じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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「学士教育課程のコンセプト」研修会


2007年12月7日(金)


目次

【思ったこと】
_71207(金)[心理]学士教育課程のコンセプト(1)

 12月7日、表記の研修セミナーに参加した。今回のセミナーは有料であったため、詳細なメモをここに公開することは差し控え、具体的な固有名詞が出ないような形で感想を述べさせていただくことにしたい。

 さて、セミナーではまず、大規模・私立大における、教員・職員・学生の三位一体型の教養教育の取組が紹介された。具体的には、
  1. 学部横断型・少人数のセミナー
  2. 理系と文系を結ぶ横断型なテーマで、「生きる」という根源的なテーマを見据える授業
  3. 「身体知」の実験授業
などであり、それぞれの成果がよく理解できた。特に3.は、他大学では行われていないユニークな内容を含んでいた。「ことば以外の表現法を使って自分を表現することで、新しい自分と出会い、他人とつながる」ことを目的としており、具体的には、有名な小説を朗読したり、講談や身体表現に置き換えてみたり、といった斬新な内容であった。但し、「声」と「情動」には、カルト宗教にも通じるようなリスクがあり、精神科の専門家のサポートも受けているということであった。

 こうした取組は画期的なものであると感じたが、実施の規模は数十人程度のクラスにとどまっているようであった。全学の学生数が数万人にという規模の中ではきわめて微々たる比率であり、しかも寄附講座に頼っているということであり、せっかくの成果が、全学の教養教育の抜本的な制度改革に繋げられるのだろうか、という点に不安を感じた。

 同じようなことは私のところの大学でも同じように言える。一般論として、何かの新しい改革を、全学で直ちに一斉に実施するということには、担当者確保の面でもなかなか難しい。そこでとりあえずは、数十人の規模で試行的に実施し、うまく行けばその輪を広げていこうと計画する。しかし、いくら成功体験が次々と報告されたからといって、自然発生的な増殖だけで輪が拡がるということはまずない。制度的に定着させるためには、トップダウン型の決定や、実施に見合うだけの制度設計がどうしても求められる。

 今回紹介された大学は、学部別の完全縦割りの意識が強く、全学的視点からのトップダウン型の決定が行われくいように思われた。しかしこの大学は、伝統があり、全国でもトップレベルの大学の1つとして知られている。これだけの「格」を備えた大学であれば、特段の抜本的改革がなされなくても、あるいはFDの成果がごく一部分にとどまっていたとしても、優秀な学生が確実に集まり、質保証が保てるということかもしれない。

【思ったこと】
_71208(土)[心理]学士教育課程のコンセプト(2)戦略的基礎教育プログラム改革(1)

 2番目は、

●学士課程のカリキュラム改革とFD〜戦略的基礎教育プログラム改革:理系を中心に〜

というタイトルの講演であった。ちなみに、この方のお話は、これまで少なくとも3回拝聴したことがあった。今回は、これまで各所で要請に応じて断片的に話されてきたことを体系化し総括されるという御意図があったようで、レジュメのほうも、パワーポイントではなく文章の形で提供されていた。私自身としては、過去に拝聴した内容を整理することができてまことに好都合であった。

 講演ではまず、我が国の学士課程教育、特に学士課程前半の理系教育について
  • 初年次教育のカリキュラムにおける不整合や欠落
  • 基礎教育の質保証がなされていない
  • アウトカム評価ができていない
  • 卒業研究の伝統が防波堤となって、基礎教育の破綻を見えにくくしていた
  • 基礎教育におけるディシプリンの責任の曖昧さ
  • 基礎教育への軽視というより軽蔑
といった問題点が指摘された。御指摘の点は大いに納得できるものである。もっともこれまでは、基礎教育の中味がかなりバラバラであっても、一定レベル以上の学生は、自学自習によりそれらを補えるだけの学力を備えていた。しかし、少子化、全入化が進む中では、やはり何らかの改革が必要であろう。





 続いて、大学院課程と学士課程のモデルについての言及があった。たいがいの国立大理系では、学生は卒業研究のために研究室に配属され、さらには修士課程に進む。この縦割り主義は、教育と研究の一体化というメリットがある反面、研究室活動の基礎のところで修士課程学生の労働力に頼るという面があり、博士課程やポストドックを中心とする米国の大学院と太刀打ちできないという欠点があった。

 こうした傾向は、旧帝大を中心とする90年代の大学院重点化、2001年の遠山プランにより大きく変化し、研究者の流動化や国際化が大きく進んだが(競争的環境の光の部分)、そのいっぽうで、教育の軽視、特に、学士課程基礎部分がおろそかになるというデメリットをもたらした。そんなこともあって、中教審17年答申では、実質学士課程後半部分の教育を担う大学院教育が重視され、大学院FDの義務化が打ち出された。もっとも、これらの議論をするにあたっては、アメリカモデルとは異なる、我が国独特の学士課程モデルをどう評価するのかという根本問題がある、というのがお話の趣旨であると理解した。




 以上のお話はもっぱら理系の学士課程、大学院課程に関わるものであったが、文系の場合はどうだろうか。もっとも、ひとくちに文系といっても、領域によりかなりの違いがあることは確かであろう。法律系やビジネス系では、相当程度の基礎教育が求められる。いっぽう、文学系の中には、独創的な着眼点が無ければ研究は成り立たないという領域もある。基礎教育はもちろん必要だが、自由なテーマ選択のもとで、個々の大学院生が主体的に研究に取り組むという場を保障することも大切ではないかと思う。ちなみに、私の担当する心理学は、理系にかなり近い特徴があり、少なくとも学士課程教育段階では、認定心理士心理学検定という形で、基礎教育の質保証が制度化しつつある。もっとも大学院レベルとなると、研究領域があまりにも細分化しすぎていて、体系的な課程教育を行うのはかなり無理があるように思う。

【思ったこと】
_71209(日)[心理]学士教育課程のコンセプト(3)戦略的基礎教育プログラム改革(2)大学院と学士課程におけるFD義務化


 講演では、次に、大学院教育におけるアメリカモデルの特徴として、
  • アメリカでは、大学おt教員は、「大家」と「店子」の関係。
  • 教員は、教育とは別の次元の競争的環境に適応した組織を作って自力で研究
  • 教員は原則として、教育のために雇われ、必要におうじて学士課程や大学院課程のプログラムを担当。「大学院教員」はむしろ例外的。
  • 学士課程は、工学系や情報系など一部を除けばリベラルアーツ系。よって、異なる大学、学部とは異なる領域の大学院に進むことが多い。
  • 将来の職業に関わる知識・技能は大学院または職業学校で身につけるとされている。
  • アメリカモデルの特徴は、双方向性を重視したコースワークと、意識的に作られた多様性(特に学生のバックグラウンドの多様性)という点にある。
といった点が挙げられた【配付資料に基づき、長谷川が独自に要約】。

 さて、ここで重要になってくるのは、日本の大学院におけるFD義務化の意図である。17年答申の意図するところは、単に個々の教員の授業改善という意味のFDではない。大学院の役割を見直し、プログラムを再構成するべきだというメッセージが含まれていると、演者は指摘された。

 ではいっぽう、平成20年度に予定されている学士課程のFD義務化はどうだろうか。演者によれば、日本の学士課程は、医学、法学、工学、農学などの実学や職業的分野が主体であって、アメリカのようなリベラルアーツ系中心とは異なる。じっさい、リベラルアーツ系が学士課程の中心を占めたことはなかった(←午後のセッションで紹介されたように、日本でもごく一部の大学はリベラルアーツ中心の教育を行っている)。

 演者によれば、学士の種類が少なかった70年代までであれば、他大学との相対評価によって水準管理が可能であったが、学士の種類が多様化したいまの日本では、もはや分野ごとの横断的な質保証は不可能であり、機関自身の責任による質保証への転換が求められており、このことがFD義務化と結びついているということであった。




 以上の部分について、私の理解した範囲で感想を述べさせていただくと、まず、大学院教育において、明確な目的・目標を掲げた上で教育プログラムを再構成するという点については、私の大学でもかなりの改革が進んでいるように思える。とはいえ、もともと、医歯薬系や工学系では、それぞれの達成レベルを明示した教育が行われており、特段、内容が変わるということは無さそうだ。もちろん、タコツボ型からコース型への変化はあると思うが。

 いっぽう、文系の大学院教育でも、「明確な目的・目標」は検討されているが、学問の性質上、その表現はかなり抽象的なものにならざるをえない。また、タコツボ型をコース型へと言っても、そもそも、それぞれの領域の担当教員は、教授プラス准教授の2名程度に限られているのが現実であるからして、教員と院生の関係が根本的に変わるということも起こりにくい。但し、そういう文系でも、毎年度、各大学院生ごとに、達成目標や指導内容を明示した報告書を提出することが義務づけられるようになってきた、と言うことはできる。

 上記の講演で指摘された「機関自身の責任による質保証への転換」をどう実質化するのかはなかなか難しい問題である。形式的なチェック、例えば、成績評価基準を明示しているかといった点は容易にできるけれども、現実にどういう形できめ細かく指導を行っているのかは、精査できるわけではない。学生の授業評価アンケートでは、厳しい指導をしている教員への評価が若干低めに出るという情報もある。また、同僚もしくは専門委員による1〜2回程度の授業参観では、教え方の上手・下手くらいは分かるかもしれないが、半期15コマ全体についての進め方や、コース全体の中での位置づけについてのチェックまではできないであろう。ま、個々の授業が雑多で断片的であっても、学生自体のレベルが高ければ、自身の力で体系的な修得をめざすことはできるとは思うけれど...。

【思ったこと】
_71210(月)[心理]学士教育課程のコンセプト(4)戦略的基礎教育プログラム改革(3)“Science of all”の教育

 講演では、学士課程の導入段階におけるコースワークが脆弱であるという点が指摘された。コースワークの弱さや欠落の一部は卒業研究で修正され、さらには、修士課程での教育に延長されているという。

 この特徴(問題点?)については、これまでの各種セミナーでも別の論者から何度か指摘されてきたことである。学士課程最終学年が実質的に修士課程に取り込まれることは、5年一体型の博士課程教育と相容れないところがある。2006年7月に拝聴した別のセミナーでも、某大学における改革の目玉として打ち出された大学院5年一貫制博士課程という新構想が、社会的ニーズなどにより、2年目で「中間論文」として修士号を獲得し中退して就職というケースを取らざるを得ず、法人化後の再編ではけっきょく、5年一貫性から前期・後期区分制へ移行するというような話をうかがったこともあった。ここではおそらく、「博士号までは要らないが、学部卒では不十分」という社会的ニーズが働いており、その根本原因は、導入過程におけるコースワークの脆弱さにあるというのが、今回の演者の論点であると理解した。

 学士課程導入部分では、“Science of all”という科目群の位置づけに大きな日米格差があるという。例えば化学であれば「入門化学」という科目群がこれにあたるが、高校レベルのリメディアル科目とは似て非なるものであり、また、日本のような単線型の科目配置ではなく、アメリカモデルでは、多様な履修歴に対応し、かつ、次第に志望分野別に扇形に広がるような構成になっているという。

 このあたりの話は、門外漢の私にはよく分からない部分が多いが、とにかく、受験段階の「理系」「文系」区分、入学後の教養教育科目の位置づけ、専門分野へのコース振り分けの仕組みなどの特徴も勘案し、総合的に対処していくほかはないように思えた。

【思ったこと】
_71211(火)[心理]学士教育課程のコンセプト(5)戦略的基礎教育プログラム改革(4)少人数の私塾型か、大規模なシアター型か

 講演の後半では授業形態について、少人数の私塾型か、大規模なシアター型か、という興味深いお話があった。

 少人数・私塾型というのは、日本の伝統的な大学で実施されてきた教育方法であり、教え込み型、講義型、教員完結型といった特徴をもつ。この方法の成否は、教員個人の力量に依存する部分が大きい。また、一般には、モチベーションの高い学生に対してのみ有効であると言われる。

 いっぽう、大規模なシアター型というのは、アメリカの研究大学で実施されてきた教育方法であり、グランドサーカス型、講義・討論ミックス型、分業・チーム型という特徴をもつ。このやり方では、教員個人の力量よりも組織と物量がモノを言う。学生の学歴や履修歴が多様化し、大学がエリート型からマス型に移行するにつれて、少人数・私塾型の授業効率は著しく低下。また、そうした形では、才能の芽を発掘することもできない。それよりも、マスの底上げが重要ということになる。

 グランドサーカス型の化学の授業では、演壇の教員とTAが実験を実演するという形をとるが、実験を見せるだけならハイビジョン映像のほうが遙かに迫力があるように思える。しかし、グランドサーカス型の本当の特徴は、大人数ということではなく、実演後にTAと受講生主体で行われるディスカッションにあるということであった。直前に行われた実験装置や器具を実際に手にとってディスカッションを行う必要上、e-Learning型では代用できない。




 このほか、
  • いわゆる「レクチャー」の時間は1時間、通常は50分程度に抑えるべきであること(数理的分野で学生が集中できる時間は1時間が限度)
  • 基礎教育は広い分野にわたるものであるが、それぞれの領域の教員に分担させるというだけでは解決しない。ディシプリンとしての組織的な取組が必要。
  • 入門レベルの基礎教育はきわめて重要。基礎教育の軽視、時には蔑視という傾向、また研究大学の若い教員が「教師」としての意識を失いつつあつことへの警鐘が、学士課程教育のFDの義務化という中教審答申に込められている。
といった点が大いに参考になった。このほか配付資料では「第二世代のFD」が予定されていたが、時間が限られていてお話を十分に伺うことができなかった。

【思ったこと】
_71212(水)[心理]学士教育課程のコンセプト(6)「クリッカー」の威力(1)

 3番目の講演は、リモコン学生応答システム「クリッカー」に関する内容であった。クリッカーというのは、テレビのリモコン型のキーパッドであり、現在国内で市販されているものは12個のキーから数字、アルファベットなどを入力することができる。無線LANに近い領域の電波が使われており、
  • 60m離れた場所でも受信可能
  • 比較的大規模な講義で、学生からの個別の応答を同時に受信できる
といった特徴を備えている。

 ネットで検索したところ、こちら

●米国教育者の注目を集める「クリッカー」--授業の双方向性を促進

というタイトルの2008年8月8日付け記事があった。

 私自身は、「クリッカー」という言葉は聞いたことがあったが(←但し、ペット動物の「クリッカートレーニング」とは全く別物)、実物を手にとって模擬授業を体験するというのは初めてであり、大いに参考になった。

 このクリッカーは、ひとくちで言えば、授業中に四択などのクイズを出し、受講生が一斉にボタンで回答すると、選択肢別の回答比率がパワーポイント画面にグラフで表示されるというような使われ方をする。

 しかしそれをどのように活用するかは、教員の腕次第である。従って、クリッカーが大学教育に有用かどうかという一般的な議論はできない。どういう場面でどのように使えば有効であるか、その場合の費用対効果をどうみるか、また、そのことによる弊害は無いかということが考慮対象になるかと思う。

【思ったこと】
_71213(木)[心理]学士教育課程のコンセプト(7)「クリッカー」の威力(2)挙手やプラカード型授業と比べたメリット

 昨日の日記でも述べたように、「クリッカー」というのは、テレビのリモコン型のキーパッドであり、毎回の授業開始時に受講生に配布される。演者の授業では、
  • 教員は、パワーポイントスライドを使いながら、時々、四択などのクイズ問題を出す。
  • 制限時間内に受講生はが一斉にボタンで回答する
  • 選択肢別の回答比率がパワーポイント画面にグラフで表示される。
  • その後、クイズの正解が示され、なぜそうなるのか解説が行われる。
というように活用されているようであった。

 このようなスタイルで授業を行えば、学生は、自分の回答が比率に反映するという意味で主体的・能動的に授業に参加できる。また、教員側は、その都度、受講生の理解度に応じて(=正解率などの高低に応じて)、説明量を増やしたり減らしたりできるので、大人数の講義であっても、双方向型授業を実現させることができるというメリットがある。1個の重さは28グラム、1つのレシーバーで1000個のリモコンまで集計できるということであった()。
  ネットで検索したところ、こちらの会社で扱っていることが分かった。




 この種のクリッカーは、既存の授業設備や、挙手、プラカードなどを利用した双方向授業と比べてどのようなメリットがあるだろうか。

 まず、古いタイプのLL教室や視聴覚教室などの固定設備(受講生の机にボタンが取り付けられていて、教員の合図で解答させ、結果をディスプレイに表示させるような設備)と比較すると、どの教室にも運搬可能という大きなメリットがある。

 第二に、

●「次のクイズの正解は、A、B、C、Dのどれだと思いますか? まずAだと思う人は手を挙げてください(Aのプラカードを挙げてください)。はい、次に、Bだと思う人...」

というやり方に比べると、他者の影響を受けず、瞬時に解答させ、瞬時に集計できるというメリットがある。挙手というやり方では、周りの人たちの様子を見てから手を挙げるという受講生も出てくるであろうし、またいちいち数えるのは手間がかかり、注意を拡散させてしまう。プラカードの場合は、「一度選んだプラカードを取り替えてはいけない」と指示することで周りの影響は多少避けられるだろうが、集計に手間がかかることは同様である。

 第三に、今回紹介された活用事例を見る限りでは、解答の匿名性が保たれるという点で、挙手やプラカードに比べると気軽に答えられるというメリットがある。従って、授業評価アンケートの質問項目を読み上げ、そのつどクリッカーで回答してもらう、というように、授業以外で活用することもできる。これは、マークシート型授業評価アンケートに比べると、紙資源節約になるほか、集計の手間とコストを省けるという大きなメリットがある。




 紹介された事例を見る限り、リモコンによる解答では「匿名性」が保たれているように見受けられたが、どの受講生にどのリモコンを配布したのかは識別できるはずなので、リモコンのIDと受講生の学籍番号を対応させておけば、小テストの代わりに使うことも不可能ではないように見える。もっとも、この場合、リモコンがうまく作動しないといったトラブル多発が予想される。

 このほか、成績評価とは無関係に、受講生の正解率ランキングなどが表示できれば、正解率を競うという形で集中度が増すというメリットも出てくるかもしれない(←もちろん弊害も考えられるけれど)。

 以上利用方法について述べてみたが、教育効果はどのような理論によって裏付けられているのだろうか。また、四択、五択といったボタン押しクイズに偏重することで、論述型の解答が苦手になるということは無いのだろうか。次回以降はこの点について、心理学の立場から考えてみたい。

【思ったこと】
_71214(金)[教育]学士教育課程のコンセプト(8)「クリッカー」の威力(3)クリッカー効果の理論的根拠

 12月12日の日記で、クリッカーの教育効果について
...それをどのように活用するかは、教員の腕次第である。従って、クリッカーが大学教育に有用かどうかという一般的な議論はできない。
と述べた。しかし同じ教員が行う授業において、それを用いて格段の教育効果が確認できるとするなら、そこには何らかの理論的背景があるに違いない。

 そのことに関して、演者は
  1. 社会的認知構成主義学習理論
  2. 短期的記憶と長期的記憶
  3. 能動的学習
といったキーワードで説明をされていた。このうち、3.については大いに納得できるが、1.や2.は、うーむどうかなあ、というのが率直な感想であった。




 まず1.の「社会的認知構成主義学習理論」だが、クリッカーの教育効果を説明するにあたって、何もそこまで大げさに、1つの理論に依拠しなくてもよいのではないかという気がした。そりゃ「社会的認知構成主義学習理論」にはそれを支持する原理があるかもしれないが、後述するように、行動分析学の原理を持ってきても同じような説明はできるし、行動分析学のほうがもっと生産的な方向に改善をはかることができる。




 次に、短期的記憶【←ここでは、心理学で古くから言われているいう「短期記憶(STM)」ではなくワーキングメモリ(Working Memory)という意味で使われていたようだ】と長期的記憶の話だが、演者のお考えをそっくりあてはめると、知識の一方的な伝達は短期的記憶にしか残らないが、クリッカーを活用してクイズ形式で授業を行うと長期的記憶に貯まりやすくなるということになるが、どうもそれだけでは無いように思われた。

 確かに、今回の講演の中で実例として紹介された力学のクイズ問題(バーベルにまきつけた紐で引いたらどちらに動くかというような問題)は、いまでも私の記憶に残っている。しかし、それは必ずしもクリッカーでボタンを押したことでよく覚えられたというわけでもない。あくまで私の主観的考察の域を出ないが、おそらく、
  • クイズ問題の正解に意外性があったこと
  • 大学教育に関する一連の講演の中で、物理学のクイズは新奇であり、目立っていたこと
  • 講演の中味が全般に興味深い内容であったこと
  • クリッカーという新奇なツールに接する体験と結びついていたこと
  • 日常空間とは異なる新奇な環境のもとで拝聴したこと
などが、記憶を促進したものと考えられる。

 つまり、毎回、同じ授業で、同じような内容について講義を受けている学生にとっては、クリッカーはもはや目新しいツールではなくなる。クイズ自体も、常に意外性があるとは限らない。そういうケースでどれだけ、クイズに関わる解説を「長期記憶」に貯え続けることができるかどうかは、更なる検証が必要であろうと思う。

 とはいえ、クリッカーが能動的学習行動を大いに促進していることは確かであろうと思う。次回はこの点について考えてみることにしたい。

【思ったこと】
_71215(土)[心理]学士教育課程のコンセプト(9)「クリッカー」の威力(4)

 今回の演者の方は「社会的認知構成主義学習理論」に依拠して、クリッカーの教育効果を説明されておられたようであったが、私個人としては、むしろ、行動分析学的視点でとらえたほうが発展性が出てくるし、さらなる授業改善のための建設的な提言ができるように思えた。

 まず、演者の方は、知識と学習の違いに関連して、
教えることとは、知識の一方的な伝達ではない。既成の知識体系を学生自身が変革しながら能動的に吸収する必要がある。しかし、通常の講義で自ら考えることができる学生は少ない。
と論じられた【スライド画面の文章を長谷川が一部改変】。この部分については私も大いに賛成できる。但し、クリッカーを活用するだけで、「既成の知識体系を学生自身が変革しながら能動的に吸収」できるようになるかどうかは、何とも言えない。もちろん、その成否は第一義的には教員の腕次第であるが、この方法ばかりに頼らず、例えば、講義の中でもグループ発表を取り入れるとか、小テストや小リポートをこまめに出すといった工夫が必要ではないかと思う。




 さて、ここでもう一度、クリッカーの典型的な活用事例について考えてみよう。
  • 例えば某授業の最中、「ウォンバット(こちらに写真あり)は次のどの仲間でしょうか?」というクイズを出したとする。
  • 受講生は、以下の四択からどれかを選んで、制限時間内にボタンを押す。
    1. ブタの仲間
    2. フクロネズミの仲間
    3. コウモリの仲間
    4. ぬいぐるみの仲間
  • 受講生が1.〜4.のどれを選んだのか、選択比率が瞬時にグラフで表示される。
  • 教員は、正解率の高低に配慮しながら、ウォンバットがどういう動物であるのか解説する。
 このクイズを能動的学習に活用するためには、受講生の解答行動は何らかの形で強化されなければならない。おそらく、
  • まずは、自分がそれまで持ち合わせていた動物学の知識を思い起こし、
  • 次にウォンバットの特徴を調べて参照する。
  • その上で、最も妥当と思われる2.を選ぶ。
  • 選択比率が図示され、自分と同じ選択肢を選んだ受講生がどのくらいいるのかを知る。
  • 教員から正解は2.であると告げられる。正解を出したことで、自分の思考・判断は強化される。
というプロセスを辿ることになると思うのだが、これはあくまで、クイズに真摯に取り組む学生に限っての話である。中には、「受け狙い」で4.を選ぶ学生もいるかもしれないし、殆ど何も考えず、どのようなクイズが出されても常に1.ばかりを選ぶ学生も出てくるかもしれない。ま、授業をどう盛り上げるか、というのは結局は「教員の腕次第」というになるのだろう。

 なお、ここで、選択比率を図示することがどういう強化になっているのかは、もう少し検討の余地がある。単に、自分の解答が正解であったかどうかが強化になるのであれば、他の受講生の行動や、全受講生の中での自分のレベルなどは大した関心事ではないはずだ。もっとも、正解不正解のフィードバックをするだけなら、スキナーがかつて創始したプログラム学習や、いま流行の個別学習型のe-Leraningでも事足りるはず。講義であるからには、みんなが一斉に同じことにとりくんでいるという臨場感を演出する必要があり、そういう意味では選択比率の瞬時フィードバックにもそれなりの意義があるのかもしれない。

 ということでいろいろ書いてはみたが、安価で手に入るのであれば、私も自分の授業で使ってみたいとは思っている。

【思ったこと】
_71216(日)[教育]学士教育課程のコンセプト(10)実質化と「国際・英語学部」というチャレンジ(1)

 午後の講演ではまず、某女子大学学長から「国際・英語学部」というチャレンジについてのお話があった。このうち前半では学士課程教育全般について学長のお考えが表明され、たいへん勉強になった。

 参考になった点をいくつかメモさせていただくと、
  1. 大学教育には、コースワークの不在という問題点があり、最低必要限の体系性を備える必要があった【←長谷川のメモのため不確か】
  2. 学習指導要領の改訂内容について、ジャーナリズムの出す記号化に乗せられてしまい、注目点がずれてしまうことがある【←長谷川のメモのため不確か】。
  3. 「確かな(る)力、生きる力を育てる」【←出典未確認】は、「世の中がどのように変わろうと、自分がその中で生きる」に結びついている。閉じられた個ではなく開かれた個が必要。
  4. 大学教育には「現代思想の回避」という問題があり、内向きの価値観しか示すことができず、閉じた個を育てることになってしまった。
  5. 高度消費社会への安住という問題。→渋谷パルコ論
  6. 国際通用性の破綻という問題→ユネスコ関連機関による大学データベース化における日本の大学の地位低下。学習機会の国際化。留学生政策の暴走。
  7. 政策誘導の変化:計画的操作から市場原理へ。設置審査より事後の査定。資源配分の効用性確保へ。
 以上までの部分のうち、2.の「ジャーナリズムの出す記号化」は、教育問題以外でもありがちなことだと思う。種々の答申というのはかなりの長文となることが多い。最近では要旨やポイントが冒頭に要約提示されたり、枠で囲ったり、図示する、というように、ざっと見渡すだけでも概要がつかめるように工夫されるようになっているが、そうは言っても、答申文の最初から最後まで一言一句目を通すという人は少ない。そういう中で、新聞やテレビにより、特定の変化や話題性のある部分だけを誇大に取り上げて記号化されてしまう。一般読者は、それを通じて特定の印象を形成するという次第だ。

 4.の「現代思想の回避」の問題は私にはよく分からないが、心理学に限って言えば、人間の「普遍的な行動法則」ばかりに目を向け、1つの閉じた理論の中での仮説検証ばかりにあけくれていると、同じような問題が起こってくるように思える。「現代思想」に関して言えば、心理学に主流に影響を及ぼしている現代思想はきわめて限られているといってよいだろう。

【思ったこと】
_71217(月)[教育]学士教育課程のコンセプト(11)実質化と「国際・英語学部」というチャレンジ(2)

 講演では、次に「四六答申」について言及された。「四六」とは昭和46年、西暦1971年のことであり、実は私が大学に入学した年でもあった。Googleで「四六答申 大学教育」という検索語を入れると551件がヒットするが(12月18日朝現在)、演者によれば、これは名答申であったそうだ。しかし、実際には政策には反映しなかった。いや、私自身、そのころまさに大学生であったので、何か変化があれば体感できる環境にあったはずなのだが、当時の社会情勢の中では、この答申は効力を発揮することができなかった。ちなみに、大学の教育は全く変わらなかったが、大学生の「気質」は1980年代、1990年代に至るにつれて大きく変化していったという実感がある。




 講演前半ではもう1つ、学士力についての言及があった。演者によれば、学士力は
  1. 知識・理解
  2. 汎用的技能
  3. 知的(姿勢)態度の形成
  4. 思想の形成(市民としての社会的責任)
  5. 価値志向・行動の変容
に集約できる。ここで重要なことは、情報のインプトだけではダメで、体験知を形成していくことであるという。初年次教育ではしばしば、汎用技能獲得のために
  • コミニュケーションスキル
  • 数量的スキル
  • 情報リテラシー
  • 論理的思考力
  • 問題解決力
を伸ばすための具体的授業が実施されているが、学士力の全体像から見れば、これはごく一部にすぎない。汎用技能獲得だけをもって教養教育と称するわけにいかないのは当然であろう。もっとも、「市民としての社会的責任」を培う教育ということになると、果たして大学教育だけでそれを担えるのかという問題がある。

【思ったこと】
_71218(火)[教育]学士教育課程のコンセプト(12)実質化と「国際・英語学部」というチャレンジ(3)「みる」ことのレベルアップ

 講演の後半は、当該大学における英語教育のポリシーについての紹介であった。少子・全入時代の大学の英語教育というと、日常的コミュニケーション英語主体の「すぐに使える英語」を思い浮かべてしまうが、そういうものは専門学校で教えればよい、というのが演者の御主張であった。演者によれば、英語教育には
  1. English for General Purposes(EGP):日常コミュニケーションに必要な英語教育
  2. English for Academic Purposes(EAP):大学での学問の基礎教育に必要な英語教育
  3. English for Professional Purposes(EPP):専門教育に必要な英語教育
という3つのタイプがあるが、当該大学では1.は扱わず、2.と3.を重視しているということであった。

 実際の教育では、コンテンツベースの授業展開とチームティーチングが重視される。つまり、どの教員が担当しても授業内容や質に差違は無い。1年次の基礎的教育を通じて、学生は英文でA4用紙5枚程度のリポートを書けるようになるということだ。また、専門課程では、英語教育に加えて専門実務教育も行われる。

 学士課程教育はレベル1(1年次)からレベル4までの積み上げになっているが、それぞれのレベルは「みる」という漢字の使い分けで的確に表現されていた。すなわち
  • レベル1:視る
  • レベル2:観る、察る
  • レベル3:観る、診る、看る
  • レベル4:看る、診る、観る
という点に重点が置かれるのだという。

 余談だが、「みる」の漢字表記に関しては、私が担当する「心理学研究法」の講義の中でも「観察法」の導入部で言及したことがあった。上記では
  • 「視る」は「直線的な視線」
  • 「観る」は「広く見渡す」
  • 「診る」は「どうしたらいいのか」
  • 「看る」は「どうしたらかかわれるのだろう」
というように使い分けされているようであったが【←長谷川の聞き取りのため不確か】、中国語の「看」は、ごく普通に「見る」という意味に使われていると聞いたことがある。日本語の「看る」は、やはり、「寝たきりのお年寄りを看る」というような意味に使われるのが一般ではないかと思う。このほか「広く見渡す」という意味では「覧る」が使われているように思う。

【思ったこと】
_71219(水)[教育]学士教育課程のコンセプト(13)実質化と「国際・英語学部」というチャレンジ(4)ラーニング・アウトカムの検証

 英語教育に関する御講演を拝聴してちょっぴり疑問に思ったのは、ラーニング・アウトカムをどうやって検証しているのかということであった。いくらすぐれたカリキュラムであっても、学生がちゃんとついて来ないのでは有効な教育とは言えないからである。

 この点に関して、演者の方は、授業評価アンケート、図書館貸出冊数、TOEIC-IPのスコアなどのエビデンスを示しておられた。

 1番目の授業評価アンケート(「はい」「いいえ」の二者択一型)では、単に「教え方が良かった」というような授業内容に関わる項目ばかりでなく、「目標を高くおき、それに向かって努力している」、「ほとんどの学科目では、持続的な勉強や予習が必要」、「知的レベルの高い授業が多い」、「よい成績をとろうと努力する学生が多い」というように、学生の積極的な勉学態度を肯定する回答率が65%を上回っていた。このほか、「論文の論理展開法が理解できた」、「専門領域での英語運用力を伸ばすことができた」、というように、自身の学習成果を肯定する回答も見られた。

 これらは全般として、当該大学の教育が受講生本位で行われ、少なくとも、受講生自身の主観的評価において肯定的に受け止められているというエビデンスになる。ただし、それだけでは、客観的なラーニング・アウトカムの検証にはならない、という面もある。

 2番目は図書館の平均館外貸出冊数が年間36.2冊であり、国立大の9.2冊や私立大一般の7.6冊を大きく上回っているというデータであった。これも確かなエビデンスとは言えるだろう。もっとも私の大学などでは、学術誌などは電子ジャーナルでも十分閲覧できるようになっているし、印刷された雑誌論文も館内でコピーできるので、わざわざ館外に持ち出すということは滅多にない。

 3番目は、TOEIC-IPのスコアが全国の大学生一般の平均値よりかなり高く、また入学後のスコア上昇が顕著であるという点であった。ちなみにこの大学ではTOEIC-IP対策のような授業は一切やっていないということであった。念のため予備校のサイトで当該大学の合格難易度を参照してみたところ、おおむね45〜50のレンジの偏差値であることが分かった。入学当初から英語力があったというわけではなく、入学後の教育の成果として英語力が伸びたという点では、アウトカムのエビデンスになりうると思う。

 もちろん、真のアウトカムは、卒業生たちが、どのような分野でどれだけ活躍できるのかにかかっているけれど...。

【思ったこと】
_71220(木)[教育]学士教育課程のコンセプト(14)メジャー制導入と自発的学修者の育成(1)

 今回の研修の最後の講演は、リベラルアーツ・カレッジとして伝統があり、各方面から高い評価を受けている某大学が最近行った一大改革について、その背景や意義を紹介するという内容であった。
 当該大学は過去50年以上にわたり一貫してリベラルアーツ教育を標榜しており、また、日本語と英語を公用語とするバイリンガル大学としても知られている。このほか少人数教育、学問分野を超えた知識の探究、自立的学修といった点で実績をあげてきた。そうした伝統を守りつつ、来春に向けて、大規模な教学改革を実施することになった。

 この講演を拝聴する前にわたしがいだいていたのは、

●これまでの伝統が成果をあげているのに、なぜここへ来て抜本的とも言える改革を断行する必要があったのか?

という素朴な疑問であった。

 この点に関しては、まずとにかく、基本理念は何ら変わるものではないこと、「学科」から「メジャー」に変更することで、広い領域の中から「シングルメジャー」、「ダブルメジャー」、「メジャー + マイナー」という3タイプの進路を選択できるようにしたことが、改革の趣旨であるというように理解できた。

 ちなみに、私の大学でも、こちらのパンフにある通り、ある学部の学生が、異なる学部の所定の科目群を体系的に履修することで副専攻の学修認定をうけることができるようになっている。但しこれは、まずは、入学当初から所属学部の主専攻を一定水準以上の優秀な成績できっちり学修しておくことが大前提であり、入学後にいろいろ学んだ上でから主専攻を決めるという方式とは根本的に異なっている。また、今回紹介のあった大学では、「ダブルメジャー」や「メジャー + マイナー」といった選択をするにあたっては、学生主体のアカデミックプランニングやアドヴァイザー制度といった学修者の支援体制が充実しているが、私のところでは、学生があくまで自主的に副専攻科目を履修するようになっており、(私のところの文学部の場合)指導教員の支援内容は主として成績不振や長期欠席といったネガティブな事態へのサポートに限られているように見える。




 当該大学の教学改革に関してちょっと気がかりであったのは、
  1. 入学後にメジャーやマイナーを選択させた場合、特定の学問領域に希望者が集中するということはないのか。
  2. 「メジャー」の認定要件は、一般の総合大学における1つの専攻の卒業要件に比べて少なすぎるということは無いか。また、もし同じ程度の単位数を要件にしているとなると、ダブルメジャーを満たすには、かなりの単位数を揃える必要が出てくるが、このことによって1つの授業のための予復習の時間が不足するようなことはないか。
といった点であった。

 このうち1に関しては、いわゆる「進路振り分け」のような措置はとっていないということであった。つまり、平均点が悪いというだけで第二希望のメジャーに回されるというようなことは無い、但し、それぞれのメジャーが指定した基礎的科目を履修できていないと、結果的に選択できないというケースはありうるということであった。

 このあたりの部分は、学部単位で一括して入学者を受け入れ2年次に5つの専修コースに分かれるというシステムをとっている私の学部にとっても大きな関心事である。

 2に関しても、当該大学の学問領域の範囲では、何とかうまくやりくりできているようであった。但しこれがうまくいくのは、おそらく「リベラルアーツ」の範疇に含まれる学問領域に限ってのことであろう。カリキュラムが過密な医歯薬系や工学系では、そう簡単にダブルメジャーをとるわけにはいくまい。それよりも、学士入学の形でそれぞれのメジャーをみっちり学修するか、関連領域の大学院に入学したあとで学部専門科目を聴講して不足部分を補うという形で、実質的なダブルメジャーを修得していくほうが、時間割のやりくりなどで支障がでる恐れは少ないように思う。

【思ったこと】
_71221(金)[教育]学士教育課程のコンセプト(15)メジャー制導入と自発的学修者の育成(2)ダブルメジャーの可能性

 講演の配付資料によれば、当該大学の卒業要件は概ね以下の通りになっていた。
  • 分野Aをシングルメジャーとして修める場合:
    • 基礎科目:分野A6単位、それ以外のメジャーから12単位、合計18単位
    • 専攻科目:分野Aから21単位
    • 選択科目:41単位
    • 卒業研究:分野Aで9単位
  • 分野Aと分野Bをダブルメジャーとして修める場合
    • 基礎科目:分野Aと分野Bから各6単位、それ以外のメジャーから6単位、合計18単位
    • 専攻科目:分野Aと分野Bから各21単位、合計42単位
    • 選択科目:11単位
    • 卒業研究:分野Aと分野Bそれぞれ9単位。合計18単位。但し、そのうち1つは論文を作成しない分野。
  • 分野Aをメジャー、分野Bをマイナーとして修める場合
    • 基礎科目:分野Aと分野Bから各6単位、それ以外のメジャーから6単位、合計18単位
    • 専攻科目:分野Aら21単位、分野Bから15単位、合計36単位
    • 選択科目:26単位
    • 卒業研究:分野Aで9単位(論文作成)。
 これらの単位数を私のところの文学部などと比較してみるに、ダブルメジャーといっても、それほど過重な負担を強いるようにはなっておらず、かつ、当該の専攻分野の卒業要件単位数は、総合大学一般のカリキュラムとそれほど変わっていないように見えた。しかし、どこかが増えれば、それに応じて減る部分もあるはずだ。ざっと見渡したところでは、どうやら、私の大学で「教養教育科目」として卒業要件に含まれている部分が、ダブルメジャー関連科目に置き換わっているようにも見えた。では、当該大学では教養教育は行われていないのか?ということになるが、そもそもがリベラルアーツ大学を標榜しておられることからみて、何が教養かと言えば、教えていることすべてが教養という意味にもとられるのだろう。





 このほか、教員アドヴァイザーによるきめ細かい指導体制が大いに参考になった。ダブルメジャーの場合、専門外のメジャーについての相談などは一人の教員だけでは応じられないであろうと思っていたが、当該大学では、教員アドヴァイザーとは別に、「アカミックプランニングセンター」などの常設機関があり、単に「アドヴァイジング」ではなく「プランニング」をサポートしているという点が大いに参考になった。

 また、一人の教員が担当する学生数は、多い場合で30名程度。また、GPAにより1学期あたりの履修登録上限(19単位)が課せられ、かつ、GPAが1.0を着るという状態が3回続くと退学になるということであった。




 私自身は、「リベラルアーツ・カレッジ」で教育を受けたことも教えたこともないので、総合大学との違いがいまひとつ分からないところがあった。

 私のところなどでもすでに制度化されているが、学部Aで主専攻、別の学部Bで副専攻をとるということは総合大学でも可能である。また、前回の述べたように、いったん卒業したあとで、別の学部に学士入学したり、大学院で異なる領域の研究をするという道もある。「リベラルアーツ・カレッジ」で教育を受けた場合には、それらとどういう違いがあるのか、よく分からないところがあった。

 第二に、そもそも、ダブルメジャーや、「ダブルとマイナー」を選択することにどれだけのニーズがあるのかという疑問があった。一例として、学生自身は音楽を学びたいと思っているが、それでは身を立てることが難しい、そこで親の期待にも応えるために経済学と音楽をダブルメジャーにするというようなケースはありうるということらしい。しかし、研究者として身を立てる場合には、1つのメジャーをできる限り深く探究しておいたほうが有利ということはあるだろう。じっさい、当該大学の受験生向けガイドブックで卒業生の進路を参照してみると、企業や大学院進学のほか、他大学の学士課程に再度入学(←学士入学なのか、センター試験を受けた上で1年次から入学しているのかは未確認)しているというケースもかなりあることが分かった。もちろん、年数をかけて、広く、かつ深く学ぶということにはそれなりの意義があるかと思うが、それを可能にするにはかなりの学費、生活費を必要とするはずで、当該学生や両親がかなりの高収入でないとそういう道は選べないようにも思えた。

 ま、いずれにせよ、これだけの質の高い教育を維持していけるのは、長年の伝統があり、教育実績に対する高い評価があればこそ、であろうと思う。この大学における教学改革はおそらく成功例として語り継がれるであろうが、他大学がこれに追従してもそう簡単には成功できるとは思えない。リベラルアーツを標榜している大学は他にも複数あり、それらと比較しつつ、今後のご発展に期待したいと思う。