じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa



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象牙の塔と現場心理学

2001年3月4日〜


この連載は象牙の塔とアクションリサーチ【第一部】の続きです。

【思ったこと】
_10304(日)[心理]象牙の塔と現場心理学(1)「現場」より「現野」のほうがよかったかも

 2月に連載した『象牙の塔とアクション・リサーチ』の第二部として、『現場心理学の発想』(やまだようこ編、 1997、 新曜社、ISBN4-7885-0589-4)をネタ本に「現場」について考えてみたいと思う(あくまで不定期連載の予定)。

 今回はプロローグとして「現場心理学」とはどういうものか、私なりの位置づけをしておきたいと思う。

 さて、初っ端からいきなりケチをつけて申し訳ないのだが、「現場心理学」というネーミングには少し無理があったのでは、という気がする。この本を開いてみればすぐに気がつくように、この本では、「現場」という言葉に原則としてすべて「フィールド」というカタカナ・ルビがふられている。その意図は、
この本で私は,さらに「現場」というカタカナ・ルビつきの用語を使っているので,それにさらに英語のfieldの意味も重ねあわせている。この一語だけで二重言語どころか,多重言語の発想を同時に併用しているわけである。[やまだ、p.19]
というところにあるらしいが、「ルビつき」の効用は期待通りの成果を上げているのだろうか。
  • 何はともあれ、日本語にない読み方を強いることには抵抗を感じる。
  • ネット上では「ルビつき」の表記は困難。
  • 音声で伝える時には「げんば」もしくは「フィールド」、いずれかの発音しかできない。
  • けっきょくは、日常用語としての「現場」が独り歩きしてしまう。
という恐れはないだろうか。ではこれに代わるどういう表記があるか。
  • 『<子ども>のための哲学』(講談社現代新書、1301)の著者の永井均氏のように、特別の意味をもたせる言葉を“< >”でくくる。ここでは<現場>というように使う。
  • もう1つは、新しい概念を表す言葉を作ってしまうこと。
 もし、2番目を採択するとしたら、例えば「現心理学」なんていうのはどうだろうか。

 とはいえ、私が発案者に無断で造語するわけにもいかない。ここはとりあえず、ルビなしで「現場心理学」と表記し、特別に断らない限りは、フィールドという英語的意味を含むものとして今後の議論をすすめていくことにしたい。

 さて、前置きが長くなってしまったが、ここでいう現場とは何か? やまだ氏によれば、
現場とは「複雑多岐の要因が連関する全体的・統合的場」と定義される。これは研究の対象となる現象と研究の行われる場の特徴を象徴した用語であり,実際に研究の行われる場所そのものを指すのではない。極端にいえば実験室の中にも現場(フィールド)は存在するし,逆に,家庭や幼稚園など日常語で現場(げんば)といわれる場所で研究をしても,「単純な要因について分析する場」であれば実験室である。またこれは相対的区分であり,あらゆる中間的現場が存在する。[やまだ、p.167]
というのが定義になっているようだ。もう1つ、現場の重要な特徴を引用しておこう。
現場は,どこにでもあると言っても過言ではない。近所の本屋も喫茶店も魚屋もスーパーマーケットも現場となるし,街角に机を構えている占い屋や宗教の信者たちが集まる場所も現場となる。大学のキャンパスも現場となるし,それこそ心理学実験室も現場となる。自分の家族が暮らす家の中も現場となるし,極端には自分の身体そのものが現場となる。[伊藤哲司、p.8]
 伊藤氏は、「極端には自分の身体そのものが現場となる」という事例として、病気のために動かなくなっていく自分の身体を現場として人類学的に考察した『ポディ・サイレント』(ロバート・F・マーフィー、1992、新宿書房)を挙げている。このあたり、日常用語としての「現場」とはかなり異なっている。やはり「現野」とすべきではなかったかなあ。

 次回は、やまだ氏の論考を引用しながら、もう少し細かく、「現場心理学」の特徴づけを行っていく予定。
【思ったこと】
_10305(月)[心理]象牙の塔と現場心理学(2)「現場」とは何か

 >昨日の日記の続き。『現場心理学の発想』(やまだようこ編、 1997、 新曜社、ISBN4-7885-0589-4)をネタ本とした連載の2回目。今回は「現場(フィールド)心理学」について、もう少し細かく特徴を探っていきたいと思う。

 まず、この本は全部で10章から構成されている。まえがきによれば、10章は、第1部の「ふれてみよう現場心理学」、第2部の「多重を生きる現場心理学」、第3部の「かかわりながら知る現場心理学」という三部構成になっているが、現場心理学の発想の原典を知るためには、むしろ最後の10章から読み始めたほうが分かりやすいのではないかと思う。じつは第10章は、章末にも記されているように、1986年3月刊行の『愛知淑徳短期大学研究紀要25,31-51』に収録された、やまだ氏の論文の再掲載である。「当時は,心理学においてこのような方法論の議論を掲載する場がなかったので,やむをえず紀要論文にした時代情況があった」という。まさにepoch-making的な価値のある論文であると言えよう。

 さて、どのような学問でも、その意義や限界を問われた時には
  1. どういう問題意識に基づいて始められたものなのか。
  2. 何を対象としているのか。
  3. どういう方法を用いようとしているのか。
  4. それに取り組むことでどのような成果が期待されるのか。
というように分けて考えていく必要がある。仮に「現場心理学」を批判する場合でも、対象のとらえ方に問題があるのか、用いる分析方法に問題があるのか、といった問題ははっきり区別しておかなければならない。

 それでは、現場心理学は対象をどのように捉えようとしているのだろうか。私は次の3点が特に重要ではないかと思う。
  • 人工的な操作を加えて観察するか,ありのままの自然を観察するかの問題は,実験法と観察法の区分(大山,1973)にはなるが,これは現場の特徴を示す区分とは区別すべきであろう。つまり現場という概念は研究の行われる現象の特徴を記述する用語として限定し,方法論とは独立して考えた方がよいと思われる。したがって,「ありのまま,制御を加えない,自然」などは現場の本質的特徴ではない。[やまだ、p.164〜165]
  • 現場研究とは,日常的感覚でわかりやすい研究をするのだというわけではない。.....実感や常識で理解できるかどうかは法則の正しさを証明する基準にはならない。現場研究はわかりやすい,実感のある,日常感覚の研究をめざすのだと誤解してはならない。[やまだ、p.166〜167]
  • 現場とは「複雑多岐の要因が連関する全体的・統合的場」と定義される。これは研究の対象となる現象と研究の行われる場の特徴を象徴した用語であり,実際に研究の行われる場所そのものを指すのではない。[やまだ、p.167] ★★
 以上の引用から読みとれるように、「現場心理学」は「現場」を定義するにあたって最初から研究方法を固定していない。この点は、166頁の表3に簡潔にまとめられている。
  • 現場のもつ本質的特徴(現場を定義するための必要条件)
    • 全体的・統合的(複合的システムとして機能するので,要素化や単純な変数による分析が困難である)
    • 何が必要かわからない(要因が複雑に連関していて,アプローチすべき要因が不明である。問題を発見したり,必要な要因を探しだすこと自体が課題になる)
  • 現場のもつ副次的特徴(現場を定義するための副次的条件)
    • 一回的・個性的(現場は一回的・個性的であることが多く,その性質を生かす研究をすべきだが,広い意味で反復可能な現象として扱うこともできる)
    • 自然・ありのまま・統御がきかない(現場は自然で統御がきかないことが多いが,人工的統御を加えることもできる)
  • 現場ヘアプローチする方法論(現場を定義するための必要条件ではない)
    • 個性記述的(←→法則定立的),仮説生成的(←→仮説検証的),定性的(←→定量的)アプローチが有効であり,参与観察や聞き取り調査が多く使われるが,それに限らず現場実験やサーベイなど多様な方法が適用できる。
 「現場心理学」というと、とかく、個性記述的、仮説生成的で、参与観察や聞き取り調査を行う研究であるとの印象を受けてしまうが、以上の引用から示されるように、それらは、現場を定義するにあたっての必要条件には含まれていない点に留意しておく必要がある。

 以上、かなりの分量の引用を続けてきたが、ここで私自身の素朴な疑問をいくつか挙げておきたいと思う。
  • 「現場」は方法論と独立して定義されると記されているが、167頁の部分には次のようなくだりがある。
    【上述の★★からの続き】極端にいえば実験室の中にも現場(フィールド)は存在するし,逆に,家庭や幼稚園など日常語で現場(げんば)といわれる場所で研究をしても,「単純な要因について分析する場」であれば実験室である。またこれは相対的区分であり,あらゆる中間的現場が存在する。
    ここだけを読むと、「現場(フィールド)」は、「単純な要因について分析する場」を除く場として定義されているように見える。しかし、「単純な要因について分析」というのは方法論への言及していることにほかならない。方法論と独立して定義するという前提に矛盾するのではないか。
  • ある現象が「複雑多岐の要因が連関する全体的・統合的場」であると言明するためには、要因が先に定義されていなければならない。要因が何だか分からない段階では、それらが「複雑多岐」かどうかも「連関」しているかどうかさも実証できない。研究の出発点で判断しなければならない基準に、研究を進めなければ解明できない要因が含まれていると言えないだろうか。
  • ひとくちに「複雑多岐の要因」と言っても、いろいろなレベルがある。包括的に把握できる概念もあるし、分析のレベルでいくらでも細かく分けることもできる。
    • 例えば、虹という現象は、包括的なレベルでは、「○○地方で何回観測された」というように記録することができるし、その光学的なメカニズムも解明されている。しかし、虹が生じる際の空中の水滴の分布や太陽光線の角度は複雑に連関している。
    • 将棋の駒も同様。将棋盤上の個々の駒の動かし方はきわめて単純なルールで定められているが、それぞれの駒がどのように連関して攻撃や守備に貢献しているのかということはきわめて複雑であり高性能のコンピュータでもなおフォローしきれないほどである。
 いま挙げた例はあくまで思いつき程度のものであり全く筋違いかもしれないが、疑問として提示した内容自体は分かっていただけるのではないかと思う。

 余談だが、これまでこの日記で、現象を「モノ」的に分析するか、「コト」的に捉えるかという話題を何度か取り上げてきた(例えば2000年の11/20の日記)。その区分で言うならば、この本で取り上げられている「現場(フィールド)」という概念は、限りなく「コト」に近いように思われる。とすると、あるいは、「現場(フィールド)」を記述する際には、日本語が最も適した言語であるという可能性も出てくる。
【思ったこと】
_10329(木)[心理]象牙の塔と現場心理学(3)南風原・市川・下山編『心理学研究法入門』(1)

 3/5の日記の続き。『現場心理学の発想』(やまだようこ編、 1997、 新曜社、ISBN4-7885-0589-4)をネタ本として連載を開始したところであったが、他の話題で脱線しているうちに、あっという間に3週間以上が過ぎてしまった。

 九州旅行中に、上掲の本や、その関連書である『心理学論の誕生:「心理学」のフィールドワーク』(サトウタツヤ・渡邊芳之・尾見康博、2000、北大路書房、ISBN4-7628-2187-X) をじっくり読み直そうかと思っていたところ、出発の前日に東大出版会から『心理学研究法入門:調査・実験から実践まで』(南風原朝和・市川伸一・下山晴彦、2001、ISBN4-13-012035-2)という出来たてホヤホヤの本の献本があった。下山氏は『現場心理学の発想』の分担執筆者のお一人でもあり、また、南風原(はえばら)氏や市川氏とは、日本心理学会のワークショップ企画でご一緒させていただいたことがある。目を通してからでないと連載を続けられなくなってしまった。

 そこで、順序が前後してしまうが、今回は、『心理学研究法入門』にざっと目を通した感想を先に述べたいと思う。まずこの本の読者対象であるが、まえがきによれば、
  • 卒業研究などで初めて心理学の研究に取り組むことになる学部学生
  • 研究者として本格的に心理学の研究に携わっていこうという大学院生
と記されている。解説書という性格から、上掲の『現場心理学の発想』や『心理学論の誕生』にあるような「本音」や「裏話」は記されていない。私個人としては、この解説書で学ばれる方は、ぜひ他の2冊を副読本として揃えておかれることをオススメしたい。

 さて、心理学研究法というと、これまでは、「実験法」、「観察法」、「質問紙調査法」、「面接法」、それに統計解析というように、最初から「方法ありき」、もっぱら技法を伝授するという解説書が多かったように思う。記述内容への長谷川個人の賛否は別として、とにかく、「心理学の研究とは何か」(第1章)という根本問題や、「教育・発達における実践研究」(第6章)、「臨床における実践研究」(第7章)というように、現場との関わりに配慮した内容構成になっている点が高く評価できる。このほか、行動分析でよく用いられる「単一被験体法」が「準実験と単一事例実験」(第5章)という章の中で解説されている点も、古典的な概説書には見られない特徴と言えよう。

 この本の執筆者は、おおむね東大大学院教育学研究科の同一講座の教員であるが、「質的調査−−観察・面接・フィールドワーク」(第2章)の執筆者に南博文氏が加わっている点が注目される。南氏と言えば、『現場心理学の発想』の執筆陣が集まるきっかけをつくった方(同書の187頁参照)でもある。また、上にも述べたように、「臨床における実践研究」(第7章)の執筆者の下山晴彦氏は『現場心理学の発想』のほうでたっぷりと?本音を語っておられる。すべての著者が戦後生まれであること、アクティブに研究・著作活動を展開しておられる方が多いことを考えると、本書が若手の心理学徒に与える影響はますます大きくなってくるものと推察される。

 以上主として誉め言葉を並べさせていただいたが、個別の章については、疑問やかなりの異論を述べてみたいところがある。次回に続く。
【思ったこと】
_10401(日)[心理]象牙の塔と現場心理学(4)南風原・市川・下山編『心理学研究法入門』(2)心理学の研究とは何か

 3/29の日記の続き。今回は『心理学研究法入門:調査・実験から実践まで』(南風原朝和・市川伸一・下山晴彦、2001、ISBN4-13-012035-2)の中の「第1章 心理学の研究とは何か」(市川伸一氏)について感想を述べたいと思う。なお、便宜的に、繰り返しコメントする予定の引用部については“【 】”というカッコつきの番号を文頭に付すことにしたい。

 さて、この章では、前書きにあたる部分で、心理学の研究を実質上次のように定義している。

【1-1】心理学の研究とは、心理現象についての日常的な認識を越えようとする営みである。

 この定義は、我々が分かっているつもりになっている現象や、ステレオタイプな見方を形成しがちな現象について、日常的な認識を越える何らかの検討を行うことを意味しているものと思われる。もっとも論理的には、この文は

超能力の研究とは、超能力現象についての日常的な認識を越えようとする営みである

と言っているのと大差ない。つまり、この定義それ自体は、心理学の研究の範囲を何一つ規定していないし、それを研究することの意義づけもなされていない。それゆえ、仮に超能力が心理学の研究分野に含まれると信じている人が居た場合、定義に基づいて「あなたの研究していることは心理学ではない」と断言することはできない。上記の下線部はどのような言葉にも置き換えられるという点で、少々難点があるようだ。しかも、この定義が成り立つためには、あらかじめ「日常的な認識」が存在していなければならない。脳や神経を直接対象とするような分野では「日常的な認識」が皆無に近いという場合もありうることに留意しておく必要がある。

 次に第1章の本文は
  1. 「こころ」についての知識
  2. 良い研究とは何か
  3. 心理学の研究の特徴とその過程
  4. 研究に向けての学習
という4節から構成されている。

 このうちの第1節では上記の心理学の定義の問題と同様、初めから「こころ」ありきとして出発し、後半部では「無意識」や「前意識」なども厳密な定義無しに使われている。研究の出発点ではそれでよしとすべきかもしれないが、もう少し別の定義は無かったのだろうか。私ならばおそらく、

心理学の研究とは、個人または集団が互いにどのように影響を及ぼし合うか、外界にどのように働きかけるか、その結果に応じて働きかけの質や量をどのように変えていくかを検討することにある。

というように定義するかもしれない(←あくまで暫定)。

 第一節の最後では「勉強と研究の違い」について語られている(p.3)。市川氏は、
  • 勉強とは、すでに蓄積されている情報を検索し自らの知識とすること。知識の吸収
  • 研究とは、自ら追究して何らかの結論を得ること。知識の生産。
と区別されているが、これも知識をどう定義するかによって意見の分かれるところであろう。おそらく
  • その集団の中ですでに知られている知識かどうか
  • 能動的な働きかけが十分にあるかどうか
  • 前提と帰結を一対一の関係として学習するか、帰結部分が未知(もしくは複数の候補のうちのどれか不明)という状態にあるのか
などの基準に基づいてこれらを区別しているのであろうが、例えば、
  • ロビンソンクルーソーのような漂着者が、無人島に生えている植物を、可食、不食、有毒に分類していくプロセスは「ひとりよがりの研究」と言えるのだろうか。
  • 言葉を使えない動物が能動的に働きかけならが行動を変えていく様は「ひとりよがりの研究」に分類されるのか
などと考えていくと、難しいところであるように思った。次回に続く。
【思ったこと】
_10403(火)[心理]象牙の塔と現場心理学(4)南風原・市川・下山編『心理学研究法入門』(2)研究の意外性

 4/1の日記に引き続いて『心理学研究法入門:調査・実験から実践まで』(南風原朝和・市川伸一・下山晴彦、2001、ISBN4-13-012035-2)の中の「第1章 心理学の研究とは何か」(市川伸一氏)について感想を述べたいと思う。

 第1章のなかで執筆者の市川氏は「良い研究とは何か」という興味深い節を設けておられる。そんな議論ができるんかい、と思われる方もあるかもしれないが、そういう読者のために、次のような「ことわり書き」がちゃんと書かれている。
はじめに断っておかなくてはならないことは,どういう研究が良い研究かについての評価は,評価者によってきわめてまちまちであり,けっして客観的な基準などないということである.それでも,良い研究とはどのようなものかを論じることに意味があるのは,「研究する」ということをあらためて多角的にとらえ直し,自らの研究の方向を定めるときの指針になるからである.
 そのうえで市川氏は、良い研究がもつべき価値として
  1. 情報的価値(意外性と確実性)
  2. 実用的価値
という2点を挙げている。このうちの「意外性」は、少し前に連載した象牙の塔とアクション・リサーチの3回目に記した「世間もしくは学界をビックリさせる」効果と殆ど同じことを意味している。私が挙げた例は、
  • 「イヌがお座りをする」という条件づけは日常生活では当たり前のこと。それを実験研究で示したからと言って誰も驚かない。
  • イヌに「右」と号令をかけたら右に、「左」と号令をかけたら左に顔を向けるように条件づけし、第二段階では、「足」という号令をかけたら片足を上げるように条件づけしたとする。第三段階で、いきなり「右、足」と言った時にそのイヌが何の予備訓練もなしに右足を上げたとしたら、誰でもビックリするだろう。
というものであり、もし2番目のような事例が人工的に示されたら学術的価値が高いであろうという内容であった。

 市川氏は、「意外性」の事例として
「「意外性」というのは,(a)Aさんが宝クジで1万円あたった」という情報と,「(b)Aさんが宝クジで5000万円あたった」という情報の違いに相当する.つまり,もともと生じる確率が小さい事象が起こったという(b)のほうが,より大きな情報を得たことになる.
を挙げ、研究の情報的価値や確実性もこれに準じて考えることができると指摘しておられた。

 しかし市川氏の挙げた事例は、単に希少性を示すだけのものであって、いくら「準じて考える」と言えども必ずしも情報的価値には結びつかないように思う。例えば、皆既日食などは滅多におこらない現象であるが、いつどこでどのくらいの継続時間の日食が観測されるのかということは何百年も先まで予測することができる。その意味では、皆既日食がおこること自体には何の意外性もない。いっぽう、雨が降ること自体はしょっちゅう起こる現象だが、「明日は快晴、降水確率0%」と予報されているにもかかわらず雨が降り出したら大いに意外性があるということになる。要するに、「意外性」とは単なる「希少性」ではなく、人間が能動的な関わりを持つなかで、文脈に依存して規定されるものなのである。このことは、研究の価値自体も、学問の文脈に依存して決まってくることを意味する。時間が無くなったので次回に続く。
【思ったこと】
_10405(木)[心理]象牙の塔と現場心理学(5)南風原・市川・下山編『心理学研究法入門』(3)研究の実用的価値

 4/3の日記に引き続いて『心理学研究法入門:調査・実験から実践まで』(南風原朝和・市川伸一・下山晴彦、2001、ISBN4-13-012035-2)の中の「第1章 心理学の研究とは何か」(市川伸一氏)について感想を述べたいと思う。

 今回はその中の「研究の実用的価値」について考えてみることにしたい。市川氏はこれについて
  • 研究で得られた知見や理論を応用することによって,私たちの生活に益をもたらすならば,その研究はそれだけ意義がある。 これは研究の実用的価値と見なせる。
  • 実用性が高い研究というのは,いわゆる「応用研究」とは限らない。非常に基礎的な研究であっても,その原理がさまざまな場面で使われることによって,広い実用的価値が生まれる場合もある。
  • 研究の価値というのは,個人レベルだけで考えられるものではない。.....実用的価値とは,「そんなことを調べて何になるのか」という問いに答えうるということである。
という3点を強調しておられる。このこと自体には異論は無いのだが、問題は、
  • 「私達の生活に益をもたらすかどうか」は、どの時点で判明するのか。
  • 一部の人だけに益をもたらす場合はどうするのか。
  • 「そんなことを調べて何になるのか」という問いにはどのレベルまで答えるべきなのか。
といった点だろう。実用的価値は、最初から期待されるとは限らない。むしろ、研究者の姿勢が
  • 閉じた領域の中で、実験のための実験、論文のための論文に終わっているのか。
  • 何らかの現実的問題を念頭に置きながら、その一手段として実験的方法を遂行しようとしているのか。
のいずれに向いているのかを見極めるべきかもしれない。

 このような難しい面はあるが、やはり何らかの形で「実用的価値」に目を向けることは大切だろう。この連載のもともとのネタ本である『現場心理学の発想』(やまだようこ編, 1997)の中第4章「臨床現場と大学の狭間で」の中で下山晴彦氏は
.....大学で行われている心理学は,建前としては人間の現実を理解するための学問であるのだろうが,実際は現実を理解するのとは異なったこと,時には現実を理解するのに障害となることをしているのではないかとの危倶さえ覚えることがある。たとえば,心理学の専門雑誌で採択される際に重視される基準では,現場で役立つか否かということはほとんど考慮されていないことは,投稿した際の審査者のコメントや掲載される論文の内容をみれば一目瞭然である。[p.56]
と指摘しておられるがもっともなことだ。

 だいぶ昔の話になるが、動物を被験体として心理学の卒論研究をすることについて、

動物実験の最大の実用的価値は、その実験をすることで卒論が書けることにある。

などという冗談を聞いたことがあるが、これが冗談でなくなってしまったのでは困る。ちなみにこの「冗談」は

因子分析の最大の実用的価値は、それを用いることで修士論文が書けることにある

というふうにも

モデル構成の最大の実用的価値は、それを検討することで研究業績がふやせることにある

というふうにも書き換えることができる点に留意する必要がある。
【思ったこと】
_10409(月)[心理]象牙の塔と現場心理学(6)心理学専攻に入学した学生が感じる「何かちょっと違う」(後編):関心のある現実とは?

 4/6の日記の続き。4/9はちょうど新入生のオリエンテーションがあり、教員の自己紹介の際に私は、毎日Web日記を執筆していることと、その日記の中で、心理学専攻に入学した学生が感じるかもしれない「何かちょっと違う」現象を取り上げたことを披露した。

 さて、こうした学生の「期待はずれ感」はどこから来るものなのだろうか。

 私はこれまで、その主要な原因は、高校までに形成された誤解や過剰な期待に影響されていると考えてきた。

 じっさい、心理学は高校の授業科目ではない。心理学という言葉を知るのは、まずは、週刊誌や通俗本やテレビの娯楽番組などであり、「心理学を学べば相手の心が読める」、「心理学を学べば心の悩みがすべて解決する」といった過剰な期待が形成されることは十分に考えられる。しかし、「期待はずれ感」の原因をそれだけのせいにしてしまってよいものか。

 ここでもういちど論点を整理してみたい。まず、前回の引用に限って、心理学の研究に対する不満を集約すると
  • “人間味がない"、“現実味がない”、“生活感がない...
  • 建前としては人間の現実を理解するための学問であるのだろうが,実際は現実を理解するのとは異なったこと,時には現実を理解するのに障害となることをしているのではないかとの危惧
となる。しかし、ただ単に研究の内容が現実に向かえば解消するものであるのかどうかは定かではない。単に現実を扱うというならば、政治や法律や経済や交通安全の話題にももっと関心が集中するはずである。実際にそれらの分野への関心があまり高くないことを考えると、

現実を扱わないがゆえに期待はずれ

とは必ずしも言い切れないように思う。

 では、関心をいだく現実とは何か。それは

自分が能動的に関わり、結果を得ている世界であること。

に尽きるのではないかと思う。行動分析で言えば、すなわち「関心をいだく現実とは、じぶんのオペラントが強化されている世界」ということだ。

 自分が住んでいる世界であっても、能動的な行動が強化されなければ関心は示されない。自分の生活に身近に関係しているはずの政治に関心が高まらないのは、自分が何をしても変わりっこない(=自分の発するオペラントが強化されない)と受けとめられているためである。

 次に、「関心をいだく現実」との関わりのなかで「心理学を学んでよかった」という満足感を与えるのはどういう場合か。それは

学ぶことによってもたらされる情報により、手がかりの不確実性、もしくは、結果が出現する不確実性が減少すること

であると考えられる。

 4/3の日記で、『心理学研究法入門:調査・実験から実践まで』(南風原朝和・市川伸一・下山晴彦、2001、ISBN4-13-012035-2)の中の「第1章 心理学の研究とは何か」(市川伸一氏)をとりあげた。その中の研究の情報的価値に関連して市川氏は

 
  • 研究の最大の目的は,対象について何か新しいことが「わかる」ということにある.ここには,新たな事実(あるいは個々の事実から見出される「法則」)を発見することと,いくつかの事実を統合的に説明する理論をつくることとが含まれる.一般に,知らなかったことがわかることを,「情報」を得たという.
  • 1940年代にShannon(1948)によって創始された「情報理論」では,情報とは「不確定度」が減少することととらえている.たとえば,投げたコインが表か裏かということを教えられれば,2つの同様に不確かな選択肢が1つに確定したことになる.振ったサイコロの目であれば,1の目になっている確率がはじめ1/6だったものが,「奇数が出ている」と教えられれば1/3に変化し,これも情報を得たことになる.
  • ここで,情報理論の基本的な考え方を参考にすると,意外性と確実性が情報の大きさを規定していることになる.
というように、情報理論を参考にした研究の情報的価値を論じておられるが、今回ここで問題としている「関心を集める情報的価値」は数学的に算出される情報量の大きさだけでは不十分であると私は考える。例えば、上記で、「振ったサイコロ」についての「奇数が出ている」という情報は、ゲームをしているとか、抽選で何かを選ぶというように、「入手された情報が自分の能動的な行動の手がかりとして利用できる場合に初めて価値をもつ」ものなのである。

 俗流の心理「学」が週刊誌やTV番組で多くの関心を集めるのは、エセ心理学を知ることで、相手や自分の行動に関して与えられている手がかりの不確実度が減少すると錯覚してしまうためであろう。これは占いでも同じで、いかに非科学的であっても、迷いを消す効果をもたらすものは常に強化的である。

 以上をまとめると、心理学専攻に入学した学生が感じる「何かちょっと違う」を不満に終わらせず、「ああ、そうだったのか」という満足感をもって卒業させるためには、
  • 現実に向かうテーマを扱うことは必要だが、それだけでは不十分。
  • 自分が能動的に働きかける世界について、手がかりの不確実性、もしくは、結果が出現する不確実性が減少するような情報を与えること
  • その情報は、事後解釈、アナロジー、同語反復的なものであってはならない。十分な有効性があり、内的あるいは外的な妥当性を有するものでなければならない。
という3点を重視する必要があると思う。

 ちなみに、「自分が能動的に働きかける世界」は個々人の生育歴の中でリパートリーとして形成されていくものであるため、時として非常に狭い世界に限定されてしまう恐れがある。趣味だけに生きる人もいる。象牙の塔に籠もってモデル構成に埋没する人にとっては研究対象だけが「自分が能動的に働きかける世界」になる。そういう意味では、学生の関心対象を固定化せず、関心対象を広げるための努力、言い換えれば、能動的な働きかけが強化される世界を広げる努力が別に求められると言ってよいかと思う。
【思ったこと】
_10410(火)[心理]象牙の塔と現場心理学(7)南風原・市川・下山編『心理学研究法入門』(4)研究の外的妥当性

 もうすぐ大学院の講義が始まる。受講生にぜひ一度訊いてみたいのが

研究の価値とは何か?

ということ。その考えがしっかりしていないと、いくら頑張っても良い修論は書けない(←考えがしっかりしていても、頑張らなければ書けないのは当然のことだ)。

 4/3の日記で引用した市川氏の『心理学の研究とは何か』は、
  • 研究の価値には客観的基準が無い
  • 「研究する」ということをあらためて多角的にとらえ直し,自らの研究の方向を定めるときの指針として議論する意味がある
と断った上で、研究の価値として
  1. 情報的価値(意外性と確実性)
  2. 実用的価値
という2点を挙げた。

 このうちの「意外性」については4/3の日記、「実用的価値」については4/5の日記で私の考えを述べた。

 もう1つの研究の確実性だが、市川氏の『心理学の研究とは何か』では、宝くじが当たった話
「確実性」というのは,「(c)『5000万円あたった』とAさん本人から聞いた」という場合と「(d)『Aさんが5000万円あたった』と友人の友人の友人から聞いた」という場合の違いにあたる.(d)のように人づてになってしまうと,それだけ信憑性が低くなり,不確定度が残るために,情報としては価値の低いものになる.
を例とした上で、研究の場合の確実性は
.....しっかりとした論理や実証にのっとっているかどうかに関わる問題といえるだろう.
であると説明している。

 以上の説明は入門者のために分かりやすく配慮したもののようだ。同じ本の第5章『準実験と単一事例実験』(南風原朝和氏)の中では、この確実性は、研究の内的妥当性という別の呼称で、もう少し理論的に説明が加えられている。
研究の内的妥当性とは,処遇(独立変数)と結果(従属変数)の間の因果関係について,「この研究の結果,処遇の効果があることがわかった」とする主張の正当性に確信がもてる程度のことである.


 ところで、南風原氏は同じ章の中で、「外的妥当性」についても次のように説明している。
研究結果の一般化可能性は,研究の内的妥当性と対照させて,研究の外的妥当性(external validity)または外部妥当性ともよぱれる.
 この概念は、市川氏の言う「研究の実用的価値」と似ているように見えるが、じつは全く違うレベルの議論である。私の考えを述べるならば、
  • 実用的価値というのは、その情報を利用する者にとっての有用性に近い概念。つまり、賢明な利用者が存在し、特定のニーズがあって初めて生じる価値である。また、通常は、日常生活上での有用性を意味することが多い。
  • 外的妥当性(一般化可能性)は、少なくとも生活上の有用性と無関係に規定される。「それを知ることで、他のことにどれだけ適用できるか」が基本。その適用範囲は生活面だけにとどまるものではない。複雑な現象を簡潔に記述したり、未知の現象の予測、モノの創造、制御などに貢献する結果をもたらすものは、外的妥当性をもつといってもよいだろう。つまり、有用であることには違いないが、どちらかと言えば、理論化への貢献を示す概念であるとも言える。
 外的妥当性は、さらにその根本として、理論化あるいは科学的認識についてどう考えるかという問題に関係してくるように思う。

 いっぱんに、科学的認識とは、自然界に厳然と存在する法則を人間が見つけ出す作業であるように思われがちであるが、行動分析はこれとは異なる立場をとっている。長谷川(1998a)は、佐藤方哉氏の『行動理論への招待』(1976、大修館書店)を引用しながら、補注の4で
自然界には確かに法則のようなものが人間から独立して存在する。それは、人類の誕生前から存在し、人類が滅亡した後でも、宇宙の構造が質的に変わらない限り、同じように存在するだろう。しかし、それを人間が認識するとなると話は違ってくる。「科学的認識は、広義の言語行動の形をとるものだ。人間は、普遍的な真理をそっくりそのまま認識するのではなくて、自己の要請に応じて、環境により有効な働きかけを行うために秩序づけていくだけなのだ。」というのが、行動分析学的な科学認識の見方と言えよう。佐藤(1976)は、この点に関して、科学とは「自然のなかに厳然と存在する秩序を人間が何とかして見つけ出す作業」ではなく、「自然を人間が秩序づける作業である」という考え方を示している。
と述べた。この見地からは、一般化可能性とは、「人間による自然の秩序づけ」にとっての有用性に大きく関係していると言うことができる。



 最初の話に戻るが、価値のある研究は以上述べたような
  1. 情報的価値(意外性と確実性)
  2. 実用的価値
また、より理論的な見地からは、内的妥当性と外的妥当性を持ったものでなければならない。しかし、現実には、卒論研究では、内的妥当性のみが評価される傾向がある。いちばん問題となるのは、心理学関連の学術雑誌において、それらがどの程度考慮されるかどうかであろう。ひょっとすると内的妥当性のみ、それに、同一研究分野内の人間だけが感じる意外性、言い訳程度の外的妥当性、殆ど主観的願望のレベルにすぎない実用的価値についての言及が装飾されているだけの論文ばかりが採択されている可能性はないだろうか。このあたりの点検が必要ではないかと思う。

 ところで、昨今の循環消費ブームに便乗することになるかもしれないが、私は、研究の価値として、もう1つ「再利用可能性」を考えてもよいのではないかと思っている。次回は、これについて考えてみることにしたい。
【思ったこと】
_10413(金)[心理]象牙の塔と現場心理学(9)「遊民」と研究の再利用可能性

 4/14朝5時台のNHK「五七五俳句紀行」で小林一茶を取り上げていた。一茶は、自分が土を放棄し「耕さず生き、耕さず喰らふ」(←記憶不確か)ことに罪の意識を感じていたという。ごく一部しか視られなかったので何とも言えないが、自給自足の力を持たない「遊民」を蔑む風潮があったのかもしれない。

 近代の産業社会では、農工業の生産技術が進歩し人手がかからなくなったことと、芸術や娯楽やスポーツなど、人々の生活に潤いを与える職業が社会的に認知されるようになったため、直接生産に関わる仕事をしていないという理由で罪の意識を感じることはまずなくなった。

 しかし、「生産に貢献しているか」という価値基準が失われていくにつれ、何をもって仕事の価値とするかという新たな問題が、仕事をするすべての人に問われるようになってきた。「学問・研究の自由」があり、研究者の給与上の生活が保障されていても、話は同じである。ただがむしゃらに実験を繰り返していればよいというものでもないし、自己完結的な満足をもたらすだけの研究活動であってはならないと思う。



 さて、4/10の日記では、研究の価値ということについて、南風原・市川・下山編『心理学研究法入門』の第1章や第5章を引用しながら、研究の「情報的価値(意外性と確実性)」、「実用的価値」、あるいは「内的妥当性」、「外的妥当性」について考えてみた。その最後に述べたが、私はもう1つ、研究の「再利用価値」という概念もあってよいのではないかと考えている。

 工業製品で言えば、「再利用価値」というのは「実用的価値」と違って、当初の目的とは違う形でそれが利用されることを意味している。3/17の日記にあるテニスボールの再利用などがその一例である。世の中には、実用的価値が高くても再利用が非常に難しい製品もあるし、逆に、実用的価値は低いが広範に再利用できる製品もある。

 この「再利用可能性」というのは、心理学の研究の中でも特に事例研究の場合に考慮する必要があるかと思う。なぜなら、事例研究というのは、もともと利用価値の高い製品として外に出されるものではないからだ。事例そのものがすでに利用された状態であって、聴き手のほうは、その事例を再利用する立場にあると考えられる。

  下山(1997、やまだようこ編『現場心理学の発想』.pp.53-62.)は、臨床心理学の主な研究法である事例研究法について
心理臨床学会の発表の大半を占める事例研究法は,現場の実践の研究法としては最も適したものであることは確かである。しかし,その方法論的特色を把握した上で使用しないと単なる事例報告に終わる可能性が高い。単に精神分析やクライエント中心療法の理論(仮説)をドグマとして受け取り,それをやってみたらこうなりましたという報告をしただけで,ある種の検証的研究をした気になってしまいやすい。その結果,自らの実践を心理学の方法として学問化する作業がなされないまま,学問をした気になり,自己満足は維持される。その場合,実践としても自己満足に終わって,創造性,発展性のないものとなる[pp.60]。
という問題点があることを指摘している。そこでは発表者側の姿勢も大切だが、聴き手側にもそれなりの受信技能が要求される。「再利用価値」というのは、発表された研究それ自体の価値というよりも、発表者側と受信者側のインタラクションの中で新たに形作られるものと考えるべきだろう。

 4/10の日記では、「研究の外的妥当性(=一般化可能性)」は「実用的価値」とは本質的に異なる概念であると述べた。ただ、元来、「一般化できる結論」というのは「誰でも利用できる結論」と同義であり、その意味においては、再利用しやすい価値と考えられないこともない。

 もっとも、数学、物理学、化学などであれば、実証性や一般性のある発表こそに価値を見出すことができるのに対して、医療現場のようにあまりにも多様な要因が同時に関与する場面では、個別の事例から一般性を引き出そうとしても限界があるのは当然。また、仮に一般性が証明されたとしても、それを別の事例に機械的に当てはめることは殆ど不可能と言える。 となると、事例研究の価値は必ずしも外的妥当性によっては規定されない。むしろ、受信者のクリティカルな目を前提とした上で、再利用価値がどれだけあるかにもかかわってくるように思う。

 なお、南風原・市川・下山編『心理学研究法入門』は、今年度前期に行われる大学院特殊講義のテキストとして使うことになっている。近々、公用サイトのほうに、院生のリビューなども掲載していく予定である。
【思ったこと】
_10415(日)[心理]象牙の塔と現場心理学(10)「乗り換え案内」、「時刻表」、「旅行ガイドブック」は、なぜ学術書ではないのか?

 今回の連載では、心理学の研究の情報的価値(意外性と確実性)や実用的価値の問題を取り上げてきた。じつは、研究に限らず、コミュニケーションの中で行き交う諸々の情報は、何某かそれらの価値を有するものである。そこで、日常社会からいろいろな事例を拾い上げてくることによって、それらの意味がより明確になってくるのではないかと考えた。

乗り換え案内

 新幹線に乗っていると、それぞれの駅で停車する直前に「次の○○線は××時××分発、△△番線から...」というような乗り換え案内の放送がある。この情報は、その線への乗り換えを予定している乗客だけに有用、他の乗客にはノイズにしか聞こえない。

 4/10の日記で
実用的価値というのは、その情報を利用する者にとっての有用性に近い概念。つまり、賢明な利用者が存在し、特定のニーズがあって初めて生じる価値である。また、通常は、日常生活上での有用性を意味することが多い。
と述べたが、実用的価値が利用者側のニーズに依存するという考えは、まさにこの乗り換え案内を例にすると分かりやすいのではないかと思う。

時刻表

 駅の売店や本屋で売っている時刻表は、なぜ学術書とは言えないのだろうか。バカげた設問のように思われるかもしれないが、いちど学生に質問してみたいと思っている。時刻表には意外性は無いが、確実性は絶対に必要だ。また実用性は抜群である。乗り換え案内と違って、多様なニーズに応えられる価値を持っている。

ガイドブック

 旅行のガイドブックは、
  • 旅行先で迷っている人には、漠然とした選択肢を精緻化し、不確定さを減少させる価値をもたらす。
  • オススメの名所、みやげ、レストランなどについての情報は、確実なものでなければならない。
  • 類書にない「意外性」が価値を高める。
  • 執筆者の主観的判断がある程度許される。
という特徴がある。では、特定の研究分野についての概説書、あるいはガイダンス的な入門書とどこが違うのか。単に、対象や、取り上げる個別の話題の中味が違うだけなのか?このあたりを考えてみると面白いかと思う。時間が無くなったので次回に続く。
【思ったこと】
_10416(月)[心理]象牙の塔と現場心理学(11)時刻表と学術書の違い(続き)

 昨日の日記で
駅の売店や本屋で売っている時刻表は、なぜ学術書とは言えないのだろうか。時刻表には意外性は無いが、確実性は絶対に必要だ。また実用性は抜群である。乗り換え案内と違って、多様なニーズに応えられる価値を持っている。
と書いた。時刻表を取り上げたのは、その前段で、乗客のニーズによって実用的価値が決まる「乗り換え案内」と対比させるためだったのだが、よく考えてみると、もっと深い意味があることに気がついた。

 ここでいう時刻表とは、単に「JRや他の私鉄、航空会社などが発表したダイヤをそのまま転載にしたもの」ではなく、ダイヤグラムの作成過程を含むものとする。理科年表や天文年鑑に掲載されている各種の予報数値表と違うのは、あくまで人間の創作物であるということだ。月齢や皆既日食の予報は人間の都合で勝手に変えることができないのに対して、時刻表の数値は、輸送のニーズや採算性などに基づいて「自由に」作り替えることができる。

 「時刻表はなぜ学術書ではないのか?」に対するありがちな答えとして「理論が示されていないから」が予想される。確かに時刻表のどこを見ても、ダイヤ作成の理論や、ダイヤを改正した根拠となるデータは示されていない。しかし、いま述べたように、ダイヤそれ自体は、乗客数の予測、採算性などを十分に考慮して作成されたものであり、そこにはなにがしかセオリーが介在している。そういう意味では、設計書と似たような性格をもつと考えてもよさそうだ。

 ダイヤが改正された時点で古い時刻表の実用的価値は無くなる。しかし、たとえば15年前の時刻表が書棚にあれば、
  • 当時は、東京・大阪間は最短で何時間か、運賃はいくらか。
  • 当時の路線はどんなものであったか。
  • 都市間にどのような人の流れがあったか。
などについて、手軽に客観資料を得ることができる。そういう意味では資料的価値があるとも言える。
[Image]  今年の1月に、1985年当時の様子を伝えるポストカプセルの話題を何度か取り上げたことがあった(第1回目は1/9)。右の画像は、同じ封書に入れられていた時刻表の地図の切り抜きの一部である。九州北部に網の目のように鉄道網が張り巡らされていたことが分かる。当時はまだ国鉄の時代。この地図では他に、青函連絡船や宇高連絡船、北海道内の各種ローカル線が描かれており、単に懐かしさを与えるだけでなく、当時の交通網を知る貴重な資料にもなっている。

 最初の議論に戻るが、「時刻表はなぜ学術書ではないのか?」あるいは「心理学の研究における価値は、時刻表の価値とどこが似ていてどこが違うのか」を考えることは、実験研究から事例報告、概論書などの研究価値を問い直す上で大いに意義深いものになると思う。私自身はしばらく回答を留保しておきますが、「時刻表はなぜ学術書ではないのか?」に対して、これぞと思うアイデアをお持ちの方はお互いを更新する掲示板に書き込みをいただければ幸いです。
【思ったこと】
_10425(水)[心理]象牙の塔と現場心理学(番外編) 満1歳になったチンパンジーから何を学ぶか

 R研究所のチンパンジーのアユムが満1歳になったという。チンパンジーの赤ちゃん自体はそれほど珍しくはないが、アユムの場合はちょっと違う。世界でも有数の「言葉を覚えたチンパン人」として知られるアイが母親であり、そのアイの母親の胸に抱かれたまま、言葉の勉強に参加しているからである。

 4/25の朝日新聞・文化欄でM教授は、この1年間に分かったこととして次の点を紹介しておられる。
  1. 「新生児微笑」:人間の新生児に固有なものだと思われてきたが、チンパンジーにも新生児微笑がある、ということが今回の研究からわかった。
  2. 「新生児模倣」:チンパンジーの赤ん坊でも表情の新生児模倣が確認された。
  3. 「観察学習」?:約10ヵ月齢のアユムが、コンピューターの画面に向かって母親がやっていた課題に挑戦し、出てきた選択肢の中から、正しく茶色の四角形を選んだ。それまで一度も画面に手を触れたことはなかった。母親のようすをただじっと見ていただけだ。
 この記事を見せた時に妻(←元R研究所技官)も言っていたことであるが、じつは、これらの発見には、それ自体の価値とは別に、M教授の独特の研究手法として見習うべき点がいくつかある。
  • ちょうど私がR研究所でお世話になっていた頃、M教授は京都から(人間の)乳幼児発達の第一人者を招いて共同研究をされていた。ニホンザルやアカゲザルの赤ちゃんのほか、近くの保育園にも出向いて、新生児のいろいろな反射を観察しておられた。その時の豊富な観察体験がなければ、新生児微笑や新生児模倣など気づかずに終わっていた可能性が高い。
  • アユムが生まれる前の訓練の時でもそうだったが、M教授は、隔離した装置の中だけで実験をするという手法をとらなかった。所内を散歩したり、直接対面しながら、レキシグラムが描かれたプラスティックカードを手渡ししながらテストをする場面もあった。アユムの実験については何も分からないが、アユムにとってのM教授は限りなく父親役に近いという点で、人間で言えば参与観察に近い手法であると言ってもよいのではないかと思う。M教授とアイとのコミュニケーションは、ディスプレイの映像やボタン押しといった機械的な刺激・反応ばかりではない。スキンシップの中で交わされたノンバーバルなやりとりが不可欠の要素となっている。M教授が「よしっ」と言語的に誉めることは、餌などとは比べものにならないほどの好子(強化子)になっているはずだ。
 さて、それでは、M教授の研究成果からは何が分かるのだろうか。周知のようにこの種の研究では、一頭もしくは数頭の特定のチンパンジーしか対象にすることができない。それゆえ、どのように堅実な成果が得られたとしても、その基本は、

人間に固有なものだと思われていた能力や反応が、少なくとも一例、人間以外の種においても存在することが確認された。

というように、「定説」を覆す意外性を示すことにある。決して、チンパンジーという種のどの個体でもできるということを示したわけではないし、チンパンジー一般に見られる行動法則を明らかにしたわけでもない。このことに関しては、98年3月25日の日記「サーカスの曲芸と「天才」チンパンジーのちがい」で考えを述べたことがある。合わせてご参照いただければ幸いです。



 ここで98年3月25日に挙げた実験例でちょっと補足をしておきたい。「青い色の5本の歯ブラシ」を見せらた時、「青」、「5」、「歯ブラシ」という3つのボタンを押すことができると述べたが、その際の押す順序としては
  1. 青色の→5本の→歯ブラシ
  2. 青色の→歯ブラシ→5本
  3. 5本の→歯ブラシ→青色の
  4. 5本の→青色の→歯ブラシ
  5. 歯ブラシ→青色の→5本の
  6. 歯ブラシ→5本の→青色の
という6通りの順序が考えられる。日本語では、上記のうち1、2、4がごく自然な順序となる。英語では「5本の」の前に「青色の」が来ることはない。ロシア語などでは、確か、生格を使った別の順序が可能であったと思ったが、忘れてしまった。
 だいぶ昔の霊長類学関係の研究会で、この種の順序に関して、アイがいつも同じ順番でキーを押すことが話題になった。その時、私は、一頭のチンパンジーだけでそのような事実が示されたとしても
  • チンパンジー、あるいは人間を含めて、色と数と名称について普遍的な順序があるのか
  • アイに実施した訓練の歴史が順序を固定させる影響を及ぼしたのか
は結論できないであろうと発言したことがあった。この種の研究を、単一事例研究で立証することは原理的に不可能であろうと思う。



 元の話題に戻るが、朝日新聞記事では最後に
アイとアユムの1年から見えてきたものを、野生チンパンジーでの知見と重ね合わせてみると、どちらの場面でも、親やおとなと一緒に暮らす中で、そのようすを一長い時間をかけてじっと見守りながら学んでいく子どもの姿が見えてくる。
.....【中略】.....
 チンパンジーに「学校」という制度はないが、まちがいなく「教育」はある。その教育の基本は、正しい手本を親が示すことであり、子どもからの自主的な働きかけをいつも寛容に受けとめることだといえる。
という記述があった。これはM教授独特のリップサービスであって、研究の成果から導き出された結論ではない。新聞記事自体にあった見出し「親が手本を示す」が教育というのも、あくまで野生のチンパンジーの世界における「教育」の特徴を述べているにすぎない。

チンパンジーでさえ、あのようにしているのだから、人間はなおさら.....

というレトリックは一般に強い説得効果をもたらすが、しょせんはイソップの寓話と同じタイプのアナロジーであって、学術的な見解とは言い難い。じっさい、なんでもチンパンジーの真似をしていたら、子殺しもイジメも正当化されてしまうのだ。

 他の種の行動から多様な適応戦略のヒントを得ることには価値があるとしても、やはり人間世界の問題は人間世界を直視する中で解決の道を探ることしかできない。他種の生命体から教えを受けることのできない人間という種は、宇宙では孤独な存在であると言えよう。
【思ったこと】
_10504(金)[心理]象牙の塔と現場心理学(番外編) 心理学の法則と囲碁の格言

 東京・自宅には、囲碁の本が数十冊置かれている。父が買い揃えたものであり、父はこれを読んでアマ三段まで上達した。もっとも私のほうは、いっこうに上達しない。せいぜい、Windows用の「お気軽」な囲碁ソフトで、ハメ手で勝つことを楽しむぐらいなものである。

 そんな本の中に『囲碁格言』とか『囲碁名言』といったたぐいのものがある。 格言は
  • ツケにはハネよ
  • 二立三析
  • 三子の真ん中は急所
といったもの、また『囲碁名言集』(坂田栄男、有紀書房、出版年不詳)には
  • 碁は調和にあり
  • 右を打ちたいときは左を打て
  • 死はハネにあり
といったものが並べられている。いずれも抽象的かつ漠然としていて、科学的な命題とは言い難い。真偽を証明することができないからである。

 しかし、こうした格言や名言を学ぶことで実力がアップするとなれば、それらにも何らかの有用性があることになる。自然科学の世界では、いっぱんに対象を分析し、法則を発見し、実証し、その成り立つ範囲を確定することで研究の進歩があると考えられている。そういう方法をとらない「格言」や「名言」が有用であり続けるのは何故だろうか。

 『囲碁格言パート1」(上村邦夫、日本囲碁連盟『囲碁研究』昭和63年3月号付録)の前書きで上村氏は
私はアマチュアにとって、格言は非常に大切であると考えています。格言は、筋や形の要約集ですから、格言を理解できれば、攻めや守りに大いに役立つと思います。...[中略]...格言は、先人達の知恵。碁の格言には、碁の知恵がつまっているのです。
また、上掲の『囲碁名言集』の助言で坂田氏は、
アマチュアの碁の一番の欠点は、考え方がせまい、視野がせまい、ということではないでしょうか。部分にこだわったり、構想に飛躍がなかったりするのは、そのせいだと思います。定石や手筋を覚えても、考え方がせまいため、有効に活用できないのです。いま立っているところから、ほんのちょっとでもいい、角度をかえて見ることができれば、ぐっと視界がひらけ、思想のハバがひろくなってきます。
 この本は、あなたの碁を脱皮させ、考え方の角度をかえる、その手助けをしようというのが目的です。...
と述べている。これらに記されているように、
  • まずは、定石、手筋、形を習得することが基本
  • 「格言」や「名言」は、それらを分類整理し、想記しやすいようにまとめたもの
  • 「格言」や「名言」を学ぶことで、個人体験に基づく思いこみから脱却し、クリティカルな視点を養うことができる
当然のことながら、受験生向けの英単語集のように格言や名言を丸覚えしても囲碁が強くなるはずはない。数学の定理に近い、定石、手筋、形などを覚え、ある程度実践体験の中で活用法を身につけた場合に限って、有用になってくるのであろう。

 さて、本来「格言」や「名言」というものは、人生の諸問題について、多様な実践体験を簡潔に言い表したものである。それらが有用であり続けるのは、先人と自分自身のあいだにかなりの程度の共通体験があるためと考えられる。個別には分析、法則化されていなくても、種々の問題を包括的にとらえ、包括的に対処できるならば有用性が損なわれることはない。

 では心理学の研究の場合はどうなのだろうか。心理学でいう法則や原理は、囲碁の「定石、手筋、形」に近いところがある。となると、個別に法則や原理を羅列するだけでは、日常生活に活かすことはできない。その一方、そういう法則や原理に立脚しない「格言」や「名言」ばかりでは、確かにそうだと感じた時に納得することはあっても、なぜそうだと感じるのか、それをどう活かせばよいのかということについて積極的な改善策を生み出すことができない。

 名言や格言とは性質が違うが、最近では、米国大統領選挙や小泉新首相の発言などに関連して「サウンドバイト」という言葉が使われるようになってきた(←4/28の日記読み参照)。 大前研一アワー38 一人勝ちの経済学は、これに関連して
最近の若い世代は、「サウンドバイト(ほんの短いメッセージ)的思考」であるといわれます。直感的に物を考え、あまりロジックを形成することがないのです。これにはマスコミの影響も大きく関与しています。つまり、メディアによる「刷り込み」が行われているのです。このような環境では、「メガヒット」が生まれやすくなっています。

と述べている。格言や名言とサウンドバイトも、短いメッセージで納得を与えるという点では共通するものがある。問題は、
  • その表現自体が、何らかの法則や原理、あるいは豊富な実践体験に基づいたものであるのか
  • 受け手側にもそれなりの豊富な経験があるのか
  • 受け手側にどれだけのクリティカルな目が備わっているのか
といった点にある。そういうものが無いと、反社会的な宗教団体のマインドコントロールにも染まりやすくなるし、昨今話題の首相公選制が実現してもイメージやムードだけに流された人気投票に終わってしまう恐れが大きい。そういう意味でも、心理学において、「人はどのような条件のもとでどのようなサウンドバイトに染まりやすいか」を広く知らしめる必要があるとともに、行動の原理にしっかりと根をおろした格言や名言づくりが求められているように思う。



この連載はまだ続きます