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スキナー以後の行動分析学(12)
行動分析と質的研究
長 谷 川 芳 典
岡山大学文学部紀要, 39号(2003年7月、49〜66頁)
・岡山大学文学部紀要39号に掲載予定の論文を初校の段階でWeb化したものです。
- 2003.6.20.三校提出。冒頭箇所の「さらに」の繰り返しを削除。引用部分の「、」を原書に合わせて「,」に一部変更。
- 2003.6.16.再校提出。森(1981)を増補版刊行時期の1973年に修正。漢字仮名の表記、句読点も原書に合わせた。
・画面表示の都合上、脚注の付け方や引用文の表示などが印刷物と異なっている部分があります。
・引用される場合は本稿のurlを明記するか、印刷物として刊行されたものからお願いいたします
少子高齢化が現実となる中で、高齢者の生活の質(Quality of Life)をいかに高めるかが問題となっている。日本健康支援学会が2003年2月に開催した学術集会において大会テーマとして「QOLに根ざした健康支援の構築を目指して」が大会テーマに掲げられるなど、健康や福祉を研究対象とする学界で「質」に対する注目が集まっている。
これとは別に、心理学の分野では2002年4月、『質的心理学研究』という学術誌が発刊され実験や質問紙調査とは異なるスタイルの研究方法が注目をあびるようになった。
しかし、この「質的」という呼称は、特定の調査手段や研究目的とセットになって語られること場合が多く、そもそもの定義について共通認識が得られていないように思う。
本稿は、行動科学における「質的」という用語の意味を見直し、さらに行動分学の視点からQOLや質的調査手段の意義と限界を検討し、今後の展望をさぐることを目的とする。
1.1.「質」とは何か?
「質」という言葉は辞書的には複数の意味が含まれており、かつ、価値判断に関わる表現を含んでいる。この言葉のもつ素朴な印象が種々の議論に影響を与えている可能性がある。
じっさい『広辞苑第五版』(新村出[編], 1998)では、「質」には、「(1)生まれつき。天性。(2)内容、中味。価値。(3)問いただすこと。(4)飾りけがないこと。(5)(quality)物がそれとして存在するもとであるもの←→量」と定義されており、(5)については、「(ア)対象を他の対象と区別する特色となっているもの。非感覚的な面をも含む。「どのような」という問いに対する事物のあり方。(イ)論理学では、判断の肯定・否定を言う。」という解説があった。
また『新明解国語辞典 第五版』(金田一・山田・柴田・酒井・倉持・山田[編], 1997)では、「そのものを形成している成分を、いい悪い、粗であるか密であるか、また、どういう傾向を持つかという観点から見たもの」と定義されていた。
このように、日常生活では、質という言葉が「よい、悪い」、「価値が高い、低い」という意味で用いられており、「生活の質(Quality of Life)を高めるにはどうすればよいか」という表現にも価値観が暗黙のうちに含まれている可能性がある。
こうした多義性は日本語ばかりではない。『ランダムハウス英語辞典』(小学館ランダムハウス英和大辞典第二版編集委員会[編], 1993)によれば、「quality」には、「(物・事の)特性、特質、属性、(人の)素質,資質」や「(…の)本来の性質、本質、;…性,…に似た性質」*1といった意味に加えて、「高級、上等、良質、高品質」などの意味が含まれているという。
1.2. 「量と質」が意味するもの
「質」はしばしば「量」と対比的に論じられる。以下、いくつか事例を挙げてみよう。
(1)「水の量と質のコントロールが必要である」*2
ここでは「量」は言うまでもなく水の量、「質」は水質、つまり水の中に含まれる化学物質のことを意味している。
(2) 量的拡大は、質的低下をもたらす。
大量生産、教育機関への入学者数、組織拡大などについてしばしば言われる言葉である。
例えば、
・大学院入学資格の弾力化は,.....ただ,量的拡大とあわせて質の低下につながる恐れがあるかもしれないという部分,.....*1
・.....法曹の量的拡大と、それを質的低下を伴わずに実現することが緊急に求められている。*2
・.....18歳人口の漸減に伴う冬の時代とともに、社会福祉教育の量的拡大が質的低下を余儀なくするなか、.....*3
これらの表現は、共通して「量」は対象を外側から見た規模、「質」は中味についての評価に言及している。但し、「質」に関して「低下」あるいは「向上」という言葉を使う以上、それらは何らかの形で「量的に測定」されなければならず、自己矛盾に陥る。より正確には、「量的拡大は、内部水準(評価)の量的低下をもたらす」と修正すべきかもしれない。
(3)量的変化から質的変化
弁証法哲学の基本をなす考え方である。森(1973)は、量と質について次のように説明している[長谷川による要約]。
・質は, それをなくせば, その存在をうしなうようなもののことであって, すべての事物の存在と切りはなせない.
・事物は一定の量的単位によって分けたり, また集めたりすることができる.量的に分けたり集めたりしえないのは質的差異によるものであり, これをなしうるのは量的な面からである.
ここで言われているのは、「質」は事物のもつ本質的な諸性質であり、いっぽう「量」は、同じ性質のものが増えたり減ったりすることに関係している。この定義で問題となるのは、言語行動との関連である。その内容は後述する
1.3. 統計データにおける「質」
統計学で扱うデータは、量的データと質的データに分けられる。前者は定量データ、後者は定性データと呼ばれ、数量で表現できるかどうかが大きな決め手となっている。
統計学の各種入門書が解説しているように、データは測定対象の持つ特徴によって、名義尺度、順序尺度、間隔尺度、比率尺度の4つに分けられ、それぞれに適した代表値や解析法が考案されている。以下、おおまかな特徴を記すと、
名義尺度 単なるカテゴリ分け。同一あるいは同種のものの頻度を数えることができる。データの並びには意味が無い。出身県、音楽のジャンル、花の種類など。
順序尺度 大小や高低などに基づく順位づけが可能。但し、データ間の差異は問題にされない。テストの得点順位など。
間隔尺度 2つの間の差や和にも意味がある。摂氏などの温度。
比率尺度 原点0(ゼロ)が一義的に定まっており、測定値間の比を問題にすることができる。長さや重さなど。
となる。これらの尺度は、
名義尺度⊃順序尺度⊃間隔尺度⊃比率尺度
という包含関係にあり、高い尺度の水準のデータでは低い水準において可能は解析法をすべて適用することができ、かつ適用可能なデータ解析法の種類は多彩になる。
これら4つの尺度のうち、名義尺度と順序尺度は質的データ(質的変数)、間隔尺度と比率尺度は量的データ(量的変数)というように分類されている。但し、質的データであっても数量的な処理が全くできないというわけではない。例えば、名義尺度であっても度数(比率)の検定、モード、連関係数の算出などは可能であるし、順序尺度では、中央値や順位相関などを求めることができる。さらに、このほか、数量化I〜IV類のように、質的データのもつ多くの側面のうちのある部分に焦点をあて、数値による表現を可能にする手法が開発されている。その第一人者であった林(1993)は、「数量化はどのようにして生まれたか」という序章において「質と量」について次のように述べている。
数はあらかじめ存在するものではなく,われわれの目的に応じてふさわしく与えるものであるという思想である.
以上見てきたように、「質的か量的か」という区別はデータそれ自体の本質を表すものではなく、むしろデータのどういう側面に注目し、どういう処理を行うかによって、質的にも量的にもなると言うことができるだろう。
2.心理学における「質的研究」
2.1.心理学研究における量と質
澤田・南 (2001)は、心理学研究における量と質を次のように区別している[長谷川による要約引用]
・数字,数量で表現された量的データに対して,言葉の形式によって表現されたものを質的データとよぶ(Miles & Huberman,1984).ここで,言葉に限定せず,図や映像,音声など,事物や出来事の様態を写したり,記したもの全般を質的データの範疇に含めて考えることができる.
・質とは,「対象を他の対象と区別する特色となっているもの.……『どのような』という問いに対する事物のあり方」(広辞苑,第5版)を指している.
・.....質的データは,対象となっている現象それ自体の理解を指向する問い(「何が起こっているのか?」,「それはどのように起こるのか?」)に対応するものであり,出来事を言語的・概念的に把握する「記述」によって構成されるデータである.
以上は1.2.(3)に引用した「質は、それをなくせば、その存在を失うようなもののことであって、」という定義に近い。
なお「数字,数量で表現された量的データに対して,言葉の形式によって表現されたものを質的データとよぶ」という区別については、少なくとも「言葉の形式」とは何か、さらには言語行動一般について厳密な検討が必要であると思う。なぜならば、見方によっては数字や数量も言葉の形式の1つであるからだ。合わせて、客観性の基準を何に求めるのかもカギとなるだろう。
2.2.研究のタイプと質的データ
市川(2001)は、研究のタイプと質的データの関連について次のように述べている。
.....,行動観察記録,会話記録, 内省的な言語報告などのような記述的なデータを質的データとよんでいる.質的データは,カテゴリーに分類するなどして,量的データにして分析することもあるが,むしろ量には還元しにくい内容的な側面に着目して考察がなされることにその特色がある.
つまり、心理学において「質的研究」という場合には、単に「質的データを扱う研究法の総称」ではなく、「量には還元しにくい部分に注目して、情報的価値のある研究を遂行していく、という積極的な意味が含まれている。したがって、質的データでしばしば問題にされる信頼性と妥当性についても、必ずしも数量化や実験的方法で補完するスタイルはとられていない。
なお、市川(2001)も指摘しているように「質的=探索型研究」、「量的=検証型研究」という二分法はかならずしも絶対的ではない。多変量解析においては量的データを扱いつつ探索的な研究を行う手法が多種多様に開発されているし、質的データに基づいて、ある仮説にあてはまるような事例を示したり、ある理論を覆すような反例を挙げる形の検証研究は可能である。但し、市川(2001)が言うように、質的データから仮説を検証していく方法は心理学においてはむしろ疎んじられていたきらいがあったことは確かであろう。
2.3.心理学において質的に研究することの中味
澤田・南 (2001)は、「質的に分析するとはどういうことか?」について
たとえば,青と赤という色の違いを波長の数量であらわすこともできるが,それは2つの色を光学的に説明したものであって,「青」,「赤」という名称に対応した人間の知覚体験の違いをあらわしたものではない.この例に即して考えれば,心理学における質的な分析とは,「青く見える」体験を,記述し,そこに含まれる成分,構成要素を明らかにし,他の類似の体験との関係において,この体験の特質・特徴を際立たせることである.
量的な分析が,測定された変数の間の相互関係を明らかにするための諸手続きからなるのに対し,質的な分析は,前述した質的なデータ,資料をもとにして,その内容の解釈(意味を読み取ること),分類(似たものを集めること),類型化(タイプ・様式に分けること),概念化(共通の性質を取りだして名づけること)などの作業から構成される.さらに,このようにしてデータから取り出された概念を関連づけたひとまとまりのアイデア〜仮説〜を作りだすことまでを含めて質的分析とよぶことができる.
と述べている。もしこのような区分を受け入れるとするならば
・量的分析=測定された変数間の相互関係を明らかにする
・質的分析=体験の記述、解釈、分類、関係
と特徴づけられることになり、方法論的にも最終目的においても行動分析などとは根本的に異なる方向を目ざすことになる。
じっさい澤田・南 (2001)は
質的研究は,初期段階の研究,すなわち未熟な研究ではなく,量的研究法による実証化の道とは異なる認識論にもとづく方法論であり,それ独自の洗練の方向性をもっている.
と強調している。後述するように、行動分析学の研究対象となる「体験」とは、行動随伴性で記述可能な強化や弱化や消去のヒストリー、それによって形成されるルール、及びそれに関わる言語報告から構成されるものである。
ちなみに佐藤(1996a)が指摘しているように、行動分析学は内的過程の存在を否定ないしは無視しているわけではない。神経生理学的出来事の解明は生理学に委ねられているのであって、その部分に心的虚構を求めることに反対しているだけである。上記の「体験」の解釈や分類が虚構への置き換えを含むとするならば、行動分析とは根本的に異なった方向に進むことになるだろう。
2.4.質的研究の特徴
澤田・南 (2001)は、「なぜ質的な研究をするのか?」について、それらが単なる探索的な研究方法であるという見方を排し、その特徴として
(1)帰納的である.
(2)対象となる事態と人々を全体的に見ていく.
(3)研究者自身が対象者に与える影響に敏感である.
(4)対象者の視点から相手を理解しようと努める.
(5)研究者の信念,視点,事前の前提をいったん保留する.
という5点を挙げている。しかし、これらは必ずしも質的なアプローチに特有というわけではない。じっさい、行動分析的アプローチは決して「質的」ではないが、仮説検証型や仮説演繹型の研究には否定的であったし(例えばSkinner, 1950)、常に対象者本位で、何が好子や嫌子になっているのかを探索する。また最近ではホリスティックな視点からのアプローチも検討されている(長谷川, 2003参照)。
3.QOLと質的研究
ここでいったん心理学の研究から離れて、「生活の質(Quality of Life)」に関する論点にふれておくことにしよう。2003年2月15日に九州大学国際研究交流プラザで開催された日本健康支援学会学術集会で朝倉隆司氏はQOLの歴史的な経緯について次のようにまとめた[長谷川による要約]*1。
(1)QOLは西洋文化圏、とりわけアメリカ社会の中から出てきた言葉であり、時の経済発展や大統領の政策に対応して、QOLの利用のされ方は大きく変わってきた。しばしば、医療資源の適正な配分と、医療を患者中心に転換するという点で大きな意義があった。
(2)現状(「〜である」)の測定か、潜在能力(「〜を備えている」)を含めて測るべきか.
(3)Normative approachかIdiographic approachか
(4)Geneticか Specific か
(5)Eticか Emic か
(6)最も低い評価は「死」と同じか? マイナスレベルはあるか?
(7)臨床家や患者がQOLと見なしているゴールと一致しているか
(8)Response Shiftをどう扱うか
生活の質は、個々人の多様な価値観や生活史に基づいて高められるものであり、個人と同じ数だけ別々のQOLが存在してもおかしくない。オーストラリアの高齢者施設で数多く取り入れられているダイバージョナルセラピーでは、この個人本位の原則が貫かれている。じっさい、ダイバージョナルセラピーの案内文の中には
An integral part of an individual's well being; it is a subjective, esperiential phenomenon, which does not neccessarily have to be defined in terms of the what, when, etc. of a specific event.
といった記述を見ることができる(長谷川, 2001)。
QOLが「Quality=質」を扱う以上、どうあがいたところで、数量化には限界がある。個人本位で考えるならば、数直線上で比較されるような数量化ではなく、むしろ多面的なチェックリスト、あるいはそれを簡約記述できるようなレーダーチャートのほうが正確であろう。加重平均値化などによる総合指標が提案されるのは、医療資源の適正な配分や介護施設の認証評価(accreditation)の実施にあたり客観的に比較可能な数量評価が必要である、という社会的な要請(ニーズ)があるためと考えられる。
4.行動分析と「質」
次に、行動分析学において「質」がどう扱われるか考えてみよう。ここではまず、行動分析における質的データはどういうものかを概観する。さらに、心理学における質的研究において強調されていた「量には還元しにくい部分に注目して、情報的価値のある研究を遂行していく(2.2.参照)という積極的意味が行動分析においても当てはまるものかどうか考えを述べることにしたい。。
4.1.量的なデータを重視してきた理由
行動分析学では、従来、量的なデータを重視する傾向があった。その理由は次の2点に依るところが多いと考えられる。
(1)まず、第一に、行動分析学は真理基準を「公共的一致」ではなく「予測と制御」に置いている点である(佐藤, 1996a参照)。
Skinner(1953)は、『科学と人間行動』の第4章においてパヴロフの条件反射に関する業績を次のように評価している。
The quantitative properties which he discovered are by no means "known to every child." And they are important. The most efficient use of conditioned reflexes in the practical control of behavior often requires quantitative information. A satisfactory theory makes the same demands. In dispossessing explanatory fictions, for example, we cannot be sure that an event of the sort implied by "psychic secretion" is not occasionally responsible until we can predict the exact amount of secretion at any given time. Only a quantitative description will make sure that there is no additional mental process in which the dog "associates the sound of the tone with the idea of food" or in which it salivates because it "expects" food to appear. Pavlov could dispense with concepts of this sort only when he could give a complete quantitative account of salivation in terms of the stimulus, the response, and the history of conditioning.
ここで主張されているのは、行動の原因やプロセスが質的に探索されたとしても、最終的にそれが説明に必要かどうかは、量的予測の精度によって決まってくるという点である。条件反射の理論において心的要因の関与の必要性を認めるかどうかは、決して哲学的立場によって決まるものではない。それを認めた場合と除外した場合で量的予測に違いが出るならば認めざるを得ないし、違いが無いならば冗長な概念として切り捨てるべきである。質的な分析に基づく理論やモデルは、最終的に量的分析によって確証されるという立場を反映していると言ってよいだろう。
(2)第二に、行動分析学のいくつかの基本概念は、量的な変化の確認を前提としている点である。例えば、強化、弱化、好子、嫌子という概念はアプリオリに決まるものではない。じっさい杉山ほか(1998)では、好子や嫌子は次のように定義されている[長谷川により一部補足変更]。
好子(コウシ):オペラント行動の直後に出現するとその行動の後の頻度を増やす機能があるような刺激、出来事、条件
嫌子(ケンシ):オペラント行動の直後に出現するとその行動の後の頻度を減らす機能があるような刺激、出来事、条件
このように、ある刺激事象が「好子」と呼ばれるか「嫌子」と呼ばれるかを確認するためには何らかの実験や観察が行われ、そこでオペラント行動の増減が確認されることが不可欠となっている。
4.2.行動分析における質的な概念
では、行動分析では量に還元できない概念というのは存在しないのだろうか。量的変化を前提としない概念をいくつか挙げてみよう。
(1)オペラントかレスポンデントか
行動分析では、誘発刺激(無条件刺激または条件刺激)によって誘発される行動をレスポンデント行動、そのような誘発刺激が存在しない行動をオペラントと呼んでいる。この定義自体は、「存在するか、しないか」という議論だけで済むので質的な概念といえよう。
(2)オペラント強化の中味
好子が第三者によって付加されたものか(付加的随伴性)、行動に自然に伴う随伴性なのか(行動内在的随伴性)。この区別は量的な測定なしに可能である。
(3)ルール支配行動の確認
ある行動が直接効果的な随伴性によって維持・強化されているのか、それとも何らかのルール制御を受けているのか。結果の遅延(例えば60秒ルール)は区別の目安になるが、量的な測定は本質的には不要。
(4)強化スケジュールにおける、率スケジュールと時隔スケジュールの区別
行動の量に基づくか、時間経過に基づくかということ自体は質的に異なる。
(5)基本随伴性か阻止の随伴性か
概念的な区別であって、量的測定を前提としていない。
4.3.観察法と行動分析
澤田・南 (2001)は、観察法(observation method)を
人間の行動を注意深く見ることによって対象者を理解しようとする研究方法である.
としている。もっとも、この定義だけでは「注意深く見る」や「対象者を理解する」ということはどういうことなのか見えてこない。また、人間以外の動物や植物も観察の対象となる。科学的な研究方法はすべて観察を出発点としている言っても過言ではないだろう。
狭義の観察法は自然的観察法(natural observation)のことをいう。これは実験法と対置される研究法であり、澤田・南 (2001)によれば、観察を行う状況を研究者が意図的に拘束・操作するか否かにによって区別される。研究者によって統制を施していない状況下、すなわち自然の状況下で人間の行動を観察する方法(observation in un-contro11ed setting)が自然観察法であり、研究目的によって何らかの条件統制が施されている状況下、すなわち研究者が意図的に条件を配置した状況下で人間の行動を観察する方法(observation in controlled setting)が実験法ということになる。もっとも、参加観察法のように、どちらの側面も合わせもっている方法もある。また、研究者自身が手を加えなくても、法律制定や何らかの事件によって、結果的に、研究者が求めていた実験操作と同じ介入が行われることもある。
なお、実験研究において行われる「統制」には、「実験的介入を行う」という意味と、「無作為な割付を行う」という2つの意味があり、この2つの条件が揃わない場合には、厳密な実験的研究とは言えない。例えば、男女2つの群に実験的介入を行ったとしても、無作為な割付ができていない(→被験者を2つの群にランダムに割り付けることができない)ので実験研究とはいえない。この場合は、「準実験的研究法」と呼ばれる(長谷川, 2002参照)。
澤田・南 (2001)が認めているように、観察法と質的分析は同一ではない。むしろ、心理学における観察法は、対象をカテゴライズし、出現頻度などを量的に分析する手法が主流となっている。そのような意味での行動観察は、行動分析学の研究でもごく普通に行われている。澤田・南 (2001)は観察方法に対応した記録・分析方法として「時間見本法」、「場面見本法」、「事象見本法」、「日誌法」の4方法を挙げているが、4番目の「日誌法」を除けば、東(1987)が行動分析における観察法として挙げている「連続記録法」、「事象記録法」、「継続期間記録法」、「間隔記録法」、「時間見本記録法」、「プラチェック記録法」などと内容に殆ど差のないことがわかる。
では、行動分析における観察と自然観察法とはどう違っているのだろうか。ここでは、澤田・南 (2001)が挙げた“「積む」ではなく「載せる」という概念”というコラム(p.22〜23)を引用しながら、アプローチの違いをみていきたいと思う。澤田氏の観察例は次のように要約できる。以下「M」は澤田氏の1歳(当時)の息子さんである。
(1)Mの前に積み木を出してみた.すると,Mは立方体の積み木をつまみ,不器用ながらももうひとつの立方体の上に積んだ.筆者と妻は「すごい」と大声を上げて喜び手をたたいた.
(2)すると,Mはびっくりした様子で両親を見たが,「すごいね」とうなずきながら手をたたき続けると,Mも手をたたき始めた.
(3)Mの前に2つの積み木を置くと,Mはそれを積み,両親の拍手と同時に自分も手をたたいた.しばらくそれを続けているうちに,両親が手をたたかなくてもMひとりで慎重に積み木を積んでは親の顔を見ながら拍手することをくりかえしていた.
(4)しばらくの期間,Mがひとりで遊んでいるときにも積み木を積んでは手をたたく行為がくりかえされていた.また,積み木だけでなく,紅茶缶や茶筒のような直方体や円柱を積んでは手をたたく姿が見られた.Mが手をたたいていれば,必ずその前には何かが積まれていたのである.
(5)最初の観察から数日後,Mが廊下の椅子の上に置いてあったはがきで遊んでいた.離れた位置からその様子を眺めていると,1枚のはがきを床の上に置き,さらにもう1枚のはがきをその上に重ねて手をたたいていた.
(6)食卓につかまり立ちをして,その上に積み木や紅茶缶をひとつ載せてはうれしそうに手をたたく姿が観察された.同じような物を2つ積んだ(重ねた)場合ではなく,ひとつであっても手をたたくのである.
(7)ソファーの上に物を載せても得意気に手をたたく.チェストなどの家具の上も同様である.しかし,床に置いたときには手をたたかない.床に置いた物の上にさらに別物であっても何かを載せれば拍手する.
(8)その後,筆者は,3つ以上の物を載せたときにMが手をたたくという観察しかできていない.
上記は、対象者を拘束しないという自然観察法の事例として挙げられたものとされている。しかし、行動分析の視点から見れば、以下のような解釈も可能である。
(1)において、「筆者と妻」はM君の「立方体の積み木をつまみ、不器用ながらももうひとつの立方体の上に積む」という行動に対して、“「すごい」と大声を上げて喜び手をたたく”という強化を行っているのである。この場合、「手をたたく」行為やその音自体が好子になっていたのか、それとも、両親の笑顔や注目が好子になっていたのかは定かではない。またM君が自分で手をたたく行為がどのように強化されたのかも定かではない。いずれにせよ、「積み木をつまんで別の立方体の上に移動する」という行動は強化され、それはさらに、「葉書の上に葉書を載せる」、「食卓の上に積み木や紅茶缶を載せる」、「ソファーやチェストの上に何かを載せる」という行動にも般化した。但し、「床自体に物を置く」行動には般化しなかった。積み重ねるという行動は、それ自体「成功」によって行動内在的に強化されるようになり3つ以上を載せる行動を形成した。いっぽう、単に「物の上に物を載せる」という行動は、難易度が低いために行動内在的に強化されず、かつ周りからの付加的な強化(賞賛、拍手)もなかったため消去された(但し、3つ以上を載せる時の準備行動としては引き続き強化されている)。
ここで重要な点は、自然観察法が、「対象者を拘束しない」、「日常生活の中で適切な観察状況を選択する」と特徴づけられたとしても、実際には、観察者から何らかの働きかけを行っている可能性があるということだ。あるいは逆に、観察場面に限って働きかけを行わないことが「無視」による消去や弱化をもたらすこともある。結局のところ、「日常生活の中で適切な観察状況を選択する」ことと、「日常生活場面で、特定の外在要因を操作して影響を確かめる」ということの間には本質的な差違があるとは考えにくい。上記のM君の行動を解明するには、両親がM君のどういう「積む行動」を賞賛していたのか、その際の暗黙の強化基準は何であったのか、また、その日常生活場面でどういうオペランダムが用意されており、どの行動とどの行動が接近して起こりやすい状況にあったのかを把握する必要があるだろう。
なお、澤田・南 (2001)は、上記の事例を「般化」で説明することに対しては
はがきを「重ねる」とは表現しても,2枚程度では「積む」とは表現しない.これを「積み木を積む」から「はがきを重ねる」への般化ととらえることもできる.しかしそれは,あくまで「積む」,「重ねる」の概念をもっている大人の視点からの理解である.親が積み木を積むことに拍手をしたからといって,Mが「積む」という概念をもっているとは限らない.「重ねる」についても同様である.般化の前提は,既有の異なる概念に対して適用された場合である.そうなると,Mが手をたたく状況を丹念に観ていくことで,Mのもっている概念を明らかにしていく必要がある.
というように否定的な見解を示している。しかし、行動分析的な視点から言えば、そもそも「積む」、「重ねる」は、日常表現を借用した便宜的な記述にすぎない。行動の出現の有無は一定の操作的基準により判断されるのみである。かつ、「特定の概念をもつ」ことは般化の有無の前提には断じてならない。概念がなければ般化が起こらないとすると、動物の学習行動で広く見られる般化はどう説明すればよいのだろう? この種の現象は、刺激般化や、反応クラス(何らかの共通特性をもった反応の集合*1)によって記述されるべきであろう。また、分化強化や分化弱化によって変わりうるものである。
4.4.面接法と行動分析
次に、観察法とともに質的研究で重視されている面接法について、行動分析との関係を考えてみよう。
4.4.1.面接法の特徴
まず中澤 (2000)は、面接法(interview method)を
面接とは,人が直接に顔(面)を接しあいながら互いの理解を図ろうとすることをいう[interviewという英語も相互に(inter)見る(view)という語から構成されている〕。
と定義している。面接法は調査的面接と臨床的面接に大別されるが、本稿に関わるのは前者のみである。
中澤 (2000)は、調査的面接法の特徴として以下の点を挙げている[長谷川による要約]。
(1)研究仮説の検証あるいは仮説の生成を目的とし,調査者が与える質問への応答を通して,被調査者の意見や思考に関する質的データ,量的データを得ようとする研究方法
(2)調査者の問題意識のもとでデータ収集が行なわれる実験法や,検査法,質問紙法,観察法とその目的は同じである。
(3)調査者が,直接に被調査者と言語を中心とした相互作用をすることにある。話し方や表情・動作など,直接接することによって初めて得られる多様な情報をもとに,質問紙法などではとらえられない深い人間理解ができる。*2
(4)観察法などでは知り得ない,被調査者の心内過程を直接明らかにできる。
(5)実験法や検査法では許されない手続きの柔軟さがあり,被調査者にとって自然で制約が少ないという特徴をもつ。
また、環境ボランティアを調査した安藤(2002)は聞き取り調査のメリットについて次のように述べている。
【質問紙調査に基づく数量的分析では】参加者にとって何が参加のメリットとして認知されているかの内容については十分に明らかになっていない。.....聞き取り調査では,質問紙調査に比べて対象者の数が少なくなり,かつデータの解釈が恣意的になるとの批判がされやすい。しかし,質問紙調査ではあくまで調査者が何らかの予想を持って質問項目を組み立てるため,その枠外の結果を得ることは難しい。環境運動への参加のように,従来の合理的行為の枠組みではとらえられない行動の場合には,直接対象者から聞き取りを行うことで,その枠組みを超えた新たな知見を得られる可能性がある。また,人数が少ないとはいえ一人の対象者から得ることのできるデータは,聞き取り調査の方が量的にも質的にも質問紙データよりも豊かである。
行動分析学の研究では、一般に、単一事例実験が行われることが多い(Barlow & Hersen, 1984参照)。単一事例実験では、少数の人間や動物を被験者(被験体)とし、個体内比較により介入の効果が確認されていく。この単一事例実験と、平均値などの条件差を群間で比較する集団実験と比較で指摘されるメリット、デメリットは、安藤(2002)が挙げた質問紙調査と面接調査のメリット、デメリットによく似ているところがある。
4.4.2.言語報告と行動分析
次に言語報告について。上記にも引用したように調査的面接法の基本は、被調査者からの言語報告である。上記の中澤 (2000)の指摘(3)にあるように、「話し方や表情・動作など,直接接することによって初めて得られる多様な情報」も質的データとして活用される場合があるが、郵便やEメイルや電話を介した聞き取り調査では、当然、それらの場合には表情や動作を読み取ることはできない。
言語報告の一番の問題点は、その内容の主観性や不正確さにあるだろう。例えば、対象者が「楽しい」と答えたからといって、それが好子として機能しているかどうかは直ちには断定できない。Skinner(1953)はこれに関して、
We cannot dispense with this survey simply by asking a man what reinforces him. His reply may be of some value, but it is by no means necessarily reliable. A reinforcing connection need not be obvious to the individual reinforced. It is often only in retrospect that one's tendencies to behave in particular ways are seen to be the result of certain consequences, and, as we shall see in Chapter XVIII, the relation may never be seen at all even though it is obvious to others.
とはいえ、(実験的方法ではなく)面接によって、対象者の日常行動の強化因を探る必要がある時には、とりあえず「いま何が楽しいですか?」と聞くことには意味がある。言うまでもなく「楽しい」とは主観的な言語表現である。しかし、個人個人の表現内容に全く共通性・類似性が無かったら、言葉としては成立しえない。「テーマパークに行ったら楽しかった」という報告を聞いた第三者は、それを手がかりとして自らテーマパークに足を運べばそれなりに楽しめるはずだ。その有用性があるから、言葉(=タクト)として存在し続けているのである。
但し楽しいモノをリストアップするだけでは不十分であり、そこでどういう能動的な行動が起こっているのか、それぞれの行動にどういう結果が伴っているのかを詳細に聞き出すことが必要である。
中澤 (2000)が指摘するように、調査的面接法は、言語報告には客観的な保証がなく、自分を望ましく表したいという自己防衛がはたらく恐れがある*1。但し、その客観性は、質問内容、文脈、回答内容に対する強化・弱化要因によって大きく変わってくるはずだ。
以下、言語報告から行動随伴性を推測する場合の考慮点をいくつか挙げてみよう。
(1)事実についての質問(例えば「あなたは何県出身ですか?)は、通常は、回答が歪められる恐れはない。但し、文脈によっては、年齢、学歴、家族構成などの事実が正確に語られない場合もある。
(2)「Xという行動をしたらAという結果になった」という報告は、虚偽のメリットが無い限りは事実であろう。但し日常場面では「Xという行動」に対しては、A以外にもB、C、D、...というように報告者が言語化できない多種多様な結果が伴っている可能性があり、報告内容だけから随伴性を記述することには限界がある。
(3)「Xという行動をしたら楽しかった」、「Yという行動は嫌だった」という言語報告があった場合、Xには何らかの好子が出現し、Yには何らかの嫌子が出現(あるいは好子が消失、あるいは結果が何も伴わず消去)していた可能性がある。その場合、「Xをした後でどんなことが起こりましたか?」という質問をすることで、好子もしくは好子の候補を聞き出すことができる。
(4)将来のことについて「XをするとAになるから」という言語報告が得られた場合、そのことがルールとなっている可能性がある。その場合、例えば「Aが実現しなくてもXを続けますか?」という質問をすることで、ルール支配行動の有無についてある程度の確証を得ることができる。
このように限界があるものの、言語報告に基づく行動随伴性の推定は決して無駄ではなく、聞き方次第では、無言で行動観察すること以上に有用な情報が得られる可能性がある。
以上は言語報告から行動随伴性を推測するという留意点を述べたものであるが、Moore (1994)が指摘しているように、行動分析学では、内観報告は、ほんらい、それを通して推論するための手がかりではなく、それ自体が分析の対象となる言語行動として位置づけられている。
近年、Guerin(1994)を中心としたニュージーランドの行動分析学者たちによって、「態度」や「信念」も言語行動の一種として研究対象になりうることが指摘されるようになった。態度も信念も言語コミュニティにおける不可欠の構成要件であり、タクトとしての態度や信念をイントラバーバルとしての態度や信念に転換したり、オートクリティックの機能を通じて態度と信念が社会的な交渉に使われている点も指摘されている。すなわち、言語コミュニティには
(a)態度や信念を特例ではなく一般事例として報告する行動を強化する。
(b)イントラバーバルをタクトであるかのように見せる行動を強化する。
(c)信念を態度であるかのように見せる行動を強化する。
という強化機能があり、態度と信念と行動の二者間あるいは三者間の一貫性もまた、言語コミュニティで実際に行われている強化を随伴させている。それゆえ、態度や信念は、私的あるいは認知プロセスではなく、社会行動の研究対象となりうると述べている。このような研究がさらに進めば、自分をよく見せかけたり、偽りの報告を行う行動についても
被験者の言語報告のどういう部分が言語コミュニティの中で強化されているのか
という視点から分析を行うことが可能となる。
4.4.3.行動随伴性に注目した場合のメリット
最後に、2002年に刊行された『質的心理学研究』第1号掲載論文の中から環境ボランティアを調査した安藤(2002)の研究をとりあげ、もし同じ対象を行動随伴性の視点から分析したらどうなるか検討を加えてみることにしよう。
まず、安藤(2002)は論文の序論で、環境ボランティアについて
・環境運動による環境が保全されるなどの利益は,運動を行った人のみが得られるものではなく,地域の全員が得られるという点で非排除的であり,社会的ジレンマとしての側面を持っている。つまり環境ボランティアに参加することはコストがかかる行為であるため,自分は参加せずに他の人が活動してくれる方が個人としては得だということになる。この考えは,人間は自己利益の最大化を目的として行動するという,「合理的」な人間観にもとづいている。
・もし全員がそのように「合理的」に考えるとすれば環境運動に参加する人は誰もいなくなるはずだが,実際には上述のように環境運動は大きな広がりを見せている。彼らは,何を求めて運動に参加しているのだろうか。
・自己の利益を度外視した利他的な動機にもとづいて参加しているのか,社会的ジレンマとしての構造が認知されていないのだろうか。
というように問題を立てている[長谷川により一部改変・省略]。主タイトルに含まれる「自己犠牲的」という表現も、おそらく、「自己利益の最大化を追求しない」という意味で用いられているものと思われる。
同じ現象をもし行動随伴性に基づいてとらえるなら、次のようになるだろう。
(1)環境ボランティアへの参加は、何らかの行動随伴性により強化されているはずだ。その意味では「自己犠牲的」なる表現は妥当ではない。利他的な結果も場合によっては好子になるはずだ。
(2)「環境ボランティアに参加することはコストがかかる行為」かどうかは、参加行為が何によって強化(また弱化)されているのかを調べてみない限りは断定できない。あるいは、環境ボランティア以外にやりたい行動があるかどうか、それらをすることと物理的にに競合するのかどうかも調べる必要がある。
(3)「そのように『合理的』に考えるとすれば環境運動に参加する人は誰もいなくなるはず」と記されているが、行動を維持するのは「考え」ではなく、あくまで直接効果的な随伴性である。
(4)「自己の利益を度外視した利他的な動機にもとづいて参加しているのか」と記されているが、そうであったとしても行動の原因は「利他的な動機」ではなく「利他的結果が好子となる」と考えるべきだ。
(5)「社会的ジレンマとしての構造が認知されていないのだろうか。」と記されているが、構造が認知されているだけで行動が弱化されるとは考えにくい。
次に実際の聞き取り内容について。安藤(2002)では
1.どのようなきっかけで環境ボランティアを始めたか
2.それまで環境問題にどれぐらい関心があったか
3.環境ボランティアを始めてから環境問題に対する考え方が変わったか
4.自分のやっている運動は, 環境問題の解決に効果があったと思うか
5.環境ボランティアに参加することによって, 自分は何を得たと思うか
の5項目が分析の対象とされていた。紙数の都合で、本稿では4.と5.についてのみ考えを述べることにする。
4.について安藤(2002)は「活動の有効性」というタイトルで考察、「今回のインタビュー回答者は、地球規模での環境問題を解決するのは難しい,と認めつつも個々の活動の効果については比較的肯定的にとらえる、という二面性が見られた」と結論していた。行動随伴性の視点を入れるならば、これは、直接効果的な結果がどの程度伴ったのかと考えることにつながる。環境ボランティアで個々人の活動がもたらす貢献は「チリも積もれば山となる」ような、累積的に意味のある結果しかもたらさない。杉山ほか(1998)が指摘しているように、「1回1回の行動に対する即時の結果が小さすぎる」行動は直接的には強化されないのである。ではどうすればよいか。何らかの形で微小な結果を目に見える変化に置き換えるか、もしくは、「この行動は将来的に○○の達成につながる」というルールに基づいて、ルールに一致する行動をとったことに対して何らかの付加的な強化を与えている可能性がある。安藤(2002)は「二面性」と結論したが、むしろ、「直接効果的な結果が小さすぎることに対して、どのような付加的な強化やルール支配が行われているのかを聞き出すべきであろう。
次に5.の質問だが、これは、参加行動を強化している好子のうち、対象者が言語化できる部分を把握することに有用である。安藤(2002)では、得られた言語報告を「ネットワークの広がり」、「自己の有能感」「対処有効性」「活動に関する技能」の4カテゴリーに分けて考察されている。これらを行動分析の視点から見直すと次のようになる。
・行動随伴性の視点を入れるなら、このうち「ネットワークの広がり」というのは、対人的な接触を通じて得られる社会的好子(励ましの言葉、笑顔など)であり、その具体的内容はもっと細かく聞き出せたのではないかと思われる。
・「自己有能感」として記されている内容は複合的であるが、当人の諸行動の中で、好子出現随伴性により強化されている部分が、好子消失阻止や嫌子消失阻止の随伴性で強化されている部分に比べて相対的に高まることは、そのような言語報告をもたらしやすい可能性がある。
・「対処有効性」に関しては、質問4.と同じ視点をもつことができる。「ほんの少ししか変わらないじゃなくて、ほんの少しでも変わったということが大事だ」という言語報告は、「少しの変化」に対して付加的な強化を与える仕組みを自分で確立したと考えるべきである。
・最後の「活動に関する技能」は、当人の行動が精緻化され、かつ行動リパートリーが増えることによって、今までなかった強化機会が与えられるようになったと考えるべきだろう。
なお、安藤(2002)では、独立したカテゴリーとしては分析していないと断った上で「活動の楽しさ」についても言及している。「楽しいから活動している」というのは循環論的説明に過ぎないが、「楽しさ」として語られる具体的結果を聞き出すことができれば、行動内在的な好子の把握に繋がるはずである。
以上、安藤(2002)の研究を事例として、もし同じ対象を行動随伴性の視点から分析したらどうなるか検討を加えてみた。この種の調査で得られる発話内容は、カードに記された上でKJ法により分類・整理されることが多いが(中澤, 2000)、それだけでは、分類者の主観、分類者が複数であれば共通した主観で類似度を決めてしまう恐れがある。行動随伴性という概念的枠組みに基づいて分類することで、より生産的な結論が導ける可能性がある。
5.おわりに
『行動分析学から見た子どもの発達』の著者であるシュリンガー(1998)は、「【科学的】理論は基本的に,それ自体客観的変数間の再現可能な関数関係からなる多数の事実についての言語的ないしは数学的形式による要約である。」とした上で、その評価基準として、理論の一般性、テスト可能性、外的妥当性、有用性、簡潔性を挙げている。これらの基準、及び、心的虚構を説明概念に使わないことに徹するという大前提を守るならば、行動分析における質的研究は、環境との関わりにおける外在的要因の検出や、それらの多様性の把握に重点を置くことになるだろう。
なお、本稿は紙数の都合で、参加観察やフィールド調査(尾見・伊藤, 2001参照)における質的研究についてはふれることができなかった。これらについては別の機会に論じることにしたい。
引用文献
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*1 同辞典では「quality」、「attribute」、「property」、「character」の違いを次のように説明している。
quality 人,物の性質,行動を規定する生得的・後天的特性
attribute 人,物が当然備えているはずの本質的[生得的]特性
property 物質などの構成上の特性
character 他と区別を示す特性
*2 第1回 アジア太平洋地域建設担当閣僚会議 http://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/inter/mf/tech2-2-3j.htm
*1 大学審議会 大学院部会 (第122回議事要旨)
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/12/daigaku/gijiroku/005/990602.htm
*2関西学院大学法学部ロースクール推進委員会構想第(第2次)試案http://www.kwansei.ac.jp/law/law6-1.html
*32002年度年度 第3232回日本社会事業学校連盟回日本社会事業学校連盟社会福祉教育セミナー 第1回日本社会福祉士養成校協会 社会福祉士養成教育セミナー 共同開催要項
www.jascsw.jp/%8E%91%97%BF/renmei/ letter51.pdf/letter51p_4_9.pdf
*1日本健康支援学会. (2003)参照.
*1 杉山ほか(1998). 91頁参照.
*2指摘(3)で、調査者と被調査者との相互作用のことがふれられているが、これ自体は、じつは実験研究においても相互強化という形でおこりうるものである。オペラント条件づけを風刺したマンガ(原版はコロンビア大学のJester、メドニック、1966参照)には、スキナー箱の中の2匹のネズミうちの1匹がレバーに前足をかけながら、
おい、この男を条件づけてやったぞ! 俺がこのレバーを押すたびにあいつは餌をひとかけおとしてよこすんだ。
と、もう1匹に語りかけている様子が描かれている。このマンガはおそらくジョークとして出されたものであろうが真実をついている。たしかに実験者は、
ネズミがレバーをおすたびに餌を出してレバー押し行動を強化する
という操作を主体的におこなっている点で研究遂行の主人公であることはまちがいない。しかし、そういう「研究行動」が遂行されるのは、ネズミがある頻度以上でレバーを押し、実験データを提供しているからにほかならない。もしあらゆる手だてを尽くしてもネズミがレバーを押さなかった時には、その研究者は被験体を別の動物に取り替えるであろう。以上は本稿が扱う質的研究とは直接関係ないが、研究という行動は、研究対象が有益なデータを与えてくれるということによって強化されている点を忘れてはならない。
*1佐藤(1996)は、人は何をウソと考えるかについて興味深いデータを報告している。なお、英語の「lie」には、日本語の「うそ」よりも意図的に騙す点が重視されているとの指摘もある。