「宅急便とパンツ、あるいは小さな日本文化論」

                        (『けやき』13号、1985年)




                                                  



 前回、本誌に「民主主義は玄関まで?」と題する一文を書いたら、意外と反響があったので、図々しくもまた駄文を載せてもらうことにした。
 前号拙文の要旨は、ビーフシチューの作り方並びに男の自立ということであった。家事を満足にこなせない男というのは、いかに男子厨房に入るべからずなどといばっていても、要は常住坐臥を事実上ほとんど親や連れ合いに頼りきった情けない存在でしかない、俺はそんな輩の仲間入りをしたくないから、せっせと掃除洗濯から子育てメシ炊きまでやっているのだ、ビーフシチューだって天ぷらだって、プロ並みとはいかずとも、まずまずこなして自他の味覚を満足させることができるのだ、ザマ見ろ、というわけである。もっともなかには結局弁護士のカアチャンの尻に敷かれているにすぎないのだなどという、ケシからん、非科学的な推論をして自らを慰めようという御仁まであって、必ずしも当方の単純な主張を素直に受けとってもらえたとは言えないようだが。
 ともかく、そんなことを書いてしばらくたったある日、私は新聞に載った一女性からの投稿にいささか引っかかった。それは大要次のような内容であった。
 その女性は、夫が失業したがために、やむなく宅急便の会社に勤めて車で小包の配達をしている。そのうち、頻繁に小包を届ける得意先の奥さんと話をするようになった。何でもその家の主は大手会社の社員で、目下某県に単身赴任中である。投稿の主がいつも届けていたのは、異郷で一人暮らすその檀那が我が家に送る洗濯物だった。宅急便の女性は、それを知って、単身赴任の重圧を思いやりながらも、反面、経済的にも恵まれた夫婦が宅急便で汚れ物を送るという贅沢をしながらお互いの結びつきを確かめられる幸福も想像されて、結局羨望の念を禁じ得なかったのである。
 よくありそうな話ではある。しかし、私はこだわった。というより、まず不快になり、次いで腹立たしくなり、更に不快になった。なぜか。
 最初の不快感は、変な話で恐縮だが、我々が日頃利用している宅急便や郵便小包のなかに、洗濯物のシャツだのパンツなどの包みが沢山混じっているという事実そのものがもたらす生理的な反応である。そういう非人道的な不作法を平気でする輩は、もちろん一部の単身赴任族だけではないはずである。
 次に、自分の下着一つ洗えない男(多分、99%以上男)どもが、一人前の大人づらして我こそは実社会の企業戦士だ、いやその予備軍たる学生サマだとそりくり返っていられるこの社会の醜悪な姿に腹が立った。大の大人がパンツを小包にして母や妻のもとにせっせと送っているような小児病的社会が日本のほかにどこにあろう。それにしても、近年のコインランドリーの普及は、エネルギーを浪費しつつも、かかる惨状の改善に寄与しているということを認識させられた。
 と、ここまでなら、自立をめざすけなげな男の悲憤慷慨、前回の拙文の趣旨と全く同じである。だが、第三の不快感は何故か。その秘密は決して口外してはならぬ。
 一体、なぜ宅急便でパンツを送るのは男ばかりなのか。それを洗うのはなぜ女ばかりなのか。いくらなんでも、成人した男と女(夫と妻、成年に達した息子と母親)の関係としては陰湿ではないか。どうして女は唯々諾々と男のパンツを洗うばかりか、そうしたことができるということに、先の投稿主のように憧れさえ抱くのか。
 明らかにこうした現象は、単なる男尊女卑観の名残りなどというなまやさしいものではあるまい。精神分析学、臨床心理学の断片的知識にいささか悪のりしすぎるような気もするが、こうした日常的な事柄のなかにも、日本文化における母子相姦的な傾向が如実に表れているのではなかろうか。しかも、日本では実際の病理現象も他国と比べて非常に増えていると聞く。
 よくいわれることだが、日本では夫婦は互いをお父さん、お母さんなどと呼び合うことが多い。夫=父、妻=母である。しかも、家庭における夫=父の影はしばしば非常に薄い。中心は母と子(特に息子)の結びつきである。過保護の教育ママと甘ったれたマザコン青少年が生産されやすい。そしてその関係の基本は相互依存である。この自立とともに、親、特に母親の子離れが強調されざるを得ない所以である。
 そういうことから考えると、先の宅急便の話に出てくる夫婦関係は、実は心理的には母子関係と等価なのではないか。一人立ちできない甘ったれた息子=夫と、彼に全面的に頼られながら、頼られることに頼っているこれまた自立できない妻=母親。何とも不健全な姿ではないか。私が感じた三度目の不快感の原因はここにある。
 以上のような推論がある程度正しいとするなら、日常生活における男の自立ということは、とりもなおさず不健全な夫婦、親子関係にとぐろを巻きながらデカいツラをして憚らないという惨状からの離脱でもあるはずだ。男女平等がどうのこうのといったことだけでは片づかないのである。
 とまれ、ドン・キホーテのように、ジャガ芋や魚、果てはガキどもと日々格闘している男の主張にも、ひょっとしたら日本文化の大問題が捉えられているかもしれないのである。乞・謹聴。いや少しマジに書きすぎたかな。
 というわけで、今回は谷先生の料理教室はお休みです。ただし、個人教授には無料で応じます。単位は出しませんが。

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