ナイジェリアにおける集落考古学

オルウォール・オグンデレ
ナイジェリア、イバダン大学考古学・人類学科
English


はじめに
 ナイジェリアで考古学の学術的な研究が発達をはじめたのは、比較的最近のことである。1940年代には、「ロプ」という岩陰が研究され、また、ナイジェリア中央部のノク川流域で、バーナード・ファッグによって、小規模な発掘が開始された。さらに、1950年代後半に、国土の東半に位置するイグボ・ウクウで、サースタン・ショーらのチームによって開発に伴う調査が実施された。それ以後、イル・イフェや、オルド・オヨ、ベニン、ダイマなど、ナイジェリアの西部や北部に位置するいくつかの地域で、考古学的な活動がおこなわれた。

 こうした考古学的発掘の目的は、主として遺物を獲得し、それによって地域の文化史を復元するというものであった。この時期の考古学的な調査は基本的に遺物志向であり、当然のこととして層位的な資料に基づいた分類が研究の枠組みの中心的位置を占めていた。この研究の方向性は、先後関係や編年についての見解を得るという見通しをもつものであった。たとえ、考古学的な活動が散発的であった(数が少なく地理的にも離れていた)ということは事実としても、文化の空間的な広がりについて遺跡内および遺跡間のレベルで理解を進めるという目的をもった研究戦略や研究デザインが存在していなかったということは、特筆しておかなければならない。事実、分布図の作成や発掘を伴うような面的方向への志向をもった活動が研究上決定的に重要であるという認識は、1980年代までは存在していなかった。こうした初期の研究がもたらした結果は次のようなものである。
 1.発掘で出土した遺物は孤立的であって、相互の関係や地理的な関わりを欠くものであり、人々が環境の中でどのように資源を開発したかを復元することが困難である。
 2.先史時代や原史時代または歴史時代において、国土内の異なった地域の人々の集団関係の性格やパターンを明らかにすることはほとんど実現されなかった。

問題と展望
 考古学の研究者は古文化の復元をおこなうのであるから、空間もしくは環境の変化という要素が不可欠の部分となる(Ogundele 1989; 1990; 1994)。しかし、ナイジェリアにおける先駆者たちの仕事および今日の研究者の成果を少し概観してみる中で、その直面してきた、あるいは現在もいくつか直面している問題を考えてみなければならない。この作業の大きな目的のひとつは、とくに集落関係の遺物や遺構のような、現在利用可能な、あるいは将来可能となるデータの新しい検討を進めようという試みであり、ナイジェリアおよび西アフリカ全体の考古学的な研究の地平を広げようという視点をもつものである。

 ナイジェリアで研究をおこなう考古学者は、ごく最近までほとんどヨーロッパ人であり、こうした研究者らは現地にあまり長く滞在せず、体系的で長期にわたる十分な考古学的な調査を実施してこなかった。いいかえれば、ナイジェリアの考古学者は現在も絶望的に少なく、全国土にわたる体系的な考古学の調査はきわめて達成が困難である。上に述べた問題と密接に関係しているのは、ナイジェリアが広い国土をもち、ひとにぎりの考古学者ではとても掌握できないということである。また、この地域の地理的特徴は非常に複雑である。たとえば、大きな植生的ゾーン(特に南部の密林・低湿地と、北部の砂漠)があり、それぞれ考古学のフィールドワークに大きな障害となっている。

 もうひとつの非常に困難な点は、ナイジェリアが多湿の熱帯にあり、他の同じような地域と同様、土壌が酸性で浸食が一般にきわめて著しいということと関係している。これは、古い年代の骨や木製品のようなもろい考古資料の保存に悪い影響を与えてきた。しかし、デルタや岩陰や洞穴のように土層の堆積が見られる場合もあり、そうしたところでは考古資料が比較的よく保存されている。それでも全体としてみればナイジェリアで研究する考古学者には、居住地を調査し、復元・解釈する上で、石器や土器片などといった腐らないものしか残されていないといって良い。

 資料が場所によって欠落していたり乏しかったりするため、安易な推測がおこなわれがちであり、そのために多くの初期の先駆的な考古学者はナイジェリアの文化変容の性格に関して、誤った仮説を提示することになったのである。そうした仮説のひとつは、森林地帯(ナイジェリア南部と西アフリカの全ギニア・ゾーン)への定住が、北のサバンナ地域よりはるかに新しいというものである。最近の考古学的研究によると、人間はすでに南西ナイジェリア(とくにイウォ-エレル)で紀元前9000年から居住をはじめており、南東ナイジェリアのウグウェレ-ウトル(オキグウェ)ではおそらくもっと古いことがわかっている(Shaw and Daniels 1984: 7-100)。

 十分な資金と年代測定装置の欠落も、ナイジェリアや西アフリカ全体における考古学研究の遅れをもたらしている。橋や、道路、家屋、ダムなどの建設において、資金の欠落のために通常は緊急調査がおこなわれていない。西アフリカ諸国の政府は、考古学の研究を十分に支援していないが、これは指導者や国民が、国家建設において過去に関する正しい知識が役に立つということを評価していないからでもあるだろう。

 現在のところ、炭化物や土器片を処理することのできる十分な年代測定施設は存在していない。西アフリカにおける唯一の施設はセネガルにあるが、十分なものとはいえない。結果としてほとんどがセネガル出土の炭化物処理に限定されている。こうした問題があり、発掘で採取された資料は処理のために外国に送らなければならない。このため、考古学的情報を適切な年代的見通しの中に位置づける作業の歩みを遅らせる結果となっている。

 さらに、時期的に古い居住資料よりも新しいものに時間と関心が向けられているような気がする。その結果、ナイジェリアや西アフリカ全体において、鉄器時代や歴史時代の集落のほうがよくわかっている。この時期に関しては、ナイジェリアのベニン・シティーや、ニジェール共和国のニアニ、マリのジェンネ-ジュノとその他の西アフリカの遺跡で一定の研究がおこなわれている。新しい時代に興味が向くひとつの理由は、歴史時代の集落考古学とその地域全体の口唱伝承の間に接点があるということと、時代が新しく私たち自身の時代に近いという点で、人々がより簡単にこうした時期と結びつけうるからである。

 ナイジェリアでは、1980年代はじめまで集落考古学の伝統がなかったといってもよいであろう。イフェやオルド-オヨ、ベニン、ザリアなど、一定の考古学的活動がおこなわれてきた地域でも、関心は主に住居以外の壁の構造物に向けられてきた(Soper 1981: 61-81; Darling 1984: 498-504; Leggett 1969: 27)。ナイジェリア南部では、歴史時代の集落は一般的に泥煉瓦か日干し煉瓦による家屋で構成されていた。こうした家屋や防御または区画の壁はほとんど崩壊するかわかりにくくなってしまっている。石を用いて家屋を建造する植民地以前の伝統は、ナイジェリア北部の多くの地域で示されている。ナイジェリアのこの地域では丘頂集落の多くは石造りの家屋で構成されており、これは環境の影響によるものである(Netting 1968: 18-28; Denyer 1978: 41-47)。土壌化学的性格(酸性土)もあるが、石造建造物は土造りの家屋よりよく残存している。

 古代集落の残存例は北部にくらべて南部でははるかに少ないが、それは建築材料の違いとともに、異なった歴史的伝統による建築技術の違いのせいでもある。丘陵上や斜面には多量の石があり建築材料に加工できるが、平野部では家屋の建造には土を用いるほうがはるかに簡単である。たとえば丘陵上や斜面の古代の集住的な集落に対し、今日のティヴの散在的な集落は、その移動農耕システムや母村から分かれたグループがもとの遺跡に戻って農耕をおこない定住するといったこともあり、ほとんどの古代集落や近年廃絶した遺跡(日干し煉瓦を用いた家屋による)は、良好な保存状態での発見が困難である(Sokpo and Mbakighir 1990, Personal Communication)。
 この保存状態の問題も、層位的な連続性を確立することを困難にしている。ナイジェリアでは建築技術によって次のような地域に分けることができる。
 1.土造りの技術によるもので、ナイジェリア南部のほとんどの地域に一般的である。
 2.石造りの技術によるもので、ナイジェリア北部のほとんどの地域に一般的である。
 3.土造りと石造りを合わせた技術。これはティヴランドで典型的に発達したもので、丘頂の古代住居や防壁は石でできているが、平野部の現代の住居はふつう土で造られている。

 我々のナイジェリアにおける経験では、第3の建築方法が一般的なモデルをつくるのに便利である。これは口唱伝承のデータや民族誌的資源から引き出すことのできるモデルである。こうしたモデルを考古学的な状況に注意深く適用すれば、ナイジェリアの人々の過去に関する我々の知識のギャップを埋めるのに大いに役立つであろう。

結  論
 ナイジェリアにおける多様な地域の集落考古学の科学的な研究は、不十分な施設にはじまり考古学者の少なさにいたるまで様々な問題に悩まされている。しかし近年の発達は、こうした問題が在地の考古学研究者にとって強みに転化しうるものであることを示している。そのひとつは、ナイジェリアにおける豊富な口唱伝承や民族誌的資源をうまく利用できることである。これは集落遺跡の諸側面の理解を進める上で助けとなるであろう。


参考文献
Darling, P. 1984. Archaeology & History In Southern Nigeria: The ancient Linear Earthworks of Benin and Ishan. B. A. R. Series 215.
Denyer, S 1978. African traditional architecture. Heinemann, Ibadan.
Leggett, H. J. 1969 Former Hill and Inselberg Settlements In the Zaria District. West African Archaeology News-letter. No.11.
Mbakighir, N. 1990. Personal Communication.
Netting, R. M. 1968. Hill Farmers of Nigeria: Cultural Ecology of the Kofyar of The Jos Plateau, University of Washington, Press Seattle.
Ogundele, S. O. 1989. Settlement Archaeology In Tivland: A Preliminary Report. West African Journal of Archaeology. Vol. 19.
Ogundele, S.O. 1990. The Use of Ethno-archaeology In Tiv Culture History. African Notes. Vol. 14.
Ogundele, S.O. 1994. Notes On Ungwai Settlement Archaeology. Journal of Science Research. Vol. 1.
Shaw, T.& Daniells, S. G. H. 1984. Excavations At Iwo-Eleru, Ondo State, Nigeria. West African Journal of Archaeology. Vol.14.
Soper, R. 1981. The Walls of Oyo Ile. West African Journal of Archaeology. Vol. 10/11.
Sokpo, A. 1990. Personal Communication.

[付記] ナイジェリアの考古学について紹介をお願いしましたところ、1995年12月18日付けのお手紙とともに、このようなレポートが送られてきました。途上国のきびしい考古学事情がわかるとともに、適切な支援の必要性を痛感させられるのではないでしょうか。イバダン大学の住所は、University of Ibadan, Ibadan, NIGERIA。
 なお、あまりていねいな訳ではありませんのでご注意ください。翻訳:新納泉


岡山大学考古学研究室

(960220 新納)