じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
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【思ったこと】 _40626(土)[心理]「活きる」ための心理学(1)やる気の起源 自治体主催の生涯学習講座(4回シリーズ)の出講1回目。今回は「やる気の起源」というテーマ。
まず、参加者自身に、「やりたいと思っているが、長続きしない行動」と「熱中している行動(できれば、熱中しすぎて困っている行動)」を1つずつ挙げてもらった。それらについて、
次に、「いろいろな結果が伴うように工夫をしてやれば、「やる気」が起こるようになる。」という事例として、「毎日30分走る」という行動を取り上げた。この行動が長続きしない場合、「30分走った」という日々の行動に明確な結果が伴っていないことが原因として考えられる。そこで結果を増やす方策として、
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【思ったこと】 _40629(火)[心理]「活きる」ための心理学(2)「手段が目的、目標は手段」という発想 自治体主催の生涯学習講座(4回シリーズ)の出講1回目の内容の続き。 講義のおわりのほうで、「人生に目的は必要か」というような問題提起をしておいた。これは4回目の講義への準備という意味もあった。ちなみに、私自身は、あまり大きな目的は考えない方がよい、但し、目標を持って行動したほうが「お得ですよ」と考えることはできるという立場をとっている。 なお、ここでは ●目的:人生の目的/教育の目的/将来の夢 ●目標:当面の達成目標/数値目標/目的と目標の違い というように、「目的」と「目標」を便宜的に使い分けている。この区別、シラバス執筆の際の「学習目的」、「到達目標」といった分け方に一致するものであるが、「目的指向システムデザイン」と言った場合は、上記の「目標」の意味も含まれており、それほど厳密ではない。英語の「purpose」、「goal」、「aim」、「objective」などの使い分けについても厳密に比較検討したわけではないことをお断りしておく。 さて、ネット上で「人生の目的」というようなキーワード検索をすると容易に気づくように、上位でヒットするのは、宗教団体のサイトばかりでオススメできない。中には、岡大で正体を隠して執拗な勧誘をしている団体もある(但し、五木寛之の『人生の目的』(幻冬舎文庫)の書評サイトもけっこう多いようだ)。 しかし、しょせん「人生には目的がある」などということは実証できるものではない。「目的が必要」を説く人々もたいがいは、「目的が無いと困る」と言っているだけにすぎない。 また禁欲主義者のロジックを援用すると、むしろ「目的は少ない方がよい」という結論さえ出てくる。すなわち、禁欲主義者のいう「人間には限りない欲望があり、その欲望を次々と満たそうとする。しかし、欲望が大きくなればなるほど、欲望の達成は難しくなる。欲望の不達成は大きな不快感をもたらす。したがって、幸せで安定した心境を維持するためには、欲望を少なくした方が良い。」という理屈で、「欲望」を「目的」に置き換えてみると、 人間には限りない目的があり、その目的を次々と満たそうとする。しかし、目的が大きくなればなるほど、目的の達成は難しくなる。目的の不達成は大きな不快感をもたらす。したがって、幸せで安定した心境を維持するためには、目的を少なくした方が良い。と言えないこともない。じっさい、スポーツ選手や冒険家の中には、次々と目標を膨らませていって最後は自滅してしまうケース(←御本人は満足しておられるのだと思うけれど)も少なくない。 さらに、「人はなんのために生きるのか?」などという実証不能な問いで悩み続けることは時間のムダになるかもしれないし、高齢、さらに痴呆が進んでくると、自分の見つけた「生きる目的」自体の遂行が危うくなるかもしれない。 以上のような理由から、「人生には目的がある」などといった窮屈なライフスタイルは、少なくとも私はオススメしない。それよりも、「目的があると便利」なのはなぜかというプラグマティックな考えをとり、必要に応じて、達成可能な範囲で目標を立てていったほうが「お得」ではないかと思っている。 ではどういう点で「お得」なのか。このことは教養科目の授業の中でも話している通りであり、
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【思ったこと】 _40703(土)[心理]「活きる」ための心理学(3)「性格」概念の有用性と限界 自治体主催の生涯学習講座(4回シリーズ)の出講2回目。この日のテーマは「性格と行動」であり、 自分や他人を理解することと、性格を知ることは同じことであるように考えられがちですが、それだけでは不十分です。血液型性格判断などの俗説の問題点を指摘しながら、毎日の行動がどういう仕組みで起こっているのか、理解することを目ざします。という趣旨で2時間の講義を進めた。 前半では、まずパーソナリティあるいは性格の定義について簡単に紹介した。なおこの件については、長谷川が学部演習の一環として開設したミニマムサイコロジーというサイトにも、受講生が作成した解説記事があるので参照されたい。 次に、長谷川自身は、「性格」概念を
上記のうち2番目は、食べ物の好みを例にとれば分かる。例えば、大切なお客を食事に招待する場合を考えよう。何百種類もの料理について、そのお客の好みの個別に調べることは現実に困難である。しかし、お客の好みを「和食嗜好」、「洋食嗜好」、「中華嗜好」というように3つの軸で分類整理しておけば、次にどういう料理を用意すれば喜ばれるかということがある程度予測できるようになる。 同様に、ある性格検査でその人の社交性が高いか低いかを知っておけば、その人が大勢の人々の前でどういう行動をとるかということがある程度予測できる。 このような有用性があるとはいえ、「性格」は必ずしも行動の原因ではない。上の例で、あるお客が「中華嗜好」であったとすると、そのお客は「酢豚」や「八宝菜」や「餃子」、あるいはもっと高級な「北京ダック」や「フカヒレ料理」をたくさん食べるかもしれない。しかし、それは決して「中華嗜好」なる脳内物質やら脳内回路があって、「中華料理を食べる」という行動の原因として機能しているわけではない。何かを選んで食べるという行動の原因は全く別のメカニズムによって起こるのである。 「性格」は行動の原因ではないという事例として、このほか「紙と石にマッチの火を近づける」という例を挙げることがある。紙と石の同時に火をつければ ●紙→燃える→紙には「燃えやすい性質」 ●石→燃えない→石は「燃えにくい性質」 というようにそれぞれの「性格」が見出され、これを知ることによって例えば、
「同じ環境」に置かれた複数の人間がそれぞれ別の行動を起こした時、我々は、その差違は個々人の「性格」の差によって生じると考えがちである。しかし、それは
「個体差」あるいは「性格の違い」を行動の原因と見なしている限りは、行動を前向きに改善することはできない。「性格を変えればいい」などと無責任なことを言っても、具体的な方策を見出すことは不可能であろう。 |
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【思ったこと】 _40704(日)[心理]「活きる」ための心理学(4)質問紙性格検査のしくみ 自治体主催の生涯学習講座(4回シリーズ)の出講2回目のメモの続き。 2回目の講義の前半では、質問紙性格検査のしくみについて簡単に解説した。 ネット上でゲーム風にアレンジされた「性格診断」をよく見かけるが、それらは、たいがい、開設者が質問項目を主観的に選択し、「名人芸」とも言える表現ゆたかな解釈文で「当たっている」と思わせるしかけとなっている。 これに対して、正式な質問紙検査の場合は、
質問紙性格検査が考案された当初は、回答者の答えを真実の自己表現として解釈できるかのかどうかという疑義があった。
しかし現在では、質問に対する被験者の回答は、1種の言語刺激である質問に対する被験者の反応であり、その反応の解釈は、1連の質問に対する反応との関連において初めて意味をもつ(このあたり『実験とテスト』旧版解説編より、一部転載改変)。 この考えに基づけば、例えば「あなたは神経質ですか」という問いに「はい」と答えたからといって「神経質」ということにはならない。場合によっては「いいえ」と答えた人のほうが「神経質」と判定される場合もあるし、全く別の特性を調べている質問であるのかもしれない。 |
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【思ったこと】 _40705(月)[心理]「活きる」ための心理学(5)性格検査が「当たっている」と思われるわけ 自治体主催の生涯学習講座(4回シリーズ)の出講2回目(7月3日実施)のメモの続き。 昨日の日記で、質問紙性格検査の質問項目は一種の言語刺激に過ぎず、その質問に対する被験者の回答や反応の解釈は、1連の質問に対する反応との関連において初めて意味をもつ。 それゆえ、「あなたは神経質ですか」という問いに「いいえ」と答えたほうが「神経質」と判定される場合もありうると述べた。じっさい、「自分をよく見せかける傾向」を測る質問項目の中には、質問の論理的な意味内容が測ろうとする傾向と全く異なっている場合もある。 しかし、質問紙性格検査の項目全体を眺めると、質問の意味内容と測ろうとしている特性が論理的に一致している項目が圧倒的多数を占めていることもまた事実である。例えば、ある質問紙検査では、社会的外向性を測ろうとする質問として、
さて、上述の事例で、「社会的外向性あり」と「診断」された人がいたとする。その解説文のところに、 あなたは社会的外向性があります。あなたは、色々な人と付き合うのが好きで、それを楽しみにしています。自分から進んで友達を作ろうとします。誰とでもよく話し、知らぬ人と話してもかたくなることはありません。などと書かれていると、その人は、「ホンマ、その通りだ。何てよく当たっているんだろう。」と驚いてしまうに違いない。 しかし、実は、解説文に書かれていたことは、質問項目の文をちょっとだけ書き換えたに過ぎない。回答者がウソをついていない限りは、当たっているのが当然なのである。 ネット上でゲーム風にアレンジされた「性格診断」が「よく当たる」と思われるのもこれと同様のからくりである。この種の診断の解説文は、実質的には、回答者が「はい」と答えた質問内容を表現豊かな「名人芸」で書き換え、ありがちな予想を付け加えただけのものにすぎない。 |
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【思ったこと】 _40706(火)[心理]「活きる」ための心理学(5)投影法性格検査の問題点 自治体主催の生涯学習講座(4回シリーズ)の出講2回目(7月3日実施)のメモの続き。 質問紙法性格検査のしくみと、「当たっている」とおもわれるわけについて説明したあと、投影法検査として、ロールシャッハ、PFスタディ、TAT、バウムテストなどの概要を紹介した。投影法検査は、回答の際に自分を飾るとかウソをつくことが起こりにくく「個人の潜在的なパーソナリティを引き出すことができる」などの長所があると言われている。 しかし、その一方で、あてにならないとの批判もある。今回の講座では、 ●『あてにならないロールシャッハテスト』(日経サイエンス 2001年8月号、原著者 Scott O .Lilienfeld/James M. Wood / Howard N. Garb。原題 What‘s Wrong with This Picture? 、SCIENTIFIC AMERICAN May 2001) を引用しながら、投影法検査には
6月15日の日記でも述べたように、投影法テストは、何かを客観的に測るツールというより、クライエントとのコミュニケーションツールとして有用であろう、というのが私の考えだ。もちろん、明らかに異常がある場合は、これらのテストで特徴的な結果が出るに違いない。しかしたいがいの場合は、むしろ、面談時のコミュニケーション手段として有用であるにすぎない。 占いでは、水晶玉、虫眼鏡、カードなどを使って来談者とコミュニケーションをはかられる。しかし熟練した占い師は、占いの「客観的結果」ではなく、来談者の態度や発話の内容を長年の経験に基づいて的確に読み取り、よりよきアドバイスをするのである。心理カウンセラーが種々の投影法検査を使う場合も、基本的にはそれと大差ない。結局はカウンセラー自身の熟練度、経験度に委ねられる部分が多いのではないかと思っている。 |
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【思ったこと】 _40713(火)[心理]「活きる」ための心理学(7)「血液型性格判断」の論点 7月3日の講義の後半では、「血液型と性格」について、10年前に執筆した『現代のエスプリ』論文: ●長谷川芳典 (1994). 目分量統計の心理と血液型人間「学」.詫摩武俊・佐藤達哉(編) 現代のエスプリ324 『血液型と性格 その史的展開と現在の問題点』,pp. 121-129. 【以下、「エスプリ論文」と略す】 をもとに論点を整理し、さらに、最近の「血液型」の動向、差別番組の弊害、信奉者のロジックの誤りについて指摘した。 講義ではまず、エスプリ論文の内容に沿って、既存の「血液型人間性格判断」には
次に強調したのは、「血液型と性格は全然関係ありませぇーん」などとは決して断定していないということ。右のコピーは、エスプリ論文の一部をコピーしたもの。そこでは
以上、確率現象の錯覚や統計学誤用という観点から、血液型人間「学」のからくりを考えてきたわけであるが、これらを指摘したからといって「血液型と性格はまったく関係がない」ということにはならない。筆者は、約一〇年前よりこの問題をとりあげてきたが(7)(8)、その主旨は、第一に、血液型人間「学」と呼ばれる俗説のデタラメな「分析」方法を批判すること、第二に、「血液型と性格」には少なくとも日常生活場面で問題になるほどの相関はないことを反例の形で示すことにあった。純粋に科学的なレベルで「血液型と性格がまったく関係ない」かどうかは私にはわからないし、この問題についての科学的研究を妨げるつもりもない。と述べている。多くの心理学者も私とほぼ同じ態度をとっている。 私が、かつて教養科目「心理学」の受講生や公開講座の受講生を対象にいくつかの性格テストを行い、「血液型による顕著なさは認められない」という結果を得たのは、決して、「血液型と性格は無関係である」と実証するためではなかった。エスプリ論文では、この点に関して まず、血液型人間「学」の実用性については、現時点ですでにはっきりと否定することができるだろう。ここで実用性とは、日常生活場面での相性や職業適性を理解するうえで役立つ情報ということを意味する。たとえば「A型はO型より笑い上戸になる確率が一%だけ高い」ということが実証されたとしても現実の人間理解には何の役にも立たない。実用レベルでの有用性を否定するだけであるなら、任意に設定した集団のなかで「血液型が違っても行動特性にそれほど顕著な差は認められない」こと、あるいは「同じ血液型者のなかにもいろいろな性格の人がいる」という事例、つまり二、三の反例を示すだけで事足りる。過去に私が報告した資料(7)(8)は決して無作為抽出されたデータに基づくものではないが、実用レベルでは役立たないという反例を示す資料としてはそれなりの価値があったものと考えている。と述べている。純粋に科学的レベルで血液型特有の行動傾向が認められようと、認められまいと、とにかく、実用に耐えうるような顕著な差でなければ、日常生活行動の予測や、適性や相性の診断には使えない。そんな不確かな道具は、エラーを増やし差別や偏見を助長するだけだ。視聴率稼ぎのために「△型には××という傾向がある」などと吹聴することがいかに無責任であるか、民放テレビ局(一部)はもっと真剣に考え直すべきである。 「血液型と性格」について取りうる、真の科学的態度について、エスプリ論文は次のように記している。 ここで強調しておくが、血液型人間「学」がある種の普遍性を主張する「理論」であるのに対して、「血液型と性格は関係がない」というのは理論ではない。研究の出発点となる作業仮説にすぎないのである。理論は一つの反例によって崩すことができるが、作業仮説に反例を示したってしょうがない。「血液型と性格は関係がない」という作業仮説のもとに地道にデータを集め、ある性格的特徴について明らかに血液型との関係を示すようなデータが安定的に得られた時に初めてこの仮説を棄却するのである。これこそが、雑多な変動現象の中から帰納的に規則性を見い出そうとするときにとるべき科学的態度である。 さて、何はともあれ、エスプリ論文から10年が経過した。講義の終わりでは、その後の論点の変化、最近のテレビ番組や新聞記事などについて触れたが、時間が無くなったので次回にまわすことにしたい。 |
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【思ったこと】 _40714(水)[心理]「活きる」ための心理学(8)最近の「血液型性格判断」事情 自治体主催の生涯学習講座の出講2回目(7月3日実施)のメモの続き。 こちらの資料集に記してある通り、「血液型性格判断」については、1994年にエスプリ論文、その後1997年に『発掘!あるある大事典』で、「検証! 血液型性格のウソ・ホント」なる特集があった時にいくつか追記をした程度で、その後はすっかり遠ざかっていた。その理由は、このページはなぜ長期間、開店休業状態になっているのか。に書いた通りだ。要するに、特に話題になるような出来事が無かったというのが主たる理由であった。 もっとも、今年の6月頃、TBS系のホムクルなる番組が、北大医学部のS教授なども登場させて、 最近の医学によって『血液型が性格に関わりがある』ことは、もはや否定しようのない事実となった。などと吹聴、また、ネットで検索したところ、私は番組自体は視ていないのだが、TV朝日系の「決定! これが日本のベスト」という番組でも、今年の6月13日に血液型ランキングなる放送をやっていたことが分かった。 この時期になぜ、こういう話題が執拗に取り上げられたのかはよく分からないが、たぶん、従来のクイズもののネタが底をつき、単純なトリビア知識提供だけでは視聴率が維持できなくなったことに一因があるのではないかと思う。 さて1994年あるいはそれ以前には、「血液型性格判断」批判の論点の1つとして、「フリーサイズ効果」と言われるものがあった。要するに、誰にでも当てはまるような特徴を、ちょっとだけ形容詞を変えて、すべての血液型に当てはめるというトリックであった。 しかし、最近のテレビ番組は、フリーサイズではなく、むしろ「決めつけ、ステレオタイプ型」が目立つようになってきた。じっさい、上掲の血液型ランキングでは、
●血液型ですべてが決まる訳ではありません。決めつけや偏見はやめましょう。 などと、血液型差別だという告発を恐れたのか、アリバイ的な断り書きが書かれているが、断れば免罪というものではなかろう。「血液型ですべてが決まる訳ではありません。」という文は、裏を返せば、「少なくとも部分的には血液型で決まる」と言っているのと同じだ。ちなみに、上掲のもう1つの番組「ホムクル」でも「A型は几帳面」、「O型は社交的」、「B型はマイペース」といった特徴づけが行われていた[6/19の日記参照]。 このように具体的な主張が行われていることは、じつは心理学者にとってはむしろ喜ばしいことである。なぜなら、主張が具体的でるということはそれだけ、反証可能であるということ。例えば、2つの番組ではいずれも、「B型はマイペース」とされているが、それが本当に、日常生活行動に影響を及ぼすほど顕著なものであるかどうかは、
また、もし血液型ランキングが主張するように、本当に「B型が悪性インフルエンザに弱い」であれば、インフルエンザワクチンの在庫が少ない時にはB型から優先的に接種すればよい(←「ホムクル」ではA型が「免疫力が弱い」と言っていたようだが、どっちが正しいのだ??)。 なお、これらの議論は、本シリーズの目的である「講義録」から逸脱するので、別スレッド「血液型差別をネタにしないと娯楽性を保てない番組、それをもり立てる大脳生理学者 」という連載の続編として、時間がある時に取り上げていきたいと考えている。 講義では、「血液型性格判断」を肯定的に紹介するWebサイトを長年にわたり開設している男性が6/26付朝日新聞記事(土曜版?)で紹介されていたことにも触れた。記事の中でこの男性は
第一に、昨日の日記でも書いた通り、日本の心理学者たちの多くは、決して「学術的に血液型と性格は無関係との立場を貫いて」いるわけではない。昨日引用のエスプリ論文でも強調している通りであり、「関係が無いという作業仮説のもとで、一貫したデータを求めていかなければ科学的な議論とは言えない」と主張しているだけなのだ。「絶対に関係がないとは言えない」とか「関係があるかないか」という二者択一型の議論は、単なる「揚げ足取り」であって、科学的議論にはなじまない。 第二に「ぼくが納得できる客観的な論理が何一つ示されていないから」という点だが、この方は、今から4年ほどまえに、ネット界屈指の論客(←あくまで長谷川の主観的評価による)である渡邊芳之氏と、30回にわたる手紙の交換をやっている。その記録はこちらに全文保管されている。 やりとりを丹念に読めば分かるように、この論争は、明確に渡邊さんの勝利に終わっている。である以上、この男性の「ぼくが納得できる客観的な論理が何一つ示されていないから」という部分は「ぼくは、客観的な論理を何一つ理解できなかった」と言い換えるべきである。 ちなみに、あの論争の前半では「長谷川」の名前が何度か出ているが、渡邊さんに言わせれば、私は「議論をうち切った心理学者」の一人に加えられているのだろう。しかし、私にはやっぱり、渡邊さんは、「論争」の相手選びを誤っていたのではないかと思えてしようがない。 とはいえ、そこに保管されているメイルやりとりの記録が「科学的思考」を教える教材として有用であることは間違いない。 |
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【思ったこと】 _40717(土)[心理]「活きる」ための心理学(9)クイズで学ぶ 3回目のテーマは「物事を多面的に捉える力を磨く」。概要は 情報が氾濫する現在、ともすれば、報道をそのまま信じたり、一面的な見方だけに囚われたりする恐れがあります。対人理解、物事の因果関係、主観的確率判断などの認知を歪める要因を挙げながら、クリティカルな思考力を磨きます。となっていた。 過去2回が、しゃべりっぱなしの授業であったので、今回の前半は、「多面的に捉える力を磨く」という趣旨に沿って、まず9問の「画像クイズ」と、7問の「文章クイズ」を解いてもらった。 「画像クイズ」のほうは、知覚心理学や社会心理学の授業でしばしば使われる、多義図形、図と地の反転、隠し絵など。版権の問題があるので、Web公開は控えさせていただく。 「文章クイズ」のほうは、認知の「スキーマ」や確率判断に関するものであった。こちらも著作権の問題があると困るので、なるべく、リンクの形で問題を紹介させていただく。 |
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【思ったこと】 _40718(日)[心理]「活きる」ための心理学(10)クイズで学ぶ(2) 「文章クイズ」の第三問と第四問は、共に「スキーマ」が判断の邪魔をするという内容。よく知られた文章なので、ここでは本文(但し、表現に多少のバリエーションあり)をそのまま転載しておく。
[※7/19追記] 第四問の原題では「これは私の息子だ」という文が入っていましたが、今回は、あえて外しました。念のためお断りしておきます。 |
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【思ったこと】 _40722(木)[心理]「活きる」ための心理学(11)クイズで学ぶ(3) 「文章クイズ」の第五問は、ちょっと休憩、を目的とした脱線であった。これは、Web日記からの引用、第六問と第七問は主観的確率判断に関するものであった。
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【思ったこと】 _40723(金)[心理]「活きる」ための心理学(12)クリシンの話 講義の後半は、もっぱらクリティカルシンキングの紹介。昨年まで担当していた、「行動科学概論」6回分の内容を50分間に圧縮したため、盛りだくさんになってしまった。なお、行動科学概論では、教科書として 『クリティカルシンキング入門編』(1996年. 北大路書房. ISBN476282061X) を使用した。詳しく学びたいと希望される方は、購入をお勧めします。 さて、講義時間が短かったため、ここではクリシンの中でも特に
このうち1.はさらに
2.の「ステレオタイプな見方を打破しよう」に関しては、和田秀樹氏の本などを引用しながら、日本人は和を大切にし、米国人は個人主義で競争的などと言われるが、じつは「日本人のほうが競争的、米国人のほうが“みんなと同じになりたい”という見方もある」といった内容であった。このほか、「あの人は賢いけれど、社会性がない」、「あの家は金持ちだが、離婚寸前」、「あの人は美人だが自惚れやだ」、「あの国は豊かだが犯罪が多い」というように、自分(自分たち)よりも得をしているように思われる部分の不協和を解消するために、それをプラスマイナスゼロに引き下げる効果のあるラベリングが根拠無しに受け入れられやすいこと(=「人類みな平等主義」)などを指摘した。 3.に関しては時間の関係で殆どお話することができなかった。関連書や関連リンクをご覧いただきたい。 |
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【思ったこと】 _40725(日)[心理]「活きる」ための心理学(13)生きがいや働きがいの必要条件 自治体主催の生涯学習講座の4回目(7月24日実施)。最終回の講義テーマは「働きがい、生きがいの条件」、概要は 働くことが生きがいに結びにつきにくい理由をさぐり、成果主義、生涯現役主義、高齢者のレジャーと生きがいの問題などを考えます。というものであった。講義の前半では、スキナーや内山節氏の文献を引用しながら、働きがいを阻害する要因について考察、後半では競争原理、成果主義、受験勉強、小学校運動会などに言及し、さらに、高齢者の生きがいの特徴について話を進めた。これらは、教養科目「能動と生きがい」で話している内容をコンパクトにまとめたものであった。 さて、私自身が推奨する「能動主義」の立場から言えば、生きがいや働きがいの必要条件としては
次に、「次回までに読んでおいてください」という形で7/17に配布したスキナーの『罰無き社会』の佐藤方哉訳(行動分析学研究、1990, 5)から、特に留意すべき点を抜き出して解説した。以下、多少長くなるが、その部分を抜き書きしておく。一部、文の始まり部分を省略。また、【 】部分は長谷川による補足。 スキナーの主張を受け入れるならば、先に述べた、生きがいや働きがいの3つの必要条件がいかに大切なものであるかが理解できる。 |
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【思ったこと】 _40726(月)[心理]「活きる」ための心理学(14)行動内在的強化と付加的強化とボランティア 昨日の日記で引用したスキナーの講演録『罰無き社会』(1979年の講演、佐藤方哉訳、行動分析学研究1990年5巻に収録)の一部のうち、3.と4.は、働きがいとは直接関係の無い、教育における強化のしくみについて述べたものであった。敢えてこれらを引用したのは、第三者から与えられる付加的強化と、成功や達成のように努力の量や質に応じて自然に獲得される強化(行動内在的強化)との違いを明確にしようと考えたからである。 心理学者のなかでもしばしば誤解されていることだが、オペラント条件づけにおける強化というのは、決して、第三者が与える外的なご褒美(付加的好子)ばかりではない。達成や成功も、十分かつそれを上回る好子(強化子)になっているのである。これらは行動内在的好子などと呼ばれる。ちなみに、一部の心理学者たちが説く「内発的動機づけ」なる概念は、実際には行動内在的好子と同じことを意味している場合が多い。 引用部分の3.と4.は、要するに、
ここで少々脱線するが、7月19日のNHKスペシャル再放送で、永平寺104歳の禅師は、 真理を黙って実行するのが大自然。誰にほめられるということもおもわんし、報酬のことも考えないし、時がきたら花が咲き、そして黙ってほめられんでもすべきことをして黙って去っていく。そういうのが実行であり、教えであり、真理だ。というように語っておられた(2004年7月19日の日記参照)。ここでは、「誉められず」、「報酬を受け取らず」に、すべきことを黙って行うことが正しいという意味にもとれる。しかし、ここで批判されているのは、第三者による付加的強化だけで強化されているような行動である。行動の結果として成功や達成が得られること、あるいは、日々の行動をモニターし特定の戒律と一致しているという事実自体が好子(強化子)となることは批判されていないし、じっさいのところ、宗教者の行動は、本人がそれに気づいているか否かにかかわらず。そういった結果によって強化されていると言っても過言ではないと考えている。 さて、杉山らの『行動分析学入門』(1998、産業図書)では、行動内在的強化と付加的強化は、
それはそれとして、災害復旧活動ボランティアにおいては、被災者からの感謝や賃金の有無にかかわらず、「復旧に対する自分の貢献」それ自体が目に見える形で伴っていることが、最大の強化因になっていることは確かだ。これは紛れもない、行動内在的強化である。 強制労働をさせられている囚人でも、道路や家づくりに駆り出されている場合には、「完成」や「貢献」という点である程度の行動内在的結果が伴う。しかし、単に、囚人を虐待する目的で、刑務所敷地内に穴を掘らせ、再び埋めさせるという作業が繰り返された場合には、囚人たちは永久に達成感を味わうことができない。 |
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【思ったこと】 _40727(火)[心理]「活きる」ための心理学(15)関係性重視の働きがい〜内山節氏の著作から〜 スキナーの講演録紹介、さらに行動内在的強化の重要性について論じたあと、内山節『自由論---自然と人間のゆらぎの中で』(1998年、岩波書店、 ISBN4-00-023328-9)を引用しながら、働きがいの必要条件について考察した。 内山節氏は1950年生まれの哲学者。こちらや、こちらに紹介記事がある。私自身は上掲の書について、行動分析学会ニューズレターに書評を書いたことがあった。今回の話の内容も、その書評に沿ったものであった。 要するに、ここで取り上げたいのは、現代社会において、働くということはなぜ最高の生きがいにならないのか、という疑問である。内山氏はそれに対して、 といった、明確な解答を示している。 ここでは、働きがい喪失の原因として、行動内在的強化の不足のほか、近代的雇用の中で労働が個人生活のための手段となる一方、その労働と全体の労働との関係が協調的に営まれているかどうか、あるいは、その労働と自分の形成との関係や社会との関係がどうなっているのかが分かりにくくなっている点が挙げられている。 昨日の日記にも述べたが、災害救援ボランティア活動の場合は、少なくとも、ボランティア活動が、全体の救援活動とどう協調的に営まれているかが明確になっている。一人の人間が一日にできることはごくわずかであっても、協調的営みの確信があれば、充実感が生まれてくることは確かであろうと思う。 ところで、最近しばしば取り上げられる競争原理や成果主義はどうなのか。自己実現の場であるようには言われても、協調的営みは保障されない。 |
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【思ったこと】 _40728(水)[心理]「活きる」ための心理学(16)競争原理 この日の講演予告に「働くことが生きがいに結びにつきにくい理由をさぐり、成果主義、生涯現役主義、高齢者のレジャーと生きがいの問題などを考えます。」と書かれてあったことをふまえ、競争原理のしくみや生きがい、働きがいとの関係について少しだけ話をした。 まず、競争原理は「原理」と呼ばれるが、行動分析的に見れば、原理ではなくて、行動随伴性のセットであるということを強調した。 『競争の原理』(堺屋太一・渡部昇一、致知出版社)や、渡部昇一氏の講演などでは、競争原理は
いずれにせよ、競争は人間行動をダイレクトに制御する要因にはならない。 また、行動随伴性の視点から眺めてみると、競争に含まれる一番大きな随伴性は「〜すれば現状が維持される。〜しないと現状が失われる。」という「好子消失阻止」や「嫌子出現阻止」の随伴性である。 阻止の随伴性は、防災のように人の命を守る上で有用な反面、「いま攻撃しておかないと自国が侵略される」というように先制攻撃の口実に使われる場合もあるし、「頑張らないと会社がつぶれる」というように叱咤激励の手段として使われる場合もある。次回に続く。 |
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【思ったこと】 _40729(木)[心理]「活きる」ための心理学(17)小学校の運動会、受験競争 昨日の日記にも述べたように、競争原理は人間行動をダイレクトに制御する要因にはならない。したがって、競争原理が良いか悪いかということは二者択一的には論じられない。人間行動をコントロールしているのは、競争「原理」の中に含まれている随伴性のセットなのである。そのセットが、望ましい行動についての努力の量や質を適切に評価するものである時には、競争「原理」は肯定されるであろうし、逆に、望ましくない行動を強化したり、あるいは、努力が全く無い状況でただ単に競争だけをさせるのであれば、競争「原理」は否定されるべきものとなるだろう。 一例として、小学校の運動会がある。 「悪しき平等主義」の弊害から、一部の小学校では、競争競技そのものを無くしたり、わざと、できレースを仕組んだりするが、これでは、努力は報われない。 しかし、その一方、日々の練習を殆どせずに、ぶっつけ本番でリレー競走などやっても、足の速い子、体格の良い子が有利になるのは目に見えている。 つまり、前者では、競争をなくすことで「努力への報い」を否定し、後者では、努力の機会そのものを排除しているという点で間違っていると思う。 ではどうすればよいのか。それには
同じ議論は受験競争についても言える。なお、受験勉強については、行動分析学会ニューズレターで、和田秀樹氏の『受験勉強は子どもを救う』の書評を書いたことがある。そちらを参照されたい。 |
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【思ったこと】 _40802(月)[心理]「活きる」ための心理学(18)成果主義 4回目の後半では、時間配分の都合上、一部省略しつつ、「競争原理」の続きとして「成果主義」、さらに「高齢者福祉」の問題に言及した。 ところで、「成果主義」と「高齢者福祉」を並べると、何だか、全く関係なさそうに見える。しかし、「能動(=能動的な行動)」に対して適切に結果が伴うことを重視する「能動主義」の立場から言えば、どちらも、同じ枠組みで捉えることができるのだ。つまり、
さて、テレビや新聞、ネット上で各種情報などでも伝えられているように、日本では、従来の、年功序列型・家族型の雇用・昇進制度に替えて「成果主義」を導入する企業が増えてきた。しかしその多くは失敗、最近では、コンピテンシー(competency / 高業績者の行動特性)とか、成果達成支援というように、新たな改良が提唱されるようになっている。 単純な成果主義の弊害としては
余談だが、これらは、大学における個人評価でも起こりがちな弊害である。例えば、発表論文の数やページ数ばかりを重視してしまうと、教員は、短期的に「成果」を出しやすい「追試型」や「パラメターいじくり型」の研究ばかりに終始することになる。また、教育・研究・管理運営いずれの面においても、評価項目に関係する部分だけ熱心に取り組むようになる恐れがある。長期的な視点、及び、プロセス重視をどう取り込むかが重要なカギとなっている。 |
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【思ったこと】 _40803(火)[心理]「活きる」ための心理学(19)高齢者福祉 4回目の最後の部分では、あまり時間はとれなかったが「高齢者福祉」の問題に言及した。 なお、この講座にはギリギリで間に合わなかったが、このたび、朱鷺書房から、全人ケアの実践という本が出版された。この中の58ページから65ページに ●第II部 ダイバージョナルセラピーの基礎理論 第1章 高齢者の理解 第1節 心と行動 という部分は私が分担執筆した箇所であり、今回の講義内容をより詳しく述べたものである。ご一読いただければ幸いだ。 さて、私が提唱している高齢者福祉の基本理念は、7月25日の日記で引用したスキナーの次の言葉を前提とするものである【佐藤方哉訳、一部略】
高齢者の生きがいを考えるにあたって留意すべき点は、
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【思ったこと】 _40804(水)[心理]「活きる」ための心理学(20)講座全体についての反省 講義メモの最終回。受講生の方々からいただいたアンケートに基づいて、この講義全体についての反省を述べることにしたい。
この講義は、土曜日の午後に担当させていただいたが、個人的な事情として、この期間、月曜日から金曜日まで毎日1コマ以上の授業がつまっており、この講義についての独自の準備をする時間がなかなかとれなかったのが残念。 また、時間数から言えば、今回の内容をわかりやすく話し、かつ双方向的な授業として実施するためには、あと3回くらいは時間が欲しかった。そうは言っても、岡山市内から倉敷まで出向くには結構時間がかかる。講義時間は13時半から15時半の2時間であるが、途中で昼食をとることを考慮して11時すぎには岡山を出発、再び戻るのは17時頃になるというのが、かなりの負担になった。 今回の講義は3回目のクイズの時間を除いて「喋りっぱなし」であったが、ここに書かれてある内容を含めて、私のホームページのほうに、講義概容や関連資料へのリンクを掲載した。このような形の双方向型講義形式は今後も続けていきたいと思っている。 |