求められる政権選択を超えたビジョン
(山陽新聞:2009年8月22日)
岡山大学法学部 谷 聖美
来る総選挙における最大のポイントは政権交代であり、そのために各党、特に自民党と民主党はきちんとしたマニフェストを作って有権者に明確な選択肢を示さなければならない、というのがおおかたの論者の一致するところである。私も、政権交代が最重要課題として現実味を持って語られること自体、今度の総選挙が画期的な意義を持っている証だと思う。1996年、自民党は総選挙で敗北したが、ライバル陣営には中小の政党や会派が乱立していた。そのため、一旦成立した非自民連立政権も短いエピソードに終わってしまった。その点、今回もし与党側が敗れれば、民主党中心の政権ができることがはっきりしている。これは画期的なことだ。それは私も認める。しかし、多くの議論が一点に集まってしまうというのは、あまりいいことではない。ここで、個人的な体験に触れたい。
昨年の夏、私はアメリカ政治学会に出席するため、ボストン空港で連れの日本人と一緒にタクシーを拾った。すると、南米からの移民出身らしい運転手さんが、ラジオの音を小さくして何かを聞いている。「あっ、オバマだ。」私は思わず日本語で言った。運転手さんは、オバマ氏による、民主党大統領候補指名受託演説に聞き入っていたのである。「オバマ」は、日本語でも英語でも発音がほぼ同じだ。彼はすぐにボリュームを大きくしてくれた。市井の勤労者がそのかなり長い演説を熱心に聴いている、私はそこに政治におけることばの力というものを見たような気がした。
オバマ氏の演説は、決して扇動的なものでも絶叫調でもない。しばしば「教師的」と揶揄されるように、平易な言葉を明晰に連ねた、どちらかといえば落ち着いたものである。それが先ほどの運転手さんのような多くの人々を引きつけるのは、そこに豊かなメッセージ性とヴィジョンがあるからである。「チェンジ(変革)」や「ホープ(希望)」は、人々の心情を良く読み解いてそうしたメッセージを巧みに要約したものであり、「グリーン・ニューディール」は、ヴィジョンの概要をわかりやすく提示するものである。オバマ氏は、ライバル・クリントン氏を閣内に取り込むなど、したたかな現実主義者の顔も持つ。日本にとって手強い交渉相手だ。しかし、言葉の力を知っており、政治におけるヴィジョンの必要性を理解している点で、並の現実主義者を超えているようにも思える。
日本では、2大政党のリーダーから、「景気回復」「官僚政治打破」が繰り返し主張されている。いずれも重要であるには違いない。しかし、そうした直近の目標を超えた「何か」が聞こえてこない。日本という国家とその土台にある社会をこれからどのように形作っていくのか、というヴィジョンがはっきりしない。また、それを人々の心に届ける「ことば」が足りないようにも思える。政治家もマスメディアも、そこを考えてほしい。
オバマ氏に関連してもう一つ。大変注目された昨年の米大統領選だが、民主党や共和党、あるいは各候補のマニフェストについて何か聞いた人はいるだろうか。もちろん、アメリカにも選挙綱領はあり、具体的な施策に関する議論もある。しかし、それらが次の政権を縛る工程表だという位置づけはない。しかも、状況は刻々変わる。実は、マニフェストの母国英国でも、そこにたくさんの具体的な数字がちりばめられるというようなことはない。政治において大切なのは、自分たちのヴィジョンと重点事項をまずはっきり示すことである。また、政権獲得後は、自分たちの政策的取り組み、あるいは方針転換などについてきちんと説明しながら(ことばを届けながら)、国民と政府をヴィジョンにもとづいてリードしていくことである。政権交代もマニフェストも、結局はそこに至る一里塚でしかない。