じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
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【思ったこと】 _10304(日)[心理]象牙の塔と現場心理学(1)「現場」より「現野」のほうがよかったかも 2月に連載した『象牙の塔とアクション・リサーチ』の第二部として、『現場心理学の発想』(やまだようこ編、 1997、 新曜社、ISBN4-7885-0589-4)をネタ本に「現場」について考えてみたいと思う(あくまで不定期連載の予定)。 今回はプロローグとして「現場心理学」とはどういうものか、私なりの位置づけをしておきたいと思う。 さて、初っ端からいきなりケチをつけて申し訳ないのだが、「現場心理学」というネーミングには少し無理があったのでは、という気がする。この本を開いてみればすぐに気がつくように、この本では、「現場」という言葉に原則としてすべて「フィールド」というカタカナ・ルビがふられている。その意図は、 この本で私は,さらに「現場」というカタカナ・ルビつきの用語を使っているので,それにさらに英語のfieldの意味も重ねあわせている。この一語だけで二重言語どころか,多重言語の発想を同時に併用しているわけである。[やまだ、p.19]というところにあるらしいが、「ルビつき」の効用は期待通りの成果を上げているのだろうか。
とはいえ、私が発案者に無断で造語するわけにもいかない。ここはとりあえず、ルビなしで「現場心理学」と表記し、特別に断らない限りは、フィールドという英語的意味を含むものとして今後の議論をすすめていくことにしたい。 さて、前置きが長くなってしまったが、ここでいう現場とは何か? やまだ氏によれば、 現場とは「複雑多岐の要因が連関する全体的・統合的場」と定義される。これは研究の対象となる現象と研究の行われる場の特徴を象徴した用語であり,実際に研究の行われる場所そのものを指すのではない。極端にいえば実験室の中にも現場(フィールド)は存在するし,逆に,家庭や幼稚園など日常語で現場(げんば)といわれる場所で研究をしても,「単純な要因について分析する場」であれば実験室である。またこれは相対的区分であり,あらゆる中間的現場が存在する。[やまだ、p.167]というのが定義になっているようだ。もう1つ、現場の重要な特徴を引用しておこう。 現場は,どこにでもあると言っても過言ではない。近所の本屋も喫茶店も魚屋もスーパーマーケットも現場となるし,街角に机を構えている占い屋や宗教の信者たちが集まる場所も現場となる。大学のキャンパスも現場となるし,それこそ心理学実験室も現場となる。自分の家族が暮らす家の中も現場となるし,極端には自分の身体そのものが現場となる。[伊藤哲司、p.8]伊藤氏は、「極端には自分の身体そのものが現場となる」という事例として、病気のために動かなくなっていく自分の身体を現場として人類学的に考察した『ポディ・サイレント』(ロバート・F・マーフィー、1992、新宿書房)を挙げている。このあたり、日常用語としての「現場」とはかなり異なっている。やはり「現野」とすべきではなかったかなあ。 次回は、やまだ氏の論考を引用しながら、もう少し細かく、「現場心理学」の特徴づけを行っていく予定。 |
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【思ったこと】 _10305(月)[心理]象牙の塔と現場心理学(2)「現場」とは何か >昨日の日記の続き。『現場心理学の発想』(やまだようこ編、 1997、 新曜社、ISBN4-7885-0589-4)をネタ本とした連載の2回目。今回は「現場(フィールド)心理学」について、もう少し細かく特徴を探っていきたいと思う。 まず、この本は全部で10章から構成されている。まえがきによれば、10章は、第1部の「ふれてみよう現場心理学」、第2部の「多重を生きる現場心理学」、第3部の「かかわりながら知る現場心理学」という三部構成になっているが、現場心理学の発想の原典を知るためには、むしろ最後の10章から読み始めたほうが分かりやすいのではないかと思う。じつは第10章は、章末にも記されているように、1986年3月刊行の『愛知淑徳短期大学研究紀要25,31-51』に収録された、やまだ氏の論文の再掲載である。「当時は,心理学においてこのような方法論の議論を掲載する場がなかったので,やむをえず紀要論文にした時代情況があった」という。まさにepoch-making的な価値のある論文であると言えよう。 さて、どのような学問でも、その意義や限界を問われた時には
それでは、現場心理学は対象をどのように捉えようとしているのだろうか。私は次の3点が特に重要ではないかと思う。
以上、かなりの分量の引用を続けてきたが、ここで私自身の素朴な疑問をいくつか挙げておきたいと思う。
余談だが、これまでこの日記で、現象を「モノ」的に分析するか、「コト」的に捉えるかという話題を何度か取り上げてきた(例えば2000年の11/20の日記)。その区分で言うならば、この本で取り上げられている「現場(フィールド)」という概念は、限りなく「コト」に近いように思われる。とすると、あるいは、「現場(フィールド)」を記述する際には、日本語が最も適した言語であるという可能性も出てくる。 |
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【思ったこと】 _10329(木)[心理]象牙の塔と現場心理学(3)南風原・市川・下山編『心理学研究法入門』(1) 3/5の日記の続き。『現場心理学の発想』(やまだようこ編、 1997、 新曜社、ISBN4-7885-0589-4)をネタ本として連載を開始したところであったが、他の話題で脱線しているうちに、あっという間に3週間以上が過ぎてしまった。 九州旅行中に、上掲の本や、その関連書である『心理学論の誕生:「心理学」のフィールドワーク』(サトウタツヤ・渡邊芳之・尾見康博、2000、北大路書房、ISBN4-7628-2187-X) をじっくり読み直そうかと思っていたところ、出発の前日に東大出版会から『心理学研究法入門:調査・実験から実践まで』(南風原朝和・市川伸一・下山晴彦、2001、ISBN4-13-012035-2)という出来たてホヤホヤの本の献本があった。下山氏は『現場心理学の発想』の分担執筆者のお一人でもあり、また、南風原(はえばら)氏や市川氏とは、日本心理学会のワークショップ企画でご一緒させていただいたことがある。目を通してからでないと連載を続けられなくなってしまった。 そこで、順序が前後してしまうが、今回は、『心理学研究法入門』にざっと目を通した感想を先に述べたいと思う。まずこの本の読者対象であるが、まえがきによれば、
さて、心理学研究法というと、これまでは、「実験法」、「観察法」、「質問紙調査法」、「面接法」、それに統計解析というように、最初から「方法ありき」、もっぱら技法を伝授するという解説書が多かったように思う。記述内容への長谷川個人の賛否は別として、とにかく、「心理学の研究とは何か」(第1章)という根本問題や、「教育・発達における実践研究」(第6章)、「臨床における実践研究」(第7章)というように、現場との関わりに配慮した内容構成になっている点が高く評価できる。このほか、行動分析でよく用いられる「単一被験体法」が「準実験と単一事例実験」(第5章)という章の中で解説されている点も、古典的な概説書には見られない特徴と言えよう。 この本の執筆者は、おおむね東大大学院教育学研究科の同一講座の教員であるが、「質的調査−−観察・面接・フィールドワーク」(第2章)の執筆者に南博文氏が加わっている点が注目される。南氏と言えば、『現場心理学の発想』の執筆陣が集まるきっかけをつくった方(同書の187頁参照)でもある。また、上にも述べたように、「臨床における実践研究」(第7章)の執筆者の下山晴彦氏は『現場心理学の発想』のほうでたっぷりと?本音を語っておられる。すべての著者が戦後生まれであること、アクティブに研究・著作活動を展開しておられる方が多いことを考えると、本書が若手の心理学徒に与える影響はますます大きくなってくるものと推察される。 以上主として誉め言葉を並べさせていただいたが、個別の章については、疑問やかなりの異論を述べてみたいところがある。次回に続く。 |
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【思ったこと】 _10401(日)[心理]象牙の塔と現場心理学(4)南風原・市川・下山編『心理学研究法入門』(2)心理学の研究とは何か 3/29の日記の続き。今回は『心理学研究法入門:調査・実験から実践まで』(南風原朝和・市川伸一・下山晴彦、2001、ISBN4-13-012035-2)の中の「第1章 心理学の研究とは何か」(市川伸一氏)について感想を述べたいと思う。なお、便宜的に、繰り返しコメントする予定の引用部については“【 】”というカッコつきの番号を文頭に付すことにしたい。 さて、この章では、前書きにあたる部分で、心理学の研究を実質上次のように定義している。 【1-1】心理学の研究とは、心理現象についての日常的な認識を越えようとする営みである。 この定義は、我々が分かっているつもりになっている現象や、ステレオタイプな見方を形成しがちな現象について、日常的な認識を越える何らかの検討を行うことを意味しているものと思われる。もっとも論理的には、この文は 超能力の研究とは、超能力現象についての日常的な認識を越えようとする営みである と言っているのと大差ない。つまり、この定義それ自体は、心理学の研究の範囲を何一つ規定していないし、それを研究することの意義づけもなされていない。それゆえ、仮に超能力が心理学の研究分野に含まれると信じている人が居た場合、定義に基づいて「あなたの研究していることは心理学ではない」と断言することはできない。上記の下線部はどのような言葉にも置き換えられるという点で、少々難点があるようだ。しかも、この定義が成り立つためには、あらかじめ「日常的な認識」が存在していなければならない。脳や神経を直接対象とするような分野では「日常的な認識」が皆無に近いという場合もありうることに留意しておく必要がある。 次に第1章の本文は
このうちの第1節では上記の心理学の定義の問題と同様、初めから「こころ」ありきとして出発し、後半部では「無意識」や「前意識」なども厳密な定義無しに使われている。研究の出発点ではそれでよしとすべきかもしれないが、もう少し別の定義は無かったのだろうか。私ならばおそらく、 心理学の研究とは、個人または集団が互いにどのように影響を及ぼし合うか、外界にどのように働きかけるか、その結果に応じて働きかけの質や量をどのように変えていくかを検討することにある。 というように定義するかもしれない(←あくまで暫定)。 第一節の最後では「勉強と研究の違い」について語られている(p.3)。市川氏は、
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【思ったこと】 _10403(火)[心理]象牙の塔と現場心理学(4)南風原・市川・下山編『心理学研究法入門』(2)研究の意外性 4/1の日記に引き続いて『心理学研究法入門:調査・実験から実践まで』(南風原朝和・市川伸一・下山晴彦、2001、ISBN4-13-012035-2)の中の「第1章 心理学の研究とは何か」(市川伸一氏)について感想を述べたいと思う。 第1章のなかで執筆者の市川氏は「良い研究とは何か」という興味深い節を設けておられる。そんな議論ができるんかい、と思われる方もあるかもしれないが、そういう読者のために、次のような「ことわり書き」がちゃんと書かれている。 はじめに断っておかなくてはならないことは,どういう研究が良い研究かについての評価は,評価者によってきわめてまちまちであり,けっして客観的な基準などないということである.それでも,良い研究とはどのようなものかを論じることに意味があるのは,「研究する」ということをあらためて多角的にとらえ直し,自らの研究の方向を定めるときの指針になるからである.そのうえで市川氏は、良い研究がもつべき価値として
市川氏は、「意外性」の事例として 「「意外性」というのは,(a)Aさんが宝クジで1万円あたった」という情報と,「(b)Aさんが宝クジで5000万円あたった」という情報の違いに相当する.つまり,もともと生じる確率が小さい事象が起こったという(b)のほうが,より大きな情報を得たことになる.を挙げ、研究の情報的価値や確実性もこれに準じて考えることができると指摘しておられた。 しかし市川氏の挙げた事例は、単に希少性を示すだけのものであって、いくら「準じて考える」と言えども必ずしも情報的価値には結びつかないように思う。例えば、皆既日食などは滅多におこらない現象であるが、いつどこでどのくらいの継続時間の日食が観測されるのかということは何百年も先まで予測することができる。その意味では、皆既日食がおこること自体には何の意外性もない。いっぽう、雨が降ること自体はしょっちゅう起こる現象だが、「明日は快晴、降水確率0%」と予報されているにもかかわらず雨が降り出したら大いに意外性があるということになる。要するに、「意外性」とは単なる「希少性」ではなく、人間が能動的な関わりを持つなかで、文脈に依存して規定されるものなのである。このことは、研究の価値自体も、学問の文脈に依存して決まってくることを意味する。時間が無くなったので次回に続く。 |
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【思ったこと】 _10405(木)[心理]象牙の塔と現場心理学(5)南風原・市川・下山編『心理学研究法入門』(3)研究の実用的価値 4/3の日記に引き続いて『心理学研究法入門:調査・実験から実践まで』(南風原朝和・市川伸一・下山晴彦、2001、ISBN4-13-012035-2)の中の「第1章 心理学の研究とは何か」(市川伸一氏)について感想を述べたいと思う。 今回はその中の「研究の実用的価値」について考えてみることにしたい。市川氏はこれについて
このような難しい面はあるが、やはり何らかの形で「実用的価値」に目を向けることは大切だろう。この連載のもともとのネタ本である『現場心理学の発想』(やまだようこ編, 1997)の中第4章「臨床現場と大学の狭間で」の中で下山晴彦氏は .....大学で行われている心理学は,建前としては人間の現実を理解するための学問であるのだろうが,実際は現実を理解するのとは異なったこと,時には現実を理解するのに障害となることをしているのではないかとの危倶さえ覚えることがある。たとえば,心理学の専門雑誌で採択される際に重視される基準では,現場で役立つか否かということはほとんど考慮されていないことは,投稿した際の審査者のコメントや掲載される論文の内容をみれば一目瞭然である。[p.56]と指摘しておられるがもっともなことだ。 だいぶ昔の話になるが、動物を被験体として心理学の卒論研究をすることについて、 動物実験の最大の実用的価値は、その実験をすることで卒論が書けることにある。 などという冗談を聞いたことがあるが、これが冗談でなくなってしまったのでは困る。ちなみにこの「冗談」は 因子分析の最大の実用的価値は、それを用いることで修士論文が書けることにある というふうにも モデル構成の最大の実用的価値は、それを検討することで研究業績がふやせることにある というふうにも書き換えることができる点に留意する必要がある。 |
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【思ったこと】 _10409(月)[心理]象牙の塔と現場心理学(6)心理学専攻に入学した学生が感じる「何かちょっと違う」(後編):関心のある現実とは? 4/6の日記の続き。4/9はちょうど新入生のオリエンテーションがあり、教員の自己紹介の際に私は、毎日Web日記を執筆していることと、その日記の中で、心理学専攻に入学した学生が感じるかもしれない「何かちょっと違う」現象を取り上げたことを披露した。 さて、こうした学生の「期待はずれ感」はどこから来るものなのだろうか。 私はこれまで、その主要な原因は、高校までに形成された誤解や過剰な期待に影響されていると考えてきた。 じっさい、心理学は高校の授業科目ではない。心理学という言葉を知るのは、まずは、週刊誌や通俗本やテレビの娯楽番組などであり、「心理学を学べば相手の心が読める」、「心理学を学べば心の悩みがすべて解決する」といった過剰な期待が形成されることは十分に考えられる。しかし、「期待はずれ感」の原因をそれだけのせいにしてしまってよいものか。 ここでもういちど論点を整理してみたい。まず、前回の引用に限って、心理学の研究に対する不満を集約すると
現実を扱わないがゆえに期待はずれ とは必ずしも言い切れないように思う。 では、関心をいだく現実とは何か。それは 自分が能動的に関わり、結果を得ている世界であること。 に尽きるのではないかと思う。行動分析で言えば、すなわち「関心をいだく現実とは、じぶんのオペラントが強化されている世界」ということだ。 自分が住んでいる世界であっても、能動的な行動が強化されなければ関心は示されない。自分の生活に身近に関係しているはずの政治に関心が高まらないのは、自分が何をしても変わりっこない(=自分の発するオペラントが強化されない)と受けとめられているためである。 次に、「関心をいだく現実」との関わりのなかで「心理学を学んでよかった」という満足感を与えるのはどういう場合か。それは 学ぶことによってもたらされる情報により、手がかりの不確実性、もしくは、結果が出現する不確実性が減少すること であると考えられる。 4/3の日記で、『心理学研究法入門:調査・実験から実践まで』(南風原朝和・市川伸一・下山晴彦、2001、ISBN4-13-012035-2)の中の「第1章 心理学の研究とは何か」(市川伸一氏)をとりあげた。その中の研究の情報的価値に関連して市川氏は
俗流の心理「学」が週刊誌やTV番組で多くの関心を集めるのは、エセ心理学を知ることで、相手や自分の行動に関して与えられている手がかりの不確実度が減少すると錯覚してしまうためであろう。これは占いでも同じで、いかに非科学的であっても、迷いを消す効果をもたらすものは常に強化的である。 以上をまとめると、心理学専攻に入学した学生が感じる「何かちょっと違う」を不満に終わらせず、「ああ、そうだったのか」という満足感をもって卒業させるためには、
ちなみに、「自分が能動的に働きかける世界」は個々人の生育歴の中でリパートリーとして形成されていくものであるため、時として非常に狭い世界に限定されてしまう恐れがある。趣味だけに生きる人もいる。象牙の塔に籠もってモデル構成に埋没する人にとっては研究対象だけが「自分が能動的に働きかける世界」になる。そういう意味では、学生の関心対象を固定化せず、関心対象を広げるための努力、言い換えれば、能動的な働きかけが強化される世界を広げる努力が別に求められると言ってよいかと思う。 |
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【思ったこと】 _10410(火)[心理]象牙の塔と現場心理学(7)南風原・市川・下山編『心理学研究法入門』(4)研究の外的妥当性 もうすぐ大学院の講義が始まる。受講生にぜひ一度訊いてみたいのが 研究の価値とは何か? ということ。その考えがしっかりしていないと、いくら頑張っても良い修論は書けない(←考えがしっかりしていても、頑張らなければ書けないのは当然のことだ)。 4/3の日記で引用した市川氏の『心理学の研究とは何か』は、
このうちの「意外性」については4/3の日記、「実用的価値」については4/5の日記で私の考えを述べた。 もう1つの研究の確実性だが、市川氏の『心理学の研究とは何か』では、宝くじが当たった話 「確実性」というのは,「(c)『5000万円あたった』とAさん本人から聞いた」という場合と「(d)『Aさんが5000万円あたった』と友人の友人の友人から聞いた」という場合の違いにあたる.(d)のように人づてになってしまうと,それだけ信憑性が低くなり,不確定度が残るために,情報としては価値の低いものになる.を例とした上で、研究の場合の確実性は .....しっかりとした論理や実証にのっとっているかどうかに関わる問題といえるだろう.であると説明している。 以上の説明は入門者のために分かりやすく配慮したもののようだ。同じ本の第5章『準実験と単一事例実験』(南風原朝和氏)の中では、この確実性は、研究の内的妥当性という別の呼称で、もう少し理論的に説明が加えられている。 研究の内的妥当性とは,処遇(独立変数)と結果(従属変数)の間の因果関係について,「この研究の結果,処遇の効果があることがわかった」とする主張の正当性に確信がもてる程度のことである. ところで、南風原氏は同じ章の中で、「外的妥当性」についても次のように説明している。 研究結果の一般化可能性は,研究の内的妥当性と対照させて,研究の外的妥当性(external validity)または外部妥当性ともよぱれる.この概念は、市川氏の言う「研究の実用的価値」と似ているように見えるが、じつは全く違うレベルの議論である。私の考えを述べるならば、
いっぱんに、科学的認識とは、自然界に厳然と存在する法則を人間が見つけ出す作業であるように思われがちであるが、行動分析はこれとは異なる立場をとっている。長谷川(1998a)は、佐藤方哉氏の『行動理論への招待』(1976、大修館書店)を引用しながら、補注の4で 自然界には確かに法則のようなものが人間から独立して存在する。それは、人類の誕生前から存在し、人類が滅亡した後でも、宇宙の構造が質的に変わらない限り、同じように存在するだろう。しかし、それを人間が認識するとなると話は違ってくる。「科学的認識は、広義の言語行動の形をとるものだ。人間は、普遍的な真理をそっくりそのまま認識するのではなくて、自己の要請に応じて、環境により有効な働きかけを行うために秩序づけていくだけなのだ。」というのが、行動分析学的な科学認識の見方と言えよう。佐藤(1976)は、この点に関して、科学とは「自然のなかに厳然と存在する秩序を人間が何とかして見つけ出す作業」ではなく、「自然を人間が秩序づける作業である」という考え方を示している。と述べた。この見地からは、一般化可能性とは、「人間による自然の秩序づけ」にとっての有用性に大きく関係していると言うことができる。 最初の話に戻るが、価値のある研究は以上述べたような
ところで、昨今の循環消費ブームに便乗することになるかもしれないが、私は、研究の価値として、もう1つ「再利用可能性」を考えてもよいのではないかと思っている。次回は、これについて考えてみることにしたい。 |
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【思ったこと】 _10413(金)[心理]象牙の塔と現場心理学(9)「遊民」と研究の再利用可能性 4/14朝5時台のNHK「五七五俳句紀行」で小林一茶を取り上げていた。一茶は、自分が土を放棄し「耕さず生き、耕さず喰らふ」(←記憶不確か)ことに罪の意識を感じていたという。ごく一部しか視られなかったので何とも言えないが、自給自足の力を持たない「遊民」を蔑む風潮があったのかもしれない。 近代の産業社会では、農工業の生産技術が進歩し人手がかからなくなったことと、芸術や娯楽やスポーツなど、人々の生活に潤いを与える職業が社会的に認知されるようになったため、直接生産に関わる仕事をしていないという理由で罪の意識を感じることはまずなくなった。 しかし、「生産に貢献しているか」という価値基準が失われていくにつれ、何をもって仕事の価値とするかという新たな問題が、仕事をするすべての人に問われるようになってきた。「学問・研究の自由」があり、研究者の給与上の生活が保障されていても、話は同じである。ただがむしゃらに実験を繰り返していればよいというものでもないし、自己完結的な満足をもたらすだけの研究活動であってはならないと思う。 さて、4/10の日記では、研究の価値ということについて、南風原・市川・下山編『心理学研究法入門』の第1章や第5章を引用しながら、研究の「情報的価値(意外性と確実性)」、「実用的価値」、あるいは「内的妥当性」、「外的妥当性」について考えてみた。その最後に述べたが、私はもう1つ、研究の「再利用価値」という概念もあってよいのではないかと考えている。 工業製品で言えば、「再利用価値」というのは「実用的価値」と違って、当初の目的とは違う形でそれが利用されることを意味している。3/17の日記にあるテニスボールの再利用などがその一例である。世の中には、実用的価値が高くても再利用が非常に難しい製品もあるし、逆に、実用的価値は低いが広範に再利用できる製品もある。 この「再利用可能性」というのは、心理学の研究の中でも特に事例研究の場合に考慮する必要があるかと思う。なぜなら、事例研究というのは、もともと利用価値の高い製品として外に出されるものではないからだ。事例そのものがすでに利用された状態であって、聴き手のほうは、その事例を再利用する立場にあると考えられる。 下山(1997、やまだようこ編『現場心理学の発想』.pp.53-62.)は、臨床心理学の主な研究法である事例研究法について 心理臨床学会の発表の大半を占める事例研究法は,現場の実践の研究法としては最も適したものであることは確かである。しかし,その方法論的特色を把握した上で使用しないと単なる事例報告に終わる可能性が高い。単に精神分析やクライエント中心療法の理論(仮説)をドグマとして受け取り,それをやってみたらこうなりましたという報告をしただけで,ある種の検証的研究をした気になってしまいやすい。その結果,自らの実践を心理学の方法として学問化する作業がなされないまま,学問をした気になり,自己満足は維持される。その場合,実践としても自己満足に終わって,創造性,発展性のないものとなる[pp.60]。という問題点があることを指摘している。そこでは発表者側の姿勢も大切だが、聴き手側にもそれなりの受信技能が要求される。「再利用価値」というのは、発表された研究それ自体の価値というよりも、発表者側と受信者側のインタラクションの中で新たに形作られるものと考えるべきだろう。 4/10の日記では、「研究の外的妥当性(=一般化可能性)」は「実用的価値」とは本質的に異なる概念であると述べた。ただ、元来、「一般化できる結論」というのは「誰でも利用できる結論」と同義であり、その意味においては、再利用しやすい価値と考えられないこともない。 もっとも、数学、物理学、化学などであれば、実証性や一般性のある発表こそに価値を見出すことができるのに対して、医療現場のようにあまりにも多様な要因が同時に関与する場面では、個別の事例から一般性を引き出そうとしても限界があるのは当然。また、仮に一般性が証明されたとしても、それを別の事例に機械的に当てはめることは殆ど不可能と言える。 となると、事例研究の価値は必ずしも外的妥当性によっては規定されない。むしろ、受信者のクリティカルな目を前提とした上で、再利用価値がどれだけあるかにもかかわってくるように思う。 なお、南風原・市川・下山編『心理学研究法入門』は、今年度前期に行われる大学院特殊講義のテキストとして使うことになっている。近々、公用サイトのほうに、院生のリビューなども掲載していく予定である。 |
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【思ったこと】 _10415(日)[心理]象牙の塔と現場心理学(10)「乗り換え案内」、「時刻表」、「旅行ガイドブック」は、なぜ学術書ではないのか? 今回の連載では、心理学の研究の情報的価値(意外性と確実性)や実用的価値の問題を取り上げてきた。じつは、研究に限らず、コミュニケーションの中で行き交う諸々の情報は、何某かそれらの価値を有するものである。そこで、日常社会からいろいろな事例を拾い上げてくることによって、それらの意味がより明確になってくるのではないかと考えた。 乗り換え案内 新幹線に乗っていると、それぞれの駅で停車する直前に「次の○○線は××時××分発、△△番線から...」というような乗り換え案内の放送がある。この情報は、その線への乗り換えを予定している乗客だけに有用、他の乗客にはノイズにしか聞こえない。 4/10の日記で 実用的価値というのは、その情報を利用する者にとっての有用性に近い概念。つまり、賢明な利用者が存在し、特定のニーズがあって初めて生じる価値である。また、通常は、日常生活上での有用性を意味することが多い。と述べたが、実用的価値が利用者側のニーズに依存するという考えは、まさにこの乗り換え案内を例にすると分かりやすいのではないかと思う。 時刻表 駅の売店や本屋で売っている時刻表は、なぜ学術書とは言えないのだろうか。バカげた設問のように思われるかもしれないが、いちど学生に質問してみたいと思っている。時刻表には意外性は無いが、確実性は絶対に必要だ。また実用性は抜群である。乗り換え案内と違って、多様なニーズに応えられる価値を持っている。 ガイドブック 旅行のガイドブックは、
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【思ったこと】 _10416(月)[心理]象牙の塔と現場心理学(11)時刻表と学術書の違い(続き) 昨日の日記で 駅の売店や本屋で売っている時刻表は、なぜ学術書とは言えないのだろうか。時刻表には意外性は無いが、確実性は絶対に必要だ。また実用性は抜群である。乗り換え案内と違って、多様なニーズに応えられる価値を持っている。と書いた。時刻表を取り上げたのは、その前段で、乗客のニーズによって実用的価値が決まる「乗り換え案内」と対比させるためだったのだが、よく考えてみると、もっと深い意味があることに気がついた。 ここでいう時刻表とは、単に「JRや他の私鉄、航空会社などが発表したダイヤをそのまま転載にしたもの」ではなく、ダイヤグラムの作成過程を含むものとする。理科年表や天文年鑑に掲載されている各種の予報数値表と違うのは、あくまで人間の創作物であるということだ。月齢や皆既日食の予報は人間の都合で勝手に変えることができないのに対して、時刻表の数値は、輸送のニーズや採算性などに基づいて「自由に」作り替えることができる。 「時刻表はなぜ学術書ではないのか?」に対するありがちな答えとして「理論が示されていないから」が予想される。確かに時刻表のどこを見ても、ダイヤ作成の理論や、ダイヤを改正した根拠となるデータは示されていない。しかし、いま述べたように、ダイヤそれ自体は、乗客数の予測、採算性などを十分に考慮して作成されたものであり、そこにはなにがしかセオリーが介在している。そういう意味では、設計書と似たような性格をもつと考えてもよさそうだ。 ダイヤが改正された時点で古い時刻表の実用的価値は無くなる。しかし、たとえば15年前の時刻表が書棚にあれば、
今年の1月に、1985年当時の様子を伝えるポストカプセルの話題を何度か取り上げたことがあった(第1回目は1/9)。右の画像は、同じ封書に入れられていた時刻表の地図の切り抜きの一部である。九州北部に網の目のように鉄道網が張り巡らされていたことが分かる。当時はまだ国鉄の時代。この地図では他に、青函連絡船や宇高連絡船、北海道内の各種ローカル線が描かれており、単に懐かしさを与えるだけでなく、当時の交通網を知る貴重な資料にもなっている。最初の議論に戻るが、「時刻表はなぜ学術書ではないのか?」あるいは「心理学の研究における価値は、時刻表の価値とどこが似ていてどこが違うのか」を考えることは、実験研究から事例報告、概論書などの研究価値を問い直す上で大いに意義深いものになると思う。私自身はしばらく回答を留保しておきますが、「時刻表はなぜ学術書ではないのか?」に対して、これぞと思うアイデアをお持ちの方はお互いを更新する掲示板に書き込みをいただければ幸いです。 |
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【思ったこと】
_10425(水)[心理]象牙の塔と現場心理学(番外編) 満1歳になったチンパンジーから何を学ぶか R研究所のチンパンジーのアユムが満1歳になったという。チンパンジーの赤ちゃん自体はそれほど珍しくはないが、アユムの場合はちょっと違う。世界でも有数の「言葉を覚えたチンパン人」として知られるアイが母親であり、そのアイの母親の胸に抱かれたまま、言葉の勉強に参加しているからである。 4/25の朝日新聞・文化欄でM教授は、この1年間に分かったこととして次の点を紹介しておられる。
人間に固有なものだと思われていた能力や反応が、少なくとも一例、人間以外の種においても存在することが確認された。 というように、「定説」を覆す意外性を示すことにある。決して、チンパンジーという種のどの個体でもできるということを示したわけではないし、チンパンジー一般に見られる行動法則を明らかにしたわけでもない。このことに関しては、98年3月25日の日記「サーカスの曲芸と「天才」チンパンジーのちがい」で考えを述べたことがある。合わせてご参照いただければ幸いです。 ここで98年3月25日に挙げた実験例でちょっと補足をしておきたい。「青い色の5本の歯ブラシ」を見せらた時、「青」、「5」、「歯ブラシ」という3つのボタンを押すことができると述べたが、その際の押す順序としては
だいぶ昔の霊長類学関係の研究会で、この種の順序に関して、アイがいつも同じ順番でキーを押すことが話題になった。その時、私は、一頭のチンパンジーだけでそのような事実が示されたとしても
元の話題に戻るが、朝日新聞記事では最後に アイとアユムの1年から見えてきたものを、野生チンパンジーでの知見と重ね合わせてみると、どちらの場面でも、親やおとなと一緒に暮らす中で、そのようすを一長い時間をかけてじっと見守りながら学んでいく子どもの姿が見えてくる。という記述があった。これはM教授独特のリップサービスであって、研究の成果から導き出された結論ではない。新聞記事自体にあった見出し「親が手本を示す」が教育というのも、あくまで野生のチンパンジーの世界における「教育」の特徴を述べているにすぎない。 チンパンジーでさえ、あのようにしているのだから、人間はなおさら..... というレトリックは一般に強い説得効果をもたらすが、しょせんはイソップの寓話と同じタイプのアナロジーであって、学術的な見解とは言い難い。じっさい、なんでもチンパンジーの真似をしていたら、子殺しもイジメも正当化されてしまうのだ。 他の種の行動から多様な適応戦略のヒントを得ることには価値があるとしても、やはり人間世界の問題は人間世界を直視する中で解決の道を探ることしかできない。他種の生命体から教えを受けることのできない人間という種は、宇宙では孤独な存在であると言えよう。 |
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【思ったこと】 _10504(金)[心理]象牙の塔と現場心理学(番外編) 心理学の法則と囲碁の格言 東京・自宅には、囲碁の本が数十冊置かれている。父が買い揃えたものであり、父はこれを読んでアマ三段まで上達した。もっとも私のほうは、いっこうに上達しない。せいぜい、Windows用の「お気軽」な囲碁ソフトで、ハメ手で勝つことを楽しむぐらいなものである。 そんな本の中に『囲碁格言』とか『囲碁名言』といったたぐいのものがある。 格言は
しかし、こうした格言や名言を学ぶことで実力がアップするとなれば、それらにも何らかの有用性があることになる。自然科学の世界では、いっぱんに対象を分析し、法則を発見し、実証し、その成り立つ範囲を確定することで研究の進歩があると考えられている。そういう方法をとらない「格言」や「名言」が有用であり続けるのは何故だろうか。 『囲碁格言パート1」(上村邦夫、日本囲碁連盟『囲碁研究』昭和63年3月号付録)の前書きで上村氏は 私はアマチュアにとって、格言は非常に大切であると考えています。格言は、筋や形の要約集ですから、格言を理解できれば、攻めや守りに大いに役立つと思います。...[中略]...格言は、先人達の知恵。碁の格言には、碁の知恵がつまっているのです。また、上掲の『囲碁名言集』の助言で坂田氏は、 アマチュアの碁の一番の欠点は、考え方がせまい、視野がせまい、ということではないでしょうか。部分にこだわったり、構想に飛躍がなかったりするのは、そのせいだと思います。定石や手筋を覚えても、考え方がせまいため、有効に活用できないのです。いま立っているところから、ほんのちょっとでもいい、角度をかえて見ることができれば、ぐっと視界がひらけ、思想のハバがひろくなってきます。と述べている。これらに記されているように、
さて、本来「格言」や「名言」というものは、人生の諸問題について、多様な実践体験を簡潔に言い表したものである。それらが有用であり続けるのは、先人と自分自身のあいだにかなりの程度の共通体験があるためと考えられる。個別には分析、法則化されていなくても、種々の問題を包括的にとらえ、包括的に対処できるならば有用性が損なわれることはない。 では心理学の研究の場合はどうなのだろうか。心理学でいう法則や原理は、囲碁の「定石、手筋、形」に近いところがある。となると、個別に法則や原理を羅列するだけでは、日常生活に活かすことはできない。その一方、そういう法則や原理に立脚しない「格言」や「名言」ばかりでは、確かにそうだと感じた時に納得することはあっても、なぜそうだと感じるのか、それをどう活かせばよいのかということについて積極的な改善策を生み出すことができない。 名言や格言とは性質が違うが、最近では、米国大統領選挙や小泉新首相の発言などに関連して「サウンドバイト」という言葉が使われるようになってきた(←4/28の日記読み参照)。 大前研一アワー38 一人勝ちの経済学は、これに関連して 最近の若い世代は、「サウンドバイト(ほんの短いメッセージ)的思考」であるといわれます。直感的に物を考え、あまりロジックを形成することがないのです。これにはマスコミの影響も大きく関与しています。つまり、メディアによる「刷り込み」が行われているのです。このような環境では、「メガヒット」が生まれやすくなっています。 と述べている。格言や名言とサウンドバイトも、短いメッセージで納得を与えるという点では共通するものがある。問題は、
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