じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa



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象牙の塔とアクションリサーチ【第一部】

2001年2月18日〜2001年2月27日




【思ったこと】
_10218(日)[心理]象牙の塔とアクション・リサーチ(1)

 卒論研究のコメントを連載していたために取り上げるタイミングを逸してしまったが、2/14の朝日新聞文化欄に“「世間」とズレた大学改革〜制度より学問の論議を”という主張が掲載されていた。執筆されたのは阿部謹也・共立女子大学長。阿部氏は一橋大学学長や国立大学協会会長を歴任された方でもあり、最近では各地で独立行政法人化に関する講演で全国各地を巡回されていると聞く。

 この記事の中で阿部氏は、
  • 高等教育の危機は少数の大学人には深刻な問題となっているが、一般の人々には対岸の火事程度にしか受けとめられていない。
  • 国民の大多数は国立大学の独立行政法人化についてほとんど関心を持っていない。
  • 人々は子弟の大学入学には関心があるが、その大学でどのような研究が営まれているかという点についてはほとんど関心がない。
というように論を進め[いずれも長谷川による要約]、国民の無関心である原因として、学問論と結びついた大学改革の議論が行われていない点を批判しておられた。では、なぜ国民は大学における学問に関心がないのか、これについて阿部氏は明治以降のわが国の学問のあり方を次のように再検討しておられる[いずれも長谷川による要約]。
  • 明治以降の近代化、すなわち欧米化政策の中で、文字と数字によって表現され、論 理を重んじるシステムが大学に取り入れられた一方、言葉と動作、義理人情と宴会などによって表現することが出来る歴史的・伝統的システムを、遅れたものとして無視しようとしてきた。
  • 学者達は自分自身が歴史的・伝統的システムの中で暮らしていることを無視して、あたかも近代化がすべての生活分野を覆っているかに錯覚し、ヨーロッパ伝来の学問をそのままわが国の大学において営んできた。これにより、国民の実際の生活世界である「世間」は学者達によって無視されてきた。その結果、大学で営まれている学問は国民の生活の実情から遠く、象牙の塔の営みと化してきたのである。

 近代化のシステムと歴史的・伝統的システムの不一致の事例として、阿部氏は、国会議員の、選挙区で使われる「世間」の言葉と近代化の論理が求められる国会での言葉の不一致を挙げておられた。しかし、せっかく学問のあり方を論議すべきところで、政治家の発言を引き合いに出されたのは場違いであり説得力に欠けるように思われた。紙面の都合や読者層を意識するとやむを得ないのかもしれないが、あくまで「学問と生活」に関係づけながら議論を進めてほしかった。

 もう1つ。象牙の塔が「言葉と動作、義理人情と宴会などによって表現されるは歴史的・伝統的システムをわが国の遅れとして位置づけ、無視しようとしてきた。」ことによってもたらされたと言えるかどうかは大いに疑問が残る。阿部氏が言及された2つのシステムは、意思決定や合意のシステムとしては明らかに異質ではあるものの、それらを対象とした研究の方法そのものを固定するものとは言い難い。少なくとも行動科学では、「言葉と動作、義理人情と宴会などによって表現する」こと自体を、「文字と数字によって表現され論理を重んじるシステム」によって分析、記述する試みが行われているからだ。

 「象牙の塔」の原因は、「近代化のシステムvs歴史的・伝統的システム」という対立の中に見出されるのだろうか。私はむしろ、人文社会科学系の研究者たちにとって、現実や実践場面と切り離された世界に籠もったほうが出世しやすい環境があったためと考えるべきではないかと考える。ここでは心理学の中の一定の範囲についてしか議論できないが、「象牙の塔」の原因は、研究の方法の選択の仕方、及び研究成果の評価の方法にあるのではないかと私は思う。

 この「象牙の塔」に関連して、広島大の柳瀬陽介氏がネット上で興味深い議論を展開しておられることを最近になって知った。次回(ただし不定期連載)は、その部分を引用させていただきながら、
  • 「科学」であらんとするためのジレンマ
  • 日常言語によって織り成される「現場」を対象とする立場
  • 批判的方法と自然科学的方法
  • アクション・リサーチ
などの問題を考えていきたいと思う。
【思ったこと】
_10219(月)[心理]象牙の塔とアクション・リサーチ(2)実験心理学のジレンマ

 今回から数回程度にわたって、広島大の柳瀬陽介氏の随想を引用させていただきながら、心理学の実験研究における「象牙の塔」問題を考えていきたいと思う。

 規則的更新だけが取り柄の私のWeb日記が、日々の思いつき、断片的知識の備忘録、一言居士的なコメントに終始しているのに対して、柳瀬氏の随筆は、緻密な論考の集積であり、読む人に有益な情報を提供している。こういうサイトを拝見すると、大学教員がネット上で公開すべきコンテンツは、「量ばかり多くて内容の無いWeb日記」よりも「量は少ないが質の高い随筆」であるべきかなどと思ってみたりもする。もっとも私のような駄文書きにとって今さら質の向上をめざすのは至難の業である。

 さて、時間の関係で、今回は、心理学の実験研究に関する柳瀬氏の論点を私なりに復習してみたいと思う。

 柳瀬氏は、第39回(2000年度)JACET(大学英語教育学会)全国大会(於:沖縄国際大学)で行われた「ワークショップ 外国語効果」の御発言の概要“「外国語効果」に関する英語教育の立場からの批判的考察(2000/11/1) ”の中で、高野陽太郎氏の「外国語効果」に関する論文を引き合いに出されながら、心理学における実験的研究の問題点を次のように論じて居られる。
高野さんは心理学の論文として「外国語効果」を論じていますが、私からしますと、心理学の論文は、厳密な定義と手続きのもとに心理学者の間で語られている場合は全く問題を引き起こさないものの、しばしば日常概念を扱うため、心理学者の言語ゲーム以外の日常の言語ゲームにしばしば越境してしまい問題を引き起こすように思われます。

高野さんの論文で言いますと例えば「思考(力)」という概念です。高野さんが論文で、この「思考(力)」を注意深く操作的に定義し、その論文を読む心理学者も、その操作的定義に敏感に読解してゆくのなら問題はないのでしょうが、「思考(力)」といった概念は日常言語でも多用されるため、高野さんの論文の結果は、高野さんの厳密な操作的定義を離れて、曖昧に拡張されて語られ、過剰な解釈を生み出してしまいかねません(実際にその懸念があるというのが私の実質的な主張です)。

言ってみるなら心理学はジレンマを抱えているように思えます。心理学は「科学」であらんとするためしばしば、(実は曖昧でしかない)日常の心理概念を、厳密に操作的に定義しなければなりません。しかし一方、心理学が日常行動を行なう人間の学であるためには、その厳密に定義された概念も、曖昧な日常言語の中に埋め込まれられなければなりません。曖昧な概念を厳密に定義し、そうして得られた結果をまた曖昧な諸概念の中に戻さなければならない----これが私の考える心理学のジレンマです。
 この種の問題は私自身も感じている。よくあるのは、因子分析だ。それぞれの因子に日常言語でも多用される概念でネイミングをしてしまい、それが考察の段階でいつのまにか説明概念に化けてしまったり、「曖昧に拡張されて語られ、過剰な解釈生み出してしま」う。かといって、厳密な定義の枠にとどまっていると日常生活については何も語れない。語ってもすべて論理の飛躍した例え話になってしまう。卒論研究や修論研究では特にこの点が問題となる。

 もう1つ、上述の「何とか力」について柳瀬氏は、“空虚概念としての「オリンピック能力」あるいは「コミュニケーション能力」(1999/7/13)”、“「コミュニケーション能力」に関する覚え書き(2001/1/30)”という興味深い議論を展開しておられる。 私自身が1/16の日記で書いた“「○○力」は流行り言葉?”、あるいは「万能な」創造性についての疑問には、柳瀬氏と共通した考え方が含まれているように思った。

 さて、柳瀬氏は同じ論考の後半部分で、科学としての心理学について、次のような疑問を呈しておられた。
.....複雑性、不確実性、不安定性、独自性、価値葛藤に満ちている現実の問題に関して、科学としての心理学は、なんらかの科学的な結論を出せるのだろうか、ひいては科学的な心理学は英語教育研究のモデルであるべきなのだろうか、.....
そして、チョムスキー(柳瀬氏の呼称にしたがえば「チョムスキーさん」)への引用の途中で、
日常的な意味での人間に関する研究を、自然科学ではない、歴史研究、法解釈、事例研究、アクション・リサーチ、(良質の)ジャーナリズムおよび評論といったものに代表される一連の批判的言説と認識し、その範囲内でできるだけ客観的で公正な議論を行なう方が、生産的であり、なにより学問的に正直な態度だと思います。
という私見を述べられ、最後に
英語教育研究は徒に自然科学であるふりをして「科学的手続き」に拘泥すべきではない。少なくとも他の種類の批判的な研究アプローチを「科学的手続きを取っていないから」という理由だけで、学会やジャーナルから排斥するべきではない。むしろ対象概念が一義的ではないのに「科学的手続き」を適用することの方が非科学的である。英語教育研究は、自然科学からは「自由に」、批判的な考察を進めるべきである。
としめくくっておられた。あくまで英語教育の立場から実験心理学の意義と限界を論じられたものであるとは言え、いま上にも引用させていただいたように、「日常的な意味での人間に関する研究」はすべて同じ議論の遡上に乗せられていると言ってよいだろう。そういう意味では、「ボクシング選手に関節技をかけるような真似をする」どころか、ボクシングの試合をリングの土台ごとひっくり返すぐらいの重要性をもった、心理学者に対する警告としても受け取れる。

 時間が無いので今回はここまでとさせていただくが、柳瀬氏の論考で1つだけ残念に思うのは、スキナーの著作が1つも引用されていないことだ。せめて『科学と人間行動』だけでも考察に含めていただければ、と願わざるを得ない。なお、心理学における実験的方法の意義と限界についての私の考えは、こちらにある。ご参照にしていただければ幸いです。
【思ったこと】
_10220(火)[心理]象牙の塔とアクション・リサーチ(3)「外国語効果」

 今回は、柳瀬氏が“「外国語効果」に関する英語教育の立場からの批判的考察(2000/11/1) ”の中でふれられている「外国語効果」について私なりの意見を述べたいと思う。

 ここでいう「外国語効果」とは、
不慣れな外国語を使っている最中は、その外国語を使うのが難しいだけでなく、思考力も一時的に低下する
というもの。残念ながら、私の手元には高野氏の論文が一編もなく、原典に即して意見を述べることができないが、一般論として次のことは言えるかと思う。
  1. 不慣れな外国語を使っている最中は、時として、思考力の一部が一時的に低下する場合がある
  2. “外国語を使うと、それに類した言語的な思考が邪魔されるだけではなく、言語的要因が殆どないいわば「純粋な」思考までもが常に邪魔される”ことは、実験研究からは立証できない。
 わかりやすく言えば、実験研究だけである法則(仮説)が立証されることは決してありえない、というのが私の主張だ。できるのは、ある法則(仮説)に合致する現象が少なくとも1つ存在すること、もしくはある法則(仮説)を覆すような現象が少なくとも1つ存在することを人工的に示すことだけである(他にもいくつかできることがあるが、議論の流れとは無関係になるので省かせていただく。詳しくはこちらをご参照いただきたい。有効性の検証ツールとしての実験的方法の意義については、アクションリサーチと関連づけながら後日詳しく述べる予定)。

 では、それらの事例を人工的に示すことにはどういう意義があるのだろうか。いちばんの効用は、我々が当たり前と思っている事柄を覆すこと、もっとくだけた言い方をするならば、「世間もしくは学界をビックリさせる」ことにあるのではないかと私は思う。

 例えば、
  1. 「イヌがお座りをする」という条件づけは日常生活では当たり前のこと。それを実験研究で示したからと言って誰も驚かない。
  2. イヌに「右」と号令をかけたら右に、「左」と号令をかけたら左に顔を向けるように条件づけし、第二段階では、「足」という号令をかけたら片足を上げるように条件づけしたとする。第三段階で、いきなり「右、足」と言った時にそのイヌが何の予備訓練もなしに右足を上げたとしたら、誰でもビックリするだろう。
 上記の2番目のビックリには「できるはずの無いことができた」という確率レベルでのビックリに加えて、「イヌにも左右の概念が理解できるのか」という理論レベルでのビックリがあるが、ここでは深く追求しない。私が言いたいのは、当たり前と思われている事柄が覆されることにはそれなりの情報的価値があるということだ。そして
  • いままで一度も観測されていない現象を人工的に作り出すこと
  • 常識概念や固定観念を覆す現象を見出すこと
は一般に「発見」と呼ばれ、
  • 理論や法則に基づく予測に反する現象を見出すこと
は一般に「反証」と呼ばれる。要するに、実験事実そのものは「発見」でも「反証」でもない。研究の文脈や日常茶飯事との関連の中でその意義づけが決まってくるのである。

 初めの問題に戻るが、もし我々が
不慣れな外国語を使っている最中でも、言語的要因が殆どない「純粋な」思考は決して低下しない。
という常識観念を持っているならば、「外国語効果」を示す実験事実は大きな発見となる。逆に、低下すると思っているならば、「ああそうですか」と思うだけのことだ。

 けっきょくのところ、「外国語効果」は、起こる場合もあるし起こらない場合もあると考えるべきだろう。重要なのは、もし起こるとしたらどういう文脈の中で起こるのか、どいういうタイプの思考行動については起こりうるものなのか、その効果の及ぶ範囲や程度を現場に即して調べ上げていくことである。「外国語で重要な交渉を行なう場合は、その外国語をある程度は話せる人でも、日本語と同じぐらい流暢に使いこなせるのでないかぎり、通訳をたてたほうが賢明であろう」という高野氏の一般向けの示唆の妥当性も、そういう枠組みの中で検討されるべき課題であろうと私は思う。

【思ったこと】
_10221(水)[心理]象牙の塔とアクション・リサーチ(4)柱と柱時計

 今回は、“「外国語効果」に関する英語教育の立場からの批判的考察(2000/11/1) ”の第二の論点:
.....複雑性、不確実性、不安定性、独自性、価値葛藤に満ちている現実の問題に関して、科学としての心理学は、なんらかの科学的な結論を出せるのだろうか、ひいては科学的な心理学は英語教育研究のモデルであるべきなのだろうか、.....
に取りかかることにしよう

 柳瀬氏の論点は1つの文で記述されているが、私には次のような複数の問題が含まれているように思われる。
  1. ここでいう「科学的な」とは何か?
  2. 現実の問題に対して科学的な方法が生産的な結論を引き出しにくいのは、対象にどういう特徴があるためなのだろうか?「複雑性」のためか、「不確実性」のためか、「不安定性」のためか、「独自性」のためか、「価値葛藤」のためか。それともそれらが複合しているためか?
  3. 「科学的な」心理学は英語教育に役立つか?
 柳瀬氏は論考の後半でチョムスキー(さん)の
  1. 「人間」や「言葉を話す」といった日常概念からは、何ら科学的な説明原理は出てこないだろう
  2. 「信念」「欲望」「意味」「音声」「単語」「意図」といった人間の思考や行動に関わる概念も自然科学の対象としては曖昧すぎる
といった論考も紹介されており、このことも問題として合わせて受けとめていきたいと思う。

 ここで、本来は“「科学的な」とは何か?”から考えていくべきかと思うが、これは非常に大きな問題である。チョムスキーに対比させるためにも、ぜひともスキナーの『Science and Human Behavior』を引き合いに出す必要があるのだが、これはとりあえず後回しにさせていただこう。今回は、「現実の問題に対して科学的な方法が生産的な結論を引き出しにくいのは、対象にどういう特徴があるためなのだろうか?」について考えてみたいと思う。また、当面は、「科学的な方法」を実験的方法に限定して論を進めることにしたい。



 さて、現実的な問題が実験的に分析しにくいのはなぜだろうか。すぐに思いつくのは
  1. 現実世界では、1つの現象に無限に近い数の要因が関与している。
  2. 生身の人間が関わっているため。人権はもとより、生活に悪影響を及ぼすような介入はできない。
  3. 介入に大きなコストがかかる。
 しかし、私はもっと本質的な障壁として、
  • 要因間の相互作用、相互依存がきわめて大きい。
  • 要因の中に、他の要因に能動的にかかわる存在がある。
という2点を挙げたいと思う。

 第一の点は、柱と柱時計の例え話から理解することができるだろう。すなわち、ある住居環境が人間にどのような影響を及ぼすかを実験的に検討することになったとしよう。そのさい、室内の柱時計がどういう影響を及ぼすかを検討するのであれば、柱時計をとりつけた実験条件と、柱時計を外した対照条件を比較すればそれで済む。ところが、同じ方法で、家屋の柱の影響を検討することはできない。対照条件を設定しようとして柱を外してしまったら家全体が倒壊してしまう。もはや1つの要因を実験的に操作したとは言えないのである。

 単に無限に近い数の要因が関与しているだけであるならば、それらは正規分布に従うノイズとして処理することもできるし、実験室環境を作って人工的に除去することもできる。しかし、相互に連携、依存するような要因はどんなに精密な実験装置があっても操作できない。これをどう扱うかが実験的分析、ひいては科学的方法を用いることの課題になるかと思う。

 第二の点。これは、「オペラント」や「随伴性」概念にかかわる問題となるのだが、またまた時間が無くなってしまった。次回以降にとりあげることにしたい。
【思ったこと】
_10222(木)[心理]象牙の塔とアクション・リサーチ(5)無生物の世界、無生物の世界

 昨日、現実的な問題が実験的に分析しにくいことの本質的な障壁として、
  • 要因間の相互作用、相互依存がきわめて大きい。
  • 要因の中に、他の要因に能動的にかかわる存在がある。
という2点を挙げた。今日は2番目について考えてみたいと思う。

 この問題は、大風呂敷を広げて言うならば、無生物だけで構成される世界と、生物が介在する世界でどこが違うのか、を考えることにつながる。無生物の世界としては、例えば、原始時代の地球環境、月や(おそらく)火星などの世界、天体の運行、噴火や地震、(地球温暖化や森林の影響を考えないレベルでの)気象現象などを挙げることができる。生物が介在する世界は、これらの世界とどこが違っているのだろうか。私が本質的に異なると思うのは:
  1. 生物はその本質として、外界に能動的に働きかける性質をもっている。植物であれば、いっぱんには、根を張ったり茎を伸ばし、養分や水分の吸収し、光合成を行う。動物の場合は、文字通り、「動く」という行動を通じて、食物の獲得、巣作り、交尾、子育てなどをする。
  2. 外界への働きかけの度合いは、その結果によって統制される。 好都合の結果が伴った場合、植物であれば、より大きく成長し、より多くの子孫を増やす。動物の場合、個体発生レベルでは当該の行動が強化・維持され、系統発生レベルでは繁殖につながる。いっぽう、不都合な結果が伴った場合、植物であれば枯れ衰える。動物の場合は、個体発生レベルでは当該の行動が弱化され、系統発生レベルでは死に絶えていく。
もちろん、これらはあくまで基本であって、時として偶然的な要因が強く働くこともあるし、また、生物はどうやら本質的に、多様性を前提とした共生を保ちながら適応していくという特徴を備えているようにも思えるが、ここでは深くは立ち入らない。

 大切なことは、そういう能動的な働きかけを把握するツールが必要であろうということだ。個体発生レベルの働きかけに関して、スキナーは能動的な働きかけを「オペラント」と呼び、結果によって行動が変わる仕組みを「随伴性」と呼んで、生物世界の現象を理解するための概念的な枠組みを提唱した。私は決してこれを無批判に受け入れるものではないが(現に、「阻止の随伴性」概念や、「『もの』ではなく『こと』として捉える視点」について議論をしている)、現時点では、これより優れた枠組みを見出すことができない。また、そういう枠組み無しで(個体レベル、あるいは集団についての)生物現象を論じても、生産的な結論は得難いのではないかと考え続けてきた。

 この考えを保持するならば、現実的な問題を分析する際の共通した切り口が見えてくる。それは、現実世界を構成する個々体がどういう働きかけを行い、その働きかけに対してどういう結果が伴っているかを把握するという視点である。
  • 現実に行われている政策は、ある意味では壮大な「随伴性を操作した実験」であるとも言える。農業、工業、サービス、消費などさまざまな活動に対して、行政機関は、補助金や減税や罰則などの結果を与えて潤滑さを保つよう努める。政策が効果を発揮しない時には、それを廃止したり、あらたな結果を付加するような施策を追加している。
  • 上に述べたような「オペラント」と「随伴性」という概念的枠組みは、複雑性、不確実性、不安定性、独自性、価値葛藤に満ちた現実的問題に対して生産的な結論を引き出す有効なツールになりうるし、すでに応用行動分析の分野で十分な実績を上げている。
と私は考えている。もともとの問題である“「科学的な」とは何か?”については、いずれ、不定期連載でスキナーの『科学と人間行動』を引用しつつ論じていく予定である。

 次回は、教育活動と実験的方法の関係について考えを進めていきたいと思う。
【思ったこと】
_10223(金)[心理]象牙の塔とアクション・リサーチ(6)実験的方法は日常生活場面から始まった

 今回は、教育活動と実験的方法の関係について考えを進めていきたいと思う。2/20の日記では、実験的方法について
実験研究だけである法則(仮説)が立証されることは決してありえない、というのが私の主張だ。できるのは、ある法則(仮説)に合致する現象が少なくとも1つ存在すること、もしくはある法則(仮説)を覆すような現象が少なくとも1つ存在することを人工的に示すことだけである
というように消極的な見方を示した。しかし、同時に、他にもいくつかできることがある点と、有効性の検証ツールとしての意義がある点を付け加えた。今回取り上げるのは、日常行動の検証ツールとしての役割についてである。

 そもそも、実験的方法はどのようにして成立したのだろうか、そして、(少なくとも心理学分野に限った場合)なぜ現実から遊離し、(少なくともある時期の、ある領域で)象牙の塔の中で「実験のための実験」が繰り返されるようになってきたのだろうか。

 結論を先に言えば、
ほんらい実験的方法というのは日常世界で何かを確かめるために使われてきた方法であり、学問的方法としての実験法はそれらを精緻化、体系化したにすぎない。
というのが私の考えだ。

 例えば、毎朝バスで通勤しているサラリーマンが、自転車と電車を組み合わせた別のルートを思いついたとする。その人が、曜日や時間帯を変えて2つの条件を比較したとしたら立派な実験的方法と言えよう。

 ここで重要なのは、単なる試行錯誤だけでは実験とは言えない点だ。こちらでも指摘したように、実験的方法では何らかのシステマティックな操作が行われなければならない。システマティックな操作を行うことには次のようなメリットがある。
  • 手間を省くことにつながる。
    これは、昨年1月に出されたセンター試験の英語問題で紹介されている「12個の玉のうち1個だけ他より重い玉がある。天秤を3回だけ使ってそれをいかにして見つけるか」というクイズを例にとって考えてみれば分かる。ただ順繰りに計ると、玉を2個ずつ選んで天秤に乗せていかなければならないので、運が悪い時には最大6回の操作を行わなければならない。システマティックな操作を行えばこれを3回に省力化することができるのである。

  • 正確な原因推測を可能にする。
    『クリティカルシンキング入門編』(ゼックミスタ・ジョンション著、宮元・道田・谷口・菊池訳、北大路書房、ISBN4-7628-2061-X、1996年)69頁からの翻案になるが、例えば
    ジンのソーダ割り、スコッチウィスキーのソーダ割り、バーボンのソーダ割を別々の日に飲んで、いずれも二日酔いになった。その人は、ソーダ水こそ二日酔いの原因であると結論をくだした。
    というエピソードがあったとする。その人が二日酔いの真の原因を確かめるには、少なくとも同じ分量のソーダ水を飲むという日を設定しなければならない。この「実験」操作によって、より正確な原因推測が可能となるのである。
 これらの例にも示されるように、もともと、実験的方法というのは、日常生活行動の有効性を検証するツールとして確立されたのではないだろうか。人類誕生以前から実験的方法なるものが確立していたわけではない。それゆえ、そもそも「実験的方法を日常生活場面に応用できるか」などというのは、物事の成り立ちを逆立ちして捉えるような議論であると言えよう。じつは、科学的な法則とか理論についても同じことが言える。機会を改めて論じることにするが、スキナーが『科学と人間行動』の第2章(13〜14頁)で行っている指摘はまことにもっともであると思う。
As Ernt Mach showed in tracing the history of the science of mechanics, the earliest laws of science were probably the rules used by craftsmen and artisans in training apprentices. The rules saved time because the experienced craftsman could teach an apprentice a variety of details in a single formula. By learning a rule the apprentice could deal with particular cases as they arose.

Machが機械についての科学を歴史的に辿りながら示したように、科学の最初の法則は職人や芸術家が徒弟の訓練に用いたルールであったようだ。ルールを用いると、経験を積んだ職人が徒弟にさまざまな細部について単一の公式で教えることができる。そのために時間の節約ができる。徒弟はルールを学ぶことによって、特定の事例について、技術が習得できたときのように対処することができる。[やや意訳。長谷川による]
 それでは、学問的方法としての実験法と、日常生活場面や実践場面における実験的方法はどこが違っているのだろうか。時間が無くなったので、とりあえず要点だけを予告しておくと、

  • 日常生活場面や実践場面で行われる実験では、再現性が保障されることが大切。ある条件、あるいは働きかけが包括的に再現できるならば、必ずしも要因に分解する必要はない。その文脈内で有効性が検証されれば十分。
  • 学問的方法としての実験法では、一般性が要求される。そのためには、実験操作の中のどの「成分」に一般性があるのか(=別の文脈でも同じ働きをするのか)を保証しなければならない。
以上を軸に、さらに考えを進めていきたいと思う。
【思ったこと】
_10224(土)[心理]象牙の塔とアクション・リサーチ(7)「名人」を雇うことの有効性

 昨日の日記で、学問的方法としての実験法と、日常生活場面や実践場面における実験的方法との違いについて、次のような考えを述べた。

  • 日常生活場面や実践場面で行われる実験では、再現性が保障されることが大切。ある条件、あるいは働きかけが包括的に再現できるならば、必ずしも要因に分解する必要はない。その文脈内で有効性が検証されれば十分。
  • 学問的方法としての実験法では、一般性が要求される。そのためには、実験操作の中のどの「成分」に一般性があるのか(=別の文脈でも同じ働きをするのか)を保証しなければならない。
 ここで、包括的に再現できるとはどういうことなのか、次のような仮想の事例を挙げながらもう少し考えてみることにしよう。
ある男の子がちっとも勉強しないので、2学期から女子学生Aさんを家庭教師に雇った。その後めきめきと成績が上がり自習時間も増えた。
 この事例では、家庭教師を雇用した依存して望ましい変化が見られているので、とりあえず有効性が確認されたと言える。もっとも、単に2学期になって涼しくなってきたことと、日が短くなって外で遊ぶ時間が減ったために勉強をするようになったのかもしれない。もし、上記に加えて、
その後Aさんは交通事故に遭い2カ月ほど休むことになった。その2カ月の間、子どもの成績や自習時間は一時的に停滞したが、Aさんが再び復帰すると元通りのペースで勉強に取り組むようになった。
という情報があれば、家庭教師Aを雇用することの有効性がかなりの確からしさで確認されたことになる。じっさい、条件の交替に任意性が無いという欠陥を除けば、これは単一被験体法の中の「A-B-A-Bデザイン」に近い実験手続で有効性を確認したと言えないこともない。

 では、上記の事例は研究報告になりうるだろうか。否である。なぜならば、上記の例では、家庭教師Aさんが、どういう教育を行ったのかが何も示されていないからである。
  • Aさんが自作した教材が有効であったのか
  • 自習計画の指導が有効であったのか
  • 何を誉めるかが的確であったのか
  • 誉める方法が上手だったのか
  • それとも単に、その男の子がAさんに恋心を懐いていて一生懸命自習をしたためなのか
上記の事例ではこのうちのどれが当てはまり(←複数かもしれない)、どれが当てはまらないのか、何も実証されていない。Aさんと男の子という「関係」の枠外の世界に向けて一般性のある情報が何も伝えられないというのが、研究報告とは呼べない本質的な理由である。

 とはいえ、この男の子の世界ではAさんの「有効性」は確認された。さらに、もしAさんが、同じぐらいの年齢の別の男の子の家庭教師を引き受けた場合、同じように効果を上げる可能性はかなり高いとも言える。対象が類似していればいるほど、「再現性」を期待できるからである。家庭教師に限らず、医者や弁護士、カウンセラーなどでも同じことだが、評判の高い「名人」にお願いするほうが有効性が期待されるという経験的知識にはそれなりの根拠があるのだ。

 よく知られている個体間の実験計画では、実験群や対照群の平均値を比較して一般的な効果しか検討されない。その限りにおいては上記のような、固有の対象だけで成り立つ包括的な有効性は決して実証されない。しかし、実験法を単一被験体法まで拡張してみると話は別である。固有の現実場面では実験的方法は十分に役立つと考えられる。
【思ったこと】
_10225(日)[心理]象牙の塔とアクション・リサーチ(8)ちょっと変えてみること、ちょっと止めてみることの意味

 2/23の日記と2/24の日記を通じて、次の点を指摘した。
  • 日常生活場面で、今までと違う何かを始めてみるということが、ごく初歩的な意味での実験操作にあたっている。
  • もともと、実験的方法というのは、日常生活行動の有効性を検証するツールとして確立されたのではないだろうか。「実験的方法を日常生活場面に応用できるか」などというのは、物事の成り立ちを逆立ちして捉えるような議論である。
  • 日常生活場面における実験では一般性のある情報は見出しにくい。しかし再現性が保証されるのであれば、固有の枠内で、ある介入についての包括的な有効性を検証することができる。
 これに限らず、「ちょっとやってみる」、「ちょっと変えてみる」、「ちょっと止めてみる」ことは、現状を点検する有効なツールである。実験という自覚があろうと無かろうと、日常生活場面で我々はすでにそれを使っているのだ。例えば
  • 海外旅行に行くというのは、ご近所や職場というしがらみを一時的に除去する実験操作である。
  • 大学卒業後、フリーターになるというのも、自分に本当に向いた仕事を探すための実験操作であるとも言える。
  • 一年間の単身赴任生活をすることは、家族や夫婦関係を点検する実験操作になりうる。
  • 会社から一年間のボランティア休暇をもらうということは、会社という就労環境を点検する実験操作である。
 上記のようなケースは、しばしば「自分をみつめる機会」、「自分探しの旅」などと呼ばれることがあるが、本当のところは、現状とは異なる環境に身をさらすことで、生活環境が自分の行動にどういう影響を与えていたのかを包括的に点検できるからこそ、自分が見つかった気分になるのである。



 ところで、2/24の日記でとりあげた家庭教師を雇用する話には「Aさんが交通事故に遭い2カ月ほど休むことになった」という部分、つまり、介入が中断されるという条件が入っていた。その時にもふれたように、これは条件の交替に任意性が無いという欠陥を除けば、単一被験体法の中の「A-B-A-Bデザイン」という実験手続に一致している。具体的には、「家庭教師を雇わない」という初期の状態(A1)、「家庭教師を雇った状態」(B1)、「家庭教師が一時的に来られなくなった状態」(A2)、「家庭教師が再び来られるようになった状態」(B2)というように、「A」というベースライン条件と「B」という実験条件が交替している。このうちのA2という第二ベースライン条件には、改善効果が単純な時間経過あるいは全くの偶然によるものでないことを検証する効果がある。A2条件において一時的に改善が停滞するか、もしくは望ましくない方向に一定程度後退するという事実が確認されれば、それだけ偶然変化と取り違えるリスクを減らすことができる。

 しかし、いったん改善が進んだのに、なぜ後退をさせてまで「A2」条件を挿入しなければならないのか、学問的方法としての実験ならともかく、日常生活場面や実践場面で包括的な有効性を確認するだけであるなら、不要ではないかという議論も出てくる。

 実際のところ、例えば
  • この大学が適しているかどうかを実験的に確かめるために入学し、退学してみる
  • この会社で仕事することが最適かどうかを実験的に確かめるために入社し、退職してみる
  • 独身生活が最良の人生であるかどうかを実験的に確かめるために結婚し、離婚してみる
というのは理論的には可能であるが、人生が短いことと周囲に及ぼす迷惑を考えると現実には実行困難であるし、無理にすべきでもない。また、入学や入社や結婚が当初は不本意で不適合のものであっても、そこでの環境や関わり方を変えることで、全く異質な新条件を創造することもできる。このあたりが、操作要因を安定的、不変のものとして捉える実験室実験と大きく異なる点であると言えよう。

 次回は、包括的な有効性と分析の意味の関係、教育活動と実験的方法の関係についてさらに話を進めていく予定。
【思ったこと】
_10226(月)[心理]象牙の塔とアクション・リサーチ(9)分析することの意味

 今回は、包括的な有効性と分析の意味の関係について考えてみたいと思う。

 ここでいう「包括的」とは、例えば、「Aさんを家庭教師に雇う」ことが男の子の教育にとってプラスになるかどうかというような議論をすることを言う。2/25の日記で述べたように、日常生活場面における「実験的な試み」を通じて、包括的な有効性はかなりの程度で検証できる。しかし、2/24の日記で述べたように、それだけでは、
  • Aさんが自作した教材が有効であったのか
  • 自習計画の指導が有効であったのか
  • 何を誉めるかが的確であったのか
  • 誉める方法が上手だったのか
  • それとも単に、その男の子がAさんに恋心を懐いていて一生懸命自習をしたためなのか
といった可能性のうちのどれが当てはまり(←複数かもしれない)、どれが当てはまらないのかは、何も実証されない。また、Aさんと男の子という「関係」の枠外の世界に向けて一般性のある情報が何も伝えられていないので、研究報告とは呼ぶわけにはいかない。

 では、研究を目的としないならば立ち入って「分析」する必要はないのだろうか。「うまくいっているならそれでエエじゃないか」と言いきれるのだろうか。

 これはおそらく、問題が何によって要請されているか、検討対象にどういう性質があるかによって変わってくる。一概に必要かどうかは判断できないと思う。

 例えば、Aさんが男の子の受験を最後まで面倒をみてくれる状況にあるならば、「うまくいっているならそれでエエじゃないか」という議論も成り立つだろう。ところがもし、男の子が中2になった時にAさんが卒業・就職して家庭教師を辞めなければならなくなることが確定しているとするならば、分析的な検討はどうしても必要になってくる。すなわち、上記を分析的に検討することにより「Aさんが自作した教材が有効であった」と確認された場合には、後任のBさんにも同じような教材を用意してもらうように依頼できる。同様に「自習計画の指導が有効であった」と確認された場合は、Bさんには、教材に手間をかけるよりも、子どもが計画的に自習できるように時間配分を指導してもらったほうが勉強が進むはずだ。

 このほか、Aさんの雇用が確保されている場合でも、分析をすることでさらに有効性を高められる可能性がある。上記で言えば、Aさんの教え方の無駄な部分を取り除き、有効な部分を増やすことができるし、万が一、中途で困難な事態が生まれた時にも、指導がうまくいかなくなった原因を速やかに把握することができる。

 今回は家庭教師雇用を例としたが、同じことは、薬の投与や心理療法など、あらゆる場面にあてはめることができる。
  • 5種類の薬を飲んで病気が回復に向かったとする。「治ったからエエじゃないか」ではなく、どの薬(あるいはその複合)が有効であったかを検証しておけば、次回、同じ病気にかかった時にも迅速に対処できるし、無駄な薬を飲み続けなくて済む。
  • ある心理療法を受けて症状が改善されたとする。それでメデタシメデタシとも言えるが、その有効性が療法の特色にあったのか、療法を実施したセラピストの個人的な魅力や名人芸にあったのかを分析しておけば、次回、同じ症状が出た時にどう対応すればよいのか、迅速に対応できる。
 このように、要因を細かく分けて分析的に検討することにはそれなりの応用的な意義がある。問題は、どのような切り口で分析に取り組むかということだろう。行動分析はそれを「課題分析」と「行動随伴性」に求める。それ以外のアプローチをとる場合でも何らかの概念的枠組みと分析ツールを用意しておくことがぜひとも求められる。分析をすること自体は、決して現実離れの原因にはならない。理論のための実験、実験のための実験にこだわる姿勢が現実離れを引き起こすのである。

 次回は、とりあえず第一部の最終回として、教育活動と実験的方法の関係について話を進めていく予定。
【思ったこと】
_10227(火)[心理]象牙の塔とアクション・リサーチ(10)現場に関わること

 今回のテーマについては不定期連載を予定していたが、めずらしく10日連続で書き続けることになった。他に取り上げたい話題もいくつかあるので、実質月末であることと、10回目というキリのよい回数になったことを口実に、ひとまず第一部として完結させておこうと思う。第一部の最後は、教育実践場面について考えてみたいと思う。

 基礎心理学分野における実験法と、教育実践場面における実験的方法とはどこが違っているのだろうか。倫理面やバランス面など考えるべきことはいろいろあるが、私は、一番の違いは、研究者(あるいは実践者)と研究対象(あるいは教育対象)との関わり方にあるのではないかと思う。

 基礎心理学分野における実験では、実験者は、実験場面を隔離した状況のもとで研究を進める。手続さえ守るならば、実験者を取り替えても結果は変わらない。実験者自身の思い入れが影響を与えるような「実験者効果」は厳しく排除されなければならない。例えば、ネズミを実験用走路に入れる時に、正刺激の条件ではぎゅっと掴み負刺激の時は柔らかく掴むようなことがあれば、ネズミが受ける圧迫感自体が手がかりになってしまう。

 教育場面でも同じようなことはよく言われる。例えば、教師が生徒に対して何らかの期待を抱くことによって、生徒の成績が教師の期待する方向へと変化する現象はピグマリオン効果として知られている。

 しかしここで問題となるのは、実験者効果を排除することではない。もし教師の期待効果が成績向上に有効であるとするならば、それ自体も活用することのほうが意味がある。そのためには、「期待をもつ」ことが生徒との具体的な関わりの中でどういう行動として現れてくるのかを分析する必要があるが、24日の日記に記したように、単に、教師個人の教え方の包括的な有効性を検討するだけであるならば、とりあえずは曖昧なままでもよい。大いに期待をもって授業を進めればよいのである。



 ところで、実験者効果が排除されるべき実験においても、実験の成否が実験者の研究行動に影響を与えるというのは大いにあることだ。ネズミを被験体とした例をもう1つだけ挙げてみると、オペラント条件づけの実験でよく使われる装置に「スキナー箱」というのがある。箱の中にバーが取り付けられており、ネズミがこれを押すと餌ペレットが機械的に与えられる仕組みになっている。実験者は、バーの押し方と餌の与え方の関係をいろいろに変化させたり手がかりを変えたりしてデータを収集する。このスキナー箱に関して、私が学生の頃に読んだ入門書(『学習』、メドニック著 八木訳、岩波書店、1966年)に面白いマンガが引用されていた(引用元はコロンビア大学のJesterとなっている)。そこでは、スキナー箱に入れられた2匹のネズミが次のような会話をしていた。
「おい、この男を条件づけてやったぞ! 僕がこのバーを押すたびにあいつは餌をひとかけおとしてよこすんだ。」
このマンガは、「実験者がネズミを条件づけているように見えるが、じつはネズミが実験者を条件づけているのだ」というジョークとして他の本にもいろいろ紹介されている。もちろん、バーの押し方と餌の与え方の関係をいろいろに変化させる権限は実験者の側にあるのだから、実験者と被験体との関係が逆転することはあり得ない。しかし、ここで重要なのは、ネズミがバーを押すことは、やはり実験者の研究行動を強化しているという点にある。そもそもどのネズミも一度もバーを押さなかったら、実験者はネズミを被験体とした実験など続けないはずである。自分の努力に応えてくれるような結果がそこそこ得られるからこそ研究を続けるのである。

 このほか、1998年11月28日の日記で取り上げた「少年野球の監督の賞賛や叱責」の例も、教えるという行動が教えられる側からの結果によって変容する可能性を示唆している。

 要するに、教育実践場面では、「現場を隔離した地点から客観的に教授法の有効性を検証する」という立場とは別に、「自分が現場にどう関わるか、現場からのフィードバックによって自分自身の教育研究活動がどう変わっていくのか」という別の立場を考慮に入れる必要があるということだ。後者は、自分の行動を点検するという点でクリティカルシンキングの視点が要求されるし、その行動の望ましい部分をどう伸ばしどう維持するかというパフォーマンスマネジメントの技法も求められる。今後はこのあたりを探っていきたいと思う。

 さて、最初にも予告したように、連載の第一部はこれにて終了。今後はしばらく、英語教育についての種々の立場を素人なりにコメントしたり、『現場心理学の発想』(やまだようこ編, 1997, 新曜社)などの心理学の関連書をコメントしたり、「スキナーの『科学と人間行動』を読む」という連載を始めつつ、英語教育全般の問題や、タイトルに含まれていたアクションリサーチやについても引き続き不定期で考えを述べていく予定である。



この連載は象牙の塔と現場心理学に続きます。