食文化とナショナリズム
   <岡山県総合文化センターニュース422号(2000年7月10日)掲載>


 最近、トマトにしろキュウリにしろ、全般に味が薄くなったという声をよく聞く。かつては各地域で栽培されていた独特の品種がすたれて、全国どこでも同じ品種、同じ味の野菜や果物が幅を利かせるようになってしまったという嘆きも聞く。そして、このような状況は日本人の食文化が衰退しつつあることの表れだというような批判も目に付く。

 確かに、苦みといい酸味といい、子供の時に食べた野菜の方が味が濃かったような気がする。いろんな品種名が今でも残ってはいるので、やはりトマトやキュウリのようにどこでも見かける野菜にも、ふるさとの味というものはあったのであろう。だから、野菜を使った料理の味が、今ではかなり変わってきているということは十分考えられる。

 ただ、私はこのような状況が嘆かわしいことだ、反省すべきことだとは必ずしも思わない。それは、一つには、トマトならトマトの味は画一化されてきているかもしれないが、トマトを使った料理法やドレッシングの種類が「昔」とは比べものにならないくらい多様なおいしさを与えてくれるようになったからである。その意味で、国際化の進行とともにさまざまな食文化が手軽に味わえるようになってきたことは喜ばしい限りである。

 もう一つの理由は、今でも、地元取れたて、産地直送の野菜や果物を手に入れることができれば、新鮮なおいしさだけでなく、同じ品種であっても土壌や水の違いが生み出す微妙な味わいを楽しむことはできるからである。大農法による大量画一生産というイメージが強いアメリカでも、個人経営の農家が庭先や道ばたで売っている自家製のトウモロコシやトマト、チェリーなど、さまざまな野菜果物を買って食べてみれば驚くほどおいしい。私が住んでいた中西部では、どの町にもファーマーズマーケット(日本でいえば屋根付きの朝市のようなもの)があって、近在の農家や牧場が取れたて絞りたて、あるいはその家独自の方法でつくった食材を売っている。日本でもこんな風にして野菜や果物などを手軽に手に入れることができれば、「昔」はよかったなどと嘆く必要はないのである。

 最後に、私はその「昔」というのをあまり信じない。そもそも、トマトなんて日本列島の歴史のなかでは新参者にすぎないではないか。縄文の「昔」から連綿と食べ続けられてきたものなどほとんどない。食文化に限らず、文化というものは時代とともに変わっていくものなのだ。私たちが「日本的」と思っているものでも、ほとんどの場合その起源は意外に最近だったり、あるいは外の世界の影響で広まったものだ。これぞ日本的と思われている神前結婚式だって、明治時代まではなかったのであり、そこにはキリスト教式結婚式の影響が感じられる。

 食に関しても同様である。関ヶ原の合戦の頃にはにぎり寿司も祭り寿司もなかった。米だって、この列島に初めて導入された頃のものは赤米で、今ではほとんど見られない。いや、米自体、鎌倉の頃まではそれほど人々の胃袋を満たすものではなかった。五穀豊穣というではないか。米が五穀から抜け出て主食になったのすら比較的「最近」である。とんかつは西洋料理の影響を受けた和食である。料理とは優れて創造的な活動だ。過去や固有性にとらわれることなく、柔軟な発想と飽くなき探求心で私たちの食文化をいっそう豊かなものにしていきたいものである。ナショナリズムはおいしさと栄養の敵なのだ。 


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