じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa



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ジュニア行動分析学のススメ

2000年1月17日〜
【思ったこと】
_00117(月)[心理]ジュニア行動分析学のススメ(1):「好子、嫌子」は「快、不快」ではない

 卒論提出まであと2週間となった。私のゼミでは、行動分析学的視点から日常生活の諸問題に取り組む卒論研究が多い。そのこと自体はまことに結構なのだが、いざ、データを集計、整理し考察する段階になってみると、「好子」、「嫌子」といった基本概念について初歩的な取り違えが起こりやすいことが判明した。大学で3〜4年にわたって行動分析学を学んでもなお取り違えが生じるということは、単に勉強不足として叱りつけるわけにはいかない。ほんらい、こういう言葉は、一般の人々が自分や自分をとりまく人々さらには社会全般を考えるために活用してほしい概念である。そこに混乱が起こるとすれば、それは概念規定自体に責任があると言わざるを得ない。

 そこで、この連載では、既成の行動分析学の用法をいったんご破算にしたうえで、その本質を変えないことを前提に、より簡素な概念再構成をはかることをめざしてみたい。この試みは、行動分析学の大改革をめざすというほど大それたものではない。亜流と言われるのも困る。あくまで、行動分析学の基本概念の理解を助けるための特別プログラムのようなものであると考えていただきたい。もちろん、それが非常にすぐれた概念構成になれば、neo radical behaviorism(新・徹底的行動主義)に発展できる可能性はもっているけれど....

 さて、行動分析学で最も頻繁に使われる概念の1つとして「好子(コウシ、positive reinforcerあるいは単にreinforcer)」と「嫌子(ケンシ、negative reinforcerあるいはaversive dondition)」がある【といってもこの訳語は『行動分析学入門』(杉山ほか、産業図書、1998年)で独自に採用された訳語。もともと、前者は「正の強化子」、後者は「負の強化子」と呼ばれていたものだが、ここでは新しい訳語のほうを仮に採用していくこととしたい】。

 行動分析学に対する誤解で一番多いのは、この「好子」や「嫌子」を生活体から独立して存在する「モノ」として固定してしまうことだ。しかし、好子は飴玉でも報酬でも賞賛でもない。上記の『行動分析学入門』によれば
行動の直後に出現すると、その行動の将来の生起頻度を上げる、刺激・出来事・条件
とされており、「行動の将来の生起頻度を上げる」という機能が定義に含まれていることに気づく。つまりどんなに高額の報酬を支払っても、それによって行動の維持・増加が観察されなければ、その報酬を好子と呼ぶわけにはいかない。「嫌子」も同様であり、例えば、授業中に騒いだ子供に「校庭一周」という「罰」を与えても騒ぐ行動が減らなければそれを「嫌子」と呼ぶわけにはいかない。

 このように「好子」や「嫌子」は、生活体の行動変化とセットになって定義される概念であるが、それらはあくまで「刺激・出来事・条件」であって、「喜び」、「満足感」、「達成感」、「安心感」や、「嫌悪」、「不満」、「失望」、「落胆」といった生活体側の「感情」反応を意味するものでは決してない。こうした「快」「不快」の概念は、快楽説(hedonism)という形で何度か心理学の世界にも登場してきたが、「快だから〜する」ということと「〜しているのは快だから」との区別を明瞭にすることが難しく、因果的説明としてはトートロジーに陥る恐れがある。

 では、なぜ長年行動分析学を学んできた卒論生でも取り違えが起こりやすいのだろう。どうやらそれは、「好子」「嫌子」という定義そのものが招いた混乱ではないかと最近思うようになった。「刺激・出来事・条件」という生活体から独立して定義、かつ操作できる事象と、生活体の行動変化を観察して初めて知ることのできる機能を1つの概念の定義に含めてしまったことが混乱の最大の原因ではないかということだ。そこで、次回以降、これらを完全に切り離す形で概念的枠組みを再構成したらどうなるか、という思考実験を試みてみたいと考えている。
【思ったこと】
_00118(火)[心理]ジュニア行動分析学のススメ(2):ある天体に出現した動物の最良の適応方略を考えると..

 昨日の日記の続き。きょうはまず、ある天体に、何種類かの動く生き物が居たとして、環境が変化する中でどう淘汰されていくかを考えてみることにしたい。

 ここで一口に環境の変化といっても
  1. まったくデタラメで次に何が起こるか予測できない変化に満ちている
  2. 特定の環境のもとで特定の動きをすれば、100%規則的な変化が環境側に起きる。
  3. 特定の環境のもとで特定の動きをすると、ある程度まで規則性のある変化が起きる。
という3通りが考えられる。このうち1.のケースでは、どういう動きをしようがしまいが、次に起こることが全くデタラメなのでさっぱり予想がつかない。おそらくそういう状況では、経験はもとより、論理も推論も何の役にも立たないので、知的生命が誕生する可能性も皆無に近いと考えられる。

 次に2番目のケースでは、環境は時計の針のように規則的に変化する。この場合、それぞれの変化に対応した最適な動きが一通りに決まっているので、何のバリエーションもいらない。もしこういう世界があったとしたら、昆虫のように、「刺激→反応」の本能的な仕組みを備えた生き物が最も繁栄するに違いないだろう。

 第3のケースでは、第2と同様に規則的な応答をするしくみもある程度は役に立つ。しかし、それに加えて、「結果をさぐりながら動く」という対処のできる動物こそがもっとも繁栄するに違いない。スキナーの強化や随伴性の概念も、おそらく、そうした進化のプロセスを念頭に置いたうえで定式化されていったものと思われる。

 行動随伴性の最も基本的な着想は、この地球上の動物が、環境に能動的に、かつ多様に働きかける性質をもって進化したものであると想定した上で、
  1. 有用な事象をもたらす働きかけは持続し、かつ増加する。
  2. 有用な事象を消滅させてしまう働きかけは、減少し、中止される。
  3. 有害な事象をもたらすような働きかけは、減少し、中止される。
  4. 有害な事象を取り除くような働きかけは持続し、かつ増加する。
という最適な適応方略をとったが故に子孫を残してきたと考え、これを行動随伴性の形で発展、整備したものであると考えられる。以上の思考実験から分かるように、動物の行動を説明するにあたって、「働きかけの自発」と「その効果」という概念を導入することはごく自然な流れであり、多くの人に受け入れ可能な着想であると見なすことができる。

 しかし、上記の「働きかけの効果」は第三者から見てもそう簡単に検証できるものではない。下等な動物に「効果検証装置」が備わっていると考えるのは現実的でない。さらに、有用とか有害の定義も曖昧なものになってしまう。じっさい、我々人間でも、ジンクスとか迷信行動と言われる現象があるように、本当は何の効果も無いしぐさを有効であるように見誤ってしまうことがあるし、取りすぎれば有害となるような糖分や脂肪分、お酒やタバコなどを摂取し続けてしまう。

 そこで考え出されたのが
働きかけ→直後の結果

という随伴性の考え方だ。但し、
  • この場合の「働きかけ」とは最初から効果が定まったものではない。少なくともそれが自発される当初においては、「何が起こるか分からない」という無目的・無定型なもの。直後に生じた変化の内容によって、増加することもあれば減少することもある。またより精緻化したり複雑に階層化したりする。
  • 「結果」というのも、働きかけから因果法則に基づいて必然的に生じた「結果」ではない。まったく偶然的に接近して生じた事象も「結果」として同じように作用する。随伴性の原語にあたる「contingency」には
    偶然。偶発した事件。
    という意味がこめられている点を忘れてはならない。

この連載は、さらに続ける予定です