じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa



インデックスへ


「行動随伴性に基づく人間理解」その後[2000年版]

1999年11月11日〜
【思ったこと】
_00114(金)[心理]「行動随伴性に基づく人間理解」その後(10):外国人に介護を託すことについて

 ここで急に話題が変わるけれど、法務省は「出入国管理基本計画」案を8年ぶりに見直す中で、人手不足に悩む農業、ホテル従業員のほか、介護労働にも外国人を受け入れるかどうかをめぐって最終的な調整を続けているという[1/14朝日]。従来、介護労働は「...同一作業の反復で、本国でも習得できる」単純労働と見なされ、在留資格としては認めて来られなかった。ところが、少子化に伴う労働人口の減少、その一方で介護を必要とする高齢者は、2025年には今の280万人から520万人に増加すると見られており、人手不足を補う見通しがたっていないという。

 また、これとは別に、14日のNHKニュースで、タイの日系人の中で介護職員として日本で働くことをめざす若者が居ることが伝えられていた。かつて日本軍がビルマに攻め込んで敗退したあと、一部の兵士がそのままタイに帰化。その子孫はかなりの数にのぼっているようだ。日系人の場合は一般の外国人受け入れ基準の拘束を受けない就労が認められる場合がある(1990年の入管改正による)ので、上記の法務省の調整に関係なく実現する可能性が高いように思われる。

 2025年となれば私も73歳。生きていればそろそろ介護をお願いする状態になりつつあるかもしれない。私自身は、個人的には、まず何よりも妻から、それが無理なら子どもたち(あるいは息子の嫁や娘の夫?)あたりから介護を受けられれば願ったりかなったりと思っているけれど、妻の方が先に寝たきりになることもありうるし、子どもたちの生活に制約を与えることはできる限り避けたいという気持ちもある。そうなれば、介護職員の国際化も大いに結構。不親切な日本人に遭遇するぐらいだったら、多少言葉が伝わらなくても親切で行き届いた世話をしてくれる外国人の介護を受けながらいろいろな文化に接してみたいという気もする。

 もっとも、「外国人に介護を託す」ということの根本には、「時給が安くて済む」とか「日本人は3Kと言われるような重労働を嫌がるから」というような、金持ち国の身勝手な発想がよこたわっているようにも思う。将来どの国でも同じように高齢化が進んだ場合、金持ち国の高齢者は外国人の若者をやとって介護を受けられるが、お金の無い国の高齢者はのたれ死にするしかないという国家間の不平等が生じてくる恐れもある。人と人との支え合い、助け合いを基本とするような介護の問題は、需要供給の中で成り立つ国際的なビジネスとは異なって、やはり「自給自足」を前提に自分の国の中で解決していかなければならないようにも思う。

 そのためには、お金と雇用だけで解決をはかろうとする介護制度には根本的な欠陥があると言わざるを得ない。3世代同居型の介護が無理であるとするならば、例えば、
  1. 入会後、体の動かせるあいだは、自分よりさらに高齢の寝たきりのお年寄りの介護に携わる。
  2. 自分が高齢になった動けなくなった時には、新たに入会した年下のお年寄りの介護を受ける。
という形の、お年寄りだけの互助組織を作るなんていうこともあってよいと思う。「あなたたちを育てたんだから親の面倒を見なさい」などと恩着せがましいことを言っても、子どもたちから暖かく面倒をみてもらえるとは限らない。まして、「息子の嫁」なんぞは自分が苦労した育てたわけでないからそのロジックは通用しない。上記の介護システムだったら、まず自分が介護に携わり、そのノウハウを伝えながら自分自身の介護を受けていくわけだから、恩着せがましい雰囲気は無くなるようにも思える。

 このほか、もっと根本的に、高齢者の生きがいを実現するにはどういう環境整備が必要か、寝たきりになった場合でも、外界への働きかけをする権利をどうやって保障していくかといった根本問題があるが、これはまた機会を改めて述べることにしたい。なお、関連記事が11月14日の日記にある。
【思ったこと】
_0011(土)[心理]「行動随伴性に基づく人間理解」その後(11):マナーの悪い成人式の存続問題

 1/16の朝日新聞によれば、静岡市の小嶋市長は成人式翌日の11日の記者会見で「成人式の費用は1000万円近い。だれも話を聞かないようでは、税金を使ってまで式を続けるべきかどうか疑問だ」として、市主催の成人式を来年から廃止する可能性を明らかにしたという。静岡市に限らず、各地の成人式では、来賓あいさつの最中に携帯電話で話したり、友人としゃべり続けて話を聞かないという「マナーの悪さ」が目立つところがあるという。

 元の記事は、市長の発言に対して晴れ着が売れなくなることを危惧した呉服商から猛反発があったということに主眼が置かれていたけれども、ここでは、きっかけとなった「成人式におけるマナーの悪さ」のほうに目を向けてみたいと思う。

 まず一般論として、「式」と名付けられる場で、その挙行を妨害するような行動は厳につつしまなければならない。公共の場で私的な騒音を発することは、静穏を必要とする周囲の人々の価値観を侵害する。少なくとも、「式」がつまらないなら会場の外で待機していればいいじゃないか、という論理は成り立つ。これは、私語の多い大学で授業を聞きたくないなら外へ出ろと基本的には同じスタンスと言えよう。

 しかし、成人式は、それに参加しなければ成人の資格を失うというものでも無かろう。「式には参加するが、来賓の挨拶には耳を傾けない」という現象がどういう事象によって強化されているのか、行動分析学的な視点から細かく見ていく必要があると思う。

 もし、若者たちが「式」での「講演」を目的に参加するというのであれば(=講演内容で強化される)、型にはまった長時間の挨拶を取りやめ、もっとタメになる話をする人(静岡市だったら、赤尾さんが居られるではないか)に記念講演を依頼するという改善が求められる。
[※追記]赤尾さんは静岡市ではなく浜松市ご在住だった。失礼しました。

 また逆に、若者たちがそういう堅苦しい「式」には無関心で、高校の同窓生たちとの再会の場を求めて参加してくるのであったら、高尚な講演を宣っても場違いというものだ。関心が無い人に無理矢理話を聞かせても私語が多くなるのは当然。必ずしも「マナーの悪さ」の証明とするわけにはいかない。それならいっそのこと、挨拶抜きで、高校卒業後の再会を祝する会食パーティだけにしてしまえばよかろう。訓辞のようなものをたれなくても、自分たちの青春を語り合える場を与えれば、成人としての「自覚」もそれなりに芽生えるかもしれない。

 いずれにせよ、年輩者がお膳立てしたセレモニーでは限界があって当然。市主催の式を廃止するというならば、それに代えて、若者たちが自らの手で多様な形のセレモニーを企画できる機会を与えればよい。動員数に応じて市側が一定の補助をするという形のほうが、よっぽど期待がもてるように思う。
【思ったこと】
_00127(木)[心理]「行動随伴性に基づく人間理解」その後(12) :行動とその結果から「生きがい」を読み解く

 1月は31日が卒論提出締め切りの日。昨日の日記にも記したように、今年度は17人中8人が私のゼミに所属しており、この日も、栄養ドリンク剤やビタミンのど飴など持ち込んで延々6時間以上にわたって執筆指導を行った。ゼミの構成員はいずれも何かしら行動分析学的手法を取り入れた研究をしているが、このうちの3人は「生きがい」、「働きがい」の問題に取り組んでいる。具体的な対象は、高齢者、農業従事者、産業労働者となっており、うまくデータがまとまれば三部作として、従来とは違った視点からの生きがい論を展開する基礎資料が得られることになるものと期待される。

 これらの研究は、基本的には個別のインタビューに基づくものだが、「インフォーマントが自発的に語ったことだけを資料とする」という文化心理学的アプローチとはやや異なり、もっぱら「行動→結果」という行動随伴性をできるかぎり細かく聞き出すことを特徴としている。「行動→結果」を重視する理由は、この日記で何度も引用しているスキナーの
“Happiness does not lie in the possession of positive reinforcers; it lies in behaving because positive reinforcers have then followed. 【生きがいとは】好子(正の強化子)を手にしていることではなく、それが結果としてもたらされたがゆえに行動すること”【訳は佐藤方哉先生によるものを基本としている。行動分析学研究、1990, 5, p.96】”
を具体的に検証していくことが、生きがいの創出に役立つと考えているためである。

 例えば、「私は山登りが生きがいだ」というお年寄りが居たとする。この場合の「山に登ること」は具体的な行動ではあるが、これだけでは結果部分が見えてこない。可能性のある結果としては
  • 途中の景色
  • 頂上の景色
  • 登頂という達成
  • 日本100名山踏破の一環
  • 累積登頂回数の更新
  • 定期的にのぼることによる健康保持
といったものが考えられる。もしある人にとって、頂上の景色のみが有効な結果であるならば、ロープウェイでのぼっても車でのぼっても感動は変わらないが、霧がかかっていた時に登っても何の価値も生じない。一方、100名山踏破や累積登頂回数更新をめざしている人の場合には、自分の足で登ることに意義があるので、ロープウェイや車は論外。また頂上に霧がかかっていてもさほどガッカリすることはない。

 このように、同じ「山登りが生きがい」という言葉を発する人でも、どういう行動がどういう結果によって強化されているのかを調べてみると何通りものパターンがあることが分かってくる。それを調べれば、将来その人が足腰を傷めて自力で登頂できなくなった時に何が代わりになりうるかも見えてくる可能性がある。

 インタビューという方法は相手方の言語報告だけに頼るものであるから、報告内容に主観や偏見が入りやすく、本人が気づかない事実は決して報告されないという難点がある。とはいえ、今回のように「行動→結果」を詳細に聞き出すという手順を重視する限りにおいては、第三者が連れ添って観察した場合にかなり近い形で事実を把握することができるはずだ。

 このほか、ある事象が強化子(好子)になっているかどうかは、実験的に操作してみない限り断定できないだろうという批判もありうる。確かにインタビューだけで限界があることは認めるが、例えば上記の例で、「頂上が霧に覆われていても山に登りますか」と聞けば、その答えがYESかNOかということから、景色が強化因になっているかどうかを推定することは可能。それと、一個人の生活に立ち入って実験的介入を行うことは現実に不可能。だから何もできないと諦めるのではなく、できる方法を実行していく姿勢が大切だと思う。

 さて、これらのテーマに取り組んでいる卒論生がいま一番悩んでいるのは、おそらく、個別の事例から一般性のある結論をどう引き出していくのかということであろう。対象者が「楽しい」とか「どちらもできるとすればこっちを優先する」と答えた行動随伴性をタイプ分けすれば、ある程度一般化された結論が出てくるはずなんだが、統計的解析と違って自動的に有意差が出てくるものでもない。ある程度の「名人芸」が要求されてしまうところをどうするかが残された3日間の腕の見せ所と言えよう。
【思ったこと】
_00210(木)[心理]「行動随伴性に基づく人間理解」その後(13)『一つだけかなう世界中の願い』

 1/28の日記(「ちょっと思ったこと」)に引き続いて、TV番組「週刊ストーリーランド」の話題。今回は、『一つだけかなう世界中の願い』が面白かった。
 エジプトで発見された碑文から、1万年に1回、宇宙の創造主によって、いちばんリクエストの多かった願いが1つだけかなえられることが分かった。その日を目前に控えて、何をお願いするのか、政治家や学者が議論をするが結局決裂。逆に世界各地でその議論をきっかけにした対立や暴動が起こってしまった。けっきょく、「何もお願いしないこと」のがよいということで合意されたが、創造主がかなえてくれたのは「人類を消滅させてくれ」という願いだった。創造主や地球上のあらゆる生命体からリクエストを受け付けており、思い上がっていた人類はそのことに気づかなかったのであった。
という内容。この番組は、家族で最後の結末を予想することを楽しみにしているが、今回もまた、誰も当てることができなかった。

 このアニメに限らずフィクションの世界では、「どんな願いでも1つ(あるいは3つ)だけかなえてあげましょう」というネタは多い。このことについて子供のころから
かなえてくれる願いの数を無限にふやしてください。
というお願いをすればよいのに、と思ったことがあった。しかし、このお願いは、「どんな願いでもかなえる」には合致しているが、「願いの数は1つ(あるいは3つ)に限るというもう1つの制限条件そのものをぶち壊している。初期設定された趣旨や条件をないがしろにするような願いは聞き入れられなくても文句は言えまいと思う。

 さて、では、本当に1つしか叶えられないとしたら何を願ったらよいのだろうか。

 今回の番組でも出てきたが、「病気を無くしてほしい」とか「お金をいっぱい欲しい」というのは個人レベルでは妥当であっても世界全体の願いとしては不適切。前者は地球上の人口を無限に膨張させ結局食料不足による餓死を招く。後者は、お金が生産物や労働の代価である以上、単にインフレを招くだけのこと。

 行動分析的に考えるならば、いつも言うようにスキナーの「Happiness does not lie in the possession of positive reinforcers; it lies in behaving because positive reinforcers have then followed.」という視点がどうしても大切。つまり、どんな物であれ、行動の結果となるものを行動せずに手に入れようとしても幸せになれるはずがない。餓死しない程度の食料は別として、「美味しい物をください」と願うことは、食料を手に入れる(野菜を育てるとか魚を釣るといった)楽しみ、食料を調理する楽しみを奪ってしまう。結果的に、狭い養鶏場で機械的に餌を与えられるニワトリのような生活を求めてしまうことになる。

 とすれば、妥当な願いというのは結局、「行動機会を増やすこと」に尽きるのではないか。病床に臥している人が健康快復を願うのは、日常生活場面で行動できる状態を求めているからであり、これは無条件に肯定される。戦争を終結させ平和を願うのも、平和な社会のもとでなければ行動機会が保障されないから、ということに尽きるように思う。
【思ったこと】
_00305(日)[心理]「行動随伴性に基づく人間理解」その後(14):「監禁による心の傷」はどう裁かれるべきか

 3/4の朝日新聞によれば、新潟県の女性長期監禁事件で新潟地検は3日、佐藤宣行容疑者(37)を未成年者略取と逮捕監禁致傷の罪で新潟地裁に起訴。しかし、監禁によって女性が受けた心的外傷後ストレス障害(PTSD)については傷害罪での立件が見送られたという。

 新聞記事を見る限りでは、監禁による傷害とは、女性の両脚の筋力を低下させたという程度のことで、肝心の精神的打撃は監禁罪などに含まれるものとして独立して刑罰を適用することは殆どなかったという。

 この問題は、現実に被害者がいること、暴力の内容や被害者の回復の度合いが人権保護の見地から公開できないことなどから、第三者としては取り上げにくい事件であるが、「心の傷」が客観的に検証できるものかどうかという点で、心理学に携わる者として無視できない側面をもっている。

 結論から先に言えば、私自身は、「心の傷」の程度を客観的に量的に実証し、刑事罰の対象として審理のレールに乗せることはきわめて困難であると考える。

 念のためお断りしておくが、「心の傷」が無かったと言っているのではない。ただ、それは事件後の短期の心理療法だけで癒されるものではない。ある部分は一生に影響を及ぼすものであろう。それを裁判の証拠という形で、短期間にチェックすることは不可能。ヘタをすると、心理療法が成功すればするほど「心の傷」は軽かったと判定されかねない。このあたり、「両脚の筋力低下」というような運動生理学的に測定可能な傷害とは同一視できないように思う。

 では、どうすればよいのか。私は、他の傷害や殺人を含めて、加害者の行為が被害者の何を奪うことになるのか、その根本を問い直していく必要があるように思う。

 この連載でずっと取り上げてきた「行動随伴性」の視点から言えば、人間の生きがいの根源は、「行動し、その結果として強化される」ところにある。人間らしく生きる権利というのは、楽をしながら物や金銭を必要十分に受け取る権利ではない。物や金銭を手に入れるために外界に能動的に働きかけそので努力に応じて具体的な結果を得る機会が保障されなければ、鉢に植えられた植物人間になってしまう。高齢化や病気によって介護を受けるようになっても、外界に対して何らかの能動的な働きかけが残っているはずだ。そのリパートリーを出来る限り多様化し、それぞれに具体的な結果が伴うような環境を保障することで最後まで生きがいが保障されていくのである。

 この視点からみると、監禁というのは、その人が自由に移動しながら、自発されたオペラントによって好きなものを手に入れ、さらにその積み重ねることでより大きな結果を得るという基本的な権利を奪い取るという点で、あるまじき卑劣な行為であると言うことができる。監禁された被害者が毎日どのように美味しい食物を与えられていたとしても、どのように高級な衣装を着せられていたとしても、この権利を奪っているという点では同罪。これが如何に重い罪にあたるのかということを監禁罪に反映させれば、「心の傷」の程度を客観評価しなくても、無期刑以上に相当する重い罪として罰することができるはずなのだ。

 少し付け加えると、仮に二人の同年齢の被害者が同時に同期間監禁され、同じような仕打ちを受けていたとする。そのうちの一人はストレスに強いタイプで、解放後早期に復帰。もう一人は、逆に強度のストレス傷害を受け、終生社会に復帰できなかったとする。この場合、加害者の罪は、前者に対しては軽く、後者に対しては重いと見なされてよいのだろうか。「心の傷」という、被害者が被った結果だけから判断すれば違いがあるということになろうが、「外界に能動的に働きかけ、その努力に応じて具体的な結果を得る」という基本的権利を奪った点では同程度に罪が重い。与えた結果ではなく、結果を与えたプロセスに関わった犯罪行為を罰するべきであるというのが、私なりの刑法観だ。

 一般の傷害事件でも同じことが言える。加害者が被害者の身体に物理的な損傷を与えるというのは、
  • 痛みを与えたことに対する罪
  • その損傷によって、「外界に能動的に働きかけ、その努力に応じて具体的な結果を得る」という被害者の権利が部分的に奪われたことに対する罪
という2つの側面を持っている。これは殺人事件の場合でも同様。殺人というのは、被害者に生理的な苦痛を与える側面のほか、その犯行が無ければ被害者が何十年にもわたって享受できるはずだった「外界に能動的に働きかけ、その努力に応じて具体的な結果を得る」権利を完全に奪い取ってしまうからこそ重罪にあたるのだ。

 もとの話に戻るが、長期の監禁は、その期間内において被害者の「外界に能動的に働きかけ、その努力に応じて具体的な結果を得る」機会を奪っただけでなく、解放後、同じ年代の女性ならば当然自発できるはずの行動リパートリーにも傷害を与えている。それが完全に復帰するまでは監禁期間が終了したとは言い難い。保護されてリハビリに励む今の時期も、「外界に能動的に働きかけ、その努力に応じて具体的な結果を得る」機会が奪われているという点で、依然として監禁状態におかれているのである。もちろん、そういう状態をもたらしているのは病院施設関係者ではない。犯人自身に全責任があることは言うまでもないことである。
【思ったこと】
_00312(日)[心理]「行動随伴性に基づく人間理解」(15)面白さ・ユーモア・笑いの起源

 3月12日は国立大の後期試験。某大学某学部の小論文試験では、朝日新聞日曜版の「いわせてもらお」からの出題があったそうだ。小論文対策のために社説や論説ばかり読んでいる受験生も、まさか日曜版の家庭欄までは目が向かなかったに違いない。私自身、これまでこのような投稿欄があることさえ知らなかった。

 念のため3/12の日曜版に目を通すと、“朝食を食べ損ねた娘にトーストを持たせてやるうちに「またお持ち帰りにしてね」と言われた”、といったような18歳から71歳までの投稿者(全員女性?)からのユーモアあふれた逸話が掲載されていた。

 出題された問題というのは、10数編?の「いわせてもらお」の逸話を
  1. 自分なりの基準を設けて分類せよ
  2. 面白かったものと面白くなかったものに二分し、その理由を400〜800字程度で述べよ
というものだったという(※伝聞、記憶に頼っているので正確な問題文は不明。関心のある方は、受験情報誌等で再確認してください)。

 このうち1.については、どういう基準で分類するのかはあくまで解答者任せだ。極端な場合、例えば
  • 字数の量で分類
  • 文の数で分類
  • 主人公別に分類
  • 地方別に分類
というように分類したって不正解とは言えまい。

 しかし「分類」を何のためにするのか、具体的には
  • その分類をすることで多様な情報やその特徴をどこまでコンパクトに伝えられるようになるか。
  • 分類作業を通じて、例えばユーモアの原理ということについてどこまで一般性があり生産的な結論を導出できるか。
ということになると、けっこう頭を使うはずだ。曖昧な生データをどう処理するかが問われる、なかなかよい問題だと思った。

 次に2番目の設問だが、これは相当に難しい。日記猿人でもたまに「面白い日記とは何か」などと書く人がいるけれど、そもそも面白いとかつまらないなどという主観的判断に理由をつけること自体に無理が出てくる。「面白いから面白いんだ。文句あっか。」とでも答えれば素直でいいんだろうが、それでは点がもらえない。理由があろうと無かろうと、とにかく理屈をこねざるをえないところが受験生の辛いところである。

 では私だったらどう答えるだろうか。内容を文芸的に論じることができない私は、おそらく、自分の生育歴をふりかえり、どうしてそれを面白いと感じるようになったのかを自伝的に書くことになるだろう。さらには、なぜ人類が特定の事象や文脈を「面白い」と感じるようになったのかを説いた上でその一般特徴に合致する逸話を面白いと理由づけすることになるかと思うが、800字程度でどこまで書けるだろうか。

 それにしても、面白さとは不思議な概念だ。広い意味ではこのなかに、笑いとかユーモアも入ってくると思うけれど、「なぜそれを面白いと感じるのか」という根元的な解明は難しいように思う。せめて分かるのは「どういう状況を設定すれば面白いと感じるのか」という程度。おっと、この方面の研究は、某所で修論日記を執筆されている出石さんにお任せしたほうがよさそうだ。




 さて、ここからは「笑い」についての話題。「笑い」の心理学的な研究はどこまで進んでいるのだろうか。私の知っている範囲のことを記せば、
  • 不思議の国のアリスに出てくる「Cheshire猫」は別として?そもそもヒト以外の動物は笑わない。
  • 犬や猿の場合は、ツボをくすぐれば笑ったような表情を見せる場合もあるけれど、これは無条件反射的な反応であって、言葉を聞いて笑うのとは異なる。
  • 動物出演番組でチンパンジーに意外な出来事を見せる場合もあるが、観客の人間が大笑いしてもチンプのほうは「驚き」、時には「不安」の表情を見せるばかり。
といったところ。いずれにせよ、状況の文脈によって生じる「笑い」は人間特有の反応であると考えてよさそうだ。

 上にも述べたように、どういう状況のもとで笑うのかについては我々はある程度の答えを出すことができるが(もっとも、完ぺきに解明されてしまえばコメディ創作家はみんな失業してしまうかも...)、なぜ人類に笑いという反応が形成されたのかは依然として不明。また、お金を払って落語を聞きに行ったりコメディ映画を見に行く人がいることからもわかるように、行動分析的に見ても、笑いをもたらす刺激や文脈は「行く」という行動を強化する点で、明らかに好子(positive reinforcer)として機能している。しかし、食物や水や適温が強化的であるのと同じようになぜ強化的であるのか、その生物的な価値がどこにあるのか、勉強不足の私には分からない。

 このほか、笑いを感じる文脈や刺激にはかなりの普遍性があることも不思議だ。笑い上戸からしかめ面まで量的な差違があることは確かだが、ふつうは誰が見ても可笑しいものは可笑しい。文化による差も皆無ではないが、アメリカのコメディドラマは日本人が見ても同じように可笑しい。本能でないとするならどうしてこういう普遍性が形成されたのか調べてみる必要があると思う。

 もう1つ、「笑い」は確かに楽しいものではあるけれど、充実した実生活無しに笑いの世界だけに埋没してもいずれ空しさを感じるようになる。基本的にはかなり受け身的な反応。老人施設などでお年寄りを喜ばすためにいろいろな笑いを与えようとしているようだが、ただ笑わせているだけでは生きがいを与えたことにはなるまい。お年寄りの慰問とは、ただ笑わせることではなく、「能動的な行動→結果」という随伴性を保障する環境を作ることであろうと、福祉施設関係者とつい最近話をしたことがあった。

 となると、「笑い」は人生の本質的な価値ではない。おそらく、本質的な価値は別にあって、それを実現する円滑油として随所で有効に機能するところから、好子としての「笑い」が形成されていったに違いない。このあたりに解明の糸口がありそうだ。
【思ったこと】
_00315(水)[教育]『受験勉強は子どもを救う』か(6)努力、情勢分析、適性など

この記述は、別途連載“『受験勉強は子どもを救う』か”の一部ですが、「努力」という一般性のある問題を扱っておりましたので、こちらにも転載しておきます。

 努力の意味や適性について考えてみたいと思う。

 2000年3月13日日記の最後の部分で
公平というのは、単に主観が入らないとか文句が出ない工夫をするということではなくて、もっと根源的に、 努力をした者が、その努力に応じた結果を享受できるかどうかというところにあるように私は思う。
と述べたことに関して、Web日記や私信でいくつかご意見をいただいた。ここで、もう少し「努力」とは何かについて考えてみたいと思う。『新明解』によれば、
努力:ある目的を達成するために、途中で休んだり 怠けたりせず、持てる能力のすべてを傾けてすること。
とされている。この場合の目的は、きわめて私的な内容を主体とする場合もあれば、集団に影響を及ぼしたり公共的な性格を帯びる場合もある。前者の場合としては例えば、日本百名山全山踏破、お百度まわり、Web日記100日間連続更新など。後者は、労働や研究活動、福祉活動など。

 努力の結果が自分だけに及ぶ場合は、周囲に迷惑を及ぼさない限り、何を目的にしても結構。また、それを達成するための手段は、合理的であっても、端から見て非合理的で無駄の多いものであってもかまわない。というか、その場合に得られる生きがいは、最終的な「結果」ではなく、むしろ、それを達成するプロセスに「結果」が次々と随伴することによって得られるものと考えられる。四国八十八箇所巡りをする場合などでも、単に八十八箇所を達成するという「結果」だけを目的にするならば、タクシーをチャーターして早巡りをすれば済むこと。そうでないというのは、足で巡りながらいろいろなことを考え、また地元の人達と交流する中で得られる「結果」の蓄積のほうに本当の意義を見いだすためであろう。

 いっぽう、努力の結果が特定の集団に及ぶ場合、さらには公共的な性格を帯びている場合は、努力をした者に対して、その努力に応じた結果が与えられるとは必ずしも言えない。なぜなら、通常、この種の努力は、プロセスではなく成果によって評価されてしまうからである。起業家がどのように努力しても倒産すればそれでおしまい。周囲からいくら「よく頑張った」と慰められようとも新たな資金が供給されるわけではない。農家がどのように努力して白菜を作っても、他の地域で大量の出荷があれば価格は暴落する。好むと好まざるとに関わらず、この社会では、努力がその量だけに応じて評価されることは決してない。

 では、公共的な性格を帯びた努力において、努力量以外に求められるものは何だろうか。それは、おそらく
  1. 努力すべき行動を適切に選択すること
  2. 努力の量ばかりでなく、努力の質(有効性、時として要領のよさ)の向上にも目を向けること
ということに尽きるかと思う。念のため言っておくが、この2点が望ましいことなのかどうか私には分からない。ただ、この社会という前提のもとで「努力し、の努力に応じた結果を得る」ためには、好むと好まざるとに関わらず、それらに目を向ける必要があることは確かだ。がむしゃらに努力するだけでは実を結ぶハズがないのである。

 さて、この連載の本来のテーマである『受験勉強は子どもを救う』かという問題に戻るが、和田秀樹氏は、今回の問題に関連して
...入試の本質とは、単に学力を見るものではなく、自分の能力を把握したり、出題傾向から何を勉強すればよいかと読み取って分析したり、そこから生まれた計画をきちんと実行して自分を律したりといった能力を見るものである[185〜186頁]。
と指摘しておられる。つまり、受験制度とは、ただがむしゃらに勉強する行動を強化するシステムではない。的確な情勢分析力、適性・能力把握、目的達成のための有効な手段の確立といったさまざまな判断能力を磨くシステムとしても機能しているという点を見落としてはならないと思う。

 なお適性ということに関して、毎日の記録(3/14)さんから以下のようなご意見をいただいた。
.....例えば、芸術の 場合、努力と成果は残念ながら、必ずしも比例しないので、芸術系学科の入試では、適性のある人が高い評価を得られるような選抜が必要なのではないかと(あるいは、適性のない人を受け入れない「優しさ」が必要なのではないかと)。 現在、問題になっている医学系学科の入試や、司法試験などについても、同様。おそらく、 文学にも、農学にも、工学にも、同様のことが言えるはず。もちろん、努力が 無価値であることはないので、結局は、努力と適性とをバランス良く評価する ことが必要なのだと思う。適性の有無に関らず、試験対策という一過性の努力さえすれば、合格してしまうような選抜方法は、一見、公平に見えて、個々が持つ違いを無視するという意味で、実は、ものすごく不公平なのではないか、と思う。
 少なくとも私がこれまで論じてきた入試制度というのは、決してセンター試験の合計点だけで一律に合格者を決めてしまおうというものではない。それぞれの大学が出題科目や出題内容を工夫し、多様化させれば、安易に推薦入試とかAO入試にはしらなくても、適性、個性、意欲(のプロセス)は十分に客観評価できるであろうということだ。芸術系や体育系の実技試験にはそれなりの公平性があると思う。適性は努力と独立して存在するものではない。努力機会を多様化することが適性を尊重した公平性を保障する唯一の道であると考えている。

 なお上記の中の医師の適性については、2月18日の日記で指摘したように、むしろ入学後の指導体制のあり方を考慮していく必要があるように思う。

この連載は、さらに続ける予定です