じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
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【思ったこと】 991003(日)[一般]「行動を怠る」とはどういうことか(その1) 東海村の「ジェー・シー・オー」で起こった臨界事故では、作業工程上に違法な「裏手順書」があったほか、被曝者の救出にあたって消防署に放射能事故であることが伝えられていなかったこと、付近住民への退避(待避?)勧告が大幅に遅れたこと、科学技術水準とは別の、つまり人間行動の管理・制御の面での欠陥が次々と明るみにでているようだ。 10月1日付の日記もちょっと書いたが、少なくとも政治家や行政担当者は、こうした問題に対して「モラル」とか「認識不足」などという言葉を口にすべきではない。何が問題でどこをどう変えればよいのかについて具体的に方策に言及しなければ責任ある発言とは言えまい。と第三者的なことばかりも言っておれないので、私の立場からこのことを考えてみた。 さて一般にある行動(この場合は安全管理行動)を怠るというのは、その行動が適切に強化されていないためと考えられる。それを適切に生起させるためには、
行動のプロセスが直接的に結果に反映するような状況ではよほどやむを得ない事情が無い限り「怠る」という現象はなかなか生じない。
ではそれを具体化するためにはどうすればよいのか。次回以降に続く。 |
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【思ったこと】 991004(月)[一般]「行動を怠る」とはどういうことか(その2) 昨日の日記の続き。10/4付の日記で野生の雄叫び・吠えろゴリさん!が東海村臨界事故についてこんなことを書いておられた。 近隣住民も自分の手で納得行くように処理した方が、ワケの分からん作業員にやらせるよりも安心ではないだろうか?もちろん素人だから、現場監督を動燃などから派遣する。住民は被ばくしたくないから真剣にマニュアル読んで予習してくるだろうし、監督役も素人が危なっかしい手付きで作業してると恐くて目を離せないだろう。きちんと扱えば意外なほど安全なんだろうな、ウランって。だからこそバケツで混ぜようなんて発想が出てきた気がする。ちょっと火傷するくらいの危険性が有った方が大きな事故は防げるかもしれない。ゴリさんの本意は別の所にあると思われるが、この文章にある
昨日も述べたとおり、個々の行動に適切な大きさの結果が確実に伴う限りは安全管理行動を怠ることは無い。例えば動物園の飼育係が猛獣を別のケージに移動させる場合は、檻をちゃんと締めることの確認とか、万が一逃げ出しても園の外までは出ないような配慮とかを怠ることはまずあり得ない。それは行動を怠ったらどういう結果が生じるかが一目瞭然になっているからである。ところがウラン処理の場合、ちょっとぐらい手抜きをしても直後に甚大な被害が発生するわけではない。こういう状況ではいくら職業倫理の徹底とか言っても、上滑りして形骸化してしまう恐れが大きい。安全管理をきっちりした場合としなかった場合の結果におもだった差が生じないため手抜きが横行しそれが習慣化してしまうためである。 結果が確実に伴う場合でもその大きさがあまりにも小さいと同じような問題が起こる。例えば「倫理」とか「モラル」をしょっちゅう口にする人がタバコの吸い殻を道路にポイ捨てすることがある。これはその人がタバコを吸い終わった瞬間に突然倫理を喪失するために起こるわけではない。捨てられたタバコが道路を汚す度合いがあまりにも小さいため嫌悪的結果として働かないことが本当の原因になっているのである。 同じことは駅前の放置自転車についても言える。そういうや少し前に、東京世田谷の三軒茶屋の歩道で放置自転車はモラルの問題だというような幟が立てられていたのを目撃したことがあった。しかし、日頃まっとうな生活をしている人が、駅前に来たとたんに突然モラルを喪失して自転車を放置(実際は駐輪)してしまうというのも考えにくいことだ。すでに何台も自転車が駐輪されている場所では、そこに自分の自転車一台を付け加えても環境は殆ど変わらない、つまり駐輪に伴う結果があまりにも小さいことが、駅近くに駐輪することの利便性とあいまってそういう行動を維持しているのである。 さて、それでは個々の安全管理行動を適切に維持するためににはどういう結果を与えることができるだろうか。これは自律的な場合(自分で自分に結果を与える、もしくは行動内在的な結果が伴う)と他律的な場合(監督、監査、外部評価等に委ねる)の2つが考えられる。次回はどういう場合に他律的な制御が必要になってくるのかを考えてみることにしたい。 |
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【思ったこと】 991005(火)[心理]「行動を怠る」とはどういうことか(その3)褒めるだけでは解決しないこともある 昨日の日記の続き。本日は自律的な行動制御(自分で自分に結果を与える、もしくは行動内在的な結果が伴う)と他律的な行動制御(監督、監査、外部評価等に委ねる)について書く予定であったが。昨日までの日記に関して出石さん(10/5付)が 理想的な行動制御っていうのは好子を与えることらしいんだけれども、この場合の好子ってどんなものなんだろう。まさか、小学生みたいに「ほめる」とか「よくできましたスタンプ」ではあるまい。やっぱり行動がダイレクトにお金にかかわってくるほうが影響が大きいだろう。そうなれば、限られた好子でシステムを構築するのは難しいのではなかろうか。と反応してくださったので、このことについてもう少し詳しく説明させていただきたいと思う。 連載1回目にも記したように一般に行動を適切に生起させるためには、
出石さんが言っておられたのはこのうちの1番目。好子とは、一般には、それが与えられると喜ばれるような結果のことであり、「褒められる」という付加的な随伴性のほか、「(褒められもしないのに一人で)カラオケで歌う」とか「スキーでスピード感を味わう」というように誰からも結果を付加されなくても行動それ自体に「内在」する形で結果が伴う場合もある。スキナーはかつて『罰なき社会』という来日公演の中で、この随伴性が人間の生きがいにとって最も大切であることを強調した。 しかし、出石さんも指摘しておられるように、ただ褒めるだけでは安全管理行動を徹底させることはおそらく不可能。褒めるだけでは、 何もしなくても失うものが無い褒めればいくらかその行動は増えるだろうが、しなくてもペナルティは無い。これではボランティアとしての安全管理行動になってしまう。 同じようなことは安全運転についても言える。いくら無事故無違反者を表彰したところで、暴走行為、飲酒運転、スピード違反などを無くすことは不可能だ。そういう違法行為はそれ自体、別の好子(スピード感、飲酒による快感など)によって強化されており、連載1回目にも述べたように、こういうケースでは「好子消失阻止」(=罰金、免停など)もしくは「嫌子出現阻止」の随伴性を適切に付加しなければ交通安全を保つことはできないわけだ。 そもそも、「好子出現」だけで維持されている行動に「怠る」という言葉はあり得ない。毎晩麻雀で遊んでいる人が体調を崩して数日間それを休んだからといって「きょうは麻雀を怠っている」とは言わない。「怠る」というのは「しなければならない」行動が適切に出現しない時、つまり「好子消失阻止」や「嫌子出現阻止」の随伴性で維持されている行動が適切に生起していない時に使われる記述概念なのだ。 ちなみにWeb日記を真に楽しんで書いている人は、日記を休んでも「執筆を怠った」とは感じない。休んだ時にもし「怠った」と感じる人があれば、何かしら「好子消失阻止」の随伴性がはたらいている証拠である。 ※このほか「褒める」ことと関係して「行動の成果ではなくプロセスを強化することの重要性」についても書こうと思ったが時間が無くなったので次回以降に続く。 |
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【思ったこと】 991006(水)[心理]「行動を怠る」とはどういうことか(その4)下りのエスカレータを駆け上がる随伴性/健康管理 昨日の日記の続き。何度か指摘しているように、安全管理行動のようなものは、それが時たま生じた時に褒める(好子出現の随伴性)だけでは不十分。
1番目の「好子出現」を自発的に山に登って頂上(好子は、頂上の景色や達成感)に到達することに例えるならば、2番目の「好子消失阻止」の随伴性というは、下りのエスカレーターを逆向きに必至に駆け上がるようなものと言えるだろう。このエスカレータの例えは、だいぶ昔に大相撲の解説者が話しておられたものだ。相撲界に入門して地位を上げていくうちはケイコという行動は「地位が上がる」という好子出現の随伴性で強化されていく。ところが大関とか横綱のような地位に上り詰め何年か地位を維持していくうちに次第に体力が衰えてくる。この時点でのケイコというのは、もはや下りのエスカレーターを駆け上がるようなもので、一生懸命足を動かすことで何とか今の高さを維持できる。何もしなければどんどん下に下がり、ついには引退に追い込まれるというわけだ。 同じように例えるならば、3番目の「嫌子出現阻止」は、登山道から足を滑らし、崖の途中で必至に蔓に掴まっているような状態を言う。掴まっていたからといって誰からも褒められるわけではないが、手を放せばたちまち崖から転落して大けが、ヘタをすればそのまま死亡という結果を招くことになる。安全管理というのは本質的にはこの随伴性によって維持されるものである。「怠る」現象が生じるのは、崖のような具体的で差し迫った危機が目前に示されていないため。より専門的に言えば、確立操作(=一般に「危機への認識」などと言われるもの)が不十分で、かつ、嫌子の出現の確率がきわめて小さいためと考えることができる。 前にも書いたように、(一部の不心得者を除いて)ドライバーが運転時に注意を持続するのは、それを怠ると直ちに事故という嫌子が出現するためである。これはきわめて具体的で直接効果的。もっとも事故の発生という随伴性だけでコントロールしていたのでは犠牲者が続出する。それを未然に防ぐために交通違反の取締があるのだ。取締の随伴性は、お金という好子を罰金という形で取り上げてしまう。取締に引っかからないように安全運転をするとしたら、まさに好子消失阻止の随伴性によって維持されているという。但し、取締は安全運転以外の行動も強化してしまう。例えばレーダーを取り付けてネズミ取りを事前に察知するとか、検問所を通り過ぎたらたちまちスピードを上げるというように。このほか、アリバイ的な取締(例えばスピードを出しても何の危険も無いのに制限速度が40kmに設定されているような直線道路で形式的なスピード違反を取り締まるような行為。これでは安全運転は強化されない)。 このほか、健康管理も自分自身に対する安全管理行動と言える。このうち、風邪や食中毒に直結しやすいようなケースでは滅多に注意を怠ることがない。嫌子出現阻止の随伴性が直接的に健康管理行動を維持していると言えるだろう。いっぽう、成人病のように嫌悪的な結果が数年から数十年後に表れるケースでは、関連する日々の健康管理行動に別の随伴性を付加してやることが必要だ。歩数計を腰につけその結果をネットで公開するというのもこうした付加的な随伴性の一種といえる。 |
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【思ったこと】 991007(木)[心理]「行動を怠る」とはどういうことか(その5):プロダクトよりプロセスを大切にすること 昨日の日記の続き。いろいろと考えを述べてきたが、結局のところは、安全管理行動のどの部分(=強化対象)を、誰が(=強化執行者)、どういう形で(=強化随伴性の質)で強化すればよいかという問題に行き着く。今日はこのうち、強化対象の問題について考えてみることにしたい。 何かを製造する場合、勉強をする場合、スポーツ競技の場合、どれをとってもそうだが、「行動とその結果」を細かく見ていくと、「行動のプロセス(製造工程、安全管理、勉強の努力、練習など)が評価(あるいは強化)される場合」と「行動のプロダクト(成果、生産物、成績、勝敗など)が評価(あるいは強化)される場合」に分かれることに気づく。 プロセスとプロダクトが完全に正比例の関係にある場合は、そのうち一方さえ強化すれば必然的に他方も強化される。頑張ればそれに応じて結果が現れるという場合だ。例えば100個の建築資材を別の場所に移動するという場合、1個1個の運搬に要する努力(プロセス)と移動量(プロダクト)は完全に正比例の関係にある。 しかし機械文明が発達した現在ではむしろ、プロセスのすべてがプロダクトに反映するとは限らないことのほうが多い。例えば自動車のようなプロダクトは、ボディや部品を手作業で組み立てるよりもオートメーションで均一の工程で生産したほうが結果的に安全で質のよいものが出来上がる。 資本主義社会は、本質的にプロセスよりもプロダクトが評価される社会であると言える。競争原理が効果を発揮するのもプロダクトの質と価格だ。プロセスが評価されるのはごく一部の職人芸に限られてしまう。プロダクトに直接反映しないようなプロセスは出来る限り省力化されていく。このこと自体はコスト削減と大量生産をもたらすという点で決して悪いとは言えないのだが、同時に、安全管理を怠りやすい状況も作り上げてしまう。今回の臨界事故も結局はコスト削減に起因していたようだ。 高度に発達した資本主義社会と言えども、プロダクト最優先に対する反発というのもある。機械製品よりも手作りの工芸品を良いものと見なすのがその一例。有機無農薬栽培も、生産物の味や残留農薬の測定値というプロダクトではなく、むしろそういう作り方をしましたというプロセスで買われることのほうが多い。偏差値教育が批判されるのは、勉強の努力(プロセス)ではなく成績や相対順位(プロダクト)で評価されるため。 少々脱線してしまったが、今回記したことをまとめると
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この連載は、さらに続く予定です |