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「英語が使える日本人」再考
 
岡山大学文学部紀要, 38, 41-76.(2002年12月)
 
長谷川 芳典
 
・岡山大学文学部紀要38号に掲載された論文を再校の段階でWeb化したものです。
・画面表示の都合上、脚注の付け方や引用文の表示などが印刷物と異なっている部分があります。
・引用される場合は本稿のurlを明記するか、印刷物として刊行されたものからお願いいたします
 
 
 本稿は、「英語が使える日本人」育成について、心理学や行動分析の視点を交えながら再検討を加えることを目的とする。本稿は、(1)重点的な政策課題としての英語教育を推進する論調を概観し、(2)それらの提言についてどのような異論があるのかを分類整理、さらに、(3)心理学や行動分析の視点を交えながら主要な論点をとりあげ、最後に今後の方向性をさぐるという内容で構成される。
 
 
1.政策課題としての英語教育改革
 
 日本人の多くが英語を使えないということは、種々の報告書や提言の中で繰り返し指摘され続けてきた。その特色としては、教育現場よりもむしろ、政府やその諮問機関、産業界などからの要請が強められてきたことにある。
 
 過去5年程度にさかのぼって主な報告書、提言を参照してみると、まず、平成8年度の国民生活白書(要旨)*1には
 
(外国と比べ相対的に低下する英語能力)
 日本人の国際化に対応する能力の1つである英語力について、英語能力検定試験TOEFLのデータをもとにみると、他の国は上昇しているが、日本は横ばいである。
日本の得点をアジア諸国・地域の中で比較すると、60年代には中位にあったが、90年代に入ると低い成績となっている 。また、得点の内訳をみても、日本は「語意と読み取り力」、「構成と書き取り力」、「聞き取り力」とも低い。日本人の英語能力は「読めるが話せない」と言われているが、読む力も十分ではないことがわかる。
( 外国語の授業時間数が短い日本)
 中学校における1年間の外国語の授業時間をみると、日本は117時間であり、オランダの約303時間、フランスの約173時間、ドイツの約151時間など、ヨーロッパの非英語国の授業時間数と比較すると、かなり短い。ヨーロッパ諸国は、母国語と言語体系の類似した英語の授業に長い時間を割いているが、日本は、日本語が英語と言語体系が異なり、ヨーロッパの諸国と比較して英語の習得に長時間を要するにもかかわらず、英語の授業時間は短い。
 
という記述がある。
 
 インターネットの利用が顕著となった平成11年度国民生活白書(要旨)*2には
 
(インターネット活用に必要な英語能力)
 また、今日、国際語としての英語は、インターネットを活用する上でも必要な能力の一つである。日本人の英語能力を、TOEFL(トーフル、Test of English as a Foreign Language:英語を母国語としない者が北米の大学に入るための世界共通英語試験)の得点でアジア地域の各国と比較すると、98年には25か国・地域中最下位になっている。企業が求める資格はコンピュータ関係と英語関係との指摘があり、今後インターネットの活用に合わせて英語能力の向上が望まれる。
 
という指摘があった。
 
 なお、英語能力検定試験の国際比較についてはその後も種々のデータが公表されている。例えば、TOEFLの2001-02年度版のデータ・サマリー*1によれば、TOEFLコンピューター・テスト(CBT、日本では2000年10月より切り替え・導入)において、日本語を母国語とする受験者60114人の平均点は184点であり、韓国語者201点(52506人)、中国語者204点(45355人)などアジア各国が軒並み200点を超えているなかで際だった低さを示している。表に示されているデータの中で、日本より平均が低かったのは、ジャワ語者175点(280人)、ウォロフ語者183点(296人)、 マドゥラ語者Madurese182点(129人)の3言語者のみであった。*2
 
 2000年1月、故・小渕恵三首相の委嘱を受けた「21世紀日本の構想」懇談会がまとめた、「日本のフロンティアは日本の中にある―自立と協治で築く新世紀―」という報告書*3は、「第6章 世界に生きる日本(第1分科会報告書)」の中で
 
3.国際対話能力(グローバル・リテラシー)のために
 すでに国際化の進行とともに、英語が国際的汎用語化してきたが、インターネット・グローバリゼーションはその流れを加速した。英語が事実上世界の共通言語である以上、日本国内でもそれに慣れる他はない。第二公用語にはしないまでも第二の実用語の地位を与えて、日常的に併用すべきである。国会や政府機関の刊行物や発表は、日本語とともに英語でも行うのを当然のたしなみとすべきである。インターネットによってそれを世界に流し、英語によるやりとりを行う。そうしたニーズに対処できる社会とは、双方向の留学生が増大し、外国人留学生の日本永住や帰化が制度的に容易となり、優れた外国人を多く日本に迎え、国内多様性が形成された社会であろう。日本が国際活動の流れから外れてしまうジャパン・パッシングを嘆く事態を避けるには、日本社会を国際化し多様化しつつ、少子・高齢化の中でも創造的で活気に満ちたものとすることである。それが21世紀の日本の長期的な国益ではないだろうか。
 
と提言した。この中の「第二公用語にはしないまでも第二の実用語の地位を与えて(英文では“Even if we stop short of making it an official second language, we should give it the status of a second working language and use it routinely alongside Japanese.” 」というくだりは、「英語第二公用語論」として多くの議論をまきおこした。*4
 
 また故・小渕恵三首相の決裁により2000年3月24日に発足した教育改革国民会議は、2000年12月12日に森首相に提出した「教育改革国民会議報告 −教育を変える17の提案−」の中で、
 
(4)IT教育と英語教育は、なるべく早い時期から、「本物・実物」に触れさせながら促進する。教える人と教え方が重要である。英語を母語とする外国語指導助手(ALT)や専門的知識や経験を持ったスタッフを学校外から積極的に登用する
 
という具体的提案を行った*1
 
 2001年1月に報告された英語指導方法等改善の推進に関する懇談会報告*2は、単に英語教育の必要性を説くばかりでなく、具体的な改善策を多数提示している。その中の、「英語教育を行う際に留意すべき事項」から部分引用すると、
 
 一.コミュニケーションの能力を高めること
  英語によるコミュニケーション能力の育成を図る際の大きな課題として、我が国では、成人も含め学生や生徒の多くが自分の意見などを発表することに消極的であることが指摘されている。また、英語教育の在り方によってはかえって英語アレルギーを抱く者を生み出しているという意見もある。
  このため、英語や英語の背景にある歴史や文化などを学ぶことにより、日本語や日本のことがより分かるようになり視野が広がるということを十分に理解させながら、自分のことを理解してもらうために相手と積極的にコミュニケーションを図ることが重要であるといった意識や、積極的に英語を使って意思疎通を図ろうとする意欲を生み出すような指導が求められる。
二.  過度に細部にこだわらず、積極的に英語を使用する態度を育成すること
  外国語として英語を学習した者が、その習得した英語を用いて表現する際は、その者の母語の発音、文法構造等にある程度影響されたものとならざるを得ない。そのため、習得した英語を用いて表現する場合は、完璧(ぺき)主義から脱却すべきであるとの主張も多い。このことは、特に積極的に英語を使用する態度を育成しようとする場合に重要である。
  言わば国際共通語となっている英語を用いてコミュニケーションを行うためには、モデルとしては現代の標準的な英語を理解できるようになること、また、発信する英語が相手方に正確に理解してもらえるようになることが必要である。しかしながら、英語を用いたコミュニケーションの指導に当たっては、過度に細部にこだわったり、小さな誤りを指摘したりすることによって、コミュニケーションに対する消極的な態度の形成につながるようなことがあってはならない。
  三.コミュニケーションの技術としての英語力を育成すること
  コミュニケーションには、自分の考えや情報などの伝える内容が不可欠であるので、そのような内容をしっかり身に付けさせることが大前提であるが、内容があっても伝える技術が不十分では伝わらないこともあることから、コミュニケーションの技術の習得をしっかり行う必要がある。また、コミュニケーションには、聞くこと話すことの力とともに、読むこと書くことの力も重要であり、これらの力を具体的な言語活動を通して有機的に関連付けながら育成することが求められる。
  コミュニケーションは、相手を理解し、自分のことを表現して成立する双方向の性質を持つものであることから、理解と表現を統合してとらえ、聞いてそれに反応したり、質問をするなどの力の育成は極めて大切であると言えよう。
 
また、「モティベーションを高めるための具体的な方策」として
 
モティベーションを高めるため、英語で授業を行い、英語でコミュニケーションを行う場を設定することによって刺激を与えたり、英字新聞や英語放送などを積極的に取り入れたり、生徒の能力・適性等に応じて具体的な挑戦すべき目標を示すなどの工夫が必要である。
  学習評価についても、様々な言語活動への参加状況やコミュニケーション能力が実際に身に付いたかどうかを評価することが重要である。
  英語の授業以外の学習の場においても、例えば、英語で日本文化を紹介するビデオを作るなど生徒が主体的に取り組むプロジェクト学習の充実や、学校行事などにおける創意工夫を生かした特色ある活動の推進が望まれる。また、校内放送を英語で行うなど英語に触れる環境づくりを行ったり、地域に居住する外国人との交流の機会を確保して英語を実際に使う機会を作るなどの工夫も必要である。
  さらに、外国語能力の検定や海外の教育機関で学ぶ留学や短期語学研修、インターンシップやサマー・ジョブなど職場体験を目的としたプログラム、また、海外でのボランティア活動などについての情報提供を積極的に行い、モティベーションを具体的に形成できるよう配慮することが大切である。
 
と指摘されている。これらについては本稿の後半で、改めて考察を行うことにしたい。
 
 本稿執筆の時点で英語教育に関して最も新しくなされた提言は、2002年7月12日発表の“「英語が使える日本人」の育成のための戦略構想の策定について”である*1。この構想は、上掲の「英語指導方法等改善の推進に関する懇談会」の報告を受け。また、2002年1月から5月にかけて、5回にわたり「英語教育改革に関する懇談会」を開催し、計20人の有識者から意見を聴取した結果をまとめたものであるという。
 この提言では、国民全体に求められる英語力として、中学・高校での達成目標を設定。具体的には、
 
・ 中学校卒業段階:挨拶や応対等の平易な会話(同程度の読む・書く・聞く)ができる(卒業者の平均が英検3級程度。)。
・ 高等学校卒業段階:日常の話題に関する通常の会話(同程度の読む・書く・聞く)ができる(高校卒業者の平均が英検準2級〜2級程度。)。
 
 学習者のモティベーションを高揚させるための政策課題として、
 
英語を使う機会の拡充 「外国人とのふれあい推進事業」/「高校生の留学促進施策」/「大学生等の海外留学促進施策」
入試等の改善 高校入試における外部試験結果の活用促進/大学入試センター試験でのリスニングテストの導入や、 各大学の個別試験における外国語試験の改善・充実/外部試験結果の大学入試での活用促進/企業等の採用試験や文部科学省職員の採用、昇任等の際に英語力の所持も重視。
 
 また、教育内容等の改善に関わる政策課題としては
 
・4技能の有機的な関連を重視した新学習指導要領の推進
・中学・高校において、生徒の意欲・習熟の程度に応じた選択教科の活用又は補充学習の実施等、個に応じた指導の徹底。
・「スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール」
・優れた英語教育カリキュラムの開発・実践等を行う大学や、特に全課程を英語で授業する大学(又は学部)を重点的に支援。
 
などが提案され、さらに、英語教員の資質向上及び指導体制の充実に関わる政策課題として
 
・国内外における教員の研修支援
・英語教員が備えておくべき英語力の目標値の設定(英検準1級、TOEFL550点、TOEIC730点程度)。
・中学・高校の英語の授業に週1回以上は外国人を参加させる。
・外国人(ネイティブ)の正規の教員への採用の促進
 
などが提案されている。このほか、「小学校の英会話活動の充実」や「適切に表現し正確に理解する能力の育成を目的とする国語力の増進」についても、新規・拡充施策が盛り込まれている。
 
 なお、以上に紹介した戦略構想の経緯の項には、この構想が2002年6月25日に閣議決定された「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2002」*2の指針も受けたものであると記されている*1
 
 さて、以上、政府関連の報告書等を引用してきたが、野党の中にも、英語教育の充実を強く主張する動きがある。民主党の英語第二公用語化検討プロジェクトチーム(座長・松沢成文氏、事務局長・小宮山洋子氏)は2000年5月23日に「英語の第二公用語化についての提言(中間まとめ)」を発表している。その内容は「目指せ!バイリンガル社会」や 「−−10年後に英語公用語化−−」という見出し、あるいは「大学入試では英語を廃止し、受験資格としてTOEFLかTOEICのスコアーを用います」といった提言からも示唆されるように、政府系審議会の提言をさらに強めた内容になっている*2
 
 
2.英語教育推進をめぐる諸議論
 
 前章では英語教育推進の立場について、種々の提言を引用してきた。この章では、これらの提言について、それぞれどういう議論があるのか、問題点を整理してみたいと思う。第一章で概観した論調を大まかにまとめると次のようになる。
 
(1)英語は事実上世界の共通言語であり、国際化・IT化の波の中で日本が生き残るためには、どうしても英語を使いこなす能力が必要である。
(2)日本人の英語力は外国に比べて劣っている。
(3)そのためには、 英語教育の量と質の改善が必要。
 
しかし、そのいずれにおいても、慎重な検討を要する数々の問題点が残されている。その主な異論は
 
(A)国際語としての英語の役割についての異論
・世界の共通言語として英語が使われることについての異論
・国際語としての英語と、ネイティブな英米語は使い分けるべきであるとの主張
 
(B)日本語と英語では外界の認識のしかたが本質的に異なっているとの主張
 
(C)英語力の現状認識についての異論
・英語能力検定試験の国際比較は証拠として不十分であるとの主張
 
(D)英語教育の達成内容に関する議論
・英語能力検定試験で測定されるリスニングや日常会話能力よりも、むしろ従来型の入学試験で問われているような英文読解力こそ大切であるとの主張
・日本語と英語の本質的な違いを重点的に説明するような教育をすべきであるとの主張
・ニホン英語を許容すべきであるとの主張
 
(E)英語教育の達成レベルに関する議論
・英語学習の負担を増やすことによって、他の学力が低下するのではないかという主張
・バイリンガルは1つのコンピュータに2つのOSを混在させるようなものだという出張
・この程度の改善策では期待される目標は達成できないという悲観論
 
(F)英語教育の方法をめぐる議論
・優秀なピアニストが必ずしも優秀なピアノ教師でないのと同様、外国人(ネイティブ)は必ずしも優秀な英語教師になりえないとの主張
・英語表現の間違いを罰するような教育システムでは、英語を能動的に使う行動自体が弱化されるとの主張
 
というように分類することができる。
 
 もちろんこれらは相互に連関しており、例えば(A)に関する前提が異なれば、達成内容やレベルはまるっきり変わってくるし、また、(D)や(E)が異なれば、それを達成するための方法も変わってくる。
 
 反面、(A)が不一致であっても達成内容が似てくるということもありうる。例えば、(A)の原則論に基づいてニホン英語を説く立場もあれば、習得時の過渡的段階として自信をつけさせるためにニホン英語を許容すべきだという立場もあるが、どちらも、こまごまとした誤用は許容するという点で、結果的によく似た方法が提言される可能性もある。
 
 本章では以上にかかげた異論を概観し、本稿の本来の目的である、行動原理に関わる異論は次の3章で重点的に取り上げることとしたい。
 
2.1.国際語としての英語の役割についての異論
 この議論は本稿の目的を越えるものであるので、簡単な紹介にとどめる。
2.1.1. 米国中心言語国際主義への批判
 前章で引用した「21世紀日本の構想」報告書、あるいは民主党の「英語の第二公用語化についての提言(中間まとめ)」が公表された後、特に「公用語」との関わりにおいてさまざまな方面から異論が出された。このうち、英語の第二公用語化に反対するエスペランチストの会(代表・樺山裕介氏)*1は、
 
・「グローバル・リテラシー」の確立のために日本人全体が英語を使えることが必要だというが、それは実際には、アメリカ合衆国を中心とする英語圏社会に国を挙げて融け込むことを意味している。
・英語圏すなわち国際社会ではない。英語を使う事すなわち国際化ではない。
・人口、経済力、技術力、政治力、軍事力を背景とした、国語化した民族語のさらなる膨張は、他の民族語を危機に陥れる。
 
などを挙げて[長谷川による一部要約引用]、英語第二公用語化論に反対している。
 
 12カ国語を流暢に話すことで知られる数学者ピーター・フランクル氏も、
 
・外国人とのコミュニケーションには自国語で他人と明確にコミュニケートする能力が必要となる
・外国語は後からいつでも学べる
 
などの理由から挙げて、いくつもある言語の中から英語を特権化するべきではないと主張している*2
 
 これとは別に、対外言語戦略の必要性から、日本語重視を説く立場もある。鈴木孝夫氏は経済大国としての日本が言語大国の道を選ぶべきであること、さらに「国連の公用語に日本語を」という主張を行っている(鈴木, 1995: 2001)。
 日本語を重視し国際語としての英語使用を否定する立場はしばしば、言語民族主義、あるいは言語排外主義として批判される。タニヒロユキ(2000)*3が指摘しているように、この考えをエスカレートさせると、外国語排斥(当然、文化と人間の排斥を伴う)の結果、外国へ自己主張はしても外国からの批判に耳を傾けなくなり、言語的に自閉し孤立する(当然、文化・人間・経済・政治的な孤立を伴う)という危険な結果を招く恐れがあるからである。
 とはいえ、外国人と話す時に、相手の母国語が何であれ
 
・「日本人は英語を使って会話すべきだ」という国際主義に立つのか「日本語で通すべきだ」という言語民族主義・言語拝外主義に立つのか
 
というように二者択一的に論じるのはたいへん危険である。
 例えば、日本の大学に留学生を受け入れる際に、日本語教育をきっちりサポートすべきなのか、それとも、「英語さえできれば大丈夫」という約束のもと、授業や日常生活の世話まで英語で行うことのほうがよいのかは議論が分かれるところであろう。
 そもそも、英語は国際的、日本語は国粋的というような議論は成り立たない。電気製品の統一規格でもそうだが、何が使われるかということは結局、現実に何が広まっているのかにも依存するものである。海外で日本語使用を広めること自体は何ら民族主義にはあたらない。
 
2.1.2. 国際語のあり方をめぐる議論
 上記2.1.1.は、主として英語優先主義に対する異論であった。これに対して、英語が世界の共通言語であるという現実を認めつつ、ネイティブの英語と、国際語として使われるべき英語は区別されるべきだと主張する立場がある。具体的には
 
(1)母国語としての英語使用者と、外国語としての英語使用者との対等関係維持すべきだとの議論
(2)国際語としての英語はもっと簡潔であるべき、もしくはそれぞれの母国語の影響を受けた、クセのある英語であってしかるべきだとの議論
 
などがある。
 
 このうち、(1)はほんらい当たり前の主張であらねばならない。一般論として、母国語としてのX語しか話せないAさんと、母国語としてのY語のほか外国語としてX語を話せるBさんの間で協議をする場合は、X語でコミュニケーションをとるしか方法が無い。その際にAさんは、X語を話してくれるBさんに敬意を払い、かつBさんのたどたどしいX語を理解しBさんが理解できるように簡潔なX語を使うように努めるのが当然であろう。Bさん自身がX語が下手なことを卑下したりAさんにこびへつらうようでは、真の国際交流などできるわけがない。
 
 鈴木(2001)はこの点について
 
これからの国際語というのは、世界のどの民族も少しずつ、公平にそれなりの負担や持ち出しを覚悟する、大岡裁きにある三方一両損の痛み分けで行くべきだ
・「イギリス、アメリカの英語そのものが世界に拡まった。だからわれわれもその正しい英語を身につけなければいけない」となると、損はすべて日本人を含めた非英語国民が引き受けることになってしまう。この形は一部の人が非難する英語帝国主義に他ならない。
・イギリスやアメリカの人は生まれたままの自分を少しも変えることなく、努力なしに国際交渉ができるので全部得。丸得。一方で、何年も苦労して英語を学ばなければいけない日本人は丸損。それは狡い、国際的に見て不公平だ。
 
と強調している。しかしながら、現実には、鈴木(2001)が指摘するように、英語という外国語をむやみとありがたがったり、英語のできる人を羨ましがるとか憧れる古い外国語観が根強い。そして、例えば、ネイティブが喋る早口で発音不明瞭な英語を聞き取ろうとヒヤリングの練習をし、また、日本人が苦手とするr(アール)とl(エル)の区別に時間を費やしたりする。国際会議で公用語として英語を使用するのであれば、ネイティブに対して、当然の権利としてゆっくりと明瞭かつ簡潔に喋ることを要求してもよいはずである。
 
 (2)は、「簡潔であるべきだ」という「べき論」のほか、ネイティブと同じレベルの英語を獲得することは現実に不可能であるという主張にもつながる。
 
2.3.日本人の英語力の現状認識についての異論
 英語を苦手とする人々の間で英語教育改革が議論されると、「日本人が英語を使えない」という主張は無批判に受け入れられがちである。TOEFL、TOEICといった国際的な検定試験における日本人受験者の平均点は確かに低い。しかしながら、他国との順位比較が客観的な根拠になりうるかどうかははなはだ疑問である。
 
 例えば、1章で引用した英語指導方法等改善の推進に関する懇談会報告(2001年1月)の資料編(http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/13/01/010110c.htm#06)には TOEFLの国別比較が掲載されている。その表には「日本人受験者の平均点は501点、アジア21か国・地域中18位)」であると記されているが、表にあげられた中でサンプルのサイズが同程度であるのは、中国562点(受験者70760人)、 韓国535点(61667人)、台湾 510点(32967人)、インド583点(30658人)という4カ国・地域にすぎない。 ちなみに同じ表の中には平均点上位3カ国が紹介されているが、それらはドイツ617点(44人)、ノルウェー607点(62人)、フィリピン584点(92人)と遙かに少なく、比較可能なサンプルとは言い難い。
 TOEFLに関しては、その後2001-02年度版のデータ・サマリー*1が公開されている。それによれば、TOEFLコンピューター・テスト(CBT、日本では2000年10月より切り替え・導入)において、日本語を母国語とする受験者60114人の平均点は184点であり、韓国語者201点(52506人)、中国語者204点(45355人)などアジア各国が軒並み200点を超えているなかで際だった低さを示している。表に示されているデータの中で、日本より平均が低かったのは、ジャワ語者175点(280人)、ウォロフ語者183点(296人)、 マドゥラ語者Madurese182点(129人)の3言語者のみであった。*2
 しかしTOEFL-CBTの受験者数がアジア地域で1万人を越えているのは、日本、韓国、インド、台湾、中国、フィリピンの6カ国・地域(Paper-basedはこのうちのフィリピンを除く5カ国・地域)、ヨーロッパではドイツ、フランスの2カ国にすぎない。上記同様、サンプル数に問題が残る。
 
 TOEICの公式サイトには、少し古いが1997〜1998年の国別平均点が掲載されている(   http://www.toeic.or.jp/toeic/data/Worldwide%20Data.pdf)。それによると日本人受験者の平均スコアは451点であり、16カ国・地域の中で最低であった。しかし、日本人の受験生は86万2509人でありなんと全受験者の62.7%を占めていた。いっぽう平均点が最高を記録したドイツ(788点)の受験者数は615人にすぎなかった。
 
 以上から言えるように、点数や順位に基づく国際比較は、日本人の英語力を測る客観的証拠としてははなはだ不十分である。また、英語が国際語化しつつあるとはいえ、TOEFLやTOEICの点数向上を達成目標として教育を目ざしている国はそれほど多くないということも結論できる。
 
 但し、絶対評価*3として、中学〜大学における現行の英語教育が必ずしも成果をあげていないこと、また、アジアの先進国・地域の中で遅れをとっているという事実は読みとることができる。
 
2.3. 英語教育の達成内容に関する議論
2.3.1. コミュニケーション力と読解力に関する議論
 第1章ではコミュニケーション*4力の1つとしてリスニング力を重視する施策がいろいろと提言されていた。これに沿う形で、NHKラジオでは、2001年まで放送され続けていた「英会話入門」に代わり、2002年度より「英語リスニング入門」が開講されるようになった。
 また、第1章の引用の中では英語能力検定試験の得点を重視する施策が提言されているが、例えばTOEICの場合は、リスニングの問題が全体の半分を占めている。TOEICで高得点をとるためには、リスニングに重点を置いた学習をすすめる必要が出てくる。
 しかし国際ビジネスマンや海外留学をめざすならともかく、一般の人たちにとってリスニングがそれほど重要なものかどうかは大いに疑問が残る。例えば国際学会の講演のような場では、講演と同時にアウトラインがスクリーンに表示されるので重要な単語を聞き間違えることはない。また、いろいろな国の人たちがしゃべるので、ネイティブのスピードや「音の崩れ」に馴れることばかりが重要であるとは限らない。
 いっぽう、個別に話をする時は、分からなければ聞き返せばよいだけのことである。聞き返しが失礼になるかどうか、自分のためにゆっくりわかりやすくしゃべってもらえるかどうかは、結局、相手にとって自分がどれだけ価値のある人間なのかによって決まってくる。もちろん、個人的な友人関係の中でスムーズな会話を実現することも大切ではあるが、いま求められているコミュニケーション力は、お互いが相手に対してどれだけ有用な情報を提供できるか、どれだけ尊敬されているか、にかかっているといっても過言ではない。*1
 
 さらに、今やネットの時代、情報の大半は、音声よりはむしろテキストベースで流される。リスニングに重点を置いた教育が本当に必要かどうか、いまいちど議論する必要があるように思う。
 
 ところで「日本人は英語が使えない」という主張とセットにして使われる言葉に「受験英語の弊害」がある。筆記試験による入試では受験機会や採点段階の公平性が求められるため、量や形式が著しく限られる。会話の流れに沿ってリアルタイムに「話す」力などは受験で高得点をとることには何の役にも立たない。結果的に、書き換え問題や穴埋め問題、読解力を試す問題が主体とならざるを得ず、そのような傾向に見合った技法が教えられることになる。
 しかしながら、受験英語によって、かなりの読解力や作文力が磨かれることもまた事実であろう。和田(1996)は自らの留学体験に基づき、受験英語がリーディング・アサインメントをこなす上で大いに役だったこと、書く力においても威力を発揮したことを挙げ、発音や聞き取りに力を入れるよりも、受験英語のスキルの一部である読み書きを重視すべきであると主張している*2
 
 このほか、別宮(1980, 1983)は、翻訳の入門書や誤訳指摘書の中で、専門家でさえ、英語の基本構文を取り違え重大なミスを起こしうることを種々の事例を挙げながらくりかえし主張している。翻訳家さえミスをおかすことを考えると、大学生が十分な読解力を有しているのかどうか、実証的な資料を得ておく必要があるように思う。
 これに関連して筆者は、心理学英語講読の最初の時間で、別宮(1983)に掲載されていた「脱クルマ優先社会」の英文の一部を辞書持ち込みで翻訳させてみた。しかしその冒頭の文:
 
The procedures for deciding whether or not to install crossing giving pedestrians the right to hold up wheeled traffic turn on a formula designed by the Department of the Environment.
別宮の訳例:歩行者が車両交通を一時停止させる権利を持つ横断歩道を設置すべきか否かは、環境省がつくった公式によって決定される。
 
を正確に訳せた学生は16名中ゼロであり、実際の答案の一部を挙げると
 
・歩行者に車輪をもちあげる権利を与えるために
・自然環境の分野にデザインされた公式
・歩行者の右側の歩道を取り付けるべきかどうか
・通行の方向を変えるのを妨げるために交差点の右側に道路を設置するかどうか
・自動交通を滞らせる権利
・歩行者専用の道路をとりつけるかどうかという問題や車の権利は
 
といった誤訳が散見された。どこまで一般性があるかどうかは確言できないが、国立大の学生でも英語を正確に訳せない場合があるという一例にはなるだろう。いずれにせよ、学習時間は無限ではない。そのなかでリスニングの教育と英文読解の教育の比率をどのように配分するのかは大いに議論が分かれるところである。
 
2.4.英語教育の達成レベルに関する議論
 
 理想論がどうあれ、小中高の教育全体の中でのバランスを総合的にとらえる視点から、現実的な対応を求める声もある。
 
2.4.1.他科目の学力低下の恐れ
 理由はどうあれ、今以上に英語教育を重視し、英語を使えることが入学や就職に有利になるような環境作りをめざすことになれば、相対的に、国語・数学・理科・社会などを学ぶ時間は削減せざるをえない。紙の上では「英語ばかりでなく国語力を」と提言しても、一日の授業時間や予習・復習時間は限られているのである。例えば小学生の学力低下が問題視されている現在*1、その立て直しをせずに、新たに英語学習を付け加えるようなことができるのだろうか。
 また、英語という同じ科目の中にあっても、時間数が限られている中では、リアルタイムの会話力の習得に重点を置けばおくほど相対的に英語読解力が低下することは否めない。
 
2.4.2. バイリンガルは1つのコンピュータに2つのOSを混在させるようなものだという出張
 
 英語が上達するための秘訣は、英語を使う時は英語で考えることであるとしばしば言われてきた。例えば石橋(1988)は、英語をマスターするための秘訣として
 
・英語は英語の、日本語は日本語の土俵で相撲をとる
・英語を逸早くマスターするための重要なポイントは、日本語圏と英語圏に自分自身を二分化し、英語を話すときには英語だけの思考回路でものを考え、日本語にはやたらとエイゴチックな表現を用いないことだ
 
と強調している。
 また、ジグリット・H・塩谷 (1991)は、
 
・「日本語的発想」では英語は話せない!
 
という書き出しで、父親が日本人、母親がアメリカ人である娘が、ネイティブとしての英語を獲得するプロセスを体験的に語り、さらに、宮崎(2001)は、外国人力士の日本語学習環境の分析や筆者自身の英語修得体験に基づいて「目標言語に漬け浸る」ことの重要性を説いている。
 
 複数の言語を流暢に話す人の口からもしばしば体験的に語られるように、1つの言葉を話す時はその言葉だけで思考するというのは確かに重要な上達のカギにはなるだろう。しかし、中学生や高校生の大多数にそのような切り替えができるという保障はない。
 
 ところで、2つの言語が同じように使いこなせる人は一般にバイリンガルと呼ばれる。人為的にバイリンガルを養成するためには、小学校の段階からの英語教育が必要であるとされている。しかしこのことがどのような副作用をもたらすのかは定かではない。松井(1999) はこの点に関して
 
.....そもそもものごころついた頃には二ヵ国語を母語として使い分けていた、なんて
いう状態は、人間として果たして本当に望ましいのでしょうか。
 わたしたち日本人が英語を学習するというのは、コンピュータにたとえて言うなら、日本語という基本OSの上で、そのOSと大変相性の悪い英語というアプリケーション・ソフトを走らせている状態です。わたしたちは、あくまでも日本語を扱うように設定された脳ミソで、四苦八苦しながら英語を操作しているのです。
 ものごころついた頃からのバイリンガルという状態は、一台のコンピュータに二つの全く異なるOS(例えばウインドウズとマックOSのような)を混在させるようなものだと思います。確かにこれなら日本語も英語も自在に操ることはできるでしょう。しかし、それは果たしてよい結果を生むのでしょうか。一人の人間に二系統の思考回路を混在させることが必ずしも一つの優れた結論につながるとは限らないのではないでしょうか。一人の人間に二種類の世界観を混在させることが、必ずしも幅広い視野を持つ国際人の育成につながるとは限らないのではないでしょうか。それはむしろ混乱を招くような気がしてしまうのは、杞憂なのでしょうか。
 
と、弊害の可能性を強調している。
 なお、第1章で取り上げた“「英語が使える日本人」の育成のための戦略構想の策定について”は、じつは副題では「英語力・国語力増進プラン」となっており、「適切に表現し正確に理解する能力の育成」を柱とする国語力の増進も政策課題に挙げている。但し、その具体的内容は、英語力増進プランにくらべるときわめてスペースが小さく、内容も抽象的な提案にとどまっている。さらに問題であるのは、英語力と国語力という2つのプランが並列されているだけであり、それらが相互にどう連関するのか、お互いを補強しあうのかそれとも干渉しあうのか、といった点について学術的根拠が何ら示されていない点にある。
 
2.4.3.現実的に不可能であるという悲観論
 
 上記2.4.1.のような問題に配慮しつつ、限られた時間と教育環境の中で理想を達成しようとしても、かけ声倒れに終わる恐れがある。例えば、1章で言及した、“「英語が使える日本人」の育成のための戦略構想の策定について”では、国民全体に求められる英語力として、具体的に、
 
・ 中学校卒業段階:挨拶や応対等の平易な会話(同程度の読む・書く・聞く)ができる(卒業者の平均が英検3級程度。)。
・ 高等学校卒業段階:日常の話題に関する通常の会話(同程度の読む・書く・聞く)ができる(高校卒業者の平均が英検準2級〜2級程度。)。
 
と提言しているが、このレベルを達成するためにどのくらいの時間の教育が必要であるか、特に、他科目の学力水準を維持しつつ「落ちこぼれ」をどう防ぐかという問題については、総合的な視点から実現可能と言えるかどうか、はなはだ心許ない。
 
2.5.英語教育の方法をめぐる議論
 
2.5.1.外国人(ネイティブ)は本当に優秀な教師なのかという疑問
 
 第一章に引用した各種提言では、 英語を母語とする外国語指導助手(ALT)の採用や、正規教員への採用促進が盛り込まれている。この背景には、
 
・英語の先生は英語が上手でなければならない。
・英語が最も上手なのは、英語を母国語とする外国人である。
・よって、英語を母国語とする外国人を多数採用する必要がある。
 
という素朴な「三段論法」がはたらいているように思える。確かに、ネイティブと接する機会をふやすことは、なるべく早い時期から “本物”に触れることに繋がり、また、“本物”であればこそ、学習者の発言や作文がどの程度本物に近いかを正確に判定することができるだろう。
 しかし、優秀なピアニストは必ずしも優秀なピアノ教師でないし、A級ライセンスを持ったドライバーが必ずしも優秀な教習所教員になれるとは限らない。本人が優秀なスキルを持っているということと、学習者に上手に指導できるかということは別の問題である。後者では、学習者にとってどういうところが習得しにくいのか、その原因はなぜかを的確に察知し、かつ、学習者の行動が適切に強化されるようなプログラムを立案、サポートする能力が要求される。
 3章以降で詳しく述べるように、日本語と英語では外界の認識のしかたが本質的に異なるという指摘もある。日本人にとってなぜ英語学習は困難であるのか、その原因を把握せずに、日本語すら十分にできないネイティブの雇用に予算を投入して果たして効果があがるのだろうか。実証が必要である。
 
2.5.2.間違いを罰するような教育システムの弊害
 
 英語で「話す」、「書く」という行動が自発されるためには、まずは大ざっぱでもよいから自発頻度を高め、その後次第に精緻化していく必要がある。これは行動原理の根本に関わる問題であるので、3.1.で詳しく論じることにしたい。
 
 
 
3.主要な論点
 本章では、「英語が使える日本人」育成の主要な争点について、特に、英語の学習段階・使用段階について、行動分析の視点を交えて検討を行うことを目的とする。紙数の都合から、今回は以下の4点を重点的に取り上げたい。
(1)英語習得段階における強化と弱化
(2)使用段階での「恥」の効果
(3)英語と日本語の認識の違い
(4)ニホン英語の可能性
 
3.1.英語習得段階における強化と弱化
 英語で「話す」、「書く」という行動が自発されるためには、まずは大ざっぱでもよいから自発頻度を高め、その後次第に精緻化していく必要がある。これは行動分析で言うところのシェイピング、分化強化、分化弱化のプロセスにより達成される。長谷川(2000)が強調したように、少なくともシェイピングの初期の段階では「誤反応」であっても強化するということ、初めから誤反応と正反応の区別をするのではなく、よく似た反応がたくさん起こるように強化し、反応が頻繁に生じるようになった段階で適切な部分だけを分化強化し、さらには手がかりとの対応関係(=弁別)を学習させていくということが不可欠である。誤反応、つまり英語の誤用がそのつど罰せられるようでは、反応(=英語による自発的な話しかけ)そのものが自発されなくなってしまう。
 
 じつはこれと同じ内容の指摘は、2001年1月に報告された英語指導方法等改善の推進に関する懇談会報告にも盛り込まれている。第一章で引用した「英語教育を行う際に留意すべき事項」部分の一部を再掲すると、
 
二.  過度に細部にこだわらず、積極的に英語を使用する態度を育成すること
  外国語として英語を学習した者が、その習得した英語を用いて表現する際は、その者の母語の発音、文法構造等にある程度影響されたものとならざるを得ない。そのため、習得した英語を用いて表現する場合は、完璧(ぺき)主義から脱却すべきであるとの主張も多い。このことは、特に積極的に英語を使用する態度を育成しようとする場合に重要である。
 
 しかし、現実に学校教育の中で英語が教えられ英語能力検定試験や入学試験の点数が高いほど有利な結果が伴うという環境のもとでは、細部のミスも減点につながる。けっきょくのところ、ネイティブをお手本に英語教育を進める限りにおいては、完璧主義からの脱却はかけ声倒れに終わるおそれが強い。
 これに関連して本名(1999)は、英語教育(学習)のモデルが非現実的である点について
 
 そのきわみは、学習者がネイティブ並みの能力の獲得を求められることである。また、ネイティブ文化の学習同化も重要視される。そして、この目標の達成が不可能なので、いつまでたっても英語に自信がなく、それを積極的に使用しようとする意欲がわかない。ネイティブと同じように話せないと、ちゃんとした英語ではないと思ってしまうのである。
 
と述べ、その結果として
 
・学習者は無力感と劣等感に悩み、英語運用に消極的になる。
・ニホン英語でも国際的場面で十分に活躍さきる事実を過小評価する。
・他国のノンネイティブの英語変種に違和感をもち、差別的態度を生む。
 
という弊害が生じていることを指摘している。
 いずれにせよ、「過度に細部にこだわらず」という提言を実行するためには、何が「過度に細部にこだわることになるのか」、何は「間違い扱いしなくてよいのか」、統一的な基準を示し、少なくとも入試段階まではその基準を超えた減点は差し控えるように制度的に保障する必要がある。
 
3.2.使用段階での「恥」の効果
 
 どのような国の人がどのような外国語を使う場合でも常に誤用がつきまとうものである。もし誤用のたびに嘲笑されたり、不利益な結果がもたらされるようであると、使用すること自体が弱化されるようになる。そして、それを使わざるを得ない場面を避ける、なるべく発言を控えるとか、通訳や翻訳に頼る、といった他の行動が取って代わるようになる。
 こうした一般的な行動原理に加えて、日本人の場合は特に「恥」を避ける傾向が強いのではないかと主張されることがある。かつてベネディクト(1948)*1は、欧米の文化は罪の文化、日本の文化は恥の文化であると指摘した。ベネディクト自身の主張については誤解されている点も多々あるが、「日本人の多くが外国人に話しかけられると照れて地団駄を踏んでしまう」(三好, 1996)や「日本人は完璧主義を貫くゆえに気軽に英語を話したり書いたりできない」(平岡, 1999)といった指摘にもあるように、日本人特有の「控えめ」で「恥ずかしがる」傾向が外国語の発話を妨げている可能性はある。
 さて、もし日本人がこのような恥ずかしさを持つのであれば、
 
・英語の文章は、実名で書くより匿名で書くほうが気軽に書ける。
・英語を話す時は、英語のネイティブスピーカーを相手とする時よりも、英語が母国語でない外国人を相手としたほうが気軽に話せる。
 
という現象が起こるに違いない。久保木(2000)は、卒論研究としてこれらの仮説の実験的検証を試みた。このうち後者に関して、同一の外国人の聞き手*2がNNS(non-native speaker of English)であると紹介された場合に比べてNS(native speaker of English)であると紹介された場合のほうが、「英語を話す」という行動の発話量が低いという結果を得た。また、実験者がそれらのスピーチを録音しNS(n=3)に評定させたところ、聞き手がNNSであると紹介される場合に比べてNSであると紹介される場合は恥ずかしがっている程度が高く、流暢さの程度が低く、自信を持っている程度が低いことが分かった。部分的ではあるが、これらの実験結果は、英語を母国語とする外国人の前では誤用を気にして発話を控える傾向が起こりうることを示唆している。
 
 会話場面において日本人がもっと積極的な態度をとるべきであるということはずっと以前より経験的に指摘されており、例えばイーデス・ハンソン(1969)は、『カタコト英語で十分です』という一般向けの書物の中で
 
・はじめから「正確に、正しく文法をまもって、しゃべりましょう」なんてかまえると、逆にしゃべれなくなる。要は、通じる英語でいいわけです。
・文法などは気にしないこと。
・たとえまちがっていると思っても実行すること。
・恥ずかしがらないで、声を出して練習すること。
・外人はみんなカッコいいか。→カッコいいのは映画だけ。
・しゃべるときは、心臓つよく、堂々とした態度ですること。
・外人に対する妙な劣等感はすぐすてること。
とした上で、文法や発音よりも、身振りや手振りや相手との確認の繰り返しの中でコミュニケーションをはかる大切さを説いていた。
 
 しかし、「文法など気にするな」、「恥ずかしがらないで」、「劣等感はすぐ捨てろ」などと言葉で指示されただけではそう簡単に行動は変わるはずがない*1。現に、30年前のイーデス・ハンソン氏の教示が広く受け入れられたいたなら、「英語を使える日本人」はもっと増えていたはずである。言葉による呼びかけだけで効果がないとするならば、そのような変容をもたらすにはどう環境条件を変えるべきであるのか、行動分析的な改善をめざすことがぜひとも必要になってくる。
 
3.3.英語と日本語の認識の違い
 
 第1章で引用した「英語指導方法等改善の推進に関する懇談会報告」(2001.1.文部科学省)を初めとする種々の報告書の中では、基礎的・実践的なコミュニケーション能力を身につけるための教育の必要性、具体的な達成目標、 指導方法の改善等が多岐にわたって提言されているが、そもそも根本的な、
 
●日本人はなぜ英語ができないのか
 
については、ほとんど言及されていない。もし、母国語が日本語であるということが英語学習を困難にしているというのであれば、その妨害要因を科学的に解明し、その克服に主眼を置いた教育を行ったほうが遙かに合理的であろう。単に学習時間数を増やしたり、ネイティブとの交流を増やすだけでは本質的な対策とは言えない。本質を見極めずに学習者に負担を強いても、けっきょくは未達成による挫折、さらに英語以外の科目の学力をさらに低下させるという、とりかえしのつかない弊害をもたらす恐れがある。
 
 では、そもそも、英語と日本語はどこが違っているのであろうか。しばしば口にされるのは、
 
・英語はSVO、日本語はSOV。日本語では、主語には「が」、目的語には「を」、動詞は文の最後におかれる。
・英語では、句構造上の位置関係で文法関係を捉えるので、語順の変更は、特殊な場合を除いて、許されない。日本語は、名詞句に付けられた格助詞によって文法関係を捉えているので、語順の変更は、基本的に自由。
 
しかし、英語と日本語の違いが単に語順や助詞の働きだけにあるならば、その対応関係の規則性を学ぶことで日本人でも容易に英語が使えるようになるはずである。というか、そのような規則性があったなら、機械翻訳だけで十分に通用するはずだ。
 
 機械翻訳が通用しない例として、例えば「私は昨晩夢を見ました。」を訳させてみるとよいだろう。ネット上で無料翻訳サービスをしているexciteエキサイト翻訳*2 および@nifty Global gate*3 ではいずれも、
 
I looked at the dream last night.
 
という結果が表示される。ジグリット・H・塩谷(1991)は、アメリカ人の子供なら4歳くらいの子でも
 
I had a dream last night.
 
と正しく言えると述べている*4
 
 英語と日本語の本質的な違いについては、(ネイティブが正しいとの基準でみた場合の)日本人の英語の誤りを指摘する形で、さまざまな書物が刊行されてきた(例えば、マーク・ピーターセン, 1988; 石橋, 1988l 岩垣, 1993; トミー植松,1997; )。しかし、それらの多くは、
●どのように「間違い」やすいか
という事例を挙げるばかりで、
●なぜそのような「間違い」が起こるのか
についての本質的原因まで指摘してこなかった。こうしたことが
 
私たち英米人は,一生懸命に日本の人たちが使っている日本語を学ぼうとしているのに,どうして日本の人は,私たちが使っている英語を素直に学ぼうとせず,自分勝手に了解した英語ですませようとするのですか*1
 
というように、「間違いの原因」が日本人の身勝手さにあるかのような誤解をもたらしてしまうのである。 しかし、誤用の事例をいかにたくさん挙げたとしても、それは「How(いかにして)」や「What(何を)」間違いやすいかに対する例示にすぎず、「Why(なぜ)」に対する解決には決してならない。
 
 英語と日本語の本質的な違いを解き明かそうという試みは、英語学あるいは日本語学の専門家、英語教師、日本語教師、翻訳家など、さまざまな職種の人々によって行われてきた。紙数の都合から、本節では、岩谷(1982)、松井(1999)、金谷(2002)らの論考を重点的にとりあげることにしたい。
 
3.3.1.「日本語はコト、英語はモノ」という発想
 
 英語と日本語の本質的な違いを解き明かそうというさまざまな試みの中で、比較的古くかつ後の議論にも影響をあたえた書物として、岩谷(1982)を挙げることができる*2。まず岩谷(1982)の論点を整理すると次のようになる。
 
(1) 英語の名詞は物を指示する。英語の名詞は、a,the, s 等が付くことによって、物の指示詞として完成するのである。
(2)日本語の名詞は、物の指示詞ではない。事の指示詞である。
(3)英語ではあくまでも「ないものはない!」のであるが、日本語では「ないこともある!」。
(4) .....英語の世界では、永遠ななにか、があったり、なにかが永遠だったりするのであるが、日本には、この種の、「物」の永遠という観念はないのである。言い換えれぱ、日本には、《時間内(時間的)存在としての有限》と、これを超越する《超時間者(or 物)》という対立構造がない。(p.31)
(5)日本的感覚においては、「事」の時間内存在そのものが永遠である。すなわち、時間内存在としては、先祖から子々孫々にまでつらなる生の営みとして《いま・われ(ら)》が永遠であるし、空間内存在としては、「事」のかぎりない連鎖の拠点として《いま・ここ》が、つねに永遠である。(p.32)
 
 松井(1999)は岩谷(1982)の主張を受けて、「朝ごはん食べなかったの?」に対する「はい」という返事が英語の「Didn't you have breakfast?」では「No.」となるという事例を挙げて、「日本語はコト、英語はモノ」を分かりやすく説明している。すなわち、日本語なら、「食べなかったというコト」も「ある」が、英語では、この問いは「朝ごはん」というモノがあったかなかったかを訊いていることになり、当然、「食べない」→「朝ごはんナイ」→「No」と答えられることになる。そして、
 
こうした考え方にわたしたち日本人がすんなりなじめるはずはないでしょう。頭ではわかっているのに、とっさの否定疑問文に対してはついついyesとnoがひっくり返ってしまうのはそのせいです。わたしたちは、こうした英語の世界観を、文法的な知識として機械的に処理することでなんとか消化しているわけですが、結局、英語話者の頭の中では、世界は全く違ったふうに捉えられているのだと思います。
 
として、さらに、
 
・ 英語が無からスタートするのに対し、わたしたちは、豊かな世界の存在を前提としたところから始めます。わたしたちにとって世界はあらかじめ与えられた条件なのであって、わたしたちはその始まりを追究しようとはしません。
・超越的な絶対性の空間に、裸のままたった一人で放り出されて存在する。英語話者の個人主義や近代合理主義的精神などとも直結すると思われるこのイメージは、英語という言語の核をなすものであるように思えてなりません。
 
と、日本語と英語の根本的な認識の違いを強調した。
 
 「日本語はコト、英語はモノ」という発想は、日本人が冠詞を苦手とすることもうまく説明している。岩谷(1982)の論点(1)から明らかなように、英語では「boy」はモノであり、したがって「I am boy.」とは言えない。いっぽう日本語の「少年」は、「少年というもの」を指示するのではなく「少年ということ」を指示する。ゆえに、主語が複数となっても「おまえらは少年だ」と表現される。
 英語辞典の編集者としても知られる山岸勝榮氏は、「これで良いのか、日本の英語教育―不定冠詞が使えない“英語”専攻生たち」という論考*1 において、ある大学の“英語”専攻の1年生30名に「ニューヨークは面白い街だ」という単文を訳させたところ、「New York is interesting city.」というように不定冠詞を正しく使っていない学生が多数を占めたと報告している。正しい不定冠詞の用法を心得てそれを実行している“英語”専攻の大学1年生は、30名中わずか2名(6.7%)、「interesting」や「exciting」を使った場合のミス(「an」とすべきところを「a」とするミス)を許容しても、わずか4名(13.3%)に過ぎなかった。この点について山岸氏は、
 
・“英語”専攻生の悲惨な実態は、まず間違いなく、大学入学時までにきちんとそれを学んで[教えられて]来なかったことを証明するものである。
・不定冠詞1つも正しく使えない“英語”専攻生を大量に産み出す我が国の英語教育。これはあきらかに“異常”である。そしてそのような異常さは年々その度合いを増しているように思える。
 
と述べているが、根本は「日本語はコト、英語はモノ」が教えられてこなかったことにあるのではないだろうか。
 
3.3.2.代名詞、主語、自動詞/他動詞をめぐる論議
 
 以上に引用したごとく、「日本語はコト、英語はモノ」という発想は、世界の存在を前提としてその関係性の中に自分や他の存在を位置づけるのか、それとも、まず自分や対象物の存在を絶対化してそこからの能動的関わりのなかで世界をとらえようとするのかという根本的な違いを主張するものである。そこからは、代名詞の扱い、主語の必要性、自動詞/他動詞の区別など、英語学習を困難にしていると考えられる様々な要因についても統一的に説明することが可能となる。
 例えば、松井(1999)は、
 
・日本語では、目の前に具体的な対話の対象を持たなければ、自己を規定できない。すなわち、日本語には、前もって恒常的、固定的に自己を規定する人称詞がなく、何らかの関係性を与えられるまで、わたしたちの自己規定は保留されている。
・英語においては、対話の対象や場の状況を認識する前に、まず他ならぬ自分自身がIとして認識され存在する。英語では、主語を起点として世界に対して能動性を発動するため、主語でなくなった「私」はもはや「me」という1つのモノに変化する。
・英語は、常に動作主(主語)を出発点とし、主語から世界が始まるので、動作の対象となるもの(目的語)は、動作主とはっきり区別される必要がある。いっぽう日本語は、世界全体を1つの関係系として掌握し、相互の関係性を「コト」として表現する。
 
として、両者の違いを「コト」「モノ」で明確に区別している。
 
 日本語と英語の本質的な違いについては、日本語教育の専門家からも新たな見解が発せられている。カナダで実際に日本語教育を担当しておられる金谷(2002)の論考は特に注目に値するものである。
 
 じっさい、外国人に日本語を教えるには、そのツールとして活かせる日本語文法が必要である。ところが、日本でずっと教えられてきた学校文法は、ちっとも役に立たない。助詞の「は」と「が」の区別を教えられない、「あなた英語」を解消できない、などさまざまな問題が持ち上がってきた。 それを改善すべく金谷氏が辿り着いたのは
 
・三上理論の発展
・生成文法批判
・自動詞、他動詞の機能対立を、さらに広範な受身や使役も含んでの態(ヴォイス)の問題として捉えなおす
 
という日本語文法の大幅な見直しの必要であった。
 
 このうち三上章(1903〜1971)氏の理論は、「主語無用論」、「日本語に人称代名詞という品詞はいらない」、「助詞『は』をめぐる誤解」として発展させられた。そしてこれらはすべて、英語を鏡とした文法とは異なった形で体系化されている。学術的評価がどう下されようと、これらは、日本語学習者にとって有用なツールである。
 金谷(2002)はさらに、「第5章 日本語の自動詞/他動詞をめぐる誤解」において、日本語文法における自動詞と他動詞のとらえ方の誤りを指摘した。印欧語を手本に作られた学校文法を疑わない我々は、
 
・他動詞は直接目的語を持つ。日本語では格助詞「を」を取る動詞
・他動詞からは主客を逆転させた受動文が作れる
 
で区別ができると信じて疑わない。じっさい英語を習えば、目的語を持つ動詞は間違いなく他動詞であるし、学校では、目的語を主語にした受動文を作る問題をイヤというほどやらされてきた。 しかし、もし上記の基準が正しいとするならば、日本語では格助詞「を」をとる自動詞や、自動詞を使った受け身文など存在しないはずである。
 
 金谷氏はそれらに対する反例として、格助詞「を」をとる自動詞の例や、受身文が作れる自動詞文の例を挙げた上で、日本語では語彙そのものに自/他動詞の対立/区別があるとした独自の論を展開している。詳しい引用は避けるが、日本語の受身文というのは単なる「主語が行為者か被行為者かの視点」ではなく、「ある状況における制御不可能性」、「コントロールできない状態」を意味するものだ。だからこそ、受身のほかにも、可能・尊敬・自発の意味が含まれるのであり、能動文が他動詞文である制約は不要になる。
 金谷氏によれば、こうした、自動/他動の機能の差は、上にも述べた「する」「ある」に端を発している。つまり
 
・日本語の「ある」は「人間のコントロールの利かない自然の勢いと状態」を表現。
・「する」(古形「す」)は「人間の人為的,意図的な行為」を表す
 
という違いに根源があるのだ。
 
 金谷氏は、以上述べた自動/他動の機能差にとどまらず、(1)受身/自発/可能/尊敬(2)自動詞(3)自or他動詞(4)他動詞(5)使役という5つを態(ヴォイス)の連続線の全体像として体系的に整理している。そして、
 
・連用形がI-で自動詞,E-で他動詞となる動詞:立ち/立て 育ち/育て 縮み/縮め 開(あ)き/開け
連用形がE-で自動詞,I-で他動詞 :焼き/焼け 切り/切れ 破り/破れ 割り/割れ 折り/折れ 脱ぎ/脱げ 砕き/砕け ほどき/ほどけ
 
という「E」と「I」の逆転がおこる原因を
 
●「自然にそうなる」という内部の「変化・成長」を示す動詞
●人為的に縮めたり育てたりする「意図的行為」を示す動詞
 
のどちらが自然であるかという観点から分類できることを示した。
 
 確かに、世の中の変化には、人間の手を加えなくても勝手に変化する現象がある一方、人間が働きかけて変化を「押しつける」ような現象のあることが、素朴に理解できる。例えば、植物は勝手に「立ち」、「育ち」、「開き」、「縮む」。それを収穫した人間は、実を「焼き」、「切り」、「焼き」、「壊して」しまうのである。もともと自然にあった動詞のほうが、五段動詞(連用形は「-i」)となり、不自然ながら、後から自動・他動を逆転させた表現として生まれた動詞のほうが、下一段活用(-e)となるのは納得がいく。ちなみに、これについてはさらに、日本語にはもともと「e」という発音はなかったという傍証もある。
 
 金谷氏の論考から読みとれるのは、日本語というのは、
 
(1)人間のコントロールの利かない自然の変化
(2)人が手を加えることによって生じる変化
 
を素朴かつ本質的に区別できる言葉であるという点だ*1
 
 
 
 松井(1999)の指摘にあるように、英語は、常に動作主(主語)を出発点とし主語から世界が始まるので、動作の対象となるもの(目的語)は動作主とはっきり区別される必要がある。いっぽう日本語は、世界全体を1つの関係系として掌握し相互の関係性を「コト」として表現する。この「コト」的把握が、金谷氏の説く「受身-自動詞-自or他動詞-他動詞-使役」という日本語の連続線を特徴づけているように私は思う。
 これらを統一的に説明することは、日本語学習者のみならず、日本人が英語を学ぶ上でも本質的なレベルでの理解を助けることになると考えられる。
 
3.4.ニホン英語の可能性
 
 3.3.で引用したように、英語と日本語の本質的な違いについては、(ネイティブが正しいとの基準でみた場合の)日本人の英語の誤りを指摘する形で、さまざまな書物が刊行されてきた(例えば、マーク・ピーターセン, 1988; 石橋, 1988l 岩垣, 1993; トミー植松,1997)。しかし、「誤用」訂正の場数を踏むだけで英語が上達するかどうかの保証はないし、それ以前に、ネイティブそっくりの英語が使えるような教育は現実的に不可能であるという問題がある。そこで、完璧な英語ではなく、日本人に共通して見られる「誤用」をある程度許容し、聞き手側にもそれを理解する努力を求めるべきだという考え方が出てくる。これが「ニホン英語」の原点である。
 
3.4.1.ニホン英語、2つの立場
 
 もっともひとくちに「ニホン英語」といっても、次の2つの立場がある。
 
(1)教育の段階で、簡略化した英語、例えば、動詞の不規則変化や冠詞を取り去った英語を教えるべきだ。
(2)教える段階では、「間違い」は教えない。ニホン英語というのは日本人が英米英語(あるいはその他の国際標準英語)を見本に勉強し、その結果として獲得した英語パターンなのである。
 
 このうち(1)は、鈴木(2000)が主張しているもので、その基本理念は 2.1.2.の「国際語のあり方をめぐる議論」に根ざしたものである。鈴木(2000)は、20数年前から提唱してきた「イングリック」の理念について次のように述べている。
 
...従来通りの考えで英語を学べば、ますます本来の英語国、とりわけ米国だけに好意的にのめり込んで、広い世界を自分の目、日本人の立場から見ることがいつまでもできなくなってしまう危険がある。現にいま多くの日本人が「世界は……」と言うとき、その殆どはアメリカだけのことであって、ヨーロッパもアジアも視野に入っていないことが多いのです。
   だから私は英語が国際的に最も拡まったから、日本人もそれに習熟しなければと言うときの英語は、もはや英米人の文化と表裏一体をなす、彼らの私有財産としての言語ではなくて、英語という言語を原料にしたそれと非常に近い、似た言語、それを私は「イングリック(Englic)」と名付けたのですが、このイングリックを学ぶべきだと二十数年も前から主張してきたのです。
.....[中略].....
   イングリックとは、ひとまず英語を言語素材として、日本人が言いたいこと、自分のことを言うための手段であって、これは英語を元々使う人々(ネイティブ・スピーカー)と、それを学習して使う人々(非英語国民)との中間に位置する、妥協の産物と考えてください。ほんとうは私たち日本人は日本語で世界に向かって言いたいことを言うのが理想だけれども、それはちょっとこちらの弱いところで外国に日本語を教えるのをこれまで忘れていた、だから向こうは学んでいない。そこで当面は英語らしきものを使わざるを得ないという考え方です。
 
 鈴木(2000)は、こうした理念に基づき、具体的に
 
1.三単現のsもいらない
2.不規則な複数形や過去形を廃止。例えば、childの複数形はchilds、goの過去形はgoed
3.イディオム(慣用表現)は使わない。
4.やさしい動詞と前置詞の組み合わせは使わない。むしろ、1通りの意味しかもたない難解語を多様すべき。
5.早口は禁止
6.日本人はyes、noを使わず、質問の動詞を肯定、否定で使う
 
といったルールに基づくイングリック日本版を提唱している。
 
 いっぽう(2)は、本名(1999)による主張である。本名氏はシンガポールで
 
Can you speak English?"に対して“Can.”、"Do you have a barber shop on this floor?"に対して"Don't have."と言うことがあるが、学校で"Can.”/“Don't have."と教えるわけではない。学校では、"Yes,I can. I can speak English."/"No,we don't. We don't have a barber shop on this floor."と教える。
 
と述べ、教育段階では規範的な英語を教え、それが使用段階で、現地の言語文化の影響を受け、学習者にとって獲得しやすく、使いやすいパターンに変化することを指摘している。
学校でネイティブを規範的とすることについては、
 
その理由は簡単である。規範的なパターンは一般的で、かつ応用がきくからである。学校で"Can."と習い、“Yes,I can.”が変な英語だなどと思うようになっては困るのである。だから、シンガポール人は規範的パターンを認識している。それでも、彼らはときにより、シンガポールふうの言い方をする。そして、お互いにそれらを受容している。
 
と述べている。本名(1999)によれば、ネイティブの基準で「誤用」とされる表現がどんなに多くあったとしても、その誤用の範囲は一定の、制限された範囲であると、次のように指摘している。
 
 言語学習は母語学習であれ、第2、第3言語学習であれ、無原則で行われるものではなく、一定のプロセスを踏んで進展する。人間は生物学的特徴として、頭脳のなかに言語習得装置みたいなものが生得的に組み込まれている。それはまるで見えざる手のように、言語学習を導くのである。
...[中略]...
 このように、ニホン英語は日本人の言語文化の影響を受けた英語であるが、英語の形式を壊したものではない。どの言語もネイティブ・スピーカーがそのすべての可能性を使い切っているわけではない。ノンネイティブ・スピーカーはネイティブ・スピーカーが手をつけていない側面を開発しているともいえる。ニホン英語は他の非母語話者英語と同じように、母語話者英語の核の部分を取り入れ、周辺の部分にいろいろと手を加えたものである。重要な課題はその通用効率を高めることである。
 
3.4.2.ニホン英語、何が本質か
 
 鈴木(2000)の主張は、外国との対等関係を維持していくためにはぜひとも求められる視点であるが、ニホン英語の内容として、不規則な名詞複数形や動詞過去形を廃止するという提言はあまり本質的な問題ではないように私は思う。なぜなら、不規則形程度のことであれば、日本人はそれほど苦労なく学習できるし、忘れた時には電子辞書で調べれば事足りるからである。
 それよりも求められるのは、3.3.で論じた、英語と日本語の認識の違いに起因するニホン英語であろう。すでに紹介した各種書籍のタイトル「日本人の不思議な英語」、「ニッポン人の英語ここが間違っている」、「日本人に共通する和文英訳のミス」というように「誤り」として正すのではなく、むしろ、それがニホン英語であり「イングリック」であるということを英米人に知らしめ、英米人が誤解せぬように注意を喚起することのほうが国際語の理念にかなっていると言えよう。
 
 そして、「ニホン英語」がどういう特徴をもつかということが体系的に解明されていない現時点においては、教育段階では規範的な英語を教える以外に道はない。その上で、授業や入学試験において、「ニホン英語」を使っても減点、不利益にならぬよう、国家レベルで保障していくことが最も現実的であるように思う。
そのためには
 
(1)従来、「恥」されてきた誤用を、ニホン英語として公的に許容する基準を作る。
(2)国際会議等で英語を使ってコミュニケーションをはかる場合には、事前にニホン英語の特徴を周知させ、相手方にもニホン英語を理解する努力を求める
 
このうち(2)は、いっけん傲慢な態度であるように見えるが、鈴木(2001)の
 
・これからの国際語というのは、世界のどの民族も少しずつ、公平にそれなりの負担や持ち出しを覚悟する、大岡裁きにある三方一両損の痛み分けで行くべきだ
 
という視点を受け入れるならば当然の主張でもある。もちろん、そのためには、発言内容に情報的価値があることが大前提である。
 
 では、どういうものをニホン英語として許容するのかと言えば、その基本は、「日本語はコト、英語はモノ」といった本質的な違いをできる限り許容し、外国人に対して理解を求めることである。また、許容された以上は、学校教育では減点の対象にしないことも必要だ。
 具体的には、
 
(1)「英語はモノ」に起因する冠詞は使わなくてもよい
(2)「日本語はコト」に起因すると思われる独特の「誤用」は許容する。
 
などが考えられる。
 
 なお、「ニホン英語」を許容するという姿勢は、 3.1.で述べた習得段階での弱化、あるいは3.2.で述べた使用段階での「恥」の効果を打ち消す上でも効果がある。いずれにせよ、ニホン英語は、本名(1999)で取り上げられている
 
●Better is the enemy of good. (よりよいものを求めることはけっこうだが、いまここにあるよいものを犠牲にしてはならない。)
 
というイタリアの諺にのっとった精神で使用され許容されるべきであると考える。
 
4.今後の方向性〜行動原理を活かした英語教育改革を〜
 
 以上、重点的な政策課題としての英語教育を推進する論調を概観し、それらの提言についてどのような異論があるのかを分類整理、さらに、心理学や行動分析の視点を交えながらいくつかの問題点を重点的にとりあげるという形で議論を進めてきた。その中で特に強調しておきたいのは、いま叫ばれている英語教育改革が教育現場からの声の集積によって、産業界からの要請を受けて方向づけられているという点である。国語、数学、理科など他教科の改革とはかなり性質を異にしたものであるという点に留意しておく必要がある。
 
 そしてその主流となるロジックは、
 
(1)英語は事実上世界の共通言語であり、国際化・IT化の波の中で日本が生き残るためには、どうしても英語を使いこなす能力が必要である。
(2)日本人の英語力は外国に比べて劣っている。
(3)そのためには、 英語教育の量と質の改善が必要。
 
という必要論に基づいて展開され、また、その具体策としては、
 
・英語の先生は英語が上手でなければならない。
・英語が最も上手なのは、英語を母国語とする外国人である。
・よって、英語を母国語とする外国人を多数採用する必要がある
 
という素朴な「三段論法」が幅を効かせやすい土壌があった。
 
 これに対して、2〜3章では、
 
・まず、国際語とはどういうものであるべきかをしっかりと認識する必要があること
・日本語と英語では外界の認識のしかたが本質的に異なっている可能性のあること
・リスニング、読解、英作文などのうち、英語能力のうちどの部分を重視すべきかについて再考が必要であること
・日本人に共通して見られる英語の「誤り」には、「ニホン英語」として許容すべき側面が含まれていること
 
などを指摘した。
 
 以上の議論は多岐にわたるものであり、特に、国際語としての英語の位置づけが異なれば「英語を使う」ことの是非すら問われることになる。しかし、本稿では紙数の制限を考慮し、とりあえず「英語の使える日本人」育成を前提とした上で、これまでの政策的提言内容を行動分析学の視点から再度見直し、今後のあるべき姿をさぐっていくことにしたい。
 
4.1. 適切に強化されることの必要
4.1.1. 効果の法則の意義
 
 ある行動がうまく生じない時、なかなか続かない時の原因は、しばしば「やる気の無さ」、「意欲の欠如」、「根性のなさ」といった抽象的で「内的」な概念でしばしば「説明」される。そうした「説明」は納得した気分を与えることはあっても、行動の改善にはつながらない。これに対して、行動分析では、まず、「死人にもできることは行動ではない」という「死人テスト」により「〜しない」といった否定形や「〜される」といった受身形を排除して具体的で能動的な行動に焦点をあて、
 
●ある行動が繰り返されるかどうかは、その行動の効果(次第)である*1
 
という効果の法則に基づき、「直前→行動→直後」の変化を分類した行動随伴性の枠組みにより、行動の説明や制御を目ざすという点で本質的に異なっている。
 
 じつは、2001年1月に報告された英語指導方法等改善の推進に関する懇談会報告(1.参照)においても、効果の法則に合致した施策はある程度提案されている、例えば、「学習者のモティベーションを高揚させる」ために
 
 高校入試における外部試験結果の活用促進/大学入試センター試験でのリスニングテストの導入や、 各大学の個別試験における外国語試験の改善・充実/外部試験結果の大学入試での活用促進/企業等の採用試験や文部科学省職員の採用、昇任等の際に英語力の所持も重視。
 
といった施策が打ち出されているが、ここでいう「モチベーション高揚」とは、「英語を学ぶ」という行動の努力と質に応じて入試や採用や昇任といった有利な結果を随伴させ、学ぶ行動を付加的に強化しようというものに他ならない。但し、こうした付加的随伴性*2はともすれば「第三者によって駆り立てられ、やむをえずさせられる」強化になりやすい(長谷川, 1999参照)。真にモチベーションを高揚させるためには、行動内在的随伴性、すなわち、英語を学ぶ行動それ自体がもたらす結果が現れやすいように、生活環境を整備する必要がある。
 
4.1.2.習得段階で弱化を避ける工夫
 「英語を使う」というのが1つの行動であるならば、それらは適切に強化されなければならない。そのためには、まず中学や高校における英語の習得段階において、使う行動が適切に強化される必要がある。そのためにはま英語の発話や筆記が自発され強化されるような環境を作る必要があるが、3.1.で強調したように、そこでは「誤用」を罰することにより発話(あるいは作文)が弱化されないような配慮が必要である。
  イーデス・ハンソン(1969)は、すでに30年近くも前に、「誤用」を罰せず、分化強化と分化弱化により適切な表現が強化されていくプロセスを例示している。彼女は、「さむいですか」という意味で、日本人が
Do you cold?
と、間違えて訊いたらどうなるかについて述べている。聞き手はいちおう意味が分かるが、「あなたは風邪をひいていますか」と訊かれたのか「あなたは寒いですか」と訊かれたのかを確認する意味で、「Have I a cold?」あるいは「Am I cold?」と訊き返す。このやり取りを通じて学習者は、寒いかどうかを訊く時には「Are you cold?」と訊くべきであることを学習するというわけだ。そのさい重要なことは、相手に寒いかどうかを尋ねるという行動自体をあざ笑ったり、言い直しを強制したりせず、許容範囲に含めて応対していくことである*1
 3.1.で述べたように、「過度に細部にこだわらず」という政策提言を実行するためには、何が「過度に細部にこだわることになるのか」、何は「間違い扱いしなくてよいのか」、統一的な基準を示し、少なくとも入試段階まではその基準を超えた減点は差し控えるように制度的に保障する必要がある。また、教育上どうしても成績評価をする場合には、「誤用を減点しない」というようなテストを実施することも考えられる。
 例えば、30分間の英作文テストを実施する場合、制限時間にすべてを解くことは絶対に不可能であるぐらいの量の問題、例えば1000問を出す。解答者は、そのうち、解ける部分だけを選んで解答、採点者は正解の数は加点するが、間違いはいくらあっても減点しない。また、正解の範囲には、一定の「ニホン英語」的表現も許容する。こうすれば、少数の問題の正誤の比率が得点になる場合、つまり、分からない問題があるとそれだけ得点が下がるようなテストが行われる場合に比べて、弱化の影響を減らすことができるだろう。
 このほか、英語を学習したことが日々強化されるためには、日常生活場面、例えば、毎日流されるニュース、連続TVドラマ、大河ドラマ、子供向け番組、娯楽番組、映画などにおいて、希望する者はいつでも英語に触れられるような機会を増やすことが必要である。TVを媒体として、「英語の勉強→英語放送が理解できる」という結果随伴の機会を増やすことは、効果の法則の基本にかなっていると言うことができる。
 
4.1.3. 使用段階で必要とされる「じしん英語」
 
 次に、ある程度英語を習得した者が、実際にそれを使用する段階での改善点を考えてみよう。すでに述べたように、使用段階では、「誤り」を恥じるのではなく、「誤り」つつ正しく伝えるという努力をめざすことが大切である。しかし、3.1.で本名(1999)の論考を引用したように、ネイティブをお手本にした完璧主義にこだわる限りは、
 
・.いつまでたっても英語に自信がなく、それを積極的に使用しようとする意欲がわかない。ネイティブと同じように話せないと、ちゃんとした英語ではないと思ってしまうのである。
・学習者は無力感と劣等感に悩み、英語運用に消極的になる。
・ニホン英語でも国際的場面で十分に活躍さきる事実を過小評価する。
・他国のノンネイティブの英語変種に違和感をもち、差別的態度を生む
 
という弊害が避けがたいように思う。
 そういう意味では、ネイティブと同じなろうとせず、日本人が自信をもって英語を使うための基準となるべき「じしん英語」を国レベルで策定することが望まれる。
 
 「じしん英語」は、「そうとも言う」*1につながる発想でもある。つまり、周囲が「正しくは○○だよ」と誤りを正そうとした時に、「僕の言い回しは間違っていない。あなたの言い方も別にある。」という形でとりあえず自分の誤反応を弱化しないままにしておくという対処法である。 そして、
 
・自分が浮かんだことは、そのときに思いつく英語だけを使ってとりあえず自発してみる。
・その表現は「常に正しい」。もしそれが文法的に間違っていたとしても誤りとはしない。そういう表現が「ニホン英語」に含まれているのだと考える。
・1つの日本語の文に対しては、正規の英語表現もニホン英語による表現もどちらも許容される。正規の英語表現を知っている人はいくらでもそれを使うことができるが、ニホン英語を使ったからと言って蔑まされることは決してない。
 
4.2.具体的な達成目標を定めることの意義
 
 1回1回の行動を個別に強化するばかりでは、努力の積み重ねを維持することはできない。チリも積もって山となった成果を何らかの形で社会的に強化していく必要がある。英会話のラジオ講座を毎日聴く行動は、目に見える具体的な成果が無いとなかなか長続きしないし、大学の英語授業の場合も、必修単位を揃えるために最小限の努力をするだけに終わってしまうおそれがある。そういう意味では、第1章でもしばしば言及された各種英語能力検定試験の成績は大きな努力目標になるだろう。
 とはいえ、現行の検定試験は、国際的なビジネスマンや海外の大学への留学希望者向けであって、国際語としての英語能力を測る指標としては必ずしも十分とは言えない。上にも述べた「ニホン英語」の検定試験があってもよいし、また、試験会場で行う試験ではなく、海外での活動体験を評価することもあってよい。あるいは、インターネットや電子辞書、パソコン常駐辞書の普及を考慮し、辞書使用自由という条件のもので行う試験があってもよいだろう。とにかく、「英語能力」なるものを少数のスコアだけの序列に押し込めるのではなく多様な形で行うこと、またそれら達成目標とした勉学活動を多様に評価してことが求められる。
 
4.3.対連合による学習内容の簡略化を図る必要
 
 「使いやすい英語」を実現する1つの方法として、覚える単語数はなるべく少なくし、その組み合わせで表現を試みるというアイデアがある。実際にこれを提唱したのが、 オグデン(C.K.Ogden、1889-1957)が提唱した「Basic English」であった*2。 これは、必ずしも負担軽減のために語彙数を減らそうとしたわけではない。come、get、give、go、keep、let、put、seem、take、say、see、send、be、do、 haveという基本16動詞と前置詞や一部の副詞を組み合わせれば、日常生活におけるほとんどの英語表現が可能になること、その学習を通じて「英語らしい英語」を身につけさせようという意図があった。オグデンが採用した語はわずか850語であり、いっけん基本語と思われる「want」さえ除外され、「have a desire」で言い換えられることになっている。この考え方は、室(1962;1985)、室・小高(1982)、牧(1980)などによって日本にも紹介されたが、学校教育に取り入れられるには至らなかった*3
 これに対して、3.4.1.で引用した鈴木(2001)のイングリックは、
 
やさしい動詞と前置詞の組み合わせは使わない。
 
という全く逆の考えを示している。鈴木(2001)は、「弁償する」の例を挙げて、
 
私があなたに何か損害を与えて「弁償」しますと言うときは、“I promise to compensate.”と言うところがコンペンセートはイギリスやアメリカの子どもや無学の人にとって難しいことばなんです。そこでmake goodと言います。そうすると日本人は、「メイクグッド『善を成す』。これ道徳の話かなあ」などと思ってしまう。むしろコンペンセートと言ってくれる方が、単語カードか何かで「コンペンセート一賠償する」と覚えているから易しいのです。このほかにもmake goodには「成功する」とか「立証する」など沢山の意味があります。
 
と述べ、基本動詞+前置詞という組み合わせよりも、「難しい」一語で言い表したほうが使いやすいこと、そしてその理由として
 
われわれ日本人は相手が難しいことばを使ってくれる方が理解しやすいのです。英語を日常的に使っていないうえ、幼稚園、小学校をイギリス、アメリカのように英語を使って過ごしていないのですから。易しい動詞と前置詞の組合せ、たとえば、run+前置詞とかmake+前置詞なんていうのは、字引きを引いても何ぺージも説明があって、何だかよく分からない。このような見た目の易しい語や、その組合せはむしろ多義、つまり場合により前後関係により意味が違うから外国人には難しいのです。
 
という基本語の組み合わせの複雑さや多義性が難しさの一因になっていることを指摘している。
 
 もちろん、ネイティブと同じレベルまで基本語が完璧にマスターすればオグデンらの構想どおりに使いこなせるようになるはずだ。しかし、仮に10個の動詞と10個の前置詞の組み合わせを考えると、100通りの表現が生まれることになる。単語数それ自体は20個で済むとはいえ、それぞれの熟語のもつ意味、特に慣用表現を正確に覚えるのは非常に難しい。それに対して、できる限り一通りに意味が定まるような言葉ばかりを覚えれば、順列組み合わせの数が無い分だけ覚えやすく、また取り違えのリスクをへらすことができると考えられる。
 
4.4.個体差と多様性を重視した学習機会を提供する必要
 
 行動分析学の創始者スキナーは、「平均値的人間」ではなく個人本位で行動を分析することの意義を繰り返し説いてきた。例えば『科学と人間行動』という著書(Skinner, 1953)では
A prediction of what the average individual will do is often of little or no value in dealing with a particular individual. .....【中略】..... A science of behavior which concerns only the behavior of groups is not likely to be of help in our understanding of the particular case. But a science may also deal with the behavior of the individual, and its success in doing so must be evaluated in terms of its achievements rather than any a priori contentions.
 
と、個体中心の行動分析の可能性を説いている。このことはまた、単一事例の研究(長谷川, 2001参照)や、個体差や多様性に配慮した研究を重視することにもつながる。
 
 “「英語が使える日本人」の育成のための戦略構想の策定について”が提起しているような平均水準だけの議論
 
・ 中学校卒業段階:挨拶や応対等の平易な会話(同程度の読む・書く・聞く)ができる(卒業者の平均が英検3級程度。)。
・ 高等学校卒業段階:日常の話題に関する通常の会話(同程度の読む・書く・聞く)ができる(高校卒業者の平均が英検準2級〜2級程度。)。
 
は政策上の達成目標にはなりえても、英語学習者個々人の獲得目標とするには画一的すぎる。個々人の適性や能力に合わせて、先に進める者にはいくらでも学習機会を保障、いっぽう、学習が困難な者に対しては補習機会を充実するとともに、必ずしも不得手の克服にこだわらず得意分野を徹底的に伸ばす配慮があってもよいのではないかと思う。例えば、英文読解は得意だが英作文は苦手という者にはよりレベルの高いリーディングの指導を行う。また長文読解は苦手だがリアルタイムの会話は得意であるという者には、英会話の指導を主体に行う。いずれにせよ、画一的な基準を設けず、どのような選択肢を選んでも不利益にならないよう、制度的に保障する必要があるだろう。
 
 同じことは大学における英語教育についても言える。学生を機械的にクラスで分けして担当教員を割り振るとか必修単位数を一律に揃えるのではなく、学生の得意ジャンルに合わせて、
 
・リスニングやリアルタイムの会話が得意な者には同時通訳型
・長文読解が得意な者には英文翻訳者型
・英作文を得意とする者には日英翻訳者型
 
というように多様なコースを用意、かつそれらの学習機会は、必修単位として揃えるのではなく、例えば副専攻として、意欲のある者が努力の量と質に応じて履修できるような機会を保障すべきであると考える。
 
 以上4点を挙げてみたが、いずれにせよ、「英語が使える日本人」 改革は、英語教員や教育機関の個別の努力によって達成できるものではない。さまざまな分野の研究者が知恵を出し合い、国全体のレベルで、ニホン英語論議や教育方法の改革をはかっていく必要がある。
 
 
引用文献
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*1 1996年(平成8年)11月19日 経済企画庁(当時).http://www5.cao.go.jp/j-j/doc/s8honbun-j-j.html
*2 1999年(平成11年)12月 経 済 企 画 庁.http://www5.cao.go.jp/99/c/19991210wp-seikatsu/19991210wp-seikatsu.html
*1 http://www.toefl.org/
*2 Paper-BasedのTOEFLの日本語者34645人の平均点は505点であり、中国語者118786人の平均551点、韓国語者33090人の530点をやはり下回っていた。最低点は、西アフリカ地域のマリンケ族・バンバラ族の人たちの言語使用者の455点(103人) 、最高点はコーンクニー語使用者の624点(151人)。TOEFLの国別比較は、英語指導方法等改善の推進に関する懇談会報告(2001年1月)の資料編(http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/13/01/010110c.htm#06)にも掲載されている。
*3 http://www.kantei.go.jp/jp/21century/houkokusyo/index2.html(英語版は    http://www.kantei.go.jp/jp/21century/report/htmls/index.html)
*4 2000年3月22日の朝日新聞・「論壇」で、桂敬一氏は、複数の公用語がある国や地域では、そのうちの1つの言語が使えれば公的情報の利用に不便をきたさないということであって、国民に複数の公用語全部の修得を義務づけるものではないと指摘している。桂氏はさらに、そういう意味での公用語をふやすならば、在日の朝鮮半島出身者のための韓国語・朝鮮語や日系南米人のためのスペイン語をまず公用語にすべきだと指摘し、さらに、「文化や社会の多元性を大事にする、そのような優しさが日本の行政過程にしみ通るようになったら、日本人自身がこの国を住みよく感じるようになるだろう」、そういう点をわきまえずに公用語化論を展開するのは、「英語を第二国語にするに等しく恥ずかしい話だ」と主張している。朝日新聞連載中の「英語公用語論」2回目(4/5)では丸谷氏が「英語第二公用語」について明確な概念規定が無いと指摘。また、民衆を説得する場合の言葉の使い方には、本格的な使い方と、呪術的な使い方があり、「尊皇攘夷」、「八紘一宇」、戦後の「民主主義」、小沢一郎氏が使った「守旧派」、「普通の国」などと同様に、「英語第二公用語」が呪術的に使われていると指摘、「英語第二公用語」の概念だけでなく「英語を第二公用語とすることも視野に入れる必要がある」という表現の曖昧さを含めて、ストライクゾーンを決めないで野球をするものだと批判した。
 なお、以上の引用からも示唆されるように、懇談会報告書における「第二公用語」表現は、報道された内容と、公開された報告書最終版では多少異なっているようだ。座長の河合隼雄氏は“「長期的には英語を第二公用語とすることも視野に入ってくるが、国民的合意を必要とする」と表現したことが、ジャーナリズムのおかげで、「英語第二公用語論」としてひとり歩きし、.....”と述べている(河合, 2000)。
*1 http://www.kantei.go.jp/jp/kyouiku/index.html。なお、教育改革国民会議第2分科会の審議の報告( http://www.kantei.go.jp/jp/kyouiku/2bunkakai/2report.html)には、より詳しい記述があり、
・英語はコミュニケーションの道具であるという視点をもつ。なるべく早い時期から “本物”に触れ、楽しく学ぶ機会をつくるべき。人に何かを伝え、それが返ってくる喜びを体験する機会をたくさんつくることが大切。
・情報教育も英語教育も、教える人と教え方が重要。教員だけでなく、英語を母語とする外国語指導助手(ALT)や学校の外の専門的能力をもった人を導入することが必要。
と提案されている。
 
*2 http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/13/01/010110a.htm
*1 http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/020/sesaku/020702.htm。
*2 http://www5.cao.go.jp/shimon/2002/0625kakugikettei.pdf
*1 「2.6.6 つの戦略、30 のアクションプログラム(1)人間力戦略」には
 
文部科学省は、「英語が使える日本人」の育成を目指し、平成14 年度中に英語教育の改善のための行動計画をとりまとめる。平成15 年度から外国人の優秀な外国語指導助手の正規教員等への採用を促進する。
 
と提言されている。
 
*2 http://www.dpj.or.jp/seisaku/kyoiku/BOX_KK0008.html。なお、9月12日付で問い合わせたところ、民主党政策調査会事務局より、英語教育についてはこの「中間まとめ」がもっとも新しいものであるとの回答をいただいた。
*1 http://www5d.biglobe.ne.jp/~hel/jp/kabayama/subskrib.htm
*2 1953年ハンガリー生まれ。1988年以降日本に滞在。外国語習得に関する著書としては、『ピーター流外国語習得術』(1999)や日本人のための英語術.』(2000年)が知られている。
*3 関西エスペラント連盟機関誌「La Movado」2000年4月号。http://www2u.biglobe.ne.jp/~kleg/jap/LM590tani.htm
 
*1 http://www.toefl.org/
*2 Paper-BasedのTOEFLの日本語者34645人の平均点は505点であり、中国語者118786人の平均551点、韓国語者33090人の530点をやはり下回っていた。最低点は、西アフリカ地域のマリンケ族・バンバラ族の人たちの言語使用者の455点(103人) 、最高点はコーンクニー語使用者の624点(151人)。TOEFLの国別比較は、英語指導方法等改善の推進に関する懇談会報告(2001年1月)の資料編(http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/13/01/010110c.htm#06)にも掲載されている。
*3 いくつかの大学では、英語能力検定試験(外部試験)で一定の成績をおさめた場合に、英語授業科目の単位認定を受けることができる制度が確立している。岡山大学の場合は、「英検準1級」、「TEOFL500点以上」、「TOEIC 586点以上」のいずれかを満たした場合に「英語A」の単位を4単位、また、「英検1級」、「TEOFL550点以上」、「TOEIC 730点以上」のいずれかを満たした場合に「 英語A」8単位を取得したものとして認定を受けることができる。
*4 岩谷(1982)は、Communicationの原義は「相互交通」や「相互の意思疎通」ではなく、単に情報や伝言を「渡す」、「与える」、という意味であること、「communication」には日本人が日本語の「コミュニケーション」に感じているような、相互的な意味をそもそも持っていなかったと指摘している。コミュニケーションの定義そのものについても論議が必要であろう。
 
*1 この点に関して鈴木(2001)は、発音よりも話者に「人間的な魅力があるか」が重要であると強調している(p.194)。
  今でも英語は英米人のような、ちゃんとした発音でないと話を聞いてもらえない、などと言う人がいますが、とんでもない。たとえ英米人が相手の場合でも、発音などかなりいい加減でも大丈夫です。ただし条件があります。
  それはあなたがうんと金をもっているか、それとも人間的な魅力があるか、あるいは何か特別な知識か技術をもっているか、あなたが普通以上に相手が欲しい何かをもっていることです。つまりあなたに「この人の話を聞かなかったら自分の損になる」と相手に思わせるだけの条件すなわち強みがあるときは、あなたが話す英語がかなりひどくても、向こうが分かろうとする努力で補える。反対にあなたが見るからに情けない人間で、金もなく、明らかに能力もないときは、せめて発音ぐらい非の打ちどころがない英語を使わないと、誰もあなたの話を聞いてくれません。だから何よりもまず自分がほかの人に与えられる何かしらをもつよう、自分の日本人としての強みを磨くことの方が大切です。ことばは二の次だ。それを発音さえ立派ならイギリス人が尊敬してくれるなんて、とんでもない。
*2 和田秀樹氏の英語公用語化批判は、氏のWebエッセイ「英語の公用語化に物申す(2000/1/20) 」(http://www.hidekiwada.com/essay/essay29.html)に記されている。受験英語のポジティブな面については、平泉(1975)の論争対談の中で、渡部昇一氏によっても語られている。
*1 例えば2002年9月23日の朝日新聞によれば、東京大学・学校臨床総合教育研究センターが関東地方の小学生約6200人に実施した算数の学力テストの結果は、20年前に行われた、全く同じ問題を使った調査結果と比べ正答率が10・7%落ちていたという。
*1 原著の『The Chrysanthemum and the Sword; Patterns of Japanese Culture』は1946年刊。訳書については、その後定訳版などが発刊されている。現代教養文庫版は2002年9月時点で品切れ。副田(1993)は、『菊と刀』の中で恥の文化を直接に論じたの箇所は邦訳で4頁あまりにすぎないこと、日本文化の各要素の中で彼女が最も重視していたのは、恩、義理、人情なのであろう、と指摘している。なお英語発話の際の「恥」は、副田氏の内容に即して言えば、むしろ、作田啓一氏の「恥の文化再考」で語られた羞恥や私恥に類するものであると思われるが、この議論は本稿の目的を越えるのでここではこれ以上ふれない。
*2 聞き手を演じた外国人は、実際には2人とも NNS(フィリピン人の女性1名とコンゴ人の男性1名)。
*1 岩波書店編集部(2000)の『英語とわたし』のなかには、“恥をかくことに慣れる”(筑紫哲也氏)、“自信は友達語から”(引田天功氏)、“「なまり」であっても堂々と”(明石康氏)、というように「恥ずかしがらないで」を強調する体験談が種々掲載されている。
*2 http://www.excite.co.jp/world/text/
*3 http://www.nifty.com/globalgate/
*4 原書での誤訳例は「I looked at the dream last night.」ではなく「I saw the dream last night.」
*1 岩垣(1993)の序文による。
*2 この書物は、ロッキング・オン社から刊行された一般向け書籍であり、学術書の体裁は整えていない。現在は絶版。著者の岩谷宏氏は、京都大学文学部卒業。ロック雑誌「ロッキング・オン」同人としてロック関係の論考多数。最近では、パソコンやインターネット関係の著作もある。岩谷(1982)の発想を受け継いだ内容の書としては、例えば、松井(1999)を挙げることができる。
*1 山岸勝榮英語辞書・教育研究室(http://jiten.cside3.jp/)
*1 (1)はいっけん、因果関係を詮索せず、流れに身を任せる受身的なとらえ方のように思われてしまうかもしれない。しかし、たった1つの原因だけで生じる現象などというものは、むしろ世の中には少ない。無限に近い要因が多様に相互作用して生じる現象をありのままに捉えることができるという点では、むしろ遙かに科学的である。また、そのことによって、変化を「待つ」、「ありのままに受け入れる」という共生のライフスタイルが生まれてくるのだ。そして、その一方の(2)には、人間の能動的な働きかけを重視するオペラントがある。日本語はそれらのバランスを本質的に表現できるという点で、印欧語より遙かに優れていると言えるかもしれない。
*1  杉山・島宗・佐藤・マロット・マロット(1998)の日本語版による。原書第4版では、
The law of effect: The effects of our actions determine whether we will repeat them. と記されている。もともとは、ソーンダイクによって唱えられたが、彼が仮定した神経系の中での結合、あるいはS-R結合といった仮説的な説明は行動分析学ではすべて排除され、代わって行動随伴性の枠組みの中でこの概念が総称的に用いられるようになった。
*2 杉山ほか(1998)では、行動内在的強化随伴性は“行動に随伴して、誰かが関わらずに、自然に、好子が出現したり嫌子が消失する”、付加的強化随伴性は、“行動に随伴して、意図のあるなしにかかわらず、誰かによって、好子が提示されたり嫌子が除去される”随伴性としてそれぞれ定義されている。なお行動内在的随伴性は、杉山ほか(1998)の旧版(暫定私家版)では「ビルトイン随伴性」という訳語があてられていた。
*1 このような「誤用」が現実に起こるかどうかはデータが無いので分からない。日本語に即して言えば、「寒いですか」という質問はコトを表す表現なので「Is it colod for you?」となるのではないだろうか。「Do you colod?」は「colod」を動詞的に使っているので、むしろ、「風邪をひいていますか?」の誤用として出現するのではないかと思う。
*1 人気アニメ「クレヨンしんちゃん」の野原しんのすけが、言い間違いを指摘された時に答える言葉。
*2 片桐ユズル氏のサイト( http://www.kyoto-seika.ac.jp/yuzuru/gdm.html)によれば、
BASIC English の発見は,C. K. オグデンとI. A. リチャーズが『意味の意味』(1923)を執筆中にいろいろな語の定義をしようとすると,ある少数の語がくりかえし現れることに気づきいたことに始まる。国際補助語としての BASIC English はC. K. Ogden (1889-1957) によってまとめられ,1930年に発表された。Ogden (1932)によれば、「BASIC」は「British American Scientific International Commercial」の頭文字をとった語呂合わせ。『The meaning of meaning」については、新装版や訳書が出版されている。また国内には、ベーシック・イングリッシュ学会(http://homepage3.nifty.com/BasicEnglishSociety/index.html)による研究活動が続いている。
*3 但し、基本動詞の理解は、ケリー・伊藤(1994)などによる「plain English」の発想に活かされている。