこれは相対的区分であり,あらゆる中間的現場が存在する。
ここだけを読むと、「現場(フィールド)」は、「単純な要因について分析する場」を除く場として定義されているように見える。しかし、「単純な要因について分析」というのは方法論への言及していることにほかならない。方法論と独立して定義するという前提に矛盾するのではないか
★15。
2.ある現象が「複雑多岐の要因が連関する全体的・統合的場」であると言明するためには、要因が先に定義されていなければならない。要因が何だか分からない段階では、それらが「複雑多岐」
★16かどうかも「連関」しているかどうかさえも実証できない。研究の出発点で判断しなければならない基準に、研究を進めなければ解明できない要因が含まれていると言えないだろうか。
現場(フィールド)心理学の発展のカギは、上記4.1で述べた情報的価値:
自分が能動的に働きかける世界について、手がかりの不確実性、もしくは、結果が出現する不確実性が減少するような情報を与えること
が、今後公刊される諸発表の中でどれだけ提供されるかにかかっているように考える。
4.3.実験心理学が得意とすること、不得意とすること
長谷川(1998a)で論じたように、心理学における実験的方法は
・広く支持されている法則に対してそれが成り立たない事例を示す実験(「反証実験」)
・ある法則の及ぶ範囲を広げ、その生起条件を確定するための実験(「生起条件探求型実験」)
を得意としている。
その一方、 実験研究だけである法則(仮説)が立証されることは決してありえない、せいぜい、ある法則(仮説)に合致する現象が少なくとも1つ存在することを人工的に示せるだけであり、またそもそも、法則(仮説)は要請の範囲で構成されるのだという点に留意しておく必要がある。
これらを混同して、実験研究に過剰な期待をかけることが、実験的方法に失望したり、別れを告げようとする動きに拍車をかけたりしているように見える。
ところで、
広く支持されている法則に対してそれが成り立たない事例を人工的に示すことにはどういう意義があるのだろうか。これは市川(2001) が、研究の情報的価値の1つとして挙げている「意外性」に相当するものである
★17。
例えば、
・「イヌがお座りをする」という条件づけは日常生活では当たり前のこと。それを実験研究で示したからと言って誰も驚かない。
・イヌに「右」と号令をかけたら右に、「左」と号令をかけたら左に顔を向けるように条件づけし、第二段階では、「足」という号令をかけたら片足を上げるように条件づけしたとする。第三段階で、いきなり「右、足」と言った時にそのイヌが何の予備訓練もなしに右足を上げたとしたら、誰でもビックリするだろう。
上記の2番目のビックリには「できるはずの無いことができた」という確率レベルでのビックリに加えて、「イヌにも左右の概念が理解できるのか」という理論レベルでのビックリがあるが、ここでは深く追求しない。私が言いたいのは、当たり前と思われている事柄が覆されることにはそれなりの情報的価値があるということだ。
上記では「反証」と書いたが、要するに、実験事実そのものは「発見」でも「反証」でもない。研究の文脈や日常茶飯事との関連の中でその意義づけが決まってくるのである。
そして
・いままで一度も観測されていない現象を人工的に作り出すこと
・常識概念や固定観念を覆す現象を見出すこと
は一般に「発見」と呼ばれ、
・理論や法則に基づく予測に反する現象を見出すこと
は一般に「反証」と呼ばれるだけである点に留意する必要がある。
先に引用した柳瀬(2000)は、もともと高野陽太郎氏の「外国語効果」に関する実験論文に批判的考察を加えたものであった。 ここでいう「外国語効果」とは、
不慣れな外国語を使っている最中は、その外国語を使うのが難しいだけでなく、思考力も一時的に低下する
というものである。
この「効果」はしかしながら実験的方法によって立証される性質のものでは決してない。導くべき正しい結論は、
不慣れな外国語を使っている最中は、時として、思考力の一部が一時的に低下する場合があるという一例が人工的に示された
と考えるべきである。
また、その研究の情報的価値は、「不慣れな外国語を使っている最中でも、言語的要因が殆どない『純粋な』思考は決して低下しない。」という常識観念がある場合に限って大きな発見となる。逆に、低下すると思っているならば、「ああそうですか」と思うだけのことだ。これこそが「広く支持されている法則に対してそれが成り立たない事例を示す実験(「反証実験」)」としての価値である。
けっきょくのところ、「外国語効果」は、起こる場合もあるし起こらない場合もあると考えるべきだろう。重要なのは、もし起こるとしたらどういう文脈の中で起こるのか、どういうタイプの思考行動については起こりうるものなのか、その効果の及ぶ範囲や程度
を現場に即して調べ上げていくことである。こちらの方向が「ある法則の及ぶ範囲を広げ、その生起条件を確定するための実験(「生起条件探求型実験」)」ということになる。
もう1つ、南風原・市川(2001)で取り上げられているEdward L. Deciの内発的動機づけに関する実験について考えてみよう。Deciの実験は、
自発的にとりくんでいる活動に外的な報酬を与えると,その活動に対する内発的動機づけが低下する
という命題を実験的に検証することにあったと論じられているが、実際はどうだろうか。
確かに設定された条件のもとでは
金銭的報酬を支払う条件の大学生のほうは,自由時間にパズルを行う時問が短くなってしまった.
という結果が得られているが、被験者を大学生以外とした場合や金銭的報酬の額を変えた場合など、あらゆる条件の下で「外的な報酬」が妨害的な効果をもたらすかどうかは全く分からない。じっさい、自発される行動が少ない段階では、「外的な報酬」を付加したほうが行動が促進される場合がある。
また、ここでは内発的動機づけが,「活動することそれ自体がその活動の目的であるような行為の過程,つまり,活動それ自体に内在する報酬のために行う行為の過程」(Deci & Flaste,1995,訳書p.27)として定義されているが、同じ現象は、「行動することそれ自体によってもたらされる結果が好子」によって強化される(=「行動内在的強化随伴性」)という行動分析の概念的枠組でも説明できる。後者では「活動の目的」とか「報酬のために行う」という言葉は必要ない。「行動内在的好子の随伴によって強化される」と記述するだけで十分である。
けっきょくのところ、Deciの実験から導かれる唯一の結論は
外的な報酬を付加的に随伴させることは、行動内在的随伴性よって維持されている行動を必ずしも強化しない
あるいはDeciの概念的枠組みで言うならば
外発的動機づけと内発的動機づけとは促進的な関係にあるとは必ずしも言えない
という反例を示したにすぎない。つまり、「広く支持されている法則に対してそれが成り立たない事例を示す実験(「反証実験」)」としての情報的価値を与えているだけであって、「内発的動機づけ」概念の妥当性・有用性を立証したものでは決してない点に留意する必要がある。
先の「外国語効果」同様、このケースで重要なのは、「行動それ自体がもたらす結果のうちどの部分が好子になるのか」、「行動がどの程度自発されている時に、外的は報酬の付加は妨害的な効果をもたらすのか」という形で、「ある法則の及ぶ範囲を広げ、その生起条件を確定するための実験(「生起条件探求型実験」)」を重ねていかなければならないのである。
4.4.発信者と受信者の相互作用も重要
ここまで述べてきた内容はすべて「研究者自身の対象への能動的な関わり」もしくは「研究者と対象者(被験者)との相互作用」に関するものであったが、もう1つ、研究結果を発表する側と、それを受信して利用する側の相互作用についても注意を向けておく必要がある。
これまで研究者の成果は原則として学術論文として公表されてきた。読者がそれをどう理解しようと、どう利用しようと、それらに関わらず、論文それ自体に価値があるものと考えられ、研究業績の評価にも用いられてきた。
しかし、市川(2001)が言うところの、研究の情報的価値(意外性と確実性)と実用的価値のうち、発信側が責任をもつべきものは唯一「確実性」だけである。なぜなら、「意外性」はその時代の研究の文脈に依存するし、また実用的価値も利用する側の力量に委ねられているからである。その意味では、「研究イコール原著論文」では決してない。ある時代のある社会の中で研究活動発展させるためには、研究成果を利用する行動の量と質を高めていくことが合わせて求められる。
下山(1997)は、臨床心理学の主な研究法である事例研究法について
心理臨床学会の発表の大半を占める事例研究法は,現場の実践の研究法としては最も適したものであることは確かである。しかし,その方法論的特色を把握した上で使用しないと単なる事例報告に終わる可能性が高い。単に精神分析やクライエント中心療法の理論(仮説)をドグマとして受け取り,それをやってみたらこうなりましたという報告をしただけで,ある種の検証的研究をした気になってしまいやすい。その結果,自らの実践を心理学の方法として学問化する作業がなされないまま,学問をした気になり,自己満足は維持される。その場合,実践としても自己満足に終わって,創造性,発展性のないものとなる[pp.60]。
という問題点があることを指摘しているが、「それをやってみたらこうなりました」という報告」に終わらせないためには、聴き手側にもそれなりの受信技能が要求される。
同じ問題は。医療施設や介護施設従事者の研究発表会の中にもみられる。あくまで私の個人体験に基づく印象にすぎないが、心理学の厳密な方法論から見ると、私が参加した研究会においては、実証性、一般性、客観性、再現可能性などの点で不完全な報告が多々見られた。
しかし、もともと医療・福祉の現場で得られた実例というのは、それぞれのケースに著しい個体差がある。実証性を重んじるばかりに実験的方法を厳密に適用するというのは、体調不良を訴える患者を検査漬けにして何がなんでも病気の原因を探るようなものである。やっとのことで原因が癌であると実証したものの、患者は検査結果を待たずに死亡してしまった、ということになりかねない。それよりも、現場のスタッフが、現状の人的資源や設備を最大限に活かして最善の対応をとることのほうが大切であり、実証性や一般性は目的ではなく結果として追求されるべきものとなるケースが多い。
研究発表というのは、提供される情報が受け手に活用されるものでなければ意味がない。数学、物理学、化学などであれば、実証性や一般性のある発表こそに価値を見出すことができる。しかし、医療現場のようにあまりにも多様な要因が同時に関与する場面では、個別の事例から一般性を引き出そうとしても限界があるのは当然。また、仮に一般性が証明されたとしても、それを別の事例に機械的に当てはめることは殆ど不可能と言える。
事例報告が他者に与える情報にはいくつかのステップがあるように思う。
1.「よかったです」型の報告。聞き手は、ああよかったねえ、と共感する。
2.「がんばっています」型の報告。聞き手は「あの人たちもがんばっているんだから私たちも頑張ろう」と元気づけられる。
3.報告に含まれている情報を一定の概念的枠組みに基づいて一般化し、「うちでも今度はそれを試してみよう」と活用する。
4.ある理論や法則に一致する結果についての報告。
5.ある理論や法則を否定する結果についての報告。
このうちの1.と2.は、ホームルームでボランティア活動の体験談を述べあうようなものであり、お互いを励ますことには繋がるが、発表内容自体にはあまり情報的価値はない。4.のケースはいわゆる追試であって、法則の及ぶ範囲を拡大するか、確信の度合いを高めた時に価値がある。また、5.は最も重要な情報であり、これが確認された場合には理論の再構築を迫られることになる。しかし現場からの報告の場合には3.のレベルが要求されることが多い。
3.のレベルでは、発表そのものの絶対的な実証性や一般性にこだわる必要は必ずしもない。それよりも聞き手側において、他者の経験から何が活用できるのかを汲み取る力が求められる。これは、成功あるいは失敗事例の原因についての思い込みや固定的な見方を捨て、すべてをクリティカルな目で受け止めていく姿勢であるとも言える。
自然科学の世界では方法論の厳密性がしばしば強調されるが、ナマの体験を重視する世界にあっては、発表内容自体よりも、送り手(発表者)と受け手(聴衆)双方の批判的思考の目を養う教育に力を入れることのほうが大切ではないだろうか。
長谷川(1998a)は、佐藤(1976)の翻案として
科学的認識は、広義の言語行動の形をとるものだ。人間は、普遍的な真理をそっくりそのまま認識するのではなくて、自己の要請に応じて、環境により有効な働きかけを行うために秩序づけていくというのが、基本的な視点となっている.
と論じたが、発信側と受信側の双方向のインタラクションを考慮するならば、21世紀の研究は次のように言い換えることができるだろう。
科学的認識は、広義の言語行動の形をとるものだ。人間は、普遍的な真理をそっくりそのまま認識するのではなくて、自己と他者の相互の要請に応じて、環境により有効な働きかけを行うために秩序づけていくというのが、基本的な視点となっている.
引用文献
阿部謹也(2001).「世間」とズレた大学改革〜制度より学問の論議を. 朝日新聞文化欄2001年2月15日記事.
秋田喜代美・市川伸一(2001).教育・発達における実践研究.[南風原朝和・市川伸一・下山晴彦 (2001).『心理学研究法入門:調査・実験から実践まで』.東京大学出版会, pp.153-190].
Deci, E. L. (1957). Effects of externally mediated rewards on intrinsic motivation. Journal of Personality and Social Psychology, 18, 105-115.
Deci, E. L. , & Flaste, R. (1995). Why we do what we do: The dynamics of personal autonomy. G. P. Putnam's Sons.[桜井茂男(監訳)(1999).人を伸ばす力---内発と自律のすすめ. 新曜社.]
南風原朝和・市川伸一 (2001). 実験の論理と方法. [南風原朝和・市川伸一・下山晴彦 (2001).『心理学研究法入門:調査・実験から実践まで』.東京大学出版会, pp93-121.].
南風原朝和 (2001). 準実験と単一事例実験. [南風原朝和・市川伸一・下山晴彦 (2001).『心理学研究法入門:調査・実験から実践まで』.東京大学出版会, pp.123-152.].
南風原朝和・市川伸一・下山晴彦 (2001) 『心理学研究法入門:調査・実験から実践まで』.東京大学出版会
長谷川芳典 (1998a). 心理学研究における実験的方法の意義と限界(1).岡山大学文部部紀要, 29, 61-72.
長谷川芳典 (1998b). 心理学研究における実験的方法の意義と限界(2).岡山大学文部部紀要, 30, 87-102.
東正訓・橋本尚子・加藤徹・藤本忠明 (1994). 「大学生の心理学観の構造」. 『心理学論集』(追手門学院大学)2,1-7.
市川伸一 (2001). 心理学の研究とは何か. [南風原朝和・市川伸一・下山晴彦 (2001).『心理学研究法入門:調査・実験から実践まで』.東京大学出版会, pp1-17.].
伊藤哲司 (1997). 現場(フィールド)への誘い.[やまだようこ編『現場心理学の発想』. pp.3-11.]
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尾見康博 (1998). フィールドワーク,現場,心理学. 東京都立大学人文学部『人文学報』No.288 pp.101-114.[サトウタツヤ・渡邊芳之・尾見康博 (2000)に所収]
尾見康博・川野健治 (1994). 人びとの生活を記述する心理学--もうひとつの方法論をめぐって--. 東京都立大学心理学研究, 4. 11-18.[サトウタツヤ・渡邊芳之・尾見康博 (2000)に所収]
佐藤方哉 (1976). 行動理論への招待. 大修館書店.
佐藤達哉 (1997). 第3章 心理学で何ができるか一違和感分析への招待.[やまだようこ編『現場心理学の発想』. pp.31-62.]
サトウタツヤ・渡邊芳之・尾見康博 (2000) 『心理学論の誕生:「心理学」のフィールドワーク』. 北大路書房.
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島宗理 (2000). パフォーマンス・マネジメント--問題解決のための行動分析学---.米田出版
Skinner, B. F. (1953). Science and human behavior. New York: Macmillan.
山田洋子 (1986).モデル構成をめざす現場(フィールド)心理学の方法論).愛知淑徳短期大学研究紀要, 25,31-51. [やまだ(1997)に所載]
やまだようこ編 (1997) 『現場心理学の発想』. 新曜社.
ゼックミスタ・ジョンソン著、宮元・道田・谷口・菊池訳 (1996). クリティカルシンキング入門編. 北大路書房.
脚注
★1 象牙の塔が「言葉と動作、義理人情と宴会などによって表現されるは歴史的・伝統的システムをわが国の遅れとして位置づけ、無視しようとしてきた。」ことによってもたらされたと言えるかどうかは大いに疑問が残る。阿部氏が言及された2つのシステムは、意思決定や合意のシステムとしては明らかに異質ではあるものの、それらを対象とした研究の方法そのものを固定するものとは言い難い。少なくとも行動科学では、「言葉と動作、義理人情と宴会などによって表現する」こと自体を、「文字と数字によって表現され論理を重んじるシステム」によって分析、記述する試みが行われているからだ。
★2 南風原・市川(2001)は同じ章のコラムの中で
認知心理学(cognitive psychology)では,人間を一種の情報処理システムとみなして,そのしくみやはたらきをモデル化してとらえようとする.1940年代半ば以降めざましく発展した情報理論や計算機科学の影響を大きく受け,1950年代後半には,情報の入力(input),出力(output),検索(retrieval)といった用語が,人間を被験者とした実験研究でも盛んに使われるようになった.
......................【中略】..........................
.................これに対して,1980年代半ばから状況論(situation theory)という立場が登場する.状況論は,行動主義にしても,情報処理的な認知心理学にしても,人間の知的行為を個体単位でとらえすぎているといって批判する.
.........................【中略】..........................
方法論的には,文化人類学や民俗学などの「エスノグラフィー」のように,日常的な状況の中での観察,記述が主となる.認知心理学のように知識,目標,計画といった観点から内的過程の用語を使って行動を説明するのではなく,環境内で道具や他者と関わりながら知的行動が発現するようすを描くことになる.
と述べ、「人間の知的行為を個体単位でとらえすぎている」という批判対象に行動主義を含めているが、スキナーの行動分析学まで含めているというのであればこれは当たっていない。
確かに行動分析学は個体単位で行動をとらえることを重視しているが、それ自体は決して問題ではない。本当の問題点は、
・個体を外界から孤立した存在としてとらえ点
・能動的な関わりを考慮しない点
にある。行動分析学は、状況論の批判対象ではなく逆に批判を提起する側にある。「知識,目標,計画といった観点から内的過程の用語を使って行動を説明するのではなく,環境内で道具や他者と関わりながら知的行動が発現するようすを描く」というのは、まさに行動分析学その発想そのものであることを強調しておきたい。
★3 ひとくちに応用といっても、生活現場に応用するのか、科学技術に応用するのかでは観点が違う。例えば、人間の文字知覚についての基礎的研究はOCRの開発に役立つであろうし、歩行機能についての基礎的研究は人間型ロボットの開発に役立つが、この方面でいくら応用に成功しても、人間行動の面で実用的価値をもつは言い難い。
★4 「現場(フィールド)」の定義については本稿の4.2.の中で改めて論じる。やまだ(1997)では、「現場」という言葉に原則としてすべて「フィールド」というカタカナ・ルビがふられている。その意図は “多重言語の発想を同時に併用していることにある[p.19]”というが、印刷およびWeb表示上の都合により、本稿では、ルビの代わりに「現場(フィールド)」という表記を使わせていただくこととした。
★5 (2)に近い立場は必ずしも実験心理学を排除しているわけではない。棲み分けを狙っているものもあれば、連携を模索しているものもある。
★6ゼックミスタ・ジョンソン(1996、69頁)からの翻案。、
★7 いまふうの循環型消費の発想から言えば「実験結果の再利用可能性」と言ったほうが正確かもしれない。
★8 一般性(研究結果の一般化可能性)は、研究の外的妥当性または外部妥当性とも呼ばれる(南風原, 2001)
★9 これは一般に、研究の確実性(市川, 2001)あるいは研究の内的妥当性(南風原, 2001)に相当する概念である。
★10 南風原(2001)では、単一事例実験法は、準実験(quasi-experimental design)の延長上に位置づけられている。
自然科学に準ずる実験型研究や調査型研究では,データの客観性を保つために,研究(者)が対象(者)に影響を与えることを極力避けるようにデータ収集の場を設定する.たとえば,研究者が観察していることが対象者の行動に影響を与える観察者効果が生じないようなセッティングが望ましいとされ,そのための方法として,研究企画者と研究担当者を分け,研究の対象者だけでなく,研究担当者にも研究の意図を知らせずに研究を遂行する2重盲験法が開発されている.したがって,研究者が対象者との間で人間関係を形成すること(関係性)や,研究が対象(者)の生活状況に関与すること(状況性)は,まず第1に排除される事柄となる.
と述べている。
★12 メドニック(1996)。その本の引用元はコロンビア大学のJesterとなっている。
★13 やまだ(1997)は 1986年に愛知淑徳短期大学研究紀要に収録された山田(1986)の再掲載であるが、引用上の利便性を考慮して、本稿では、やまだ(1997)のページ数を付すこととしたい。
★14 尾見(1998)は、現場の定義に関して“違和感を持たないためにも,やはり「現場」は場所の意味として用いた方がよいように思う。”と述べ、やまだ(1997)とはやや異なる議論を展開している。
★15 念のためいっておくが、実験室は、「要因が単純に存在している」場ではない。外部世界と同様に要因は複雑に存在する。単純な要因を操作する場にすぎないのである。
★16 ひとくちに「複雑多岐の要因」と言っても、いろいろなレベルがある。包括的に把握できる概念もあるし、分析のレベルでいくらでも細かく分けることもできる。
例えば、虹という現象は、包括的なレベルでは、「○○地方で何回観測された」というように記録することができるし、その光学的なメカニズムも解明されている。しかし、虹が生じる際の空中の水滴の分布や太陽光線の角度は複雑に連関している。 将棋の駒も同様。将棋盤上の個々の駒の動かし方はきわめて単純なルールで定められているが、それぞれの駒がどのように連関して攻撃や守備に貢献しているのかということはきわめて複雑であり高性能のコンピュータでもなおフォローしきれないほどである。
★17 市川(2001)は、「意外性」の事例として
「「意外性」というのは,(a)Aさんが宝クジで1万円あたった」という情報と,「(b)Aさんが宝クジで5000万円あたった」という情報の違いに相当する.つまり,もともと生じる確率が小さい事象が起こったという(b)のほうが,より大きな情報を得たことになる.
を挙げ、研究の情報的価値や確実性もこれに準じて考えることができると指摘しておられた。
しかし市川氏の挙げた事例は、単に希少性を示すだけのものであって、いくら「準じて考える」と言えども必ずしも情報的価値には結びつかないように思う。例えば、皆既日食などは滅多におこらない現象であるが、いつどこでどのくらいの継続時間の日食が観測されるのかということは何百年も先まで予測することができる。その意味では、皆既日食がおこること自体には何の意外性もない。いっぽう、雨が降ること自体はしょっちゅう起こる現象だが、「明日は快晴、降水確率0%」と予報されているにもかかわらず雨が降り出したら大いに意外性があるということになる。要するに、「意外性」とは単なる「希少性」ではなく、人間が能動的な関わりを持つなかで、文脈に依存して規定されるものなのである。
修正履歴
- 2002.7.19. 市川(2000)の誤植を市川(2001)に訂正