じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
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【思ったこと】 991111(木)[心理]「行動随伴性に基づく人間理解」その後(1) このところ紹介雑誌などで取り上げられたせいか、行動随伴性に基づく自己理解、生きがい論のしくみなど、ネット上で公開している論文を読んでくださる方が増えた。同じ趣旨で高齢者、農村、一般企業などで、行動随伴性に基づく分析を進めている卒論生も居る。このこと自体はたいへん有り難いと思うのだが、ゼミでの応答や学生の調査結果からみて、どうも私が主張してきたことがまだ十分に伝わっていないような気がしてならない。もちろんその根本原因は私の文章に書き足りないところがあるせいなのだが、一般の心理学入門書で紹介されている誤ったスキナー観が影を落としていることも否定できないように思う。どういう点に誤解があるのか、気づいた点から指摘してみたいと思う。
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【思ったこと】 991112(金)[心理]「行動随伴性に基づく人間理解」その後(2):Web日記を書くことはどのような随伴性によって強化されているか 昨日の日記の続き。インタビュー調査などを通じて、行動随伴性の視点から生きがいをとらえていくには ...行動もその結果もできうる限り具体的に把握していく必要がある。例えば「仕事をした→満足感があった」というのではあまりにも抽象的。仕事のどの段階でどういう変化が生じたのか、その変化が好子出現にあたるのかどうかといった問題を、もっと具体的に把握...することが必要であると指摘した。少し前に、この日記も登録している日記猿人で、投票ボタンに関連して日記を書くことや投票を得ることが話題になっていた時期でもあるので、「web日記を書く」ことを例として、具体的に把握するとはどういうことか、考えてみることにしたい。 まず、毎日のようにWeb日記を更新(エントリー)している人が居るとしよう。聞き取り調査をすれば、「web日記を書くと楽しい」という答えが返ってくるがこれは具体的な「行動→結果」とは言えない。典型的な日記猿人登録日記の場合に想定される具体的な結果としては、
このうち、1番目の「行動内在的な好子出現随伴性」は、競合的行動(仕事の忙しさとか他の趣味に費やす時間)による妨害を受けない限りは、Web日記執筆を長期間にわたって強化し続けるものと予想される。3年以上日記を書いているような人は、部分的であるにせよこの随伴性が必ず関与しているはずである。 2番目の「付加的な好子出現随伴性」は、読者の反応に依存して強化されるものであるから、浮き沈みが激しい。
以上、「web日記を書くと楽しい」という抽象的な「行動→結果」が、随伴性のレベルで細かく分類できるという事例を示した。しかしこれでもまだ十分な分類とは言えまい。例えば日記猿人で高得票を得ることによって強化される場合でも、自分自身に対する得票の増加(個体内比較)が強化的になる場合と、上位に上がること(個体間の相対的比較)が強化的になる場合では、執筆行動に質的な違いが生じるものと予想される。どっちにしても、得票だけを生きがいに日記を書くような人は決して長続きしないだろう。 自分自身がどの随伴性によってWeb日記執筆を維持しているかは、実験的に特定の結果の随伴を外してみればすぐに分かることだ。例えば、
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【思ったこと】 991113(土)[心理]「行動随伴性に基づく人間理解」その後(3):「Web日記」に目標などあるもんか/行動は目標の手段ではないという生きがい論 昨日の続き。昨日は、「web日記を書くと楽しい」という抽象的な「行動→結果」が、随伴性のレベルでもっと細かく分類できるものであり、どの随伴性によって維持・強化されているかに注意を向けていく必要があることを指摘した。 さて、昨日は、「そもそも何を目標としてweb日記を書くのか」について一切ふれていなかった。それもそのはず。じつは私自身は、日記執筆はもとより、人生観全般において、「目標」というものをあまり重視しない立場を貫いている。 生きがい論を説く人の中には「生きがい」を「the real aim」というように英訳している人さえいる[例えば飯田史彦氏]。他にも、何事につけても目標をしっかり立てて行動することを重要視する人がたくさんいるようだ。しかし、スキナー流の「生きがいとは、好子(コウシ)を手にしていることではなく、それが結果としてもたらされたがゆえに行動すること」であるという行動論的人生観から見るならば、目標というのはいわば補助手段。より「良質」な好子を形成するための香辛料のようなものにすぎない。要するに 生きがいの本質は、目的の崇高さにあるのでも、手にしてしまった好子自体の価値にあるのでもない。あくまで、行動すること、その行動に好子が適切に随伴しているところに本質がある。というのが私の考え。 もちろん集団で何かをやり遂げるためには具体的な目標の設定と実現可能な方策を明示することが大切。応用行動分析でも、抽象的なスローガンに代えて具体的目標を設定することがむしろ強調されている。しかし、そういう意味の目標というのは、かならずしも究極的なものである必要はない。むしろ、ニーズ(要請)というものが根底にあって、そのニーズを満たすべく具体的に設定された「目当て」のようなものと言えよう。 いっぱんに「目標」というものが重宝がられるのは、結果として随伴する好子に対する飽和化を起こりにくくする効果があるためだ。芥川の小説ではないが、「芋粥」が結果としてもたらされるがゆえに行動する人は、芋粥をたらふく食べた段階(=飽和化)でもはや強化されるべき行動が無くなってしまう。スポーツ選手がよりハイレベルの大会の入賞や自己記録の更新を「目標」とするのは、すでに達成されてしまった優勝に満足しきると、その後の一所懸命練習する行動に対して伴うべき有効な好子が見出せなくなってしまうからに他ならない。 少々大げさな議論になるが、私は、それが達成された時に「これですべてよし。これぞ生きがいの醍醐味だ!」と感じられるような目標やら好子やらは、決して存在しえないと考えている。このことは裏を返せば、いまの私たちの行動を強化している諸々の好子自体をとりあげて、その意味や価値を問いただしたところで無駄。せっかくの好子の価値を低下させ無意味化してしまうのがオチ、ということを主張するものである。 もとの話題に戻るが、Web日記を執筆するという行動に随伴する(であろう)アクセスカウンタの増加、空メイルボタン押し受信、日記猿人の投票などというものは、好子自体を云々する限りにおいては、お子さま銀行券とか(我々の世代が昔よく集めた)牛乳瓶のフタと何ら変わらないものである。しかし、上記の議論をふまえるならば、だからそんなものはつまらないという結論は出てこない。大切なことは、アクセス数とか得票とかが好子になるとした上で、「それによって、あなた自身のどういう執筆行動が強化されているか」ということだ。執筆行動が日常生活全般のバランスの中で適切な潤滑油として機能している限りは、好子の質などどうでもよい。いわんや日記執筆の目標などどうでもよいというのが私の考え。 以上を要約すると次のようになる。「目標という行動」という枠組みで行動をとらえる限りは、行動はあくまで手段であり、煩わしいものの1つにすぎない。これに対して、行動論的生きがい論は、「行動すること自体」を生きがいの本質であると考える。「目標」とか「行動によって達成される結果」はむしろ「従」。もちろん、「行動」が外界への働きかけとして定義される以上、結果から独立した行動というものはあり得ないが、結果さえ手にしてしまえば手段はどうでもよいとか、手にした結果に価値がないから行動自体も無意味であるという議論は成り立たないことを特に強調しておきたい。次回に続く。 |
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【思ったこと】 991114(日)[心理]「行動随伴性に基づく人間理解」その後(4):介護保険料払った上に縛られて死ぬなんてイヤだ 昨日の続き。今回は、NHK特集「縛られない老後〜ある介護病棟の挑戦〜」への感想を述べる形で、痴呆のお年寄りに保障されるべき行動随伴性について考えてみたい。 この番組はちょうど先週の日曜日11/7の放送分を録画していたもの。ビデオを見る時間的余裕がなくとうとう一週間延び延びになってしまった。 番組によれば、痴呆のお年寄りが入院している多くの病院では、危険につながる問題行動の発生を押さえるため、入院しているお年寄りにつなぎ服を着せたり柔道着の白帯のようなものでベッドや車椅子に縛り付けたりしているという。正確には「抑制」と呼ばれるが、実質的には入院患者の意思を無視して縛りつけているだけ。危険防止のためのやむを得ない措置というより、看護婦や介護スタッフの人手不足を補うための省力措置と言ったほうが当たっているような病院さえある。 そうしたなか、福岡県内の10病院が「抑制廃止福岡宣言」を出し、患者を縛らないことを大前提とした介護を始めた。番組はこの宣言に署名した病院の1つである福岡県須恵町の正信会水戸病院の取り組みを紹介するものであった。この病院には介護療養型病棟135床と老人保健施設100床がある。医師の他、看護婦、介護スタッフが揃っておりかなりの規模の病院である。 入院しているある男性は、オムツを自分の手で勝手に剥がすクセがあり、それまではつなぎ服を着せられていた。縛らなくなったことで、最初はベッドの上に排便をしてしまい、そのたびに介護スタッフはシーツの取り替えに追われる。しかし、排便の頻度を詳細に観察記録し、便意をもよおしたことを事前に知らせる訓練を重ねることで、ついに便器で用を足せるまでに回復した。 ある女性の場合は、車椅子から立ち上がって歩き回ると転倒して頭を打つ危険がある。縛らなくなったことで、いつ何時立ち上がるか分からない。そこで、介護スタッフはこの女性が夜間にも起きていて車椅子に座っている時は、一緒にこの女性の車椅子を押しながら他の病室を回って世話を続ける。確かにたいへんな労力である。 このほか、時たま、突然体調を悪化させるお年寄りがいる。夜間にそういうことが起こると、数少ないスタッフはその救急措置に追われて、入院者全員に目が届かなくなる。そういう時にはベッドから落ちるなどの事故が発生しやすい。 以上の番組を視て驚いたのは、上記のような抑制廃止宣言を出した病院はごく一部にすぎないということ。ということは、もし私や近親者が痴呆で入院することになったら、まず間違いなく縛られてしまうであろうということだ。介護保険の導入に伴って、生命に危険が及ぶ恐れがある時の緊急避難的な場合を除いてそうした抑制を行わない方向で改善が進むものとは期待されるが、危険性の判断は病院側に任される恐れもある。言い訳などどのようにでもできる。監査がある時だけ抑制を外すというアリバイ工作だってありうるだろう。 番組で多少気になったのは、なぜ抑制をしてはいけないかという理由づけの部分だ。番組を視る限りでは、「縛ることは人権上問題がある」という人権意識だけに根ざしているような印象を免れなかった。しかし縛ることが絶対悪であると見なしてしまうと、運転時に着用するシートベルトやチャイルドシートも、パラシュート降下時のベルトも、岩登りの際のザイルもみな「縛っているから悪」ということになりかねない。縛ることがどういう権利を侵害しているのかということをもっと掘り下げて考えてみる必要があるように思った。 そうやって見ていくと、車椅子による移動自体が比較的自由に行える状況のもとでは車椅子から落ちないように固定することは必ずしも縛りとは言えないようにも見えた。またベッドから落ちないための縛りなどは、ベッドの周囲の柵を高めにすることによって取り除くことができるはずだ。 ではどういう縛りがイケナイと言えるのだろうか。行動論的に言えば、それは「外界に能動的に働きかけ結果を得る」権利を侵害することにあるのではないかと思う。「オムツを外すから縛る(正確には、つなぎ服を着せる)」のがイケナイのは、縛ること自体にあるのではない。もしそういう論理を貫くなら、オムツを外さないお年寄りはいつまで経ってもオムツをつけられたままになってしまう。本当にイケナイのは、オムツをつけなくても便意を表出しちゃんと便器で排便できる可能性のある人から、その「能動的に働きかけて結果を得る機会を強制的に奪うことにあるのだ。このあたりは応用行動分析で積み重ねられてきたトイレット・トレイニングのノウハウが活かせるはずなんだが、残念ながら介護スタッフには伝えられていないようだ。どっちにしても、介護に関わる人的コストが大きくものをいうことは認めざるを得ないけれど...。 番組では取り上げていなかったけれど、昔在籍していた医療短大で、作業療法士の先生から「能動的に食べる権利」という話を聞いたことがあった。多少訓練すれば自分の手で箸やスプーンを持って自力で食事ができる可能性のある人の口に強制的に食べ物を流し込むのは、能動的に食べて味わうという権利を侵害している。訓練がどんなに手間がかかっても、そういう能動的な働きかけを行う機会を奪ってはなるまい。 駅の自動キップ売り場で、視覚障害の人が点字表示をさぐりながら目的駅のボタンを押そうとしている場面に出くわしたとする。当人から特に依頼されたなら話は別だが、当人が特に希望してもいないのに、勝手にお金を取り上げて「どこの駅までですか、私が買ってあげましょう」というのはお節介すぎる。やはり能動的に働きかけて結果を得るという権利を奪っているからだ。 痴呆のお年寄りの人の場合に対しても、障害者の方たちに対しても、共通して言える望ましいサポートとは、代行者となって好子をそっくりそのまま手渡すことでは決してない。彼らが結果として好子を受け取れるように行動している機会を保障し、彼らの行動がより確実に強化されるような環境の整備に力を貸すということなのだ。介護保険もしくは福祉目的税のようなものによって実現されると伝えられているところの介護制度もそいうい内容を目指すものでなくてはお断りだ。少なくとも私は、縛りつけられて勝手に食物を流し込まれるような介護などまっぴら御免だ。 |
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【思ったこと】 991115(月)[心理]「行動随伴性に基づく人間理解」その後(5):眺めることの意味と随伴性 今週は大きな天文イベントが2つある。1つは16日早朝に見られる水星の日面通過。もう1つは18日の明け方に見られるしし座流星群だ(11/10の日記参照)、。このほか、15日に降り続いた雨のために、岡大構内では銀杏の葉がいっせいに落葉し、一面の黄色い絨毯を作っている。時計台前の紅葉も最高。まさに、「眺める」という行動が最高に強化される一週間が始まったと言ってもよいだろう。 そこで今回は、この眺めるという行動を強化する随伴性について考えてみたいと思う。 まず、外界に働きかける諸々の行動の中では、「眺める」はきわめて消極的な行動と言ってよいだろう。他のオペラント行動一般のように、何かを変えるという結果を伴うものではない。からだもそれほど動くわけではない。非常に受け身的であることは免れない。それだけに、眺める対象が何であるかということが重要な意味をもつ。 眺めることが強化的になるような対象は、生得的に規定される一部の刺激(性的興奮をもたらす刺激、可愛らしさを感じさせる丸っこい刺激など)を除けばすべて習得的に好子としての機能を獲得するものと思われる。懐かしいと感じる景色は、同じ景色のもとで思い出に残る体験を重ねることによって初めて形成されるものであるし、初めて見て美しいと感じる景色も、日常生活のありふれた景色との対比によってより際だったものとなる。そういう意味では、個人的な体験や文化的な影響から完全に独立した美というものはあり得ないように思う。 天文現象の中には、観念的には珍しい出来事であっても、見た目にはまったくパッとしないというものもある。今回の水星日面通過などがまさにそれである。うちの息子などは「そんなもの眺めても何にも面白くない」とクールな反応を示していたが、じっさい、白い紙の上に映し出された太陽に黒い点を見たところで、レンズの埃や紙の上のシミと何ら違って見えるわけではない。小惑星、ごく暗い彗星、たまに見られる星食なども同様。これらは、宇宙という空間に対峙して天体と自分とのあいだの特殊な位置関係を観念的に意義づけないかぎり面白味のない現象に終わってしまうと言ってよいかと思う。 天文現象に限らず、いろんな景色を写真で撮ったりスケッチを試みたりする人がいる(←あっ、私もその一人か)。こういう行動は、必ずしも正確な記録をめざしたものではない。めずらしい景色に出合った時、それに関わるための多様な行動を自発させ、擬似的でもよいから関わりに伴う随伴性を享受しようという慌てふためいているだけなのかもしれない。それを超える関わりを持てないところが人間の非力さであるとも言える。 |
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【思ったこと】 991116(火)[心理]「行動随伴性に基づく人間理解」その後(6):都会の学生と田舎の学生の違い? 数日前、ある学生から以下のような質問メイルをいただいた。ご本人からWeb日記に引用することについて了承をもらえたので、今日はこの話題を取り上げてみたい。まずは質問の内容: 都会の学生と田舎の学生を比較してどちらかと言うと前者のほうがあらゆることにおいて後者よりも積極的であったり、行動的であるように思うのですが行動分析学ではこのことをどのように説明できるのですか?はじめにお断りしておくが、「行動分析学的見地」などと言われると学会にも相談して慎重に構えなければならない。以下に書くことは、あくまで私の個人的な見解であることをご了承いただきたいと思う。 さて、質問の骨子は、都会の学生と田舎の学生が、現在の行動傾向の特徴、および将来の可能性において違いがあるのではないかという点にあるが、行動分析だったらば、「都会vs田舎」という分け方はそもそもしないのではないかと思う。なぜなら「都会vs田舎」は随伴性ではない。都会という環境と田舎という環境にそれぞれ含まれている随伴性の集合に違いがあることは確かだろうが、それなればそれで個別の随伴性のどの部分がどういう影響を与えているのかを細かく見極める必要がある。 次に、質問文中の「あらゆることにおいて後者よりも積極的であったり、行動的であるように思う」とか「学生の秘めている可能性」というのも行動分析的な捉え方とは言えない。何度か書いたように、行動分析でいうところの「行動」は常に具体的でなければならない。単に印象として行動的に見えるとか、外向性や活動性などの尺度得点で比較するだけでは不十分。どういう具体的な行動がどのぐらいたくさん生じたのかを個別に調べていく必要があるだろう。 もちろん、学生の生活行動全般を調べるにあたって、ただ漠然とデータを集めていては「これもある」、「あれもある」という羅列的な結論しか出てこない。そこでとりあえず、比較軸として「都会か田舎か」という形でデータを分類整理し、それぞれにどういう特異的な随伴性があるのかをリストアップしてみることには価値があるだろう。しかし究極的に学生の将来への可能性まで見通すということであるならば、具体的にどういう行動が起こり、どういう随伴性が関与しているのかというところまで綿密に調べてみなければ生産的な結論は得られない。例えば「田舎の大学のほうが良い」という形で何らかの有意差が出たところで、「じゃあ、田舎の大学に編入しましょう」とか「大学を郊外に移転しましょう」という方向にはつながらない。 やや抽象的になってしまったが、要は、「都会か田舎か」というような括りをどこかではずした上で、もっと具体的に
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【思ったこと】 991118(木)[心理]「行動随伴性に基づく人間理解」その後(7):使えない傘と使えない消火器 11/18の夜は、いつも家族で視ている「TVチャンピオン」があまり馴染みの無いキャラクターグッズ王だったので、代わりに日本TV系の「週刊ストーリーランド」。その中の『使えないカサ』という物語がたいへん印象に残った。あらすじを自分なりにまとめると... ということで興味深い結末となるわけだが、ネタバレは本意ではないのでここから先は省略させていただく。 この話で面白いのは「使えない」ということについての2通りの意味だ。ある道具が壊れていてその機能を発揮できないから「使えない」という意味とは別に、その道具を使う必要のある事態、上記で言えば「傘にとっての雨」、「消火器にとっての火事」というように、除去すべき嫌子を別の方法で消失させるという意味が含まれている。 ではどんな道具でも2通りの意味を考えることができるだろうか。例えば「使えない車」、「使えない時計」、「使えないパソコン」...はどうだろう。 論理的には、ある道具が「それを活用する必要のある事態」を消失させてしまう機能を併せもつならば、すべて「使えない道具」になりうるだろう。但し、その場合、傘とか消火器のように、道具と用途が一対一に対応していることが条件となる。多用途の道具の場合、1つの事態を消失させても別の活用法が浮かんでくる。例えばパソコンをワープロとして使っている人にとっては、目の前に座るだけで自分の考えがそのままプリンタに打ち出されてしまうようなパソコンは「使えないパソコン」ということになる。しかしインターネットに接続するために使う人には依然として「使えるパソコン」になるのだ。上記の「使えない傘」も厳密に言えば、日傘としての使える可能性が残っている。 行動随伴性の視点から見るならば、「その道具を使う必要のある事態を消失させる」ということは、「その道具を活用する行動を強化する好子や嫌子の効力をゼロレベルに低下させてしまう」確立操作であると見なすことができるだろう。このほか、嫌子自体をそっくり別の形で除去してしまうケースもある。
上記とは本質的に違う意味での使えない道具もある。例えば核兵器。核兵器を保持していると周辺諸国との間に勝手に平和の雰囲気がみなぎり戦争が全く起こらなくなるというならば、まさに「使えない傘」と同じ。しかし、「相手が使ったら自分も使うぞ」という脅かしが根底にある抑止というのは、バランスの問題であって緊張の消失ではない。「使えない道具」と「使うべきでない道具」の違いを示しているとも言えよう。 |
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【思ったこと】 991124(水)[心理]「行動随伴性に基づく人間理解」その後(8):なりたい職業に農業が選ばれにくい理由 11/23夜の「たけしの万物創世記」は大工さんの話題。タイトルが「大工!!子供のなりたい職業No.1」となっていることからも分かるように、特に男の子にとって大工さんはやりがいのある職業として知られている。仕事のそれぞれの段階が完成という結果にダイレクトに随伴すること、完成された家が末永く活用されることが大きな喜びとなるためであろう。 その一方、いまの世の中で「農業をやりたい」という子供はそれほど多くない。ほんらい、収穫の喜びは何物にも代え難い行動内在的な喜びになるはずなのだが、どうしてなのだろう。 趣味で農作物を作る限りにおいては、農作業は確かに楽しいものだ。私自身もわずかの畑を借りて、いくつかの野菜を作っている。失敗してもともと、という気楽な気持ちで家庭菜園を維持する程度のことであれば、農作業は確実に生きがいになるはずだと思う。 にも関わらず、営農、特に専業農家が次第に減少し、農業従事者の高齢化や後継者不足、都市近郊農地の宅地化が進んでいくのは何故なのだろうか。この原因は多種多様であり、私のような素人が口をだすべき問題ではないのかもしれないが、連載の一環として行動随伴性の視点から捉えられる範囲に限って考えを述べてみたいと思う。 農業が生きがいになりにくい理由を思いつくままにあげてみると、
などが考えられる。次回は、卒論生が農業従事者に行ったインタビューの内容に即してもう少し具体的に分析を加えてみたいと思う。 |
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【思ったこと】 991125(木)[心理]「行動随伴性に基づく人間理解」その後(9):農業がもたらす生きがい 昨日の日記の続き。今回はまず、卒論生が農業従事者に実際にインタビューした結果についてご紹介したいと思う。なおネット上で公開することについては事前の了承をもらっております。 さて、昨日の日記では、なりたい職業に農業が選ばれにくい理由として「阻止の随伴性」による義務的な行動が含まれている可能性を指摘した。このことに関連して、調査対象者のCさん、Eさん、Gさんから次のような発言があった(長谷川のほうで発言内容をまとめ直してある)。
このようなかたちで農業従事者のナマの声を伺ってみると、単に「農作業→収穫」というような漠然とした「好子出現の随伴性」ではなく、個々の段階の作業がどういう随伴性あるいは強化スケジュールによって強化されているのかが詳細に分析できるようになる。なお、上に書いた部分で、病虫害の防止は「好子消失阻止の随伴性」であると書いたが、厳密に言えば、好子となるべき収穫は将来において出現することが期待されるべきものである。となると、
話題が変わるけれど、11/14の日記で痴呆の問題をとりあげてみたが、農村地域と大都市地域での痴呆の発生比率はどうなっているのだろうか。かつては大都市のお年寄りも、庭の一部を家庭菜園にして農作業を楽しむ場が与えられていた。 東京・世田谷の自宅に戻った時にいつも感じることだが、昔は広い庭のあった所に敷地いっぱいに2〜3階建てのコーポが建てられ、持ち主のお年寄りがその一室で管理人を兼ねてひっそり暮らしているという御近所さんを複数見かける。確かに老後の収入は確保されているのであろうが、結果的に土とふれあう機会が奪われてしまった。毎日テレビばかり見るだけの老後(←これは単なる推測)が果たして楽しいものと言えるのかどうか、そういう自然から隔離された閉鎖的な環境での生活が痴呆のきっかけになっていないかどうか、確かめてみる必要もありそうだ。 |