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【思ったこと】 _10204(日)[心理]今年の卒論・修論から(1)映画作品の影響を検討することの限界 さて、今回最初に取り上げるのは、映画に対する観客の反応を検討したユニークな卒論である。佐藤(1997)によれば、ハリウッドでは、作劇方程式とも呼ばれるほど綿密なシナリオがあるという。上映の流れの途中でいかなるイベントを起こして観客の興味を持続させるかが、徹底的に検討される。じっさい、佐藤(1997)が観た何十本かのハリウッド映画では、そのすべての作品がシナリオのパラダイムに合致していたという。 卒論執筆者は、それらの知見をもとに「観客が映画的な仕掛けによって予測しているのは、シナリオのパラダイムに沿って起こる出来事(ストーリー展開)ではないか」という仮説をたて、実験的に検証を試みた。さらには、吹き替え版であれ、字幕版であれ、その効果は変わらないことを示した。その上で、「映画を観るという行為は、2時間ぼんやりとスクリーンを見つめるということではなく、映画からの情報の提示、観客からの予測の逆提示という一種のコミュニケーション空間に身を置くことのように思われる。」というのが結論。 佐藤(1997)の受け売りでない、執筆者のオリジナルの視点がどの程度示されているのかは引用文献をあたってみないと何とも言えないが、ただ眺めるだけと思われがちな映画鑑賞の過程に、予想や期待といった観客の能動的な反応が介在することを実験的に検証した点は大いに評価できると思った。 もっとも、ここでおこなわれた実験というのは、実質的には系統的な観察の範囲にとどまるものであり、独立変数を操作したものとは言い難い。そして何よりも問題となるのは、使われた材料が映画一編だけであり、一般的な結論が引き出しにくいということだ。 悪く言えば、推理小説を適当に一編選んできて、文中の各所にちりばめられている伏線に読者がどう反応したのかを調べ上げただけの研究と同じレベルにとどまる。作者の意図どおりの反応があれば成功作と言えるし、全く異なる反応が出てしまえば失敗作と言える。要するに、作品の出来不出来を論じることはできても、だから推理小説はどうだ、などといった一般論は決して引き出せないのである。今回の卒論の場合も、用いられた映画の出来不出来は論じることはできても、だから映画とは...というような一般論は導き出せない。せいぜい「仮説に当てはまる事例が少なくとも1つあることを実験的に示した」と言えるにとどまる。 自然環境や社会環境の影響を特徴づける研究と異なり、映画や小説などの個人作品の与える影響を分析するというのは難しいことだと思う。なぜなら、それらの作品はもともとある意図を持って作られたもの。それが予想外の人気をもたらしたとか、危険な行為の引き金になったというならば研究対象にはなりうるけれども、単に作者の意図通りに影響を与えていたかどうかという議論になってしまうともはや一般性は出てこない。これから卒論に取り組む人たちは、このあたりを考えて研究対象を絞り込んだほうがよいかと思う。 | ||||||
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【思ったこと】 _10205(月)[心理]今年の卒論・修論から(2)携帯の着メロは原曲より不快に聞こえるか 公共の場における携帯電話利用の問題点の1つとして、着信音によって引き起こされる騒音問題がある。今回取り上げる論文は、そういう問題意識のもとに、着メロとその原曲のどちらが情動反応を引き起こすかを実験的に検討したものであった。 最初の実験では、浜崎あゆみ「SEASONS」の原曲サビ部分25秒と、NTTドコモの「着信メロディGIGA」3和音による同じ部分の着メロを被験者に聞かせ、多面的感情状態尺度・短縮版(MMS)と瞬目および呼吸数という生理的指標により情動的な変化を測定した。 原曲に対する好き嫌いが被験者によりマチマチであったため、第二実験では、2000年11月の月間ランキングCDシングルBEST50から10曲を示し、一対比較法によりそれらの曲に対する興味(好き嫌い?)の度合いを調べ、その上で、最も高い興味を示した曲と、いちばん興味を示さなかった曲について、原曲と着メロを提示し、情動的な変化を測定した。 その結果、好きな曲が着メロになった場合には、着メロのほうが否定的感情が生じたが、嫌いな曲が着メロになった場合は有意は差なし。瞬目や呼吸活動と尺度得点の間には有意な相関は無かったという結果が得られた。 「携帯電話の着メロがもたらす迷惑」というホットな話題に注目した点は大いに評価できるのだが、3つほど大きな疑問が残った。 第一は、そもそも「原曲」と「着メロ」の違いは何だろうということ。形式的には分類可能であろうが、細かく分けてみると
次に第二の疑問、これはかなり根本的な問題になるのだが、音楽に対する感情というのは、その場の状況や文脈によってポジティブにもネガティブにも変化するものではないだろうか。例えば、私が大学院生の頃は井上陽水の歌が流行ったものだ。陽水の歌自体は嫌いではなかったけれど、下宿していた家の息子が隣の部屋でギターを弾きながら深夜に大声で歌うのにはうんざりしたものだ。また、私はクラシックはたいがい好きなほうだが、隣の研究室の某教授が時たま廊下まで鳴り響くような音量で音楽を流すことには非常に迷惑している。いずれも、音楽に対する感情は、メロディ自体ではなく、文脈によって規定されることを示していると言ってよいだろう。 もともと着メロを不愉快に感じる人が多いのは、全く聴く気が無い時、あるいは読書に耽っている時に、何の脈絡もなく静穏を妨げられるためであろう。実験室で計画に従って聴かされる音楽とは状況が異なる。 となれば、着信音によって引き起こされる騒音に取り組むという、当初の問題意識を保つためには、特定のメロディがどういう文脈では心地よく、どういう文脈では不快に感じるのかを明らかにしていくべきであった。ところが、瞬目とか呼吸数といった生理指標に囚われてしまったために、結果的に固定された文脈のなかだけで、情動への効果を検討せざるを得なくなってしまった。 そして、案の定、生理的指標は様々な要因に影響されることが示唆された。執筆者は、「アーチファクトに左右されない、安定した生理指標を見つけ出すことが必要であろう。」と結んでいるが、わざわざ電極などをつけて、生理指標探しに明け暮れるのは得策ではないと思う。不快な時に耳たぶの温度が上がろうが、足の裏が熱くなろうがそれ自体はどうでもよいことだ。だいいち、脳波でも筋電図でもそうだが、特定の感情状態に一対一に連動するような生理指標などありっこない。生理指標に影響を与える感情状態を同定することはできても、生理指標から感情状態を把握するという逆方向の推定にどれほどの意味があるだろうか。 行動分析的にみるならば、要するに、着メロは、それを聴こうとする行動が増えれば好子であり、それを避けようと行動するのであれば嫌子になっているだけのこと。いろいろな環境や文脈のもとで、好子となる条件、嫌子となる条件を探っていったほうが生産的な結論が得られるのではないかと思う。 | ||||||
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【思ったこと】 _10206(火)[心理]今年の卒論・修論から(3)自尊心をどう扱うか 今回は、論文全体ではなく、その論文の一部として検討された自尊心の問題を中心に考えてみたいと思う。 この論文の執筆者はもともと、障害者の自尊心について高い関心を持っていた。自尊心はしばしば「うぬぼれ」と同義語として用いられてしまうが、『新明解』の2番目の意味にもあるように「自分という存在に誇りを持つこと。」という大切な意味がある。自尊心が高すぎるのも困るが、適度な自尊心を持てず卑屈になってしまうこともまた問題だ。これは外見的特徴を気にする健常者にも当てはまる問題だ。私自身も中学3年の頃から背が伸びないことを結構気にしており、「チビ」などと言われるとひどく傷ついたものである。(関連する話題が、1998年2月10日の日記にある)。 もとの話に戻るが、障害者を対象として、この自尊心を障害の受容と関連づけて検討することは大変価値があることだと思う。しかし、残念なことに、論文では、その問題が自尊心の年齢変化やパーソナル・スペースの問題に置き換えられてしまった。 実際に用いられたのはRosenbergの自尊感情尺度。調査対象は中学生・高校生・大学生で、いずれも女性であった。ここでは自尊感情尺度得点が数量的に比較されているわけだが、私が疑問に思ったのは、そもそも自尊心のようなものが、一次元上で量的に測れるものなのか、また、年齢による比較ができるのだろうかということであった。 確かにそのような調査を行えば、表面上は得点が算出できる。しかし、中学生の自尊心と大学生の自尊心では質的な内容自体が大きく変化しているのではないだろうか。特定の年齢層の得点が高いからといって、その年齢のあたりで自尊心が一番高くなると結論するには無理がある。 素点を単純に比較できない尺度としてよく知られているのは知能テストであろう。知能テストの素点を中学生・高校生・大学生で比較すれば、たぶん、高校生あたりが一番知能が高いという結果になるはずだ。しかし実際は、例えば15歳未満と15歳以上というように年齢によって区分し、別々に標準化する。いわゆるIQというのはそれぞれの集団の中での素点の偏差値のこと。簡単に言えば、素点合計を平均が50で標準偏差が10となるように変換したものが知能偏差値であり、平均が100で標準偏差が15ないし20となるように変換したものがIQ(偏差値IQ)であるにすぎない。 自尊心尺度のようなものも、それぞれの年齢段階別に標準化されるべきもの。素点を比較するのではなく、各年齢層において、自尊心を特徴づける行動にはどういうものがあるのか、あるいはどういう場面で自尊心が行動に影響を与えるのか、を綿密に調べたほうが建設的な方向に進んだのではないかと思う。 ところで行動分析学は自尊心をどう扱えばよいのだろうか。この方面は全く勉強したことが無いので、あくまで現時点での思いつき程度のことしか述べられないが、おそらく、どの関連書を見ても、自尊心(あるいはself-esteem、self-respect、self-worthなど)という言葉は出てこないのではないかと思う。上にも述べたように、もう少しいろいろな文脈、状況に分けて行動レベルで検討していくことになるのではないかと推測される。 例えば、健全な自尊心を保つためには、ある程度の自信が必要であろう。自信を保つためには、自分の能動的な働きかけに対して適度に結果が伴うことが必要。何をやっても結果が伴わない状態が続けば、その人は確実に自信を失う。そういう意味では、障害者の場合でも、何はともあれ、自分の能動的な働きかけを大切にし、それに結果が随伴するような環境を整備していく必要がある。 しかし、自信があるだけでは健全な自尊心は確保されない。おそらく自尊心は、社会的な環境の中で意識されるものであろう。無人島に流れ着いて一人暮らしを始めたロビンソンクルーソーは、自分の行動に自信を持てただろうが、自尊心を傷つけられたことは無かったに違いない。となると、これは、対人的な行動や、社会的文化的に形成される習得性好子、習得性嫌子をどう改善するかということに帰着される。例えば、
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【思ったこと】 _10207(水)[心理]今年の卒論・修論から(4)「どちらが目立つか?」は難しい 昨日の日記の続き。今日行われた大学院の授業の中で、たまたま「色と形とどっちが目立つか」が話題になった。簡単に言えば、「信号が赤なら止まれ、青なら進め」という色を手がかりとした場合と、「信号が×印なら止まれ、丸印ならば進め」という形を手がかりとした場合でどちらが速く学習できるかというような問題だ。(実際には、被験体は動物。刺激は複合的、つまり赤色の×、青色の丸というように提示され、後に、その要素の一部を取り替えて再訓練するという実験。) しかし、この種の実験から、「色と形とどっちが目立つか」についての一般化された結論を導くことはきわめて難しいと思う。まずどちらのモダリティにおいても刺激の種類は無限に存在している。しかし実験場面で提示できる刺激には限りがある。特定の色相、明るさ、鮮やかさなどを持った色を基準として、どういう形ならば色以上に目立つかという議論はできるが、「色と形とどっちが目立つか」などという一般論はそもそも議論不可能な問題であるように思う。 では、色刺激や形刺激の提示条件を固定した上で、いろいろな動物で実験してみるのはどうだろうか。しかしこの場合も、それぞれの動物の受容器の違いを考えると、学習の速さだけを単純に比較することはできない。例えば同じ三角形を見せても、魚眼レンズを持つサカナでは見え方が違う。また、色が殆ど区別できない動物も多い。 そういえば、私の修士論文でも「どちらが目立つか?」を論じたことがあった。これは、食物や飲み物への嫌悪を条件づける実験の話。例えば、ネズミに甘い水を飲ませつつ、飲み口を嘗めるたびに光やクリック音が同時に鳴るような仕掛けを作っておく。5分程度飲ませてから6時間後に、むかつきをもたらすような薬物を注射してやると、そのネズミは同じ味の水を飲まなくなる。これがいわゆる「食物嫌悪学習」だ。ところが、甘味は取り除き、飲むたびに(先の訓練時と同一の)光やクリック音を提示するようにしても、摂水量は決して減らない。この枠組みだけで言えば、ネズミにとっては「光や音よりも甘味のほうが目立つ」と結論することができる。 では、同じ「甘い水を飲ませつつ、飲み口を嘗めるたびに光やクリック音が同時に鳴るような仕掛け」の中で、飲むたびに電気ショックがビリビリくるようにしたらどうなるだろう。単に「光や音よりも甘味のほうが目立つ」のであれば、ネズミは同じように甘味を避けるようになるはずだ。ところがこの条件下では、ネズミは「光や音のする水」を避けるものの、別の場所で与えられた甘い水は平気で飲み続けることが知られている。このような、モダリティの目立ちやすさが結果との関係で変わるという効果は、 Garcia, J. & Koelling, R. A. (1966). Relation of cue to consequence in avoidance learning. Psychonomic Science, 4, 123-124.という論文で一番最初に発表されており、時にGarcia効果と呼ばれることもある。この場合、「目立ちやすさの序列は結果に依存してクロスすることがある」という結論は、実験者がそれぞれのモダリティから任意に選んだ刺激について一事例を示すだけで実証できる。無限に近い刺激について細かく検討する必要は無い、というのがGarciaらの実験の画期的なところであった。 このほか、目立ちやすさは文脈によってもずいぶん変わるように思う。すでに試問を終えた今年の修士論文の中に、「急な出現や点滅を手がかり をターゲットを探すことは色や明暗を手がかりに探すより、一層容易である」ことを実験的に示した研究があった。この結論は、行われた実験の枠組みの中では実証されているが、日常社会の中でどこまで一般化できるかどうかは定かではない。例えば、周囲がめまぐるしく動くような環境下では、同じ明るさで固定された照準のほうが目立つようにも思える。車の運転中に手がかりとして利用される信号や標識の場合も、一律に点滅させれば目立つというものでも無かろう。例えば交通事故の起こりやすいカーブなどには、点滅看板を置いて注意を促すよりも、事故現場の生々しい写真や事故で破損した車をぶらさげておいたほうが効果が大きいように思える。 | ||||||
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【思ったこと】 _10212(月)[心理]今年の卒論・修論から(5)コンピューターを介したコミュニケーション(1)既存縁と情報縁 昨年あたりから、Eメイルやネット掲示板書き込みなど、コンピューターを介したコミュニケーション(Computer-Mediated Communication; CMC)をテーマにした卒論を見かけるようになってきた。ちなみに、昨年のコメントは2000年2月19日の日記およびその翌日の2000年2月20日の日記に記してある。 この種の研究で難しいと思われるのは、通信技術の進歩をどう対応するかという問題であろう。(以下、議論を簡単にするためにEメイルだけについてふれることにするが、)ひとくちにEメイルと言っても、送受信の手軽さ、経費、送ることのできる内容は5年前や10年前と著しく変わっているからだ。 この問題を、マイカーの利用と比較してみるとよく分かる。もちろん車の場合も、この10年あまりのうちにエアバックやカーナビなど新しい装備が充実してはいるが、価格やボディの大きさ、必要な運転技術、スピードなどの点で根本的な変化は見られない。それゆえ、例えば2000年10月頃にマイカー利用について行った調査研究の結果は10年前と容易に比較できるし、10年後の利用予測にもつなげることができる。 ところがEメイルの場合には、車そのものの形や性能が変化してしまうのである。言ってみれば、10年前の自転車と5年前のバイクと現在の自動車を同じ「マイカー」と呼んで比較するようなものである。概念そのものが変わってしまうのでは、せっかくの研究の資料的価値が無くなってしまう。 ではどうすればよいか。
さて、今年の卒論の中では「既存縁」と「情報縁」に着目した研究があった。これは古森・池田(1997)、川上・川浦・池田・古川(1993)らによって論じられているものであり、電子ネットワーク上では
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【思ったこと】 _10214(水)[心理]今年の卒論・修論から(6)コンピューターを介したコミュニケーション(2)ネット上でのコミュニケーション不安 今回の卒論の中に、ネット上でのコミュニケーション不安をとりあげたものがあった。ここでいうコミュニケーション不安(Communication apprehension; 以下CA)は、狭義の意味での対人不安として捉えられたものであり、例えば、「初対面の人と会うとき」、「就職の面接」、「人前でのスピーチ」、「目上の人との会話」などで感じる不安が挙げられるという。執筆者の主たる関心は、CMC(コンピューターを介したコミュニケーション、Computer-Mediated Communication)のメディア的特性のどの部分がCMC上のコミュニケーション不安に影響を及ぼしているのかを探ることにあった。併せて、現在CMCというコミュニケーションが人々にどのように認識されているのか、そしてどのような利用がされているのかについても検討された。 具体的方法としては、200名を超える大学生(男性のほうがやや多い)を対象に
以上、方法と結果の概略を紹介させていただいたわけだが、当初の目的である、「ネット上でのコミュニケーションにおいて、どのようなメディア的特性が不安低減に関係しているか」という点に関しては、上記1.の結果に基づいて、「CMCは自己開示や自己演出が容易なコミュニケーションだ」とか、「新たな出会いの場だ」と認識することが、CMCでの不安の低下につながるかもしれないという可能性を示す」というレベルの結論を引き出すにとどまった。 今回紹介した卒論研究はきわめてボリュームのある内容であり、その努力は大いに評価するが、議論の展開に関してはいくつか疑問を呈せざるを得ない。
「現在、○○がどのように認識されているのか、そしてどのように利用されているのか」という問いかけは、現在を生きている我々の大きな関心事ではある。しかし、その背景には、
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【思ったこと】 _10215(木)[心理]今年の卒論・修論から(7)コンピューターを介したコミュニケーション(3)会ったことの無い人とのEメイルのやりとりがもたらす印象形成 今回の卒論では、もう一篇、CMC(Computer-Mediated Communication)上での印象の変化及びそれに影響を与える要因について実験的に検討した研究があった。原文では、「CMC上での.....」となっているが実際に検討されたのはEメイル交換であった。 執筆者によれば、CMCについては、否定的側面を強調する立場と肯定的側面を強調する立場があるという。それぞれの論点は次のように要約できる。
その結果、
この研究は、予備調査、実験の遂行からと結果の解釈に至るまでの流れがきっちりとしており、卒論研究としては十分な水準にあるかと思った。しかし、昨年同時期に私が指摘したいくつかの問題点(2000年2月19日の日記およびその翌日の2000年2月20日の日記)は基本的に克服されていない。「一対一のメイル交換とし、期間を1ヶ月間とした点」にどれだけのオリジナリティがあるのか、単なる焼き直しに過ぎないのではないかという不満が残る。具体的には以下のような問題点を挙げることができる。
さて、ここからは一般的な話題となるが、この種の実験で注意しなければならないのは、 Eメイルを実験に使ったからといって、Eメイルのことを調べたとは直ちには言えない。という点だ。 分かりやすく説明するために別の例を挙げるならば、 ある温泉が健康によいかどうかを調べるために、福祉施設で生活している高齢者20人を2群に分け、実験群は毎日マイクロバスで温泉まで送迎、対照群はそのまま施設内にとどまる。という群間比較を行ったとしよう。この場合、実験群のほうで健康状態に改善が見られたとしても、直ちに温泉そのものが有効であったとは言い難い。道中の景色やマイクロバス内での交流が効果をもたらしたとも考えられるからである。 要するに、ひとくちに「CMC(Computer-Mediated Communication)上での印象の変化及びそれに影響を与える要因」と言っても、CMCのどの特性(要因)が効果を及ぼしていたのかが同定できなければ、分析としては不十分であるという点だ。例えば、メモ用紙に書かれたメッセージを交換した場合でもCMC実験と同じ効果が生じるとするならば、CMCを検討したことにはならないのだ。2/12の日記で指摘した「CMCはその内容自体が時代とともに変わる」という点を考え合わせるならば、群間比較の実験的方法で明らかにできる点はかなり制限されてくるように思う。となれば、必ずしも実験的方法にこだわることは無い。Eメイル交換あるいはCMCに参加する行動がどう強化されていったのか、それが日常生活の種々の行動にどういう影響を与えていったのかを、個々のケースについてシステマティックに観察していく方法のほうがむしろ得るところが大きいのではないかと思う。 余談だが、Eメイルと言えば、Web日記書きがしばしば設置している「空メイルボタン」などはなかなか面白い研究対象だと思う。来年度あたり、これをテーマにした卒論研究が出てくることに期待したい。 | ||||||
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【思ったこと】 _10216(金)[心理]今年の卒論・修論から(8)身近な人に「禁煙」を誓約することの効果 今回とりあげる卒論のテーマは、自分自身の喫煙行動を観察したり、他者に禁煙を誓約することが禁煙行動にどのような効果をもたらすかを検討したものであった。具体的には、まず2週間、「今日タバコを吸いたいと思うときがありましたか」、「今日タバコを吸いましたか」、「今日タバコを吸いたいのを我慢しましたか」、「自分が禁煙していることを誰かに話しましたか」といったチェックシートで自己観察を続ける。引き続いて、3、4週目では次のような誓約書が身近な人に渡された。 __さん執筆者によれば、自己観察とは 行動の主体が自己の行動を観察、記録すること。それによって問題行動をいっそう意識化し、観察した行動を客観的な事実として捉えることができるようになる。いっぽう後半に行われる誓約書の提出はコミットメントにあたる。執筆者によればコミットメントとは 個人が自分の行動に言質を与え、それに束縛されること。人前で「やる」といったら引っ込みがつかなくなり、コミットされた行動や決定は変更や撤回が困難になる。というように特徴づけられるという。そして、単なる喫煙本数の変化ばかりではなく、被験者自身が自己観察やコミットメントのプロセスでどういう受けとめをしたのかを把握するという点で、禁煙行動の別の側面を探ろうとするものであった。 自己観察やコミットメントの効果を検討した卒論研究は昨年にも行われているが、今回の論文は、問題の背景や先行研究との関連づけという点で不十分さが目立った。また、考察のところでは「止煙の意識」、「禁煙への動機付け」、「実験者の期待」、「実験者に監視されているようなプレッシャー」といった日常生活語が心理学的用語としてきっちり定義されないままに説明に使われている点にも不満が残った。さらに、実験の方法が単一被験体法のデザインになっていないため、介入の効果なのか、時間の経過による変容なのかがチェックできていないという問題もあった。とはいえ、被験者側の受けとめ方に照準を合わせた点は、社会心理学的アプローチとして評価できると思った。 ところで、上に述べられた「自己観察」や「コミットメント」は本当のところはどういう効果をもたらしているのだろうか。
余談だが、先日この日記でも紹介した、『痛快!心理学』(和田秀樹、集英社インターナショナル、2000年)の中に、「断酒方法、日本とアメリカでこんなに違う」という記述がある。それによれば、
さて、卒論研究についてのコメントはこれでひとまず終了。次回は、提出された論文全体についての総括と、今後の卒論研究の方向について考えを述べたいと思っている。 | ||||||
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【思ったこと】 _10217(土)[心理]今年の卒論・修論から(9)まとめ/「ポートフォリオ型自己育成」としての卒論研究の意義 本年度の卒論の試問は2/16に無事終了した。今年の卒論研究14篇のテーマを、私が勝手に選んだキーワードで特徴づけてみると..... 幼児発達/起業家/対人不安/フリーター/友人関係/ネット・購買/携帯着メロ/老い/ネット・コミュニケーション/禁煙行動/Eメイル/減量プログラム/育児ストレス/映画ということになるかと思う。10年〜20年も前の実験論文を持ってきて追試をやるというタイプはすっかり姿を消し、全体としてホットなテーマを取り上げる傾向が強まってきたように思う。 これはたいへんよい傾向だと思う。厳密に独立変数を統制するような実験室実験もそれなりに思考の訓練にはなるが、この学生たちが卒業してから同じ方法で現実問題に取り組めるかどうかということになると甚だ心もとない。方法は固定せず、学生が自分でいちばん興味をもった研究対象に対して、身につけたあらゆる知識や技法を駆使して、できる限り自力で問題に取り組んでいくことのほうが教育的意義が大きいように思う。 次に、それぞれの研究で用いられた方法を分類してみると、
上にも述べたように、私は「初めに方法ありき」というような卒論研究は推奨しない。しかし「方法を固定しない」とは「知っている方法だけを使う」という意味とはゼンゼン違う。心理学の学生であるならば、何をテーマに選ぶにしても、最低限、実験法、質問紙法、観察法、面接法の4点セットぐらいは身につけ(ミニマムの解説サイトがこちら以下にある)、さらに、基本統計はもとより多変量解析の基礎的手法ぐらいはマスターし、必要に応じていつでも利用できるような準備を整えておいてほしいものだと思う。 もう1つ。ホットな話題は必ずしも重要なテーマとは限らない。みんなが話題にしているテーマはそれだけで重要な問題であるかのような暗黙の了解ができてしまうけれども、なかには偶然的な要因が重なり合って生じた出来事もあるし、周期的な流行の波のピークに過ぎないものもある。さらに、ひとくちに重要な研究対象と言っても、
ここからは一般的な話題となるが、大学教育において卒論研究にはどういう意義があるのだろうか。この点については、昨年7月13日の日記(後半部分)でふれたことがある。卒論研究をカリキュラムに取り入れにくい学問分野があることは十分承知しているが、少なくとも心理学の教育ではこれを欠かすことはできない。その点、私のところでは幸いなことに、指導体制も評価体制もきっちりできている。教員:学生比などの問題から卒論指導ができない大学があるとすれば、大変不幸なことだ。 卒論研究の成果が学界あるいは一般社会に貢献できる程度は限りなくゼロに近いかもしれない。しかし、いま大学教育の中で強調されている次のような課題(2000年11月24日の日記や2001年1月23日の日記を参照):
大学教育では、このほか、「ポートフォリオ型自己育成」という言葉がキーワードして登場している。大学教育におけるポートフォリオとは、こちらによれば、 ポートフォリオとは建築家などが自分の能力を売り込むために、それまでの設計業績などをファイルして持ち歩くための書類入れのことですが、ここでいう「ポートフォリオ型自己育成」とは、一言でいえば、具体的な個々の分野で自分がどのような能力を持っているかということを常に人に説明できるようにしながら能力を獲得していくことです。という意味に使われる。これは、「どういう専攻を卒業したか」とか「授業科目を何単位とったか」と異なり、その学生が「大学4年間で何をやってきたのか」という実績を内容に立ち入って評価する視点とも言える。「卒論は手抜きだったがサークルで頑張った」というのも1つのポートフォリオにはなりうるが、これからの大学教育では、むしろ、卒論研究を4年間の最終作品として位置づけ、その中で「忍耐力、意思伝達力、折衝力、決断力、適応力、行動力」などを総合的に磨き上げていくことも重要ではないかと思っている。2/17夜に行われた予餞会(卒論生、修論生、博論生の追い出し会)における卒論生たちの挨拶で述べられた卒論研究の感想をを聞いていると、こうした方向に向けての卒論指導が多少なりとも成果をあげていることが感じられ、自画自賛ながらちょっぴりうれしかった。 |