じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa



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「活きる」ための心理学講義メモ(全4回、各2時間)

2004年6月26日〜2004年7月24日
ライフパーク倉敷


本サイトは、Web日記に連載した講義メモを1つのファイルにまとめたものです。
目次


関連リンク


【思ったこと】
_40626(土)[心理]「活きる」ための心理学(1)やる気の起源

 自治体主催の生涯学習講座(4回シリーズ)の出講1回目。今回は「やる気の起源」というテーマ。
  • 行動が長続きしないのは「やる気」が無いからだ、とよく言われるが、本当の原因は「意志の弱さ」ではない。
  • 意志があろうと無かろうと大部分の行動(=オペラント行動)は行動の結果によって影響を受ける。
  • 行動が長続きするかどうかはその行動が「確実な成果を上げているかどうか」にかかっている。
  • 目に見えるような成果(=結果)が伴わない場合は、いろいろな結果が伴うように工夫をしてやれば、「やる気」が起こるようになる。
といった話をさせていただいた。




 まず、参加者自身に、「やりたいと思っているが、長続きしない行動」と「熱中している行動(できれば、熱中しすぎて困っている行動)」を1つずつ挙げてもらった。それらについて、
  • 長続きしない行動の原因:
    • 結果が小さすぎるか不確実
    • 競合する行動のほうが強化されている
    • 単純反復(累積的進歩や達成が見えてこない)
  • 熱中する行動の原因
    • 結果が適切な大きさで確実に伴っている
    • 結果の伴い方に特徴がある(ギャンブルのように、時々意外な結果がもたらされるほうが熱中しやすい))
    • 邪魔が入らない(競合する行動が少ない)
    • 累積的進歩や達成度が明確
といった特徴が無いかどうか点検してもらった。




 次に、「いろいろな結果が伴うように工夫をしてやれば、「やる気」が起こるようになる。」という事例として、「毎日30分走る」という行動を取り上げた。この行動が長続きしない場合、「30分走った」という日々の行動に明確な結果が伴っていないことが原因として考えられる。そこで結果を増やす方策として、
  • 自然に伴う結果を増やす
    • コースを変更し、眺めの良い場所を走る。当たりの景色や、出会う人々、動物たちが新たな結果を与えてくれる。
  • 自分で結果を増やす
    • 自己記録の更新を目ざす(速く走る目的があるならば、記録更新にチャレンジすることは大きな励みになる)
    • 累積記録をとる(何回走ったのかをカウントし、100回達成、200回達成、というように区切りの達成を祝う)
    • 通算何キロ走ったのかを地図で表す(例えば、旧東海道を描き、通算走行距離を走破した道のりとして表示してみる)
  • 外部から与えられる結果とリンクさせる
    • 同好会で競争、もしくは協同(合算)してみる)ライバルとして励まし合うのもよいが、競うのが嫌な場合は、メンバー全員の走行距離の合計を上記の東海道の道のりに換算することも一案。この場合は、みんなで助け合うことで、日々の行動を強化できる。)
    • 競技大会に出場(そもそも種々の大会というのは、そこで優勝することよりも、優勝をめざして努力するプロセスにこそ意義がある)
    といった工夫が考えられることを紹介した。

【思ったこと】
_40629(火)[心理]「活きる」ための心理学(2)「手段が目的、目標は手段」という発想

 自治体主催の生涯学習講座(4回シリーズ)の出講1回目の内容の続き。

 講義のおわりのほうで、「人生に目的は必要か」というような問題提起をしておいた。これは4回目の講義への準備という意味もあった。ちなみに、私自身は、あまり大きな目的は考えない方がよい、但し、目標を持って行動したほうが「お得ですよ」と考えることはできるという立場をとっている。

 なお、ここでは

●目的:人生の目的/教育の目的/将来の夢
●目標:当面の達成目標/数値目標/目的と目標の違い

というように、「目的」と「目標」を便宜的に使い分けている。この区別、シラバス執筆の際の「学習目的」、「到達目標」といった分け方に一致するものであるが、「目的指向システムデザイン」と言った場合は、上記の「目標」の意味も含まれており、それほど厳密ではない。英語の「purpose」、「goal」、「aim」、「objective」などの使い分けについても厳密に比較検討したわけではないことをお断りしておく。




 さて、ネット上で「人生の目的」というようなキーワード検索をすると容易に気づくように、上位でヒットするのは、宗教団体のサイトばかりでオススメできない。中には、岡大で正体を隠して執拗な勧誘をしている団体もある(但し、五木寛之の『人生の目的』(幻冬舎文庫)の書評サイトもけっこう多いようだ)。

 しかし、しょせん「人生には目的がある」などということは実証できるものではない。「目的が必要」を説く人々もたいがいは、「目的が無いと困る」と言っているだけにすぎない。

 また禁欲主義者のロジックを援用すると、むしろ「目的は少ない方がよい」という結論さえ出てくる。すなわち、禁欲主義者のいう「人間には限りない欲望があり、その欲望を次々と満たそうとする。しかし、欲望が大きくなればなるほど、欲望の達成は難しくなる。欲望の不達成は大きな不快感をもたらす。したがって、幸せで安定した心境を維持するためには、欲望を少なくした方が良い。」という理屈で、「欲望」を「目的」に置き換えてみると、
人間には限りない目的があり、その目的を次々と満たそうとする。しかし、目的が大きくなればなるほど、目的の達成は難しくなる。目的の不達成は大きな不快感をもたらす。したがって、幸せで安定した心境を維持するためには、目的を少なくした方が良い。
と言えないこともない。じっさい、スポーツ選手や冒険家の中には、次々と目標を膨らませていって最後は自滅してしまうケース(←御本人は満足しておられるのだと思うけれど)も少なくない。

 さらに、「人はなんのために生きるのか?」などという実証不能な問いで悩み続けることは時間のムダになるかもしれないし、高齢、さらに痴呆が進んでくると、自分の見つけた「生きる目的」自体の遂行が危うくなるかもしれない。

 以上のような理由から、「人生には目的がある」などといった窮屈なライフスタイルは、少なくとも私はオススメしない。それよりも、「目的があると便利」なのはなぜかというプラグマティックな考えをとり、必要に応じて、達成可能な範囲で目標を立てていったほうが「お得」ではないかと思っている。

 ではどういう点で「お得」なのか。このことは教養科目の授業の中でも話している通りであり、
  • 目標を達成すること自体よりも、そのプロセスにおける努力の蓄積自体に意味があると考える。
  • 目的設定により、個々の行動に伴う結果自体を大きくすることができる(確立操作)
  • 単発の「行動→結果」関係だけでは結果への飽和化(←飽きてしまう)がおこりやすい。
  • 行動に伴って目に見える形の達成が伴うこと、あるいはその行動が目的とする方向と逸していることそれ自体が正の強化子(好子)となっている。
  • 目的を設定すれば、それを邪魔するような競合的な行動(=誘惑)は弱化されやすくなり、ふらつき(=迷い)が減る。
といった点を挙げることができるだろう。

【思ったこと】
_40703(土)[心理]「活きる」ための心理学(3)「性格」概念の有用性と限界

 自治体主催の生涯学習講座(4回シリーズ)の出講2回目。この日のテーマは「性格と行動」であり、
 自分や他人を理解することと、性格を知ることは同じことであるように考えられがちですが、それだけでは不十分です。血液型性格判断などの俗説の問題点を指摘しながら、毎日の行動がどういう仕組みで起こっているのか、理解することを目ざします。
という趣旨で2時間の講義を進めた。

 前半では、まずパーソナリティあるいは性格の定義について簡単に紹介した。なおこの件については、長谷川が学部演習の一環として開設したミニマムサイコロジーというサイトにも、受講生が作成した解説記事があるので参照されたい。

 次に、長谷川自身は、「性格」概念を
  1. 多種多様でバラバラな行動傾向を分類整理した記述概念にすぎない
  2. 行動の原因にはならないが、将来の行動の予測や適性や相性の判断などに役立てられるという一定の有用性がある
と考えていることを表明した。

 上記のうち2番目は、食べ物の好みを例にとれば分かる。例えば、大切なお客を食事に招待する場合を考えよう。何百種類もの料理について、そのお客の好みの個別に調べることは現実に困難である。しかし、お客の好みを「和食嗜好」、「洋食嗜好」、「中華嗜好」というように3つの軸で分類整理しておけば、次にどういう料理を用意すれば喜ばれるかということがある程度予測できるようになる。

 同様に、ある性格検査でその人の社交性が高いか低いかを知っておけば、その人が大勢の人々の前でどういう行動をとるかということがある程度予測できる。

 このような有用性があるとはいえ、「性格」は必ずしも行動の原因ではない。上の例で、あるお客が「中華嗜好」であったとすると、そのお客は「酢豚」や「八宝菜」や「餃子」、あるいはもっと高級な「北京ダック」や「フカヒレ料理」をたくさん食べるかもしれない。しかし、それは決して「中華嗜好」なる脳内物質やら脳内回路があって、「中華料理を食べる」という行動の原因として機能しているわけではない。何かを選んで食べるという行動の原因は全く別のメカニズムによって起こるのである。

 「性格」は行動の原因ではないという事例として、このほか「紙と石にマッチの火を近づける」という例を挙げることがある。紙と石の同時に火をつければ

●紙→燃える→紙には「燃えやすい性質」
●石→燃えない→石は「燃えにくい性質」

というようにそれぞれの「性格」が見出され、これを知ることによって例えば、
  • 紙がいっぱいある場所では火の用心
  • 石ばかりが置かれた場所は火事になりにくい
といった日常生活上有用な予測をたてることができる。とはいえ、ある時点で紙が燃えたかどうかの真の原因は、紙の「燃えやすい性質」ではなく、そのときに火を付けたかどうかにかかっているのだ。

 「同じ環境」に置かれた複数の人間がそれぞれ別の行動を起こした時、我々は、その差違は個々人の「性格」の差によって生じると考えがちである。しかし、それは
  1. 個人から独立して存在する物理的な環境空間
  2. 個人の行動の影響を及ぼす環境要素の集合(=行動随伴性の対象となる、弁別刺激、好子、嫌子、オペランダムといった要素)
の2つを混同したための錯覚にすぎない。上記2.は上記1.の部分集合にすぎず、どの要素を含むのかは個人個人によって違っている。だからこそ異なった行動が起こったり、個体差が生じたりするのである。

 「個体差」あるいは「性格の違い」を行動の原因と見なしている限りは、行動を前向きに改善することはできない。「性格を変えればいい」などと無責任なことを言っても、具体的な方策を見出すことは不可能であろう。

【思ったこと】
_40704(日)[心理]「活きる」ための心理学(4)質問紙性格検査のしくみ

 自治体主催の生涯学習講座(4回シリーズ)の出講2回目のメモの続き。

 2回目の講義の前半では、質問紙性格検査のしくみについて簡単に解説した。

 ネット上でゲーム風にアレンジされた「性格診断」をよく見かけるが、それらは、たいがい、開設者が質問項目を主観的に選択し、「名人芸」とも言える表現ゆたかな解釈文で「当たっている」と思わせるしかけとなっている。

 これに対して、正式な質問紙検査の場合は、
  • まず、測ろうとしている特性に関連のありそうな質問をたくさん作る
  • 予備検査により、不適当な項目を除去
  • 尺度の内的整合性を高める
といった手続をちゃんと踏んでいる。

 質問紙性格検査が考案された当初は、回答者の答えを真実の自己表現として解釈できるかのかどうかという疑義があった。
  • 被験者は自分自身を十分に知らない。
  • 被験者の回答は時により変化する。
  • 被験者の質問項目の解釈は人により異なる。
  • 被験者はうそをつく、被験者は回答を歪曲している。
といった問題点である。

 しかし現在では、質問に対する被験者の回答は、1種の言語刺激である質問に対する被験者の反応であり、その反応の解釈は、1連の質問に対する反応との関連において初めて意味をもつ(このあたり『実験とテスト』旧版解説編より、一部転載改変)。

 この考えに基づけば、例えば「あなたは神経質ですか」という問いに「はい」と答えたからといって「神経質」ということにはならない。場合によっては「いいえ」と答えた人のほうが「神経質」と判定される場合もあるし、全く別の特性を調べている質問であるのかもしれない。

【思ったこと】
_40705(月)[心理]「活きる」ための心理学(5)性格検査が「当たっている」と思われるわけ

 自治体主催の生涯学習講座(4回シリーズ)の出講2回目(7月3日実施)のメモの続き。

 昨日の日記で、質問紙性格検査の質問項目は一種の言語刺激に過ぎず、その質問に対する被験者の回答や反応の解釈は、1連の質問に対する反応との関連において初めて意味をもつ。 それゆえ、「あなたは神経質ですか」という問いに「いいえ」と答えたほうが「神経質」と判定される場合もありうると述べた。じっさい、「自分をよく見せかける傾向」を測る質問項目の中には、質問の論理的な意味内容が測ろうとする傾向と全く異なっている場合もある。

 しかし、質問紙性格検査の項目全体を眺めると、質問の意味内容と測ろうとしている特性が論理的に一致している項目が圧倒的多数を占めていることもまた事実である。例えば、ある質問紙検査では、社会的外向性を測ろうとする質問として、
  • 色々な人と知り合いになるのが楽しみである【という質問に「はい」と答える】
  • 知らぬ人と話すときはかたくなる【という質問に「いいえ」と答える】
  • こちらから進んで友達を作ることが少ない【という質問に「いいえ」と答える】
  • 人と広くつきあうのが好きである【という質問に「はい」と答える】
  • 誰とでもよく離す【という質問に「はい」と答える】
といった項目が採用されている。いくら「単なる言語刺激」と言ったところで、これらは結局のところ、「社会的外向性とは何か」を定義していることと大差ない。




 さて、上述の事例で、「社会的外向性あり」と「診断」された人がいたとする。その解説文のところに、
あなたは社会的外向性があります。あなたは、色々な人と付き合うのが好きで、それを楽しみにしています。自分から進んで友達を作ろうとします。誰とでもよく話し、知らぬ人と話してもかたくなることはありません。
などと書かれていると、その人は、「ホンマ、その通りだ。何てよく当たっているんだろう。」と驚いてしまうに違いない。

 しかし、実は、解説文に書かれていたことは、質問項目の文をちょっとだけ書き換えたに過ぎない。回答者がウソをついていない限りは、当たっているのが当然なのである。

 ネット上でゲーム風にアレンジされた「性格診断」が「よく当たる」と思われるのもこれと同様のからくりである。この種の診断の解説文は、実質的には、回答者が「はい」と答えた質問内容を表現豊かな「名人芸」で書き換え、ありがちな予想を付け加えただけのものにすぎない。

【思ったこと】
_40706(火)[心理]「活きる」ための心理学(5)投影法性格検査の問題点

 自治体主催の生涯学習講座(4回シリーズ)の出講2回目(7月3日実施)のメモの続き。

 質問紙法性格検査のしくみと、「当たっている」とおもわれるわけについて説明したあと、投影法検査として、ロールシャッハ、PFスタディ、TAT、バウムテストなどの概要を紹介した。投影法検査は、回答の際に自分を飾るとかウソをつくことが起こりにくく「個人の潜在的なパーソナリティを引き出すことができる」などの長所があると言われている。

 しかし、その一方で、あてにならないとの批判もある。今回の講座では、

●『あてにならないロールシャッハテスト』(日経サイエンス 2001年8月号、原著者 Scott O .Lilienfeld/James M. Wood / Howard N. Garb。原題 What‘s Wrong with This Picture? 、SCIENTIFIC AMERICAN May 2001)

を引用しながら、投影法検査には
  • 「6人に1人が精神分裂病(←2001年当時の呼称)」:1999年、カリフォルニアで献血に協力した123名の成人を対象にロールシャッハテストを実施し、その結果をある種の方法で得点化したところ、1/6の人の反応が精神分裂病(←当時の呼称)と評価される数値を示した。
  • TAT(主題統覚検査)を直観的に解釈する臨床家は、心理的な異常を過大に診断する傾向があるというエビデンスも出ている
  • バウムテストなどの描画テストの主観的解釈
といった問題点があることを紹介した。なお、これに関連する内容は6月15日の日記に記されている。

 6月15日の日記でも述べたように、投影法テストは、何かを客観的に測るツールというより、クライエントとのコミュニケーションツールとして有用であろう、というのが私の考えだ。もちろん、明らかに異常がある場合は、これらのテストで特徴的な結果が出るに違いない。しかしたいがいの場合は、むしろ、面談時のコミュニケーション手段として有用であるにすぎない。

 占いでは、水晶玉、虫眼鏡、カードなどを使って来談者とコミュニケーションをはかられる。しかし熟練した占い師は、占いの「客観的結果」ではなく、来談者の態度や発話の内容を長年の経験に基づいて的確に読み取り、よりよきアドバイスをするのである。心理カウンセラーが種々の投影法検査を使う場合も、基本的にはそれと大差ない。結局はカウンセラー自身の熟練度、経験度に委ねられる部分が多いのではないかと思っている。

【思ったこと】
_40713(火)[心理]「活きる」ための心理学(7)「血液型性格判断」の論点


 7月3日の講義の後半では、「血液型と性格」について、10年前に執筆した『現代のエスプリ』論文:

●長谷川芳典 (1994). 目分量統計の心理と血液型人間「学」.詫摩武俊・佐藤達哉(編) 現代のエスプリ324 『血液型と性格 その史的展開と現在の問題点』,pp. 121-129. 【以下、「エスプリ論文」と略す】

をもとに論点を整理し、さらに、最近の「血液型」の動向、差別番組の弊害、信奉者のロジックの誤りについて指摘した。

 講義ではまず、エスプリ論文の内容に沿って、既存の「血液型人間性格判断」には
  • 標本の大きさを無視して比率だけを見る
  • 標本の偏り
  • 有意差が出たデータだけをつまみ食い
  • 性格傾向や行動特徴の分類基準が曖昧。見かけ上の偏りがいちばん出やすいポイントに基準をスライドしている可能性あり。
といった問題点があり、科学の名に値しないレベルにとどまっていることを強調した。

[エスプリ]  次に強調したのは、「血液型と性格は全然関係ありませぇーん」などとは決して断定していないということ。右のコピーは、エスプリ論文の一部をコピーしたもの。そこでは
 以上、確率現象の錯覚や統計学誤用という観点から、血液型人間「学」のからくりを考えてきたわけであるが、これらを指摘したからといって「血液型と性格はまったく関係がない」ということにはならない。筆者は、約一〇年前よりこの問題をとりあげてきたが(7)(8)、その主旨は、第一に、血液型人間「学」と呼ばれる俗説のデタラメな「分析」方法を批判すること、第二に、「血液型と性格」には少なくとも日常生活場面で問題になるほどの相関はないことを反例の形で示すことにあった。純粋に科学的なレベルで「血液型と性格がまったく関係ない」かどうかは私にはわからないし、この問題についての科学的研究を妨げるつもりもない。
【文中の丸括弧つき数値は、引用文献番号を示している。以下同様。】
と述べている。多くの心理学者も私とほぼ同じ態度をとっている。

 私が、かつて教養科目「心理学」の受講生や公開講座の受講生を対象にいくつかの性格テストを行い、「血液型による顕著なさは認められない」という結果を得たのは、決して、「血液型と性格は無関係である」と実証するためではなかった。エスプリ論文では、この点に関して
 まず、血液型人間「学」の実用性については、現時点ですでにはっきりと否定することができるだろう。ここで実用性とは、日常生活場面での相性や職業適性を理解するうえで役立つ情報ということを意味する。たとえば「A型はO型より笑い上戸になる確率が一%だけ高い」ということが実証されたとしても現実の人間理解には何の役にも立たない。実用レベルでの有用性を否定するだけであるなら、任意に設定した集団のなかで「血液型が違っても行動特性にそれほど顕著な差は認められない」こと、あるいは「同じ血液型者のなかにもいろいろな性格の人がいる」という事例、つまり二、三の反例を示すだけで事足りる。過去に私が報告した資料(7)(8)は決して無作為抽出されたデータに基づくものではないが、実用レベルでは役立たないという反例を示す資料としてはそれなりの価値があったものと考えている。

 いっぽう純粋に科学的なレベルで「血液型と性格」の関係を主張しようとするならば、二、三の事例を示せば十分というわけにはいかない。「性格」の測定方法を厳密に定めたうえで、大量のデータを集める。そして、すでに指摘したように、単に有意差が出た項目だけに注目するのではなく有意差が出なかった項目をも包括するかたちで「血液型気質相関説」を構築していく必要があるだろう。
と述べている。純粋に科学的レベルで血液型特有の行動傾向が認められようと、認められまいと、とにかく、実用に耐えうるような顕著な差でなければ、日常生活行動の予測や、適性や相性の診断には使えない。そんな不確かな道具は、エラーを増やし差別や偏見を助長するだけだ。視聴率稼ぎのために「△型には××という傾向がある」などと吹聴することがいかに無責任であるか、民放テレビ局(一部)はもっと真剣に考え直すべきである。

 「血液型と性格」について取りうる、真の科学的態度について、エスプリ論文は次のように記している。
 ここで強調しておくが、血液型人間「学」がある種の普遍性を主張する「理論」であるのに対して、「血液型と性格は関係がない」というのは理論ではない。研究の出発点となる作業仮説にすぎないのである。理論は一つの反例によって崩すことができるが、作業仮説に反例を示したってしょうがない。「血液型と性格は関係がない」という作業仮説のもとに地道にデータを集め、ある性格的特徴について明らかに血液型との関係を示すようなデータが安定的に得られた時に初めてこの仮説を棄却するのである。これこそが、雑多な変動現象の中から帰納的に規則性を見い出そうとするときにとるべき科学的態度である。


 さて、何はともあれ、エスプリ論文から10年が経過した。講義の終わりでは、その後の論点の変化、最近のテレビ番組や新聞記事などについて触れたが、時間が無くなったので次回にまわすことにしたい。

【思ったこと】
_40714(水)[心理]「活きる」ための心理学(8)最近の「血液型性格判断」事情

 自治体主催の生涯学習講座の出講2回目(7月3日実施)のメモの続き。

 こちらの資料集に記してある通り、「血液型性格判断」については、1994年にエスプリ論文、その後1997年に『発掘!あるある大事典』で、「検証! 血液型性格のウソ・ホント」なる特集があった時にいくつか追記をした程度で、その後はすっかり遠ざかっていた。その理由は、このページはなぜ長期間、開店休業状態になっているのか。に書いた通りだ。要するに、特に話題になるような出来事が無かったというのが主たる理由であった。

 もっとも、今年の6月頃、TBS系のホムクルなる番組が、北大医学部のS教授なども登場させて、
最近の医学によって『血液型が性格に関わりがある』ことは、もはや否定しようのない事実となった。

最先端の科学者たちが指摘する最新学説、『血液型によって、脳には得意不得意がある』を証明する!!
などと吹聴、また、ネットで検索したところ、私は番組自体は視ていないのだが、TV朝日系の「決定! これが日本のベスト」という番組でも、今年の6月13日に血液型ランキングなる放送をやっていたことが分かった。

 この時期になぜ、こういう話題が執拗に取り上げられたのかはよく分からないが、たぶん、従来のクイズもののネタが底をつき、単純なトリビア知識提供だけでは視聴率が維持できなくなったことに一因があるのではないかと思う。




 さて1994年あるいはそれ以前には、「血液型性格判断」批判の論点の1つとして、「フリーサイズ効果」と言われるものがあった。要するに、誰にでも当てはまるような特徴を、ちょっとだけ形容詞を変えて、すべての血液型に当てはめるというトリックであった。

 しかし、最近のテレビ番組は、フリーサイズではなく、むしろ「決めつけ、ステレオタイプ型」が目立つようになってきた。じっさい、上掲の血液型ランキングでは、
  • A型 堅実で協調性が高い
  • B型 楽天的でマイペース
  • O型 おおらかで負けず嫌い
  • AB型 個性的で2面性を持つ
あるいは
  • A型 「ストレス」に弱い ガン・心臓病に注意
  • B型 「ウイルス」に弱い 悪性インフルエンザ・各種感染症に注意
  • O型 「消化器」系が弱い 胃かいよう・胃炎に注意
  • AB型 ガン・心臓病に注意
などと、堂々と主張されている。このページの下部には、

●血液型ですべてが決まる訳ではありません。決めつけや偏見はやめましょう。

などと、血液型差別だという告発を恐れたのか、アリバイ的な断り書きが書かれているが、断れば免罪というものではなかろう。「血液型ですべてが決まる訳ではありません。」という文は、裏を返せば、「少なくとも部分的には血液型で決まる」と言っているのと同じだ。ちなみに、上掲のもう1つの番組「ホムクル」でも「A型は几帳面」、「O型は社交的」、「B型はマイペース」といった特徴づけが行われていた[6/19の日記参照]。




 このように具体的な主張が行われていることは、じつは心理学者にとってはむしろ喜ばしいことである。なぜなら、主張が具体的でるということはそれだけ、反証可能であるということ。例えば、2つの番組ではいずれも、「B型はマイペース」とされているが、それが本当に、日常生活行動に影響を及ぼすほど顕著なものであるかどうかは、
  • マイペースかどうかを判別する尺度、もしくは、行動観察の際の客観的な基準を作る
  • そのもとで、無作為に抽出された集団において、血液型の違いによる顕著な差があるかどうかデータを調べる
  • なお、上記の判別においては、いわゆるインプリンティング効果(「マイペースだ」とレッテルをはられることで、自分はマイペース人間だと思いこんでしまうこと)を排除できるような判別方法を用いる必要がある
という手順を踏めばすぐに分かることである。

 また、もし血液型ランキングが主張するように、本当に「B型が悪性インフルエンザに弱い」であれば、インフルエンザワクチンの在庫が少ない時にはB型から優先的に接種すればよい(←「ホムクル」ではA型が「免疫力が弱い」と言っていたようだが、どっちが正しいのだ??)。

 なお、これらの議論は、本シリーズの目的である「講義録」から逸脱するので、別スレッド「血液型差別をネタにしないと娯楽性を保てない番組、それをもり立てる大脳生理学者 」という連載の続編として、時間がある時に取り上げていきたいと考えている。




 講義では、「血液型性格判断」を肯定的に紹介するWebサイトを長年にわたり開設している男性が6/26付朝日新聞記事(土曜版?)で紹介されていたことにも触れた。記事の中でこの男性は
  • 【日本の心理学の学術関係者たちは】学術的に血液型と性格は無関係との立場を貫いている。
  • 【心理学者たちに主張には】ぼくが納得できる客観的な論理は何一つ示されていない。
などと語っていた。しかし、この方の発言は次の2点で誤っている。

 第一に、昨日の日記でも書いた通り、日本の心理学者たちの多くは、決して「学術的に血液型と性格は無関係との立場を貫いて」いるわけではない。昨日引用のエスプリ論文でも強調している通りであり、「関係が無いという作業仮説のもとで、一貫したデータを求めていかなければ科学的な議論とは言えない」と主張しているだけなのだ。「絶対に関係がないとは言えない」とか「関係があるかないか」という二者択一型の議論は、単なる「揚げ足取り」であって、科学的議論にはなじまない。

 第二に「ぼくが納得できる客観的な論理が何一つ示されていないから」という点だが、この方は、今から4年ほどまえに、ネット界屈指の論客(←あくまで長谷川の主観的評価による)である渡邊芳之氏と、30回にわたる手紙の交換をやっている。その記録はこちらに全文保管されている。

 やりとりを丹念に読めば分かるように、この論争は、明確に渡邊さんの勝利に終わっている。である以上、この男性の「ぼくが納得できる客観的な論理が何一つ示されていないから」という部分は「ぼくは、客観的な論理を何一つ理解できなかった」と言い換えるべきである。

 ちなみに、あの論争の前半では「長谷川」の名前が何度か出ているが、渡邊さんに言わせれば、私は「議論をうち切った心理学者」の一人に加えられているのだろう。しかし、私にはやっぱり、渡邊さんは、「論争」の相手選びを誤っていたのではないかと思えてしようがない。

 とはいえ、そこに保管されているメイルやりとりの記録が「科学的思考」を教える教材として有用であることは間違いない。

【思ったこと】
_40717(土)[心理]「活きる」ための心理学(9)クイズで学ぶ

 3回目のテーマは「物事を多面的に捉える力を磨く」。概要は
 情報が氾濫する現在、ともすれば、報道をそのまま信じたり、一面的な見方だけに囚われたりする恐れがあります。対人理解、物事の因果関係、主観的確率判断などの認知を歪める要因を挙げながら、クリティカルな思考力を磨きます。
となっていた。

 過去2回が、しゃべりっぱなしの授業であったので、今回の前半は、「多面的に捉える力を磨く」という趣旨に沿って、まず9問の「画像クイズ」と、7問の「文章クイズ」を解いてもらった。

 「画像クイズ」のほうは、知覚心理学や社会心理学の授業でしばしば使われる、多義図形、図と地の反転、隠し絵など。版権の問題があるので、Web公開は控えさせていただく。

 「文章クイズ」のほうは、認知の「スキーマ」や確率判断に関するものであった。こちらも著作権の問題があると困るので、なるべく、リンクの形で問題を紹介させていただく。

  • 第一問 これは何について書かれてあるか。出典は、Bransford & Jhonson,1973
    こちらの問2。

  • 第二問 DHMO(ジハイドロジェン・モノキサイド)とは何か
    一酸化二水素の寓話。但し、かなりアレンジされている。「DHMOは危険」の発案者が誰か? カリフォルニア州アリソ・ビエホの町がDHMOが含まれるという発泡スチロール製のカップやタンクを市のイベントで用いるのを禁止する法案までつくったというのは本当の話か、など、いろいろ尾ひれがついているサイトもあり、この点は未確認。

【思ったこと】
_40718(日)[心理]「活きる」ための心理学(10)クイズで学ぶ(2)

 「文章クイズ」の第三問と第四問は、共に「スキーマ」が判断の邪魔をするという内容。よく知られた文章なので、ここでは本文(但し、表現に多少のバリエーションあり)をそのまま転載しておく。
  • 第三問
    あるお年寄りが川で洗濯をしていました。その横には女の子が座って、手際のよい洗濯の様子をじっと見ていました。洗濯をしているお年寄りに聞きました。
    「そこに座っている女のお子さんは、あなたのお孫さんですか」
    「はいそうです」
    次に女の子に聞きました。
    「洗濯をしているのはお嬢ちゃんのおばあちゃんですね」
    するとその女の子は、「違います」と答えました。
    この二人はどんな関係なのでしょうか。答えてください。


  • 第四問
    ある日、父と息子が交通事故にあい、父親は即死、息子の方は救急病院に運ばれました。
    その病院の外科医は男の子を見て、驚いた表情でこう言いました。
    「私にはこの男の子の手術はできない。」
    さて、外科医と子どもの関係は?
 第三問は、「洗濯は女性がするもの」という固定観念と「おばあさんは川へ洗濯に」という桃太郎の童話の影響が、推理を妨げるというもの。但し、第三問の正解を知ったあとでは第四問は比較的解きやすいかも。なお、実際には、いずれも問題とも、数分以内に、受講生から正解が寄せられた。

7/19追記]
第四問の原題では「これは私の息子だ」という文が入っていましたが、今回は、あえて外しました。念のためお断りしておきます。

【思ったこと】
_40722(木)[心理]「活きる」ための心理学(11)クイズで学ぶ(3)

 「文章クイズ」の第五問は、ちょっと休憩、を目的とした脱線であった。これは、Web日記からの引用、第六問と第七問は主観的確率判断に関するものであった。
  • 第五問
    悲しきサラリーマンさんの4/30付け日記より出題。けっこう「正解者」が多かった。

  • 第六問:病院問題
    ある町には、大きい病院と小さい病院がある。大きい病院では毎日約45人の赤ちゃんが生まれ、小さい病院では毎日約15人の赤ちゃんが生まれる。
    どちらの病院でも、1日に生まれた赤ちゃんのうち60%以上が男の子の日を記録しておくことにした。
    記録された日数は、どちらの病院で多いか?
    正解は「小さい病院」なのだが、「どちらも同じ」と答えた受講生が半分以上だった。血液型性格判断のトリックでもありがちなことだが、「サンプルが小さいと比率が偏りやすい」ということは直感的には分かりにくいようだ。

  • 第七問:ベイズの公式の問題
    ある臨床検査は、病人に対しては98%の確率で陽性反応を示すが、正常人に対しても5%の確率で陽性を示す。別個の情報として、この病気になる確率は1%であるという。  さて、病院を訪れた1人に、この検査を実施したところ陽性反応が出た。この人が真にこの病気に罹っている確率はどのくらいか?
    正解は16.53%であるが、多い目に見積もった人が多かった。

【思ったこと】
_40723(金)[心理]「活きる」ための心理学(12)クリシンの話

 講義の後半は、もっぱらクリティカルシンキングの紹介。昨年まで担当していた、「行動科学概論」6回分の内容を50分間に圧縮したため、盛りだくさんになってしまった。なお、行動科学概論では、教科書として

『クリティカルシンキング入門編』(1996年. 北大路書房. ISBN476282061X)

を使用した。詳しく学びたいと希望される方は、購入をお勧めします。

 さて、講義時間が短かったため、ここではクリシンの中でも特に
  1. 原因の選択に関わるクリシン
  2. ステレオタイプな見方を打破しよう
  3. 主観的確率判断における誤り
といった3点に絞ってお話させていただいた。

 このうち1.はさらに
  • その人のニーズや、文脈によって原因の選択は変わる。例えば「腕時計のガラス面がハンマーで叩かれ、ガラスが割れてしまった」という場合、ハンマーで叩いた人の加害責任が問われるのが普通だが、ガラスの強度検査の最中であれば、ガラス製造工程の欠陥の責任が問われることだってある。
  • 勝因と敗因、あるいは成功談と失敗談に関する原因帰属の問題。成功談を語る人は、自分が苦労して揃えた十分原因のみを語る。その教訓をすべて守っても、再び成功するとは限らない。 失敗談を語る人は、欠けていた必要原因の1つを語っているに過ぎない。指摘された必要原因を満たしたからといって、直ちに成功するわけではない。
  • スポーツ選手あるいは受講者に対して、監督や教師が「誉めると停滞、叱ると上達」と錯覚しやすいのはなぜか。
  • 原因帰属における割引原理と割増原理。
    • 割引原理:その状況で合理的に見える原因(促進的な原因)が他にあれば、その重要性は低くなる。これは、言い訳に使われる。
    • 割増原理:外的原因の中に抑制的に働く力を見つけると、内的原因の重要性を割増して考える。例えば偉人伝、成功談、プロジェクトXなど。「こういう困難があったのに、個人の力で克服した」というような話。
 といった話題で構成された。

 2.の「ステレオタイプな見方を打破しよう」に関しては、和田秀樹氏の本などを引用しながら、日本人は和を大切にし、米国人は個人主義で競争的などと言われるが、じつは「日本人のほうが競争的、米国人のほうが“みんなと同じになりたい”という見方もある」といった内容であった。このほか、「あの人は賢いけれど、社会性がない」、「あの家は金持ちだが、離婚寸前」、「あの人は美人だが自惚れやだ」、「あの国は豊かだが犯罪が多い」というように、自分(自分たち)よりも得をしているように思われる部分の不協和を解消するために、それをプラスマイナスゼロに引き下げる効果のあるラベリングが根拠無しに受け入れられやすいこと(=「人類みな平等主義」)などを指摘した。

 3.に関しては時間の関係で殆どお話することができなかった。関連書や関連リンクをご覧いただきたい。
【思ったこと】
_40725(日)[心理]「活きる」ための心理学(13)生きがいや働きがいの必要条件

 自治体主催の生涯学習講座の4回目(7月24日実施)。最終回の講義テーマは「働きがい、生きがいの条件」、概要は
働くことが生きがいに結びにつきにくい理由をさぐり、成果主義、生涯現役主義、高齢者のレジャーと生きがいの問題などを考えます。
というものであった。講義の前半では、スキナーや内山節氏の文献を引用しながら、働きがいを阻害する要因について考察、後半では競争原理、成果主義、受験勉強、小学校運動会などに言及し、さらに、高齢者の生きがいの特徴について話を進めた。これらは、教養科目「能動と生きがい」で話している内容をコンパクトにまとめたものであった。

 さて、私自身が推奨する「能動主義」の立場から言えば、生きがいや働きがいの必要条件としては
  • 「能動」の機会を保証すること
  • 「能動」に成果が伴うような機会を保証すること(障害あるいは高齢化などによって必要が生じた時は、適切な成果が伴うようにサポートすること)
  • 第三者によって与えられる結果ではなく、行動内在的な成果を最終目標とすること(但し、過渡的には、結果を人為的に付加することも必要。また、コミュニティ間の交流も大切)
という3点を挙げることができる。但し、これらは必要条件にすぎず、3点を揃えればかならず生きがいや働きがいが得られるというわけではない。とはいっても必要条件を欠く限りにおいては、それらが得られないことは確かだ。

 次に、「次回までに読んでおいてください」という形で7/17に配布したスキナーの『罰無き社会』の佐藤方哉訳(行動分析学研究、1990, 5)から、特に留意すべき点を抜き出して解説した。以下、多少長くなるが、その部分を抜き書きしておく。一部、文の始まり部分を省略。また、【 】部分は長谷川による補足。
  1. 企業において仕事を駆り立ててているのも実は罰的なものです。賃金は報酬の一種と考えられていますが、実際はそうではありません。賃金労働者は週給で生活していますが、解雇されれば生計はたちません。月曜日の朝働くのは週末に支払らわれる賃金のためではなく、働かなければ解雇されるからなのです。ほとんどの組織のもとでは、労働者は何かのために働くのではなく、何かを失なうのを避けるために働くのです。
  2. 【教育場面における】「無干渉主義」は命取りになりかねないほど危険です。教師は、生徒たちが良くない行動をしているときでなく、良い行動をしているときにこそ注意を向けるべきなのです。教師が正の強化を用いる機会を逃さないようになったとき、教室において劇的な変化が生じます。
  3. 学校で身につけた行動はいずれは日々の生活において自然な随伴性によって強化されるようになるべきなのです。日常の自然な随伴性は教育効果があがるような形で教室に持ち込むことは容易ではありません。この点にジョン・デューイの教育哲学における大いなる誤解がありました。我々は実生活のために教育しなければならないのですが、実生活そのものを効果的に学校のなかに持ち込むことはできません。
     教室内での随伴性はある程度は仕組まれたものにならざるをえませんが、うまく仕組まれたならば生徒が後におかれる日常の自然な随伴性のなかで誰にでも有利に働く行動をうみだすことができましょう。
  4. 教室には自然な強化子で使えるものが一つあります。ヒトという種−−−−−おそらくすべての種−−−−−-の重要な遺伝的特性の一つに、成功するということ自体が強化的であるということがあります。なにかを押してそれが動くと押すことは強化されます。問題に正答を見いだすということは非常に強化的な出来事に違いありません。
  5. 産業革命は労働者の働きがいに大きな変化をもたらしました。多くの自然な強化の随伴性が失われました。長い目でみれば、それ以前の職人たちもおそらく金銭や財産のために働いたのでしょうが、仕事のどの段階においてもすることの一つ一つがなんらかの直接の結果によって強化されていました。ところが産業革命以後は、仕事が細分化されその一つ一つが別の人たちに割り当てられるようになったがために、金銭以外の強化子はなにもなくなってしまいました。行動のもたらす自然な結果というものがなくなってしまったのです。マルクスの言葉をかりれば、労働者はその生産物から疎外されてしまったのです。これに加え、その制度自体が罰的なものになってしまいました。私がさきほど述べたように、労働者たちは賃金のために働くのではなく、解雇されて生計がたたなくなることをおそれて働くようになってしまったのです。
  6. 生きるに必要なものを【何も働きかけをしなくても受身的に】与えられている人は、実はもっとも基本的な権利を否定されているのです。このような人は、強化随伴性を剥取られることによって、人間として抹殺されているのです。同様のことが福祉の対象となっている人にも起こっています。思いやりのある社会は、もちろん、援助が必要で自分ではそれができない人々を援助するでしょうが、自分でできる人々までも援助するのは大きな誤りです。精神病あるいは精神遅滞であっても基本的には自分自身で生計を立てることのできる者は、無償で生活が保証されてはいるものの行動の結果が強化されることがないためによい行動が乏しく、それゆえに罰的に扱われがちな者よりも、はるかに幸せで貴いのです。人権を守るのだと主張している人たちはすべての権利のなかで最大の権利を見逃しています−−−−−それは強化への権利です。
  7. 罰からの逃避ないしは回避によってなにかをするときには、我々はしなければならないことをするといいます。そして、そういったときには幸福であることはまずありません。その結果が正の強化をうけたことによってなにかをするときには、我々はしたいことをするといいます。そして、幸福を感じます。幸福とは、正の強化子を手にしていることではなく、正の強化子が結果としてもたらされたがゆえに行動することなのです。裕福な人々は、良いものに囲まれていても、それがべつの良いものによっ強化されるように行動させることがないならぱけっして幸福ではないことにすぐに気つくのです。
 スキナーの主張を受け入れるならば、先に述べた、生きがいや働きがいの3つの必要条件がいかに大切なものであるかが理解できる。


【思ったこと】
_40726(月)[心理]「活きる」ための心理学(14)行動内在的強化と付加的強化とボランティア

 昨日の日記で引用したスキナーの講演録『罰無き社会』(1979年の講演、佐藤方哉訳、行動分析学研究1990年5巻に収録)の一部のうち、3.と4.は、働きがいとは直接関係の無い、教育における強化のしくみについて述べたものであった。敢えてこれらを引用したのは、第三者から与えられる付加的強化と、成功や達成のように努力の量や質に応じて自然に獲得される強化(行動内在的強化)との違いを明確にしようと考えたからである。

 心理学者のなかでもしばしば誤解されていることだが、オペラント条件づけにおける強化というのは、決して、第三者が与える外的なご褒美(付加的好子)ばかりではない。達成や成功も、十分かつそれを上回る好子(強化子)になっているのである。これらは行動内在的好子などと呼ばれる。ちなみに、一部の心理学者たちが説く「内発的動機づけ」なる概念は、実際には行動内在的好子と同じことを意味している場合が多い。

 引用部分の3.と4.は、要するに、
  • 学校で身につけた行動は、最終的には、社会における自然の随伴性(行動内在的随伴性、但しここでは、社会制度や文化の中に組み込まれた付加的随伴性も含んでいる模様)によって強化されるようにならなければならない。しかし、教室と日常社会は同一ではないので、学校教育においては、過渡的段階として、得点、褒賞といった付加的強化を用いる必要があること
  • 但し、学校教育の中でも、成功や達成といった行動内在的好子は存在していること
ということを言っているのである。




 ここで少々脱線するが、7月19日のNHKスペシャル再放送で、永平寺104歳の禅師は、
真理を黙って実行するのが大自然。誰にほめられるということもおもわんし、報酬のことも考えないし、時がきたら花が咲き、そして黙ってほめられんでもすべきことをして黙って去っていく。そういうのが実行であり、教えであり、真理だ。
というように語っておられた(2004年7月19日の日記参照)。ここでは、「誉められず」、「報酬を受け取らず」に、すべきことを黙って行うことが正しいという意味にもとれる。しかし、ここで批判されているのは、第三者による付加的強化だけで強化されているような行動である。行動の結果として成功や達成が得られること、あるいは、日々の行動をモニターし特定の戒律と一致しているという事実自体が好子(強化子)となることは批判されていないし、じっさいのところ、宗教者の行動は、本人がそれに気づいているか否かにかかわらず。そういった結果によって強化されていると言っても過言ではないと考えている。




 さて、杉山らの『行動分析学入門』(1998、産業図書)では、行動内在的強化と付加的強化は、
  • 行動内在的強化随伴性:行動に随伴して、誰かが関わらずに自然に結果が伴う
  • 付加的強化随伴性:行動に随伴して、意図のあるなしにかかわらず、誰かによって結果が付加される
と定義されている。これを形式的に当てはめると、災害ボランティア行動において被災者の人たちから感謝の言葉を受け、それに感激してさらにボランティアを続けるということは、付加的強化によって行動が維持されていると分類されることになる。そうは言っても、感謝によって強化される場合と、賃金だけを目当てに復旧活動に従事する場合では、強化の中身は質的に異なっていることが分かる。これは、社会や集団との関係性が好子の質を規定するという議論に繋がるのだが、このことについては、次回、内山節氏の引用のなかで述べることにしたい。

 それはそれとして、災害復旧活動ボランティアにおいては、被災者からの感謝や賃金の有無にかかわらず、「復旧に対する自分の貢献」それ自体が目に見える形で伴っていることが、最大の強化因になっていることは確かだ。これは紛れもない、行動内在的強化である。

 強制労働をさせられている囚人でも、道路や家づくりに駆り出されている場合には、「完成」や「貢献」という点である程度の行動内在的結果が伴う。しかし、単に、囚人を虐待する目的で、刑務所敷地内に穴を掘らせ、再び埋めさせるという作業が繰り返された場合には、囚人たちは永久に達成感を味わうことができない。



【思ったこと】
_40727(火)[心理]「活きる」ための心理学(15)関係性重視の働きがい〜内山節氏の著作から〜


 スキナーの講演録紹介、さらに行動内在的強化の重要性について論じたあと、内山節『自由論---自然と人間のゆらぎの中で』(1998年、岩波書店、 ISBN4-00-023328-9)を引用しながら、働きがいの必要条件について考察した。

 内山節氏は1950年生まれの哲学者。こちらや、こちらに紹介記事がある。私自身は上掲の書について、行動分析学会ニューズレターに書評を書いたことがあった。今回の話の内容も、その書評に沿ったものであった。

 要するに、ここで取り上げたいのは、現代社会において、働くということはなぜ最高の生きがいにならないのか、という疑問である。内山氏はそれに対して、
  1. 労働力不足の時代に就職先を求めた人と、労働力過剰の時代に求職活動を おこなった人とでは、可能性が大きく異なることにも反映されるように、 近代的雇用では、労働を開始する前に、偶然と不安に満ちた近代的雇用に、 身をゆだねる必要性が生まれる。[六章、101〜103頁]。
  2. 今日の社会では、何が必要で、何が不必要なのかもわからない。労働によっ て生み出される商品が人間の暮らしにとって本当に必要なのかどうかは分 からない。それゆえ、労働をとおして、人間の社会に有用な活動ができる かどうか分からない。社会に貢献するといった労働の感覚が消えれば、労働は個人生活のための手段になっていく。一面では労働を収入を得るための手段にし、他面では自分の働きぶりに自己満足するための手段にする。 すなわち、ひたすら我がために、私たちは働くようになる。こうして労働 は、エゴイズムに支えられた活動へと変貌する[六章、103〜105頁]。
  3. 経済活動のなかでは、仕事をするのは誰でもよい。かけがえのない一人の 人間として仕事をしているつもりなのに、経済活動のなかでは、 代替可能 な一個の労働力にすぎないことを知らされる[六章、104〜105 頁]。
  4. 労働が不自由なものになっていると感じさせるものは、単純労働や肉体労 働そのものにあるのではなく、その労働と全体の労働との関係が協調的に営まれているかどうかとか、その労働と自分の形成との関係や社会との関係が、どうなっているのかという方に原因がある[六章、 111〜112頁]。
といった、明確な解答を示している。

 ここでは、働きがい喪失の原因として、行動内在的強化の不足のほか、近代的雇用の中で労働が個人生活のための手段となる一方、その労働と全体の労働との関係が協調的に営まれているかどうか、あるいは、その労働と自分の形成との関係や社会との関係がどうなっているのかが分かりにくくなっている点が挙げられている。

 昨日の日記にも述べたが、災害救援ボランティア活動の場合は、少なくとも、ボランティア活動が、全体の救援活動とどう協調的に営まれているかが明確になっている。一人の人間が一日にできることはごくわずかであっても、協調的営みの確信があれば、充実感が生まれてくることは確かであろうと思う。

 ところで、最近しばしば取り上げられる競争原理や成果主義はどうなのか。自己実現の場であるようには言われても、協調的営みは保障されない。


【思ったこと】
_40728(水)[心理]「活きる」ための心理学(16)競争原理

 この日の講演予告に「働くことが生きがいに結びにつきにくい理由をさぐり、成果主義、生涯現役主義、高齢者のレジャーと生きがいの問題などを考えます。」と書かれてあったことをふまえ、競争原理のしくみや生きがい、働きがいとの関係について少しだけ話をした。

 まず、競争原理は「原理」と呼ばれるが、行動分析的に見れば、原理ではなくて、行動随伴性のセットであるということを強調した。

 『競争の原理』(堺屋太一・渡部昇一、致知出版社)や、渡部昇一氏の講演などでは、競争原理は
  • 生命発展の不変の原理であり、競争はいわゆる戦いである。.....【中略】.....競争がなければ進歩はない。進歩がなければ生き残れないというのが、この世の宿命なのである。
  • 棲み分け社会は、進化した別の動物が侵入してくるとたちまちやられてしまう。これからの日本の教育を考える上で重要なことは「進化論的な世界に入っていく覚悟を決めること。」そして「選択肢を増やすこと」である。【長谷川の要約】
などと紹介されている。しかし、これらの考えについて
  1. 1つの国において、自由競争が起こることで国が発展し、結果的に競争の勝者が権力を握り、今度は安定のための統制(棲み分け)がなされるようになるという、歴史的な繰り返しがあることは確かだろう。
  2. 但し、生物の進化からのアナロジーは危険。生物進化と経済発展が同一であるという証拠はない。また、生物進化は食物連鎖を前提として成り立っており、決して最強者だけが生き残るわけではない。
  3. 成功者(勝者)のみを過大評価してしまう恐れがある。
  4. 競争原理に含まれる行動随伴性は、資源が無限で努力に応じて結果が得られる環境では、行動を有効に強化するだろう。しかし、資源が有限な環境にあっては、持続可能性重視の共生的環境も必要な場合がある。
という見方もできる。

 いずれにせよ、競争は人間行動をダイレクトに制御する要因にはならない。 また、行動随伴性の視点から眺めてみると、競争に含まれる一番大きな随伴性は「〜すれば現状が維持される。〜しないと現状が失われる。」という「好子消失阻止」や「嫌子出現阻止」の随伴性である。 阻止の随伴性は、防災のように人の命を守る上で有用な反面、「いま攻撃しておかないと自国が侵略される」というように先制攻撃の口実に使われる場合もあるし、「頑張らないと会社がつぶれる」というように叱咤激励の手段として使われる場合もある。次回に続く。

【思ったこと】
_40729(木)[心理]「活きる」ための心理学(17)小学校の運動会、受験競争

 昨日の日記にも述べたように、競争原理は人間行動をダイレクトに制御する要因にはならない。したがって、競争原理が良いか悪いかということは二者択一的には論じられない。人間行動をコントロールしているのは、競争「原理」の中に含まれている随伴性のセットなのである。そのセットが、望ましい行動についての努力の量や質を適切に評価するものである時には、競争「原理」は肯定されるであろうし、逆に、望ましくない行動を強化したり、あるいは、努力が全く無い状況でただ単に競争だけをさせるのであれば、競争「原理」は否定されるべきものとなるだろう。

 一例として、小学校の運動会がある。

 「悪しき平等主義」の弊害から、一部の小学校では、競争競技そのものを無くしたり、わざと、できレースを仕組んだりするが、これでは、努力は報われない。

 しかし、その一方、日々の練習を殆どせずに、ぶっつけ本番でリレー競走などやっても、足の速い子、体格の良い子が有利になるのは目に見えている。

 つまり、前者では、競争をなくすことで「努力への報い」を否定し、後者では、努力の機会そのものを排除しているという点で間違っていると思う。

 ではどうすればよいのか。それには
  • まずは、努力の量と質が報われる仕組みを保障すること。
  • その上で適度の競争的環境を作ること。
  • 結果ばかりでなく、プロセスも適正に評価しあうこと。
  • 体格や性差や障害の有無など、同じ努力をしても明らかに有利不利が想定されるような状況では、体重別、男女別というように、公平な競争区分をつくる。
  • 競争の種類を多様にし、どの個人も1つくらいは得意種目が見つけられるようにする。
というように配慮すれば、運動会に競争「原理」を持ち込むことは大いに意義がある。

 同じ議論は受験競争についても言える。なお、受験勉強については、行動分析学会ニューズレターで、和田秀樹氏の『受験勉強は子どもを救う』の書評を書いたことがある。そちらを参照されたい。


【思ったこと】
_40802(月)[心理]「活きる」ための心理学(18)成果主義

 4回目の後半では、時間配分の都合上、一部省略しつつ、「競争原理」の続きとして「成果主義」、さらに「高齢者福祉」の問題に言及した。

 ところで、「成果主義」と「高齢者福祉」を並べると、何だか、全く関係なさそうに見える。しかし、「能動(=能動的な行動)」に対して適切に結果が伴うことを重視する「能動主義」の立場から言えば、どちらも、同じ枠組みで捉えることができるのだ。つまり、
  • 「成果主義」とは、「行動の努力と質に応じて人為的に結果を付加する仕組み」
  • 「高齢者福祉」において重要なのは、高齢者の能動的な行動に、うまく成果(結果)が伴うようにサポートする仕組みを整備すること
という共通性を見出すことができる。




 さて、テレビや新聞、ネット上で各種情報などでも伝えられているように、日本では、従来の、年功序列型・家族型の雇用・昇進制度に替えて「成果主義」を導入する企業が増えてきた。しかしその多くは失敗、最近では、コンピテンシー(competency / 高業績者の行動特性)とか、成果達成支援というように、新たな改良が提唱されるようになっている。

 単純な成果主義の弊害としては
  • 達成可能な短期的な目標ばかりにこだわるようになる。
  • 評価ばかり気にする。結果的に、評価されない項目はおろそかになる。
  • 手段を選ばない結果至上主義となり、プロセスが軽視される
といった点が挙げられるが、これらは、決して成果主義に根本的欠陥があるからではない。どういう行動を育成すべきなのか、どういうプロセスに結果を付与することが発展に繋がるのかといった長期的な視点が欠落していたために生じた弊害にすぎない。

 余談だが、これらは、大学における個人評価でも起こりがちな弊害である。例えば、発表論文の数やページ数ばかりを重視してしまうと、教員は、短期的に「成果」を出しやすい「追試型」や「パラメターいじくり型」の研究ばかりに終始することになる。また、教育・研究・管理運営いずれの面においても、評価項目に関係する部分だけ熱心に取り組むようになる恐れがある。長期的な視点、及び、プロセス重視をどう取り込むかが重要なカギとなっている。

【思ったこと】
_40803(火)[心理]「活きる」ための心理学(19)高齢者福祉

 4回目の最後の部分では、あまり時間はとれなかったが「高齢者福祉」の問題に言及した。

 なお、この講座にはギリギリで間に合わなかったが、このたび、朱鷺書房から、全人ケアの実践という本が出版された。この中の58ページから65ページに

●第II部 ダイバージョナルセラピーの基礎理論 第1章 高齢者の理解 第1節 心と行動

という部分は私が分担執筆した箇所であり、今回の講義内容をより詳しく述べたものである。ご一読いただければ幸いだ。

 さて、私が提唱している高齢者福祉の基本理念は、7月25日の日記で引用したスキナーの次の言葉を前提とするものである【佐藤方哉訳、一部略】
  • 思いやりのある社会は、もちろん、援助が必要で自分ではそれができない人々を援助するでしょうが、自分でできる人々までも援助するのは大きな誤りです。.....人権を守るのだと主張している人たちはすべての権利のなかで最大の権利を見逃しています−−−−−それは強化への権利です。
  • 幸福とは、正の強化子を手にしていることではなく、正の強化子が結果としてもたらされたがゆえに行動することなのです。
 要するに、痴呆症のお年寄りを含めて、すべての高齢者に能動(=能動的オペラント行動)の機会を保障すること、かつ、それらの能動が適切に強化される(=成果が伴う)ような仕組みをサポートすることが基本である。

 高齢者の生きがいを考えるにあたって留意すべき点は、
  • 高齢者の価値観は人生経験が長い分、それだけ多様となり、時にはあまりにも特異であるために他者から理解しがたい部分も出てくる。
    • 高齢者の生きがいはこうあるべきだといった画一的な議論はできない。
    • 個性を尊重し、多様な要求を実現していくのかが高齢者ケアの決め手となる。
    • とはいえ、ご当人の健康状態、他者への迷惑、コスト上の制約などから、多様な要求のすべてを実現することは現実的には不可能。
    • ある程度の妥協はやむを得ないにせよ、創意工夫をこらして、最善の可能性を探っていくことが求められる。
  • 高齢者はしばしば無気力になり、極端な場合は鬱病であると診断されるが、やる気が起こらないのは必ずしも病気のせいとは限らない。
    • 一般に「やる気」と呼ばれるものは、外界に能動的に働きかけ、それに応じた結果が伴う時に限って高められ維持していくものである。
    • 不活発の原因を体の内部(=「無力感」や「鬱」)に求めても何の解決にもならない。
    • 年をとって体力が衰え、機能喪失や環境変化が起こると、若い頃と同じように頑張ってみても、それに見合う結果が伴わなくなってくる。そうなると、オペラント条件づけの基本原理により、能動的な行動は次第に「消去」されてしまう。これが不活発になる最大の原因。
    • そこで、(1)その行動を自発できる環境、用具を整える、(2)何らかの障害により、物理的に自発が困難な人には、それを補助する、(3)スムーズに結果が随伴するよう、難易度に配慮する、というように「能動的な行動に適切な結果が伴う機会」を保障する配慮が求められる。
 昨年来の年金未納問題、年金改革関連法成立、さらには、参院選を受けて年金改革関連法の廃止法案が臨時国会に提出されるなどと報じられている。もちろん、高齢者にとって、生活に必要な最低限度の収入を確保するということは切実な問題ではあるが、単に、年金を増やしたり施設を立派にするだけでは、福祉政策は決して十分とは言えない。いちばん必要なのは、生きがいのために高齢になっても働きたいと希望する人たちに対して、能動的労働の機会を保障することである。このほか、地域文化の伝承、知恵の伝授、スクールカウンセラーなど、お年寄りの活躍できる場を最大限に確保することが大切。


【思ったこと】
_40804(水)[心理]「活きる」ための心理学(20)講座全体についての反省

 講義メモの最終回。受講生の方々からいただいたアンケートに基づいて、この講義全体についての反省を述べることにしたい。
  • 講義内容についての満足度について
    • 非常に満足 25%
    • 満足 50%
    • どちらともいえない 25%
    • やや不満足、不満足 0%

     マイナス評価がゼロというのは嬉しい限りであるが、このアンケートは最終回の受講者から任意で提出されたものであることを考えると、甘い見方であるかもしれない。受講料が安く、また各回完結型としていたので、途中で講義内容に不満を持った方々は最後まで来ていないという可能性が高いからである。

  • 担当者(私)へのメッセージ(あくまで抜粋。一部改変)
    • 物事を多面的(多角的)にとらえる必要性を今まで以上に感じた。
    • 大学教授は話の上手な人と下手な人がいる。今回は良。
    • 大学の臭いが少し感じられ、よかった。
    • 最近の大学の講義方法を垣間見たよう。
    • ボランティア活動に有用。
    • 長谷川HPやWeb日記に出合えてよかった。
    • 迷いがあったがふっきれたようだ。
    • もっとゆっくり聞きたかった。
    • 第1回は退屈だったが、2回目以降から面白くなった。
    • 概容的で難しかった。
    • 人生を楽しく過ごされていく工夫が素晴らしい。
    • クイズのように具体的な提示が興味深く聞けた。
 ということで、全般的には良い評価をいただいたようである。

 この講義は、土曜日の午後に担当させていただいたが、個人的な事情として、この期間、月曜日から金曜日まで毎日1コマ以上の授業がつまっており、この講義についての独自の準備をする時間がなかなかとれなかったのが残念。

 また、時間数から言えば、今回の内容をわかりやすく話し、かつ双方向的な授業として実施するためには、あと3回くらいは時間が欲しかった。そうは言っても、岡山市内から倉敷まで出向くには結構時間がかかる。講義時間は13時半から15時半の2時間であるが、途中で昼食をとることを考慮して11時すぎには岡山を出発、再び戻るのは17時頃になるというのが、かなりの負担になった。

 今回の講義は3回目のクイズの時間を除いて「喋りっぱなし」であったが、ここに書かれてある内容を含めて、私のホームページのほうに、講義概容や関連資料へのリンクを掲載した。このような形の双方向型講義形式は今後も続けていきたいと思っている。