じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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第13回大学教育研究フォーラム

京都大学吉田キャンパス・百周年時計台記念館
2007年3月27日(火)〜28日(水)


目次

【思ったこと】
_70407(土)[教育]第13回大学教育研究フォーラム(1)学士課程教育の改革とFD


 京都大学で行われた

第13回大学教育研究フォーラム(主催:京都大学高等教育研究開発推進センター)

の参加感想の連載。なお、時間の関係で、ここでは、1日目の、
  • 小講演(1) 11:00〜12:00 ・・・・・・・・・・【吉田南1号館・各会場】
    《長谷川が参加したのは、
    学士課程教育の改革とFD 鈴木敏之(文部科学省高等教育局・企画官)》
  • 特別講演/シンポジウム 13:00〜17:00 ・・・・・【百周年時計台記念館・1F百周年記念ホール】
    • 開会の挨拶  13:00〜13:10 尾池 和夫 (京都大学総長)
    • 特別講演 13:10〜14:10 「大学教育をどう再構築するか−リベラル・アーツ、資格教育、そして大学院教育−」
           寺崎昌男(立教学院本部調査役・東京大学名誉教授/大学教育学会会長)
    • シンポジウム 14:25〜17:00
      大学教育の再構築−専門職化と教養教育再編の狭間で−」
      • 話題提供1 土井真一 (京都大学大学院法学研究科・教授)
      • 話題提供2 小笠原正明 (東京農工大学大学教育センター・教授)
      • 話題提供3 松浦良充 (慶應義塾大学文学部・教授)
      • 話題提供4 大山泰宏 (京都大学高等教育研究開発推進センター・助教授)
      • 全体討論 司会:大塚雄作(京都大学高等教育研究開発推進センター・教授)
および2日目の
  • 小講演(2) 11:00〜12:00 ・・・・・・・・・・【吉田南1号館・各会場】
    《長谷川が参加したのは
    批判的思考力育成と高次リテラシー能力 楠見孝(京都大学大学院教育学研究科)》
  • ラウンドテーブル企画 13:30〜16:00 ・・・・・・・・【吉田南1号館・各会場】
    《長谷川が参加したのは
    心理学者,大学教育への挑戦7 −グループ活動を含む初年次教育の実践−》


に限って、気づいた点を述べさせていただくことにしたい(登壇者の敬称は略させていただきました)。




 さて、3月27日の午前中には

●学士課程教育の改革とFD 鈴木敏之(文部科学省高等教育局・企画官)

という小講演が行われた。そこではまず、改正・教育基本法第7条において、大学の規定が設けられたこと、そこでは「2 大学については、自主性,自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない」というように自主性や自律性が盛り込まれているが、その分、世の中に対するアカウンタビリティが求められること、また、その目的達成にあたっては競争以外のアプローチもあることが指摘された。

 続いて、平成3年2月の大学設置審答申以降の、学士教育に関する主な答申の経緯が説明された。平成17年1月の中教審答申「我が国の高等教育の将来像」において、
  • 学位を与える「課程」中心の考え方への再整理。学士課程教育においては、教養教育と専門分野の基礎・基本を重視。
  • 早急に取り組むべき重点施策として12の提言。入学者選抜・教育課程改善、「出口管理」強化、設置認可や認証評価における審査内容・視点の明確化、教養教育や専門教育等の総合的な充実など。
といった提言が行われている。なお、このことに関連しては、私自身、こちらでも取り上げたことがあった。

 次にFDの取り組み状況についての各種資料が示された。主な例としては
  • 教養教育に関する開設科目
    • 学際的・総合的内容
    • 実験・実習の充実
    • インターンシップ
    • 専門教育の基礎
    • 高学年次向け
    • 文書作成・意見発表・プレゼンの訓練
    • 情報活用能力を育成
    • 心身の健康
    • 社会的・学問的な主題等
  • TOEIC、英検等の学外試験結果による単位認定
  • 情報(処理)教育の必修科目開設
  • ボランティア活動の実践を取り入れた科目の開設
  • シラバス作成
  • TAの増員
  • 学生による授業評価実施
が挙げられていた。これらは本来、各大学の自主的な取り組みとして行われるべきものではあるが、文科省の調査項目に含まれているというだけで是非とも実施しなければならないというプレッシャーを感じるためだろうか、結果的には、殆どの大学の中期計画に盛り込まれているのではないかと思われる。

【思ったこと】
_70408(日)[教育]第13回大学教育研究フォーラム(2)鈴木敏之氏の小講演(2)経済財政諮問会議/大学全入時代への対応


 3月27日の午前中に行われた、鈴木敏之氏(文部科学省高等教育局・企画官)の

●学士課程教育の改革とFD 

という小講演の感想の2回目。

 講演の後半ではまず、経済財政諮問会議の伊吹文部科学大臣(臨時委員)提出資料「大学・大学院改革への取り組み」(H19.2.27)について説明があった。なお、この小講演が行われた27日の夕刻には、大田大臣 経済財政諮問会議後記者会見も行われている。賛否両論があるところだが、好むと好まざるに関わらず、昨今の大学改革の方向は、この諮問会議に引きずられている面が大きい。 なお、今後は、教育再生会議においても、高等教育の問題が検討される見込みである。

 いわゆる2007年問題の1つとして、大学全入時代(大学募集人数総数が入学希望者数総数を上回り、えり好みをしなければ必ず大学に入れる状態のこと)が口にされてきたところであるが、今回の鈴木氏の講演によれば、どうやら、現時点ではまだ「全入」には至っておらず、「近い将来ほぼ100%に」というように見通しが修正された模様である。主たる原因は、大学への志願者数が予想以上に増加したためであるようだ。

 いずれにせよ、近い将来の全入時代を見通しつつ
  • 学生の多様化と対応の困難性:48%の学生は、学外での勉強時間が殆どゼロ(2000年内閣府調査)
  • 資格取得偏重。教養教育後退。成績評価や卒業認定の甘さ。
  • 教員の教育力をめぐる問題。教員に「わかりやすい講義を行う能力」を望む学生の割合が75%(1999年広島大調査)
といった点について、FDの組織的取組の必要がますます高まってきた。

 なお、教養教育の充実に関しては、リベラルアーツについての優れた実践に対する新たな財政支援策が検討されているとのことであった。また、すでに一部では着手されているが、今後は、大学院におけるFDが強く求められている。

【思ったこと】
_70409(月)[教育]第13回大学教育研究フォーラム(3)日本の大学は世界の潮流から遅れているという言説


 3月27日の13時から17時すぎまでは百周年時計台記念館で特別講演とシンポジウムが開催された(登壇者の御所属・職名は3月27日現在、敬称略)。
  • 開会の挨拶  13:00〜13:10 尾池和夫 (京都大学総長)
  • 特別講演 13:10〜14:10 「大学教育をどう再構築するか−リベラル・アーツ、資格教育、そして大学院教育−」 寺崎昌男(立教学院本部調査役・東京大学名誉教授/大学教育学会会長)
  • シンポジウム 14:25〜17:00 「大学教育の再構築−専門職化と教養教育再編の狭間で−」
    • 話題提供1 土井真一 (京都大学大学院法学研究科・教授)
    • 話題提供2 小笠原正明 (東京農工大学大学教育センター・教授)
    • 話題提供3 松浦良充 (慶應義塾大学文学部・教授)
    • 話題提供4 大山泰宏 (京都大学高等教育研究開発推進センター・助教授)
    • 全体討論 司会:大塚雄作(京都大学高等教育研究開発推進センター・教授)
 尾池総長は挨拶の中で、経済財政諮問会議の議論の中で「日本の大学は世界の潮流から大きく遅れている」という言葉がたびたび使われていることに若干の苦言を呈しておられた。

 岡山に戻ってからさっそくネットで関連サイトを検索したところ、例えば、成長力強化のための大学・大学院改革について(有識者議員提出資料)の中には
成長力を強化するには、大学・大学院の改革が極めて重要である。世界中の大学がダイナミックに連携・再編に取り組むなかで、日本の大学は世界の潮流から大きく遅れている。“大講座制”“受験競争”“学閥”等に象徴される大学の戦後レジームを今こそ根絶させ、国際競争力の高い知の拠点づくりを行わねばならない。【アンダーラインは長谷川による】
また、大田大臣 経済財政諮問会議後記者会見要旨の中にも、
 民間議員からは、日本の大学が世界の潮流からおくれている。研究拠点としても、教育拠点としても、選択と集中が必要であるという発想で、まずイノベーションの拠点としては、研究予算の選択と集中を行うべき。一律配分するのではなくて、評価に基づく配分、これを競争的資金と呼びますが、その比重を高めていくべき。オープンな教育システムの拠点として、大学・大学院グローバル化プランをつくっていくべき。その中で、文系、理系の区分の撤廃、入試日の分散、9月入学の実現と、こういう改革を実現するために、国立大学運営費交付金の配分ルールを改革すべき。それから、私立大学も区分せずに支援のあり方を改革する、等の提言がありました。【アンダーラインは長谷川による】
というように、確かに「大きく遅れている」との表現が含まれていた。

 確かに、日本の大学のある部分に目を向ければ「大きく遅れている」面があることは事実であろうが、尾池総長ご自身も指摘しておられたように、この言葉自体は、10年以上も前からの使い古された言葉である。その後の大学改革の中でどういう部分が「進んだ」のか、どういう部分は今なお「遅れている」のかを具体的に検証せずに、あたかも当然であるかのごとく固定的に使い続ける風潮があるとすれば問題であると思う。

 それと、「アメリカではの守」として揶揄されているが、10数年前からの大学改革の中では、「アメリカではこうなっているから日本もそれに合わせるべきだ」というタイプの主張が未だに後を絶たない。このあたりのことは、 でも考察したことがある。

 「大きく遅れているから○○すべきだ」という議論だけに振り回されてしまうと、
日本人の英語力は世界の潮流から大きく遅れている。よって、日本語教育を廃止、英語のみを公用語にすべきである。
という極論もありうることを指摘しておきたい。

 なお、尾池総長も言及しておられたが、日本の大学(少なくとも京都大学)は、アジアや中東地域では先進的・主導的な役割を果たしている。そういうポジティブな面にも目を向けつつ、現時点で何が不足しているのかを見極めなければならない。固定観念や「アメリカではの守」に囚われることなく、現状を精密・冷静に分析した上での提言に期待したい。

【思ったこと】
_70410(火)[教育]第13回大学教育研究フォーラム(4)寺崎昌男氏の講演(1)ディシプリン重視型か課題重視型か


 27日の午後は、尾池和夫・京大総長の挨拶に続いて、寺崎昌男氏(立教学院本部調査役・東京大学名誉教授/大学教育学会会長)による、

●大学教育をどう再構築するか−リベラル・アーツ、資格教育、そして大学院教育−

という特別講演が行われた。

 さて、寺崎氏によれば、「学士教育課程」という言葉は1988年の大学教育学会の頃から使われるようになった。1991年の大綱化では、教養部設置見直しや自己評価の部分に注目が集まったが、もう1つ忘れてならないのが「学士」という学位を明確にしたことである。またその際には、「○○学士」ではなく、「学士(専攻分野)」というように、カッコ内に専門分野を記す形に変更された点にも留意しておく必要がある。

 とにかく、このことによって、大学は、学士を出すための教育を行う機関となり、また、専門分野の表記は、必ずしも従来のディシプリン(discipline)に囚われなくてもよいこととなった。そのことを反映し、その後15年余りの間に、次々と新しい名前の学部や学科が誕生、その特徴は、ディシプリンから「課題探究・解決型」という点にあるという(←長谷川の聞き取りのため、不確か)。

 岡山に戻ってから実際に検索してみたとこと、確かに、
  • ○○大学危機管理学部
  • ○○大学環境創造学部
というように、名称だけ見ても、どういう学問領域・専門分野なのかディシプリンが浮かんで来ないような学部が新設あるいは改組されていることが分かった。

 なお、ディシプリン重視か課題重視かということについては、後の討論の中でもいくつかの考えが示されていた。私個人としては、どちらもアリ、研究対象によってケースバイケースとして対応するしかないと考えている。

 一般論として、それぞれのディシプリンには何百年にもわたる知の集積がある。これらを体系的に学ぶことは、卒業後、さまざまな課題に対処できる能力を養うという点で大いに意義がある。いくら課題探求、課題解決と言っても、種々の学問分野から活用できる部分を断片的に寄せ集めてきて教育しても、体系的な知識として活用できるどうかは不明。目先の課題解決には有用だが、何十年も先のところまで見通せるかどうか、つまり長期的な時間軸の中に自分を位置づけられるかどうかという点で不安が残る。

 しかしその一方、伝統的な学問領域というのは、ともすれば、閉じた空間での再生産に終始し、直面する社会問題や環境問題等に対処できる即戦力を養成できないという問題もある。私が携わってきた心理学などもまさにそういう面を持っており、伝統的な実験心理学のディシプリンは、質的研究や社会構成主義の大きなうねりの中で、存立が危ういところまで追い込まれているようにも思える。

 ディシプリン重視型か課題重視型かという問題は、受験生の選択によっても決まってくる。いまや、放っておいても学生がいっぱいやってくるという時代から「学生においでいただく」時代となった。いくらディシプリン重視を説いても、志願者が激減すれば課題型に転換せざるをえない。そういう意味では、経営に敏感な私学のほうで、課題重視型の学部や学科が増えているようにも見受けられる。

【思ったこと】
_70411(水)[教育]第13回大学教育研究フォーラム(5)寺崎昌男氏の講演(2)「授業科目」の英語表記


 講演の中ほどで寺崎氏は、「授業科目」の英語表記について言及された。ふつう真っ先に浮かぶのは「Subject」であるが、実は、「Course」あるいは「Class」と呼ぶべき理由がある。つまり、「コース」は「課程」の一部であり、学生の歩く道という意味が含まれている。「クラス」には、学生と教員が作る「学級」という意味がある。

 このことに関して私自身前から指摘しているのだが、授業評価というとどうしても、ティーチング評価、つまり、個々の教員の教え方の技術についての評価が主体となってしまう。ピアレビューでも同様だ。しかし、これから先、特に求められるのは「コース評価」、つまり個々の授業科目が、体系的な課程教育の中でうまく位置づけられているのかという評価である。専門家養成を目的とした学部はともかく、文学系学部ではまだまだ「コース」についての認識が甘く、各教員が自らの研究内容を披露するというだけ、という授業が展開されることが多い。ま、そのほうが、多様な価値の創造に有効、という見方も無いわけではないが。




 講演の後半では、学士課程教育と大学院教育、およびその中での教養教育の位置づけについて興味深い話があった。寺崎氏によれば、今や、学部4年間だけで専門家を養成するのは短すぎるという時代になっている。学士課程教育はかつては「教養ある専門人」の養成を目的としていたが、いまは「専門性を身につけた教養人」を育てる時代となっており、大学院においてこそ「教養ある専門人」の養成が求められているというような内容であった(←長谷川の聞き取りのため、不確か)。

 今回のお話の中では、ディシプリンを守るか、ディシプリンを超えた課題追究・解決型、もしくは横断型の教育を重視するかどうか、ということが大きな論点であったように思う。これはまた、スペシャリスト養成かジェネラリスト養成か、という問題にも関係してくる。

【思ったこと】
_70415(日)[教育]第13回大学教育研究フォーラム(6)土井氏、小笠原氏、松浦氏の話題提供


●シンポジウム 14:25〜17:00 「大学教育の再構築−専門職化と教養教育再編の狭間で−」
  • 話題提供1 土井真一 (京都大学大学院法学研究科・教授)
  • 話題提供2 小笠原正明 (東京農工大学大学教育センター・教授)
  • 話題提供3 松浦良充 (慶應義塾大学文学部・教授)
  • 話題提供4 大山泰宏 (京都大学高等教育研究開発推進センター・助教授)
  • 全体討論 司会:大塚雄作(京都大学高等教育研究開発推進センター・教授)
のメモ&感想。

 1番目の土井氏の話題提供は、

●高度専門職の養成と教養教育−法律専門職を中心に−

という内容であった。

 ウィキペディアの当該項目に解説されているように、法科大学院の制度は2004年4月に創設されている。その趣旨は、
法科大学院は「専門職大学院であって、法曹に必要な学識及び能力を培うことを目的とするもの」をいうと定められている(法科大学院の教育と司法試験等との連携等に関する法律第2条第1項)。法科大学院の制度は、2004年(平成16年)4月に創設された。

法科大学院の課程の標準修業年限は、3年である。ただし、入学試験で各法科大学院で法学既修者の水準にあると認められた場合、2年とすることもできる(専門職大学院設置基準)。一般に、3年の課程を未修(法学未習者課程)、2年の課程を既修(法学既習者課程)という。
となっているわけだが、ウィキペディアの当該項目にもある通り、制度導入や制度自体についてはいろいろと問題を含んでいるようだ。

 ひとくちに「高度化」「多様化」と言っても、専門職固有の知識と外在的能力のバランスの問題があるし、法学部教育(法学系の学士課程教育)や博士課程との位置づけの問題、リベラルアーツとしての教養教育のあり方をめぐる問題などがあるというような話題提供であると理解した。教養教育なども、まかり間違えば「文化知識人サークル」「クイズ王」とそれほど変わらないものになってしまうという話が面白かった。

 別の会合で、法学既習者とそうでない出身者に同じ授業ができるのかという話も聞いたことがある。いずれにせよ、法科大学院は、作ってはみたものの、まだまだ前途多難であるとの印象を受けた。




 2番目は、小笠原氏による

●カリキュラムの構造化と教育の組織化

という話題提供であった。エリートモデルからマスモデルとなる中で、大学教育において「特殊な学生に対する特殊な教育」から「多様な学生に対する効果的・効率的な教育」が求められており、具体的には
  • カリキュラムの構造化:多様なレベル。コースの複線化。Science for Allの強化。
  • 教育の組織化:個人から組織へ。ITの強化。TA制度の整備。
などが挙げられた。先の寺崎氏の講演では“ディシプリンから「課題探究・解決型」”という指摘があったが、小笠原氏はむしろ、「ディシプリンを挙げた取組が必要」という立場を表明されていた。

 3番目の、松浦氏の話題提供では
  • 大学教育の再構築と「学習」概念:大学における「学習」観の一元化
  • 「学習」から「ラーニング」へ:「学習」論から「学び」論への転換
  • 大学教育の統合的理念としての「リベラル・ラーニング」
というような話題が取り上げられた。教養教育とリベラル・ラーニングの違い明確にする必要がよく分かったが、それぞれ奥の深い内容であり、ここでは見出し項目を列挙するだけにとどめておく。

【思ったこと】
_70416(月)[教育]第13回大学教育研究フォーラム(7)大山氏の話題提供(1)「専門職」をめぐる問題



●シンポジウム 14:25〜17:00 「大学教育の再構築−専門職化と教養教育再編の狭間で−」
の4番目は、大山氏による

●専門職化と教養教育の葛藤−問題の所在はどこか?−

という話題提供であった。

 大山氏はまず、これまでの大学教育改革の発想が
  • 護送船団方式からプロジェクト方式へ:
  • 産業界、社会との連携の強化:「役立つ」教育
  • 育種学(優生学)的原理:良いものを重点的に育てる
という3点にあることを指摘された。しかし、プロジェクト評価に移行する中で、アリバイ作りや辻褄合わせの横行とか、報告書の山といった負の側面が出ており、また、資源が無尽蔵だという幻想にとりつかれている面もある。専門職化と教養教育を切り口としてみるとこれらの問題点が鮮明になる。

 1998年「21世紀の大学像と今後の改革方針について」で打ち出され、2003年から発足した「専門職大学院」では「社会的・国際的に通用する高度専門職業人養成に対する期待」(平成14年「大学院における高度専門職業人養成について」)が求められているが、既存大学院と併存上の問題、一般能力(コミュニケーション、分析能力、人格陶冶、スペシャリストかつゼネラリスト)がかなり求められている点、などにおいて、教養教育や他の教育課程との整合性の問題が出ていると指摘されていた。

 いずれにせよ、日本では「専門職」の概念は未成立であり、一般には、技術者や教育関係者や医療福祉関係者のことを示していると思われがちである。また「事務職」の中の専門的領域の概念が希薄という問題もある。そう言えば、大学の事務職員に「専門職員」という職名があるが、実際は、特定業務のスペシャリストというより、係長待遇ポストという印象が強い。

 このほか、日本型企業ではむしろ「何でも屋」的な人材が求められており、新たに養成される「専門職」がどう位置づけられるのかという問題がある。

 ウィキペディアの当該項目には、専門職大学院としてはすでに
  • 法科大学院 - 法曹養成のための大学院で、修了者は司法試験を受験できる。
  • 会計大学院 - 会計分野を中心に展開する大学院で、修了者は公認会計士の受験科目が一部免除される。
  • 知的財産大学院 - 知的財産権分野の専門家を養成するための大学院で、修了者は弁理士の受験科目が一部免除される見込みである。
  • 公共政策大学院
  • 技術経営大学院 - MOT(技術経営)を専門とする大学院。
  • 公衆衛生大学院
  • 教職大学院
が挙げられているが、その教育内容や出口の問題をめぐっては、まだまだいろいろな問題が残っているとの印象を受けた。

【思ったこと】
_70417(火)[教育]第13回大学教育研究フォーラム(8)大山氏の話題提供(2)教養教育をめぐる言説


 大山氏の話題提供:

●専門職化と教養教育の葛藤−問題の所在はどこか?−

の感想2回目。

 話題提供の中ほどで大山氏は、教養教育再編の経緯を概観された。スライド画面をメモしておくと
  • 「一般教育」の時代:80年代末まで。教養教育の専門家の不足、形骸化。
  • 「共通教育」の時代:90年代前半。設置基準大綱化をきっかけにした再編。教養学部の解体。
  • 「教養教育」の時代:90年代後半。オウム真理教・サリン事件の影響。2002年「新しい時代における教養教育のあり方」
というようになる。これらの呼称の変遷については、私自身いろいろと思うところがある。

 例えば、私の大学では、旧・教養部の講義棟・研究棟のことを一般教育棟と呼んでおり、一部の学生のあいだでは「パンキョウ」と言う言葉が交わされているようだ。これらは、おそらくこの時代の名残であろう。

 Googleで「共通教育」を検索するとヒットするように、「共通教育」は今でもいくつかの大学の公式用語となっている。私の大学では、内規の中で「全学共通教育に係る教育評価の実施」というように使われることはあるが、カリキュラム用語としては定着しておらず、現在はもっぱら「専門教育科目」、「教養教育科目」、...というように呼ばれている。

 では、「一般教育」の時代から「教養教育」の時代に移る中で、授業の中味はどう変わったのだろうか。確かに、種々の教育方法改善の試み(学生による授業評価、多元的な成績評価、履修登録上限制、個々の授業についての自己評価、GPA導入検討など)のほか、教養教育科目の主題科目化、外国語教育改善など、改善された点は多いが、内容そのものは依然として担当教員の自由裁量に任されているという面もある。学士課程教育の中で、こういう科目がぜひとも必要であるという議論がなされた上で必要な科目が開講されるというよりは、卒業要件単位数や学生数、教員数をもとに担当コマ数が量的に割り振られ、そのもとで担当教員が、各自の専門領域と関連づけながら、他学部学生にも分かりやすいレベルで「教養」的な授業を展開しているというのが実情ではないかと思う。




 大山氏は、2002年中教審答申「新しい時代における教養教育のあり方」の中の
【新たに構築される教養教育は,】学生に,グローバル化や科学技術の進展など社会の激しい変化に対応し得る統合された知の基盤を与えるものでなければならない。各大学は,理系・文系,人文科学,社会科学,自然科学といった従来の縦割りの学問分野による知識伝達型の教育や,専門教育への単なる入門教育ではなく,専門分野の枠を超えて共通に求められる知識や思考法などの知的な技法の獲得や,人間としての在り方や生き方に関する深い洞察,現実を正しく理解する力の涵養など,新しい時代に求められる教養教育の制度設計に全力で取り組む必要がある。
を引用し、求められる能力の具体例として「コンピテンシー」や「コミュニケーション能力」が挙げられている点を指摘し、さらに、「高等普通教育(General Education)」と教養教育(Liberal Arts)の違いについて論じられた。時間が短かったこともあり、このあたりをじっくりと考える余裕は無かったが、スライド画面に基づいて整理すれば
  • 上記の答申に盛り込まれている「専門分野の枠を超えて共通に求められる知識や思考法などの知的な技法」、「人間としての在り方や生き方に関する深い洞察」、「現実を正しく理解する力」は「教養教育」なのか?
  • リベラルアーツは専門教育の対立概念ではない。
  • 普通教育の習得後に、「教養」という専門性があってもよい。
といった点に集約できる。

 ちなみに、上記の中教審2002年答申の中では

◇ 責任ある教養教育のための全学的な実施・運営体制の整備
  教養教育の責任ある実施体制を整備することが不可欠である。例えば,教養教育の全学的な実施・運営に当たるセンター等が,単なる調整役にとどまることのないよう,カリキュラム管理や効果的な教育方法等に精通した人材を得て明確な責任と権限を有する機関として位置付けることなどが求められる。
ということも強調されているのだが(アンダーラインは長谷川による)、大規模な大学で組織的に取り組むためには、まだまだ克服すべき問題が多いように思う。

【思ったこと】
_70418(水)[教育]第13回大学教育研究フォーラム(9)大山氏の話題提供(3)自虐的な大学評価と大学危機を語る言説


 大山氏の話題提供:

●専門職化と教養教育の葛藤−問題の所在はどこか?−

の感想3回目。

 話題提供の後半で大山氏は、「大学改革を支える言説は、ほんとうに実態を反映しているのか」に関して、これまで疑う余地の無い「データ」として種々の議論の前提とされてきたいくつかの点についてツッコミを入れておられた。発表のご主旨は専門職化と教養教育の葛藤という点にあったが、その問題を離れたクリティカルシンキングのネタとしても、なかなか興味深い御指摘であった。

 まず、日本の大学は本当にユニバーサル化しているのか?という問題がある。2003年のOECDデータを見ると、日本の進学率は短大レベルを含めるとかなり高いが、学部型[4(6)年型]大学レベルでは40%を多少上回ってた程度であり、16番目にすぎない(1位はアイスランドで85%前後、9位のアメリカで65%前後)。また、1998年と2003年を比較した大学(学部型)進学率は、OECD平均で40%から53%に増加しているのに対して、日本は41%から42%に微増しているにすぎない。つまり大学で「急速な大衆化」が進んでいるという根拠はどこにもなく、むしろ、頭打ちで緩慢な伸びになっていると言うべきであり、「ユニバーサル化による学生の多様化への対応」という言説は、もっと掘り下げて検討する必要があるというのが大山氏の御指摘であった。

 上記の検討にあたっては、フルタイム学生、パートタイム学生、専修学校学生の比率の違いにも目を向ける必要があるようだ。『「教育指標の国際比較」(平成18年版)』によれば、日本のフルタイム学生はアメリカより多い。また、専修学校学生もかなりの比率を占めている。アメリカのような「ユニバーサル化した大学教育」においては、学生の学習履歴は、パートタイム、学位取得までの期間、入学までの履歴などの点で多様化するが、日本の場合は、高校を卒業してすぐにフルタイム学生となり、かつ4年間で学士課程を終える比率が圧倒的に多く、この点では多様化には至っておらず一律性があるということになる。「ユニバーサル化」への対処方略もこのことを考慮に入れる必要がある、という御指摘であった。

 このほか、発表論文集では、日本の大学は、女性の社会進出のためのキャリア形成のパスとして十分に社会的機能を果たしているとは言い難いという御指摘もあった。日本の女性の学位取得率、とりわけ理系分野での率が低い、といった点は、これまで正面切って議論されてこなかった。




 発表論文集(20〜21頁)の中で、大山氏は、
スペシャリストを養成するにせよゼネラルな教育をめざすにせよ,大学教育を支えている言説は,これまでの日本の大学教育は有効でなく国際的にも遅れをとっているという「自虐的な日本人の大学評価(喜多村)」であり,また,グローバル化,ユニバーサル化段階,社会からの要請,国際競争など,大学危機を語る言説である。
と述べておられた。上記の事例にも示されているように、経済財政諮問会議の提言などではしばしば「日本の大学は世界の潮流から大きく遅れている」とされ、「アメリカではの守」が横行しがちであるが、日本独自の教育システムや実態をもう少し精密に分析しなおした上で、日本型の教育改革のあり方を追求していく必要があるように感じた。

 なお、「日本の大学は世界の潮流から大きく遅れている」という点に関して言えば、じつは、いちばん遅れているのは、高等教育への対GNP支出なのである。大山氏のスライドにもあったように、2004年時点で、対GNP支出は米国の半分以下、公的資金は3分の1にとどまっている。

 話題提供の最後のところで大山氏は、大学はどこをめざすべきか?に関して、
  • 専門学校における職業教育との差異化(普通教育充実、狭義の教養教育、「豊かさ」、余白の時間、対話の時間、学生が立ち止まって考える余裕)
  • 大学における専門職の重要性(学生が履歴を形成するための支援、大学マネジメント、図書館など種々のサービス提供)
といった点を強調された。

 今回の4氏の中では、大山氏の話題提供が、学ぶべき点が最も多かった。

【思ったこと】
_70419(木)[教育]第13回大学教育研究フォーラム(10)批判的思考力育成と高次リテラシー能力(1)


 3月28日の11時から12時に、いくつかの会場に別れて小講演が行われた。私はその中の、

●楠見孝氏(京都大学大学院教育学研究科):批判的思考力育成と高次リテラシー能力

に参加させていただいた。

 批判的思考(クリティカルシンキング)に関しては、2004年2月8日に

批判的思考の認知的基盤と実践ワークショップ

に参加させていただいたことがあるが、今回は、大学教育としての取組とその成果についての御講演であった。

 楠見氏はまず、批判的思考の定義、さらにそれが「高次リテラシー能力」の基盤となるものであると指摘された。

 ちなみにGooglede「高次リテラシー」を検索すると418件がヒットする(←2007年3月現在)ということであった。しかし、4月20日に検索してみたところでは13件しかヒットせず、そのうち3件はなっなんと、この日記(4/7付け)へのリンクであった。おかしいなあ。

 とにもかくにも、高次リテラシーは、高次の思考スキルと内容的知識に基づく読解能力・コミュニケーション能力として、21世紀の市民生活に必要であり、PISA(The Programme for International Student Assessment、学習到達度調査)が測る能力に含まれている。

 PISAの測定するリテラシーの中には「情報にアクセスし、管理・統合・評価する能力」や「生活における数学的な根拠に基づく判断」が含まれているというが、じっさい、発掘!あるある大事典の捏造問題など見ても、番組制作者が批判されるべきなのは勿論であるとして、視聴者側の安易に信じ込んでしまう姿勢にも問題があることは確かであり、市民生活における高次リテラシーの確立はぜひとも必要であろうと思う。




 今回の講演では、京大の導入教育、教養教育、専門教育それぞれにおける批判的思考・高次リテラシー育成の授業実践が報告された。

 このうち導入教育の事例は、楠見氏が担当されている「ポケットゼミ」(全学部1回生、20名)の実践報告であった。内容的には、私がかつて分担していた行動科学概論とも共通しているように思えたが、少人数であること、学部横断型であること、半期13回であることなどが大きく異なっており、充実しているようにお見受けした。

 この種の導入教育は、全国の大学で必修化してもよいのではないかと思う。こういう授業に参加すれば、カルト宗教や悪徳商法の被害に遭わずにも済むし、どのような専門に進んでも、種々の学術論争を多角的に捉え直すことができるはずだ。

【思ったこと】
_70422(日)[教育]第13回大学教育研究フォーラム(11)批判的思考力育成と高次リテラシー能力(2)


 3月28日の11時から12時に行われた小講演、

●楠見孝氏(京都大学大学院教育学研究科):批判的思考力育成と高次リテラシー能力

の感想の2回目。

 講演の後半では、京大・教育学部の専門教育における批判的思考・高次リテラシー育成の授業実践が報告された。

 楠見氏が担当された、専門講義科目、英語論文講読演習、卒論準備演習それぞれにおける指導内容と、様々な評価(思考態度、能力自己評価など)による検証結果が紹介されていたが、このような取組は、批判的思考とは別の授業でも大いに参考になると思った。




 このほか、スライド画面の中で
  1. 批判的思考能力と高次リテラシーは学歴と関連−大学の専門教育の効用か?
  2. 批判的思考態度は能動的な情報収集行動を通して高次リテラシーを高める−態度は、行動を媒介として能力や知識を高める。
と指摘された点は、なるほどと思った。岡大の文学部では、度重なる改組によって学科やコースは大きく様変わりしているが、卒業論文研究を重視している点は全く変わっていない。能動的な情報収集行動を含む卒論研究というのは、学術的なレベルでは低かったとしても、高次リテラシーを高めるという点では十分な成果をあげていると思う。




 それはそれとして、今回紹介された導入教育、教養教育、専門教育の中味は、基本的には、自然科学の枠組みにおける議論であり、専門教育の部分も、Evidence-Basedを重視した心理学の枠内での批判的思考、高次リテラシーということになっている。

 しかし、とりわけ、心理学の専門教育のレベルにおいては、少し前の連載した、
といった、Evidence-Basedの枠外の議論もある。つまり、
  • 自然科学の方法論の枠組みにおける批判的思考
  • 構造構成主義的な視点
  • 社会構成主義的な視点
では、真偽基準(あるいは、真偽そのものについての捉え方)がそれぞれ異なっており、Evidence-Basedのレベルで「これなら正しい」とされる結論が、別のレベルでは、「それは、その枠組みの中の前提を受け入れる限りでは正しいが、枠組みの外から見ればゼッタイとは言えない」とされてしまうこともある。京大といえば、教育学部のほうには質的心理学の大家や、EBP(Evidence-Based Practice)全く異質な臨床心理学の影響も根強い。さらには、総合人間学部(人間・環境学研究科)のほうには社会構成主義の大御所もおられる。こういう教育環境の中で育つ学生たちが、果たして、認知心理学や自然科学の枠内だけにとどまることができるのか、それともひたすら迷い続けるのか、全く別の立場を追い求めることになるのかは、大いに興味が持たれるところである。御講演後の質疑の時間にこのあたりのことをちょっと質問させていただいたが、「長谷川先生はどう思われていますか?」と、逆に質問を返されてしまった。

【思ったこと】
_70423(月)[教育]第13回大学教育研究フォーラム(12)批判的思考力育成と高次リテラシー能力(3)Evidence-Basedをめぐる議論


 昨日の日記で、
 しかし、とりわけ、心理学の専門教育のレベルにおいては、少し前の連載した、
といった、Evidence-Basedの枠外の議論もある。つまり、
  • 自然科学の方法論の枠組みにおける批判的思考
  • 構造構成主義的な視点
  • 社会構成主義的な視点
では、真偽基準(あるいは、真偽そのものについての捉え方)がそれぞれ異なっており、Evidence-Basedのレベルで「これなら正しい」とされる結論が、別のレベルでは、「それは、その枠組みの中の前提を受け入れる限りでは正しいが、枠組みの外から見ればゼッタイとは言えない」とされてしまうこともある。
と書いたところ、共分散構造分析の第一人者として知られる豊田氏から、以下のようなコメントをいただいたので、以下に一部を転載させていただく(改行部分等、長谷川のほうで改変)。
...,EBAで「これなら正しい」という場合は,それほど葛藤はない様に思います.EBAの対照実験で「花粉症の薬をのませる」とか「認知行動療法の新しいアプローチで欝に効果」が確認されれば,他のアプローチで「ゼッタイとは言えない」といわれても無視できる範囲であると思います.(社会構成主義的であるが故に)少なくともEBAの枠組みではこれでよいのだ,といえば反論はされません.そもそも「ゼッタイとは言えない」という命題はほとんど常になりたつのであまり情報量がありません.

 問題なのはEBAで「これは正しくない(正しいという証拠が得られていない場合に,科学のデフォルトとしてこう言います)」という場合に,その枠組みの(EBAの枠組の)前提を,他の立場(長谷川先生の挙げられた例では社会構成主義的な視点など)は受け入れないでいいかという問題です.これは深刻です.うまい例が挙げられるか心配ですが,たとえば
「Aという欝を改善するアプローチをしたところ」EBA的には効果が確認されなかった.しかし個々のクライエントのナラティブとしては,治療を受けているうちに「飼っている犬との関係が良くなった」「朝ごはんが美味しくなった」「治療者がハンサムで生きていて楽しい」「ネットの世界の素晴らしさを知った」「医院で友達ができた」などポジティブな個人生活史的な物語が語られる.EBA的にはアウトでも別の枠組みでならOKといって良いのか?
という問題です.この場合は私は断じてダメだと思います.立場の問題ではありません.これはEBA的には(釈迦に説法ですが)典型的な「後付バイアス」「選択バイアス」です.もしこれが許されるなら,インチキ投資顧問のアドバイスも霊感商法も社会構成主義的な視点からは,ゼッタイ正しくないことはないということになるのでしょうか.後から事例を選べばナンとでもいえます.私は正しくないと思います.
 御指摘いただいた点は、かなりスケールの大きな議論に発展する余地があると思うが、私は、現在のところは、杉万氏の『社会構成主義と心理学』(下山編『心理学論の新しいかたち』、誠信書房、2005年)で論じられている「一次モードと二次モードの連続的交替運動」という考え方に基本的に同意している。

 じっさい、個人あるいは社会における種々の進路選択や決定は、断片的な因果推論の寄せ集めではなく、たぶん、連続交替運動として展開されていくように思う。もちろん、ある枠組みの中では正しいか間違っているかという議論はできる。その場合、後付けバイアス(事後的なご都合解釈)は認められない。この点では、インチキ投資顧問や霊感商法は断じて排除されなければならない。

 「EBA的には効果が確認されなかったが、治療を受けているうちに「飼っている犬との関係が良くなった、...」という話は、第13回大学教育研究フォーラムではなくて心理療法におけるエビデンスとナラティヴの連載に関わる議論になってしまうが、これは、差し迫った判断を求められているのか(あるいは、公的補助の審査対象になっているのか)、それとも、より長期的視点や全人的な視点でとらえた時に、どれだけの効用が期待できるかという問題として捉えることができるかと思う。

 こちらの小論でも論じたように、カルト宗教や悪徳商法でなく、特段の有害性がなく、まっとうな医療を否定するもので無い限りは、セラピーの内容は、かなりの程度まで「EBAフリー」であってよいのでは、というのが私の考えである。例えば、「園芸療法はどうあるべきか」と考える際には、「治療・改善効果を高めるためには何が必要か」という議論は必ずしも必要ない。
  1. セラピーは、治療や改善などの有効性の有無だけによって評価されるものではない。生活の質の向上をもたらす活動、つまり「それに関わること自体が楽しみとなるような活動」もセラピーに含めることができる。
  2. 但し、第三者の助けを借りずにそのような活動を行う限りにおいては、それらは「療法(セラピー)」ではなく、「福祉」として位置づけられる。
  3. 何らかの理由でそのような活動に自立的に関与できない人々に対して、その活動内容および福祉や医療の専門的体系的知識を身につけた者(「療法士」)がサポートを行うことは、セラピーに含まれる。
  4. 上記3.の実践においては、対象者の現状と可能性を把握し、目的にあったプログラムを立案、またそのプログラムが有効に働いているかどうかを評価できる能力が要求される。
 つまり、治療・改善効果に関わるEBAよりも、利用者に対するサポートの技法上の有効性に関するEBAのほうが大切というわけだ。




 さて、連載の元の議論に戻るが、とにかく、導入教育や教養教育の範囲で批判的思考力や高次リテラシー能力養成を行うことは大いに意義があると思う。しかし、専門科目として心理学関連の緒科目を受講する学生・院生ともなれば、認知心理学の枠組みの中でのEvidence-Basedな考え方を学びつつ、別の授業では、社会構成主義的な発想にもふれることになる。といって迷ってばかりいては先に進めない。学士課程教育において、カリキュラムにこれらをどう取り込むのか、大きな課題になっているようにも思う。


 かなり脱線しつつ、次回に続く。
【思ったこと】
_70424(火)[教育]第13回大学教育研究フォーラム(13)心理学者,大学教育への挑戦7−グループ活動を含む初年次教育の実践−(1)


 フォーラム2日目の夕刻にはいくつかのラウンドテーブル企画が開催された。私はその中の、

●心理学者,大学教育への挑戦7 −グループ活動を含む初年次教育の実践−

に参加させていただいた。この「心理学者,...」という連番企画は、2003年9月の日本心理学会ワークショップで1回目「理論と実践」が開催されたあと、日本心理学会年次大会およびこの大学教育研究フォーラムで「学生の視点に立つ学び支援」、「導入教育」、「体験型授業」、「心理学者,授業評価への挑戦1、2」というように、継続的な活動が続けられているとのことであった。このうち2005年には、溝上氏と藤田氏の共編で同名の書籍も刊行されているそうだ。もっとも、過去6回はいずれも同じ時間帯の別企画とバッティングしていたため、私個人にとっては、今回が全く初めての参加となった。

 その第一印象をきわめて率直に述べさせていただくと、まず、とにかく、過去3年半にわたって大学教育の問題に継続的に真摯に取り組んでこられた姿勢は大いに評価できる。今回のグループ活動についての実践報告も有意義であったと思う。その反面、
  1. 「心理学者,」を標榜している割には、心理学の知見がふんだんに活かされているとは言い難く、しかも、比較的古い認知心理学のみに依拠しているのではないか。
  2. 今回の発表では各所で、「行動主義」への批判的言及があったが、認知心理学の入門書に書かれている「行動主義」批判を鵜呑みにしているだけで、スキナーの著作や最近の行動分析学会の活動は全くご存じないのでは、と疑ってしまいたくなるようなふしがあった。
という問題を感じた。



 配布資料によれば、今回のワークショップは
  • グループ活動を含む初年次教育の実践を紹介し、基本的リテラシー能力の育成とグループ活動の展開がどのようにつながるのかを検討する。
  • それを通して、初年次教育を実践していく上での問題点や改善点、学士課程教育との兼ね合いにおける発展可能性などについて探る。
という点に狙いがあるということであった。

 少人数初年次教育というと、昨年11月に行われた大学教育改革プログラム合同フォーラムの中の、学部横断型・少人数・初年次教育の報告が真っ先に頭に浮かぶ。その時に紹介された事例ではグループの規模は1クラス20名以内(少ないクラスでは4〜5名)であり、担当教員のもとで課題を追究するという特色があったように記憶しているが、今回のグループ活動は5名前後の人数規模であり、学術的なテーマについてグループ研究をするというよりは、身近なテーマについてアイデアを出し合うというタイプの活動であるように見受けられた。これらはおそらく、研究型大学少人数教育と、教育重視型大学の違いを反映しているものと思われる。

 ちなみにこの種のグループ活動ではしばしば「フリーライダー(=他のメンバーに任せっきりで何もせず、単位だけもらう学生)」や「リタイア(グループ活動に馴染めず離脱してしまう学生)」が出るという問題がある。また、メンバーの数は偶数が良いという説もあるそうだ。




 I氏の話題提供では、グループ活動を通じて知識が蓄積、構成、調整、再構成されていくプロセスがNorman(1982)のモデルに依拠して意義づけされていたが、うーむどうかなあ、個々人の学習プロセスや知識の構成・再構成の問題と、グループ活動の効用の問題は別であり、単にこじつけているだけでは?という印象をぬぐい去ることができなかった。また、グループ討論の方法はKJ法の応用であるようにも見えたが、「KJ法」についての特段の言及はなかった。但しKJ法は川喜田研究所によって商標登録されており、少し前に「野外科学KJ法」事件というのがあった。研究手法として言及する際には配慮が必要かと思う。

【思ったこと】
_70425(水)[教育]第13回大学教育研究フォーラム(14)心理学者,大学教育への挑戦7−グループ活動を含む初年次教育の実践−(2)認知心理学の入門書に書かれている「行動主義」批判を鵜呑みにした偏見?


 さて、通算7回目となるこの連番企画を推進しているのは「大学教育研究に関わる心理学者の集い(あすなろの会)」というグループであるという。当該サイトには、
 現在の大学教育研究の世界では、「こんな授業をやりま した」「こんな改革に携わっています」「学生は喜びました」式の発表が非常に多く、もどかしい思いをしています。 単なる実践報告をおこなうことで満足するのではなく、より質の高い大学教育研究へと高めていく必要を感じています。
というような、会の趣旨が記されており、当日配布資料でもこのことに言及されていたが、これは大変結構なことだと思う。

 しかし、少なくとも今回の御発表の中の「行動主義」批判の部分は、どうにもこうにも納得できるものではなかった。昨日の日記にも記したように、それらの批判的言及は、認知心理学の入門書に書かれている「行動主義」批判を鵜呑みにしているだけで、スキナーの著作や最近の行動分析学会の活動は全くご存じないのでは、と疑ってしまいたくなるようなふしがあった。せっかく大学教育研究の質的向上に真摯に取り組んでおられるのに、この部分に関して、どう見ても、行動主義に対するステレオタイプな偏見としか言えないような言及があったのはきわめて残念。しかし、見方を変えれば、そういう現象があるということは、行動分析学の知見や成果がごく一部の心理学者たちにしか伝えられていないことの表れであるとも言えよう。今後の対話や相互交流の必要性を強く感じた。




 私が「行動主義に対する偏見」であると感じたのは以下の部分である。

 まず、話題提供者のI氏は、配付資料の中で、『認知心理学からみた授業過程の理解』(多鹿、1999、北大路書房)の表を転載されていた(資料7)。その部分を文章化すると以下のようになる。なお、当該の表では、授業過程を理解するための3つのアプローチとして、行動主義心理学アプローチ、認知心理学アプローチ(情報処理と状況認知)が3列に並列されていたが、後者2列はここでは「/」で並記することにする。
  1. 知識獲得:行動主義では「経験による刺激と反応の連合」、 認知心理学では、「心的構造や過程の形成/コミュニティへの実践的な参加
  2. カリキュラム:行動主義では「連合の強化を目標」、認知心理学では「概念的理解や一般的能力の開発を目標/実践的な参加を目標
  3. 動機づけ:行動主義では「外発的動機づけ」、認知心理学でha 、「内発的動機づけ/没頭した参加
  4. 教師の役割:行動主義では「調教師」、認知心理学では「ガイド
  5. 児童・生徒の役割:行動主義では「情報の吸収者」、認知心理学では「知識の構成者
  6. 仲間の役割:行動主義では「考慮されない」、認知心理学的アプローチのうち情報処理では「それほど重要ではない」が状況認知では「重要である
 以上の対比について、いちいち反論をしていたら、それこそ原稿用紙50枚くらいの論文が出来上がってしまいそう。そう言えば、このことに関連して、14〜15年前に、
  • スキナー以後の行動分析学:(2)心理学の入門段階で生じる行動分析学への誤解.岡山大学文学部紀要(第18巻)、1992年。
  • スキナー以後の行動分析学:(3)S-R条件づけ理論との混同.岡山大学文学部紀要(第20巻)、1993年。
という小論を書いたことがあった。これを機会に、ネット公開論文に加えておこうかと思う。連休中にその作業を開始したい。

 とにもかくにも、行動分析学では「刺激と反応の連合」などという言葉は一切使わないし、内発的動機づけなるものは、「行動の罠」や「行動内在的強化」としてちゃんと位置づけている。さらに、オペラント学習は、学習者が環境に能動的に働きかけることによって習得されるものであって、決して「情報の吸収者」にとどまるものではない。教師は調教師ではなく、生徒が主体的・能動的にオペラント学習を進めていくためのガイド役でなければならない。「仲間の役割は考慮されない」っていうのは、どこの行動主義者がそう言ったのだろう? スキナー箱にネズミが1匹だけ入れられていることからの連想だろうか。




 このほか、後の討論の中で、ライティング方略の分類(井下、2005)についての言及があり、そこでは
  • 知識叙述型:初心者、表層的・単線的、教え込み、転移観は行動主義、個人学習、コースデザイン
  • 知識構成型:熟達者、内容的・再帰的、支援、転移観は社会構成主義、協同学習、カリキュラムデザイン
というように対比されていたが(一部省略)、知識叙述型と知識構成型に分類することは大いに結構であるとして、なぜそこに、行動主義や社会構成主義が登場してくるのか、私には理解できなかった。




 最後に質疑の機会があったので、さっそく「今回、対比されていた「行動主義」というのは具体的に、いつの時代のどの行動主義のことをさしておられるのでしょうか?」と質問させていただいたが、回答は、「認知心理学で一般的に批判されている行動主義」とのことであった。うーむ、「一般的に批判されている」というのは聞こえはよいが、要するに、ワトソンが唱えた行動主義やハルやトルーマンなどの新行動主義行動主義やスキナーが創始した徹底的行動主義・行動分析学をすべてひっくるめて、認知心理学の優越性を主張するためのツールとして利用しているだけではないかなあ、という気がしてならない。

 とにかく重要なことは、まず現状を分析し、心理学のどのような知見を活かして改善の試みを行ったのかということだろう。教育現場がどこぞの「行動主義」一辺倒であってそれを改善するために認知心理学の知見が役立ったというならば、どこぞの「行動主義」と認知心理学を対比的に紹介して優越性を主張することにもそれなりに意義があると思うが、いまの現場で問題となっているのはいるのは「行動主義蔓延」ではなくて、

●「こんな授業をやりました」「こんな改革に携わっています」「学生は喜びました」式の「 単なる実践報告」

では無かったんじゃないかなあ。それを克服・改善するためには、認知心理学者も行動分析学者も手を取り合って前に進んでいかなければならない。ま、いろいろ言いたいことはあるが、とにかく、行動分析学に対する偏見だけは捨てて欲しいと思う。

【思ったこと】
_70426(木)[教育]第13回大学教育研究フォーラム(15)心理学者,大学教育への挑戦7−グループ活動を含む初年次教育の実践−(3)グループ活動を含む初年次教育の成果と課題


 今回のラウンドテーブル企画は、行動分析学的アプローチに対する無理解・偏見?と見受けられる点があったことは大変残念に感じたが(昨日の日記参照)、本来の趣旨および話題提供や指定討論全体としては、得るところの大きい企画であった。




 まずI氏の話題提供に関して。I氏の取組は女子大学における「大学基礎講座」の一環として行われたものであった。このうち「基礎講座I」では、藤田哲也編『大学基礎講座 改増版』(北大路書房,2006)を適すととして、ノートの取り方、テキストの読み方、図書館の利用、レポートの書き方などの指導を行う。そして「基礎講座II」(後期・2単位、13コマ)のほうが、今回の企画全体のサブテーマにもなっているグループ活動を含む初年次教育、すなわち、討論するための基礎トレーニング(グループ・ディスカッション、ディベート、ブレーン・ストーミング)および班活動・班発表から構成されるものであった。

 じつは私のところでも文学部一年次生向けに「基礎科目I」という授業が必修化されており、今年度はまさに私自身が後半部分を分担することになっている。そういう意味でも、討論や班活動についての実践報告は大いに参考になった。

 もっとも私自身は「基礎科目I」自体は、各担当教員の専門性を活かしたテーマ追究型のゼミに切り替えるべきだということを持論としている。要するに、具体的な課題の無いままにテキストの読み方やレポートの書き方の訓練を行っても、車の運転に例えるならばペーパードライバーを作るだけに終わってしまうのではないかということだ。どうせ免許をとるなら、「通勤・通学に利用する(←マイカー通勤・通学が良いかどうかという議論は置いておくとして)」、「ボランティア活動として高齢者の送り迎えをする」、「世界一周する」というように、具体的な目標をもって運転免許をとったほうが良い。初年次教育に関して言えば、テーマ追究型の活動とセットにしたほうが効果的であるように思う。

 次に、本題の「基礎講座II」であるが、受講生同士が相互に評価する「評価表」活用などは大いに参考になった。もっとも、対新入生受講率が56%にすぎず、班構成後に脱落者が出る点などに今後の課題が残されているようであった。このあたり聞き逃してしまったのだが、大学として「基礎講座II」がぜひとも必要と考えているのであれば、きっちりと必修科目として位置づけるべきであろう。それとも、必修科目であるにもかかわらず、受講率が低下しているという意味だったのだろうか。

 論文集によれば、「基礎講座II」の成果としては
「班の全員が責任を持って自分の役割を果たす」という意識を持つことを通して,受講生の人間的成長を促す点で意義があったが,受講率が低いという課題も残った。
というようなことが書かれてあったが、うーむ、こういうことって、高校までの教育やサークル活動の中でちゃんと身につけていくものではないのかなあ。ま、個人主義的傾向が強いと言われる今の学生向けにはこういう教育も必要かもしれないが、はたして、週1コマ、半期の授業の一部だけでそれが身に付くかどうかは疑わしい。脱落者も出たということでもあるし...。

【思ったこと】
_70428(土)[教育]第13回大学教育研究フォーラム(17)心理学者,大学教育への挑戦7−グループ活動を含む初年次教育の実践−(5)



 IN氏は指定討論の後半で、IT氏の大学で行われている初年次教育「大学基礎講座I、II、III」が学士課程教育の中でどこに向かう教育として位置づけられるのか、教養教育に向かうのか、専門教育に向かうのか、というようなお話をされた。

 もっとも、このあたりの議論は、それぞれの大学の入学者のレベル、学部の特徴、募集単位(細分化された専攻別に募集しているのか、学部一括か、科類別か)によっても異なり、何が妥当であるかは一概には言えないように思う。私のところでは、かつては、「心理学・社会心理学」というように講座単位で学生を募集していたが(定員は学科単位)、最近では文学部一括となっている。その分、将来どういう学問領域に進むのかをガイドするような授業を組み込むことが必要であり、実際には、「基礎科目II」、「基礎科目III」の受講後に4つのコースのいずれかに属することになっている。




 2番目に指定討論に立たれたN氏は、授業過程で求められる大学教員の資質として
  • 専門性:初年次教育においては、専門分野の教授とは別に、学習方法や社会性も要請されており、その役割を果たす専門性も求められる。
  • 親和性:教育的な愛情と親しみ
  • 柔軟性:自らの信念を見直しつつ、多様な方法を活用しながら実践
という3点を強調された(←長谷川のメモに基づくため不確か)。その前提に立って、初年次教育においては、とりわけ、大学での学びの姿勢や受講に関するルール、学ぶことのモラル、といった講義における目的・意識、規則の明確化」が必要であると説いておられた。私自身はふだん「学ぶことのモラル」についてはあまり意識したことが無いが、かつて私立大や専門学校で非常勤講師をつとめていた時には、私語の多さや内職、準備学習の不足にあきれ返ったものである。大学によってはこのことにかなり手を焼いておられるのではないかと拝察する。

 次にグループ活動に関しては、役割や課題やルールの明確化、グループ編成の工夫、学生間に生じるトラブル(フリーライダー、苦情、リタイア)への対処などを挙げておられた。先に挙げられた大学教員の資質に対応した具体策が提示されていたが、現実にはそれぞれの大学、学部、専門領域などによって種々の問題が起こりうる状況にあり、経験的に対応していくしか手だてが無いようにも思われた。

【思ったこと】
_70429(日)[教育]第13回大学教育研究フォーラム(18)心理学者,大学教育への挑戦7−グループ活動を含む初年次教育の実践−(6)/全体の感想



 指定討論の最後に立たれたY氏は、効果的なグループ活動を基盤とした協同学習の意義について論じられた。協同学習の基本原理としては「互恵的な相互依存性」、「積極的相互作用」、「個人の責任」、「スキル訓練」、「活動評価」、協同学習の成果としては、認知的側面と態度的側面の同時学習があり、協同に基づく教育パラダイムがいかに素晴らしいものであるかが力説された。

 後半では、教育観と大学への適応に関する調査で、調査対象の大学生を、「協同的98名」、「中間101名」、「競争的112名」に分類した上で、人間関係や学習の適応内容、動機づけ(内発的か外発的か)を比較したグラフが示され、日本協同教育学会の活動が紹介された。

 スライドに示されたデータは、「協同的」のほうが「競争的」より優れている?ことを示すものであったようだが、時間が無かったこともあり、具体的に何をどのように調べたのか、ツッコミどころを探るには至らなかった。もっとも私自身は、協同か競争かという一般論はあまり意味が無いと考えている。早い話、スポーツ系のチームを見れば分かるように、グループ内部でいくら協同を実践してもグループ間では競争という事態はいくらでもあり得ることだ。受験対策重視の高校生は「競争的」であるように見られがちだが、学校の中では、友達どうして「協同」で受験勉強に取り組むこともある。競争原理は「原理」ではない。競争場面で何が何によって強化されるのかは多種多様であり、一概に是非を論じるわけにはいかない(こちらの小論参照)。




 ということで、3月27日〜28日に開催されたフォーラムの感想をやっと書き終えることができた。この種の感想の連載は参加後2週間以内に完結させることを鉄則としていたのだが、今回は、年度末・年度初めの行事が多く、完結までになんと1カ月もかかってしまった。

 全体を通じてまず思ったのは、学士課程教育においては、初年次教育から専門教育までをセットにした体系的なカリキュラムの構築が求められているという点だ。かつて全国の国公立大に教養部があった時代には、教養部における教育と学部における専門教育は完全に分離され、担当教員の間でもお互いに干渉しないという風潮が根強く残っていた。その後、学士課程教育についての議論は大いに進んだが、現実には実施機関は今なお、卒業要件単位数と、受講者数に応じたコマ数を割り振るのが精一杯で、教養教育の「あり方」ではなく、「やり方」の調整に追われている傾向が続いていると言えないこともない。特に、大規模な国公立大学の教員の場合は、教養教育の授業科目担当の他にも、専門教育、卒論指導、さらには、大学院教育や外部資金獲得、管理運営などさまざまな業務に追われており、ボトムアップ的に改善を試みようとしても、そのたびに負担軽減論や時期尚早論が噴出するのは必然である。

 私の個人的な考えとしては、初年次教育や教養教育を体系的に実施するためには、まず、強力な権限を持った実施機関と、その効果を継続的に点検するための評価機関を設けることが不可欠である。また、責任コマ数などという形で授業科目担当を強いる限りにおいては、どうしても義務感が先行して活性化にはつながらない。といって人件費には限りがある。いっそのこと、全教員の給与を2〜3割一律カットした上で、それによって確保された資源を、初年次教育・教養教育担当者の手当に充てたほうが良いように思う。評価の高い教員にはそれだけ多くの授業を担当していただき、その数に比例して手当を増やすべきである。

 このほか、最後のラウンドテーブル企画に参加して特に感じたことであるが、大学教育イコール授業という前提ではなく、サークル活動や自主的な研究会活動も積極的に評価し、それらと連携した成果を得ていくことも大切ではないかと思う。グループ活動などと言っても、週1コマ、半期15回程度の授業の中で、教員が介在して行う活動の成果には限界がある。受講生たちも、結局のところ、単位をとるために嫌々グループに加わっているという面も否定できない。リーダーシップ養成や役割分担などというところは、4年間に及ぶまっとうな部活動のほうが遙かに大きな成果をもたらすようにも思える。じっさい私の教室でも、サークルの幹部として活動している学生は、卒論研究にもしっかりと取り組み、ゼミの中でもリーダー的存在になることが多いように思う。

 余談だが、私が学部や大学院の学生であった頃は、教員が開講する授業よりも、大学院生が中心となって組織する、領域別の研究会が教育・研究に大きな役割を果たしていた。ま、授業をやらなくても学生・院生が勝手に育つという「自由な学風」は、かなり特殊なほうかもしれないが...。