集中講義・政治原論(京大法学部)を受講されたみなさまへ(2007.2.2)

 

はじめに

 

 ここに載せる補足資料は、PDFファイルとしてこのサイトからダウンロードできるようにしてあります。ここをクリックしてください。

 

 

1.訂正


まず、板書における書き間違いを訂正させて頂きます。ロバート・ダールのポリアーキー化に関して、「意義申し立て」と書いてしまいましたが、これは「異議申し立て」の間違いです。

 

 

2.国家論に関する補足的コメント

 私の講義では、国家に関する議論にかなりのスペースを割きました。その理由の一つは、現代政治学ではそれほど論じられていませんが、政治学の伝統のなかでは国家や権力の問題は重要なテーマだったからです。もう一つは、国家に関して掘り下げて考えておかないと、最近の日本における愛国心論議や9.11後のアメリカにおける愛国主義(パトリオティズム、patriotism)の高まりのなかで「くに」と政府(あるいは時の政権)とを意識的無意識的に混同しようとする傾向にうまく切り込んで交通整理をすることができなくなってしまうと考えたからです。この交通整理ができないと国家という組織経営の問題を合理的に考えることができませんし、もっと具体的には例えばEUの成立などについてもこれを理解することができなくなります。

個人的な体験ですが、ブッシュ政権によるイラク攻撃開始の直後、私は学会でニューヨークに行きました。そこでは、日本の報道にはあまり取り上げられない大規模な反戦デモが連日行われていましたが、同時にブッシュ政権の支持者たちも大勢反戦デモに反対するために集まっていました。そうした政権よりの人々が掲げるプラカードのなかに、「我々はアメリカを愛しているから大統領を支持するWe love America, we are with our president」というのがありました。大統領(政権)を批判することはこの国に対する裏切りだとされたのです。このように考える人々が多数を占めた結果、案の定アメリカはイラクで大変な事態を引き起こして、にっちもさっちもいかないようになってしまいました。

 この第2の点と重なりますが、日本では国民としての日本人と民族としての日本人を区別するという発想がほとんどなく、そのために国民としての日本人が作る組織体としての日本国家を客観的、分析的に捉えることが難しくなっているということも国家の問題に長い時間を割いた理由です。私のこのような問題意識をわかって頂くためには、例えば日本語における「日本人」と「外国人」、「日本語」と「外国語」という、誰もがごく自然に行っている二分法のおかしさを考えてみてください。アイヌの人たちは外国人でしょうか。アイヌ語は外国語でしょうか。

さらに、小笠原諸島の例を出してみましょう。ほとんど知られていないことですが、東京都に属している小笠原諸島に最初に住み着いた人々は欧米系の人々で、そのため第2次大戦後そこがアメリカ軍の占領下におかれたときも、「日本人」は強制退去となったのに、「先住民」(とその子孫)は島に住み続けることが許され、英語で暮らしていました。その小笠原諸島が1968年に日本に返還されたとき、英語は「外国語」だということになったのです。どこか変だと思いませんか?

国家と国民、民族の関係については歴史学や人類学など他の分野の学問にも多くを学ばなければなりませんが、今回はとりあえず政治学の枠内で議論してみました。準備の時間が余りなかったこともあって、皆さんからの疑問や批判を糧にしてこれからも私なりの考えを深めていきたいと思っています。ご意見のある方は、私宛にメールを送って頂くよう、お願いします。アドレスは、 tani@cc.okayama-u.ac.jp  です。


戻る

 

3.組織と国家に関する議論の補足

 

 今回の集中講義で、私は国家を組織の一種と捉え、その限りで会社と同じような法人、すなわち観念的構成物であるという解釈を示しました。このようなアイデアを考え出すに当たって、私は民法や公法の初歩的な理解、ホッブスやロックの社会契約論的国家論、そして三浦つとむというあまり知られていない市井の哲学者によってかつて展開された理論を出発点としています。そして、そのような考え方がソ連の崩壊、旧西ドイツによる旧東ドイツの吸収統合、チェコスロバキアの平和的分裂などの実際に起きた事件を説明できると思うようになった次第です。

 

(1)盛山和夫教授による新しい組織論

 

 ところが、最近、盛山和夫(せいやまかずお)という東大の社会学の先生がちょっと違った経路をとりながら、しかしもっと学問的な議論を詰めた上で、同じような考え方をしていることを知りました。盛山さんの著書については講義においても紹介したところです。そこで、少し長くなりますが、盛山さんの『制度論の構図』(創文社、2004年)から関連するところを抜き出してみましょう。

 

 「・・・国家や株式会社のような社会制度を説明するためには、それを構成している人々の行為を理解すればよい、という方法論的主張(は)失敗を運命づけられている。というのは、そうした社会制度が人々の行為によって構成されているという認識が、まったく誤っているからである。

 すでにわれられは、ルールを行為によって説明するという戦略(谷による注:社会現象を個人の行為を基本単位としてそこから説明すべきだという方法論的個人主義、社会学や政治学の多くがこの考え方に依拠)が失敗することを確認した。ルールは行為の外的な現れでも生理的過程でもない。駐車禁止というルールは、そこに駐車している車がないということとは異なるのである。ルールがそうである以上、ルールによって構成されている社会的集合体もそうである。

 方法的個人主義の最大の誤りは、社会現象が行為から成り立っているという行為論的イデオロギーを何の疑いもなく前提としてしまっているところにある。しかし、本当のことをいえば、社会現象は行為などからはなり立っていなくて、むしろ諸観念からなり立っているのである。」(198頁、下線は谷)

 「まず、組織の目標について考えてみよう。『組織が目標を持つ』という言い方は明らかに擬人的であり、ケルゼンの言うアニミズム的思考であるといわざるを得ないだろう。『組織Xの目標はPである』ということがもしも客観的な(谷の注:物理的な、あるいは個々人とは無関係に存在しうる、というほどの意味)事実であるとしたら、それはXの事務所が入っているビルのように堅い事実であって、人々の諸行為や思念にとっては動かすことのできない所与でなければならない。しかし、組織の目標や組織それ自体がもし存在するとしても、それは決してビルのように堅い事実として存在するわけではないのである。」(215頁)

 「・・・実証主義(谷のおおよその注:事実の検証は、五感で確かめることのできる世界で妥当な方法を用いる限り、誰にでも可能であるはずだし、またそうであるべきだという主張)的にみる限り、組織に目的があるなどということはあり得ない。しかし、それと同時にまた、人々がそうした信念を抱いているということも否定できない経験的事実である。」(同、下線は谷)

 「組織の目標とは、一次理論のレベル(谷の注:一次理論云々はとりあえず無視)において人々(必ずしも成員だけではない)の間で「組織目標」として信じ込まれている内容に他ならない。・・・さしあたり重要なことは、そのように信じ込まれている内容は仮想的であると同時に『客観的』な現実を構成し、人々の諸行為を統御するということである。人々は単に自らの個人的目標の観点から組織に関わり合うのではなく、しばしば『組織目的』の観点からそうするのである。『国家が君に対して何をしてくれるかではなく、君が国家に対して何をしうるかを考えなさい』(ケネディ)というスローガンは、すべての共同体や組織に確立しており、人々は自らを超えた超越的実体である会社や国家や民族の観点を自らのものとする。」(216頁、ケネディは1961年の米大統領就任式でその言葉を述べた)

―――(谷流の補足)組織に属する個人は、絶えず個人的目標と組織的目標の両方を念頭に置いており、その間をめまぐるしく(頭の中で)動いている。例えば、会社という組織のなかで働くときに、絶えず出世や仕事量の軽減や賃上げや週末の家族旅行の計画などを意識しつつ、しかも基本的には組織の指示する拘束下に自分を置き、その枠組みの外には出ない(出たら首になる)。ただ、時々組織目標とその指示に対して過剰に同調したり思い入れをしたり、あるいは自分を見失って組織目標に支配されるようになり、例えば家庭を犠牲にする場合や、過労死するまで働いてしまうこともある(権力という要素が入り込むこともあるが)。

 「組織が協働の体系としての体裁を有するためには、(1)「組織の決定」という集合的決定の観念とそれを操作的に定義する規則が存在し、(2)その決定を遂行するための機構が備わってなければならない。」「『組織としての一元的決定』が定義できているか否かは、組織が組織としての実体をそなえているか、それとも単なるバラバラの個人の集まりにすぎないのかを分かつ重要な条件である。」(218頁)

 

(2)組織の本質

 

 私の言葉で言えば、組織というのは人間が個々の存在としては発揮することのできない力powerを出すための「観念的な道具」であり、その原初的な形態は、例えば何人かの人が重いものを協力して運ぶというようなシンプルな協働システムにあります。この場合、何人かで分担して、一人ではなかなか作れないような複雑なソフトウェア、すなわちパソコンのプログラムを作るというように、めざす力powerは非物理的な知力でもかまいません。要するに何らかの大きな能力、あるいは自分だけでは得られない効果を獲得するために協力するわけです。助け合いや連れだって旅行に行くというような、日常的に私たちが行っている協働行為は、しかじかの時点から協働行為、あるいは組織関係に入ることを決意してそれを相互に確認する、というような大げさなものではなく、何気なく始めて何気なく終わってしまうものが少なくないのですが。

 もちろん、組織と通常よぶような恒常的な協働システムの場合には、そこに集う人々の結びつき方は多かれ少なかれ複雑な形をとります。一人では達成できないような楽しみ、喜び、充実感、あるいは他者との出会いを実現するための組織である学生サークルのような身近な組織でも、その時々の行事に合わせて役割を分担し(分業)、リーダーという役割を任された人を中心にその分担を有機的にまとめていかなければなりません(協業)。総務や会計といった、組織そのものを維持するための役割も分化していきます。そして、組織を運営するためのルールも、そうした役割間の関係も、制度としてメンバーのあいだに共有されていきます。制度とは、簡単に言えばみんながそれに従って己の行動を律する共通了解事項のことです(従って、組織本体と同様観念的な産物です)。

 このように、組織は見た目上役割とルール(ないしは制度)の集まりとして見えるものですから、これまで組織の定義として「役割と制度の体系」などというような定義がなされてきたわけです。しかしながら、盛山さんも指摘しているように、組織を成り立たせているのはそうした役割や制度、あるいはルールではありません。なぜなら、役割や制度は人々が観念のレベルで認識している事柄にすぎないからです。あなたがA社の事業目的や社内規則、組織図についてよく知っていたとしても、そんなことは単にA社を研究している学者や利害関係を持つ取引銀行の担当者にだってできることです。学者やよその銀行の人は組織のメンバーではないでしょう。

結局、一人一人の参加者が自分を組織のメンバーとして位置づけ、その限りにおいて組織の一員として行動するという共通の意志(共同意志、あるいは共通意志)と、その時々において組織として行われる集合的な(あるいは集団的な)意志決定に自分を従わせるという共通了解こそが人々を結びつけ、組織をなり立たせるのです。人のいない、ルールや役割だけの組織というのは単に登記簿や本の中の情報でしかなく、それ自体では活動も意志決定も何一つできません。決定し、行動するのはあくまでも生身の人間です。組織とはそこに集う人々そのものだともいえるでしょう。参加者だれもが「もうこの組織に自分をコミットさせることはやめよう」と言えば、あるいはテロか何かで一瞬のうちに全員死亡するようなことがあれば、その瞬間にその組織は跡形もなく消えてしまいます。あとにはただ、その組織の事務所や規定集など物理的付属物が、ないしはその残骸が残るだけです。軍隊のように道具が非常に重きをなす組織でさえ、兵隊さんがみんな逃げ出してしまったら、ただのガラクタの山にすぎなくなります。「人は石垣人は城」とはけだし至言だというべきでしょう。組織としての国家の場合は、まさに「国敗れて山河あり、城春にして草青みてり」ということになります。そこに見えるのは(存在するのは)茫々たる山並みや川の広がりと、雑草が生い茂って朽ちかけた無人のお城だけで、国(組織)は虚空の遙か彼方に消え去ってその影すら見あたりません。

ところで、組織への参加の仕方には、ある組織のなかの役割だけを引き受けて全体の協働システムに加わっていくという、もう一つのルートがあります。アルバイトやパート(英語ではどちらもpart time jobです)の例をとるとわかりやすいと思います。お歳暮商戦の時だけデパートに雇われて働くアルバイトの学生さんは、契約した期間の間、特定の業務(役割)を引き受けてその限りで協業システムのなかに自らを組み込みます。彼(あるいは彼女)には、デパートという組織をなり立たせるもとになった共通目標、すなわち利潤追求という会社の目的まで共有する必要はまったくありません。従業員の大部分がパート労働者という企業があることからもわかるように、組織においては、このような個々の役割だけを引き受ける人々を組み合わせることによって規模や複雑性を増していくことが可能です。組織を役割体系として見ようとする考え方が出てくる理由はこの辺にありそうです。しかしながら、パートの人たちも、彼らを雇う、もとの組織がなければ協業システムに参加することはできません。彼ら(彼女ら)はどこかに雇われるわけで、それにはその「どこか」が先行している必要があるからです。その「どこか」は、これはもう役割の集合体なのではなく、役割を作り出した人々が結集する組織、すなわち観念(共同意志や共通目的)によって結びついた人間の集合体です(厳密に言えば、その人たちの頭の中にある観念的産物)。

ただ、「役割の受容を通じて組織に参加する形態」についてもう少し考えてみると、普通の会社の社員(日常語で用いられている意味での会社員、あるいは正規の従業員)も、実は出資者組織(株主たちがつくった組織)としての会社に役割単位で雇われた、すなわち組織に部分的に参加しているだけの存在であるはずです。会社法的に言えば、会社という組織は株主が所有する観念的道具で、株主こそが社員なのであり、いわゆる会社員とはその道具を動かすために雇われた、株主の視点から見ればこれまた単なる道具的な存在にすぎません(使い捨てという言葉を想起してください)。言うまでもなく、物権の対象となる物理的な道具と違って、会社員は生身の人間ですから、株主、すなわち会社との関係は民法や労働法規に準拠した契約によって制約を受けています。それでも、法律上は会社(すなわち組織)からみて、会社員はあくまで手段にすぎません。

ところが、ホリエモンのライブドアが日本放送株を買い占めて経営権を取得しようとしたときに、そこの会社員や雇われ社長が結束してそれを阻止しようとして一定の功を奏したことに端的に表れているように、会社組織がいつの間にか従業員たち自身の観念的な道具に変質して、その実質的な力powerが法律上の所有権(経営権)を凌駕するような事態が起こることもあるのです。そもそも、日本では会社の「経営者」たちさへ、資本家、あるいは資本家に雇われた経営のプロなどではなく、サラリーマン社長という言葉が示すように、従業員のなかから昇進してくる例が多いのです。これは、役割取得にもとづく協働行為が、実際の日常的組織活動を通じて従業員(及びその代表としての社長)のあいだに共通目標と共同意志を育んでいき、会社がいつの間にか実質的にはかれらの観念的道具になっていくという可能性を示唆しています。経済学ではよく「所有と経営の分離」ということが言われますが、「所有と労働の分離」も組織論的には重要な意味を持つのです。

 

(3)個人レベルの意志決定と集合的意志決定

 

 さて、「共同意志と共通目的を基礎とする観念的道具としての組織」という命題に戻りましょう。組織とは、こうした共通の意志や目的をいわば接着剤として、人々を結びつけた協働のシステムです。しかし、組織はその性格上何かを達成するための道具、すなわち手段であって、作ったらそれで話しが終わりになるようなものではありません。ここで二つのことが問題となります。ひとつは、組織を使う、すなわち組織を動かしていくためには、個々の局面で具体的に何をどういう風にするかということをその都度決めていかなければならないという問題です。組織として何をどうしていくかという意志決定の問題です。

もう一つは、一旦組織を作り出すと、それを維持発展させることが自己目的化してしまい、本来は参加者のためにつくられた組織が逆に参加者たちを縛ってしまうという主客の転倒がしばしば起こるという問題です。これが私の講義で述べた「組織の物神化」という現象です。物神化とはマルクス主義などでよく用いられたコンセプトですが、要するに、自分のために作り出したモノを、逆に作り出した当の人間があがめ奉る(何ものにもまして大切だと思う)ようになってそれに振り回される、あるいは支配されるという現象のことです。お金を自分のために使わず、我が身の幸福を犠牲にしてまでひたすらため込んでいく守銭奴は、お金を物神化してそれに支配されている存在だといえるでしょう。組織にもこういうことが起こるのです。いや、組織というのは目に見えない、人々の頭の中だけにある存在であるだけに、これを対象化して客観的に捉えるのは意外と難しく、そのために物神化されやすい性質を持っているといえるのです。

ここでは物神化の問題にはこれ以上立ち入らず、第一の問題、すなわち組織としての集合的な意志決定の問題を取り上げましょう。人々が個々の問題で合意を形成し、組織としての意思統一を図ることができなければ組織は動けませんし、そうした個別的問題で参加者たちの間に対立が続けば、組織に参加し続けようというかれらのモチベーションが低下して、組織が解体してしまいかねません。共通目的やメンバーとして組織的に行動するという点についての合意、すなわち「総論」の部分に対して、これは「各論」に相当する段階の話です。学生さんのサークルであれば、今度の合宿はいつどこでやるか、今度の対外試合には誰を先発メンバーにするか、夏休みの練習時間をどう決めるか、部室の掃除を当番制にするかしないか、今度の飲み会をいつにするか、といった無数の事柄を決めながら活動していく、というレベルの話です。このような、集団としての「組織意志」(実際はみんなの意志)を決めていくことを、この講義では「集合的意志決定」(あるいは単に集合的決定)と呼んだのです。

集合的意志決定には二つのレベルがあります。まず、意志決定に参加する人たちが個人としてどのように自分の意志を決定するか(原案や代案を出すか、出すとするとどのような案を作るか、対案にどう反応するか、誰の言うことを重視するか、こいつの言うことにまともに反対するかどうか、そもそも組織的意志決定にどのように参加するか、あるいは他の人たちの判断に任せてしまうか、など)という、個人的な意志決定のレベルです。もう一つは、そうした個々人がさまざまな形で議論や駆け引きなどの相互作用を繰り返しながら、素案を検討し、修正し、代案を検討し、合意に向かって行動案を絞っていき、全員一致によるにせよ、あるいは多数決によるにせよ、最後は議論に決着をつけて組織意志を確定すさせる、というプロセスです。もし完全な形での独裁政治やワンマン経営が行われている場合には、このような集合的意志決定の問題は考える必要がありません。

個人的な決定の場合については、みなさんが昼ご飯を食べに行くというケースを例にとって考えてみましょう(講義中も同じ例を出したと記憶しています)。この場合、そもそも昼ご飯を食べるかどうかを決めなければなりません(その時間があったら試験準備の勉強をした方がいいのではないか、それとも友人とテニスをしたほうがいいか、食べると3限の講義で寝てしまうので書籍部にでも行くか、あるいは売店に行ってクッキーか何かを買ってそれだけを食べておくか、などなど)。そこでどうするのが一番いいだろうと考えて、よし、やっぱりちゃんとしたものを食べようと決めたら、次はどこで何を食べるかを決める番となります。ここでも、まず食べる所はどことどこがあるか、いくつかの選択肢を考えてみて、時間と値段、それに味などの基準から総合的に判断し、それぞれを選択した場合の満足、ないし効用の度合いを計算して、一番効用が大きいものを選択するというのが「合理的」な決定のイメージです。さらに、食べるところを選択したら(たとえば中央食堂)、次はそこに行って、メニューを比べて同じように「合理的な選択」としてビーフシチューとサラダバーとライスに決定する、ということになります。合理的な意志決定の過程とは、こうして選択肢のツリー構造の中から、常に最善の選択肢を選択していく過程だと考えられるのです。

一般に、合理主義が幅をきかせる近現代社会においては、個人の意志決定は迷信や因習にとらわれるのではなく、このように合理的に行われており、またそうであるべきだと考えられてきました。しかし、みなさんはお昼ご飯を食べるときにそんな面倒なことを考えているでしょうか。利用可能な食堂やレストラン(選択肢)を比較するといっても、大学の周りにあるすべての食堂やレストランのことを細かく比較したりはしないでしょう。中央食堂に決めてそこに行っても、すべてのメニューのカロリーや栄養のバランスやおいしそうに見える度合いや値段などを詳細に検討して最善のものを選ぶ、などということは通常はしないはずです。第一そんなことをしていたらあっという間に時間がたってしまってお昼ご飯を食べ損なう、という大きな不合理を招いてしまいます。栄養に関する正しい判断ができるよう、前もって本を買って勉強しておかなければならないというようなコストもかかります。

一見当然のように思える合理的決定が実はかえって不合理を招いてしまう、というより、通常の意志決定においては非現実的だ、ということを指摘して、意志決定の現実的なあり方を初めてモデル化したのは、のちにノーベル経済学賞を受賞したハーバート・サイモンです。かれは、通常人はある程度まで合理的な決定を行おうとはするが、それを徹底的に追求すると情報収集のコストや比較考量(計算)に要する時間的コストなどが大きくなりすぎるので、ほどほど満足できるあたりで妥協して決めるのだ、という「満足化モデル」という有名な意志決定モデルを提起しました。

サイモンのこのような問題提起が行われて以後、意志決定についてはさまざまな研究が行われるようになり、理解が格段に深まって、決定という、一見すると誰もが日常的に行っている活動に関する理論的、実証的な研究が多数生み出されることになりました。その過程で、「決定というけれども、実際には多くの場合人は意志決定するというよりもむしろ状況に応じて単にルーチン的に反応しているだけの場合が多い」「決定するというより、既存のマニュアルやルールの単なる機械的適用という場合の方が多い」「そもそも、あらゆる潜在的な選択肢を白紙の状態から詳細に検討し、判断基準に照らしてそれぞれの善し悪しを計算する、などというけれども、人は白紙の状態などにはなく、判断基準なるもの、従ってそれに基づく善し悪しの判断自体が生まれ育った社会の中で形成された(色づけられた)ものであるという歴史的社会的制約の中にあるのだし、そもそも、どのような選択肢があるかということもそうした文脈の中ではじめから制約されているので、個人の選択と見えることも、実は社会的な選択の個人的表出にすぎないのだ」といった考え方も提起されています。最後の見解は、フーコーの「権力としての知」という議論やブルデューのハビトゥスという概念にも通じるところをもっています。

ただ、「食堂に行っても普通はメニューをいくつもの基準に照らして事細かに比較検討したりはしない」といっても、深刻な内臓疾患を抱えている人や、スポーツの試合に備えて減量や瞬発力強化などにを心がけている人となると、これは多かれ少なかれ「合理的決定」モデルに近い、入念な情報収集と慎重な計算を最後の決定に先立って行うでしょう。重要な「国益」がかかった外交上の意志決定なども、合理的決定モデルにある程度近づく理由をもっています。外交政策の決定がしばしば合理的決定モデルで説明されることにも一理があるわけです。

さて、組織としての意志決定というレベルの話になると、個人レベルの意志決定よりも事態はいっそう複雑となります。もちろん、重要政策の決定になるほど、個人レベルの決定同様そこには合理的決定モデルで描かれるようなあり方に近づけようとみんなが努力するということはあるかもしれません。しかし、組織としての意志決定は、考え方や好み、イデオロギー的な傾向、性格、影響力や人望の多寡、特定の問題に関する知識や判断力、バックにある利害関係、相互の人間関係(たとえばあいつのいうことには簡単に同意を与えたくないという感情がある場合)や力関係などなど、さまざまな点で違いがある複数の人々が寄り集まって全体の意思統一を図っていくというかたちをとらざるをえません。独裁者やワンマン社長が一切を仕切っているような組織は別として、組織としての意志決定とは、多数の人が相互に関係しながら行われる集合的決定のプロセスを経て決まっていくものなのです。

 集合的決定のプロセスには大勢の人が参加するので、全体の意思統一を図っていくことは容易ではありません。従って、そこでは人々の意見を調整し、統合を図っていくということが問題となります。参加者のあいだに上下関係や影響力の大小がない場合には、特にこの問題は重要となります。そこで、政治学や経営学などでは、どのような形で調整が行われ、合意が調達されるのかが一つの研究課題となるわけです。いずれにせよ、組織的な決定では、関係者の同意を調達して決定を実現するということが優先されやすいので、さまざまな妥協や別の問題をめぐる決定での譲歩とセットにしたギブ・アンド・テイク、一律5%予算削減といった一律主義、大幅な変更は反発を招きやすいことからくる微調整的な変更(インクリメンタリズム)、関係者のあいだにおける利益やメンツ上のバランスをとること、といった手法が目立つことになります。それどころか、さまざまな関心や問題意識にもとづいて動いている関係者の思惑や抱える事情が偶然一致したために、結果的に合意ができてしまい、そのため半ば偶然にあることが決定されてしまう、ということすら実は珍しいことではありません。政策決定のゴミ缶モデルとは、こうしたタイプの集合的決定を説明するものです。いずれにせよ、組織としての意志決定とは、個人的な意思決定に関する様々な問題と集団内の調整と統合に伴う問題とが絡み合う、複雑なプロセスなのです。

 

(4)組織としての国家とその特異性

 

 国家、および政府を組織、すなわち観念的道具の一つと考えるというのが、本講義が提起した仮説の一つです。このような考え方は何も私の独創というわけではありません。この補論の冒頭でも少し触れたように、社会契約論における国家のとらえ方がすでにして事実上「組織としての国家」なのです。この点をロック(John Locke)の所説に即して説明しましょう。ロックは17世紀の人ですから、現代の社会科学とは少し異なった用語を用いていますし、国家や組織に相当する言葉にも少し不統一なところが見られます。それでも、その意味するところを丹念に読み取れば、それほど問題は生じません。岩波文庫版の『市民政府二論』などでは訳語がやや曖昧な点を含んでいるので、必要なところは原文を示します。John Locke, Two Treaties of Government, Book Uの第8章、すなわちCh. 8, Of the Beginning of Political Society(政治社会の起源について)以下です。

 

95: ……. The only way whereby any one divests himself of his Natural Liberty, and put on the bonds of Civil Society is by agreeing with other Men to joyn (joinの古語) and unite into a Community, for their comfortable, safe, and peaceable living one among another, in a secure Enjoyment of their Properties, and a greater Security against any that are not of it. ..... When any numbers of Men have so consented to make one Community or Government, they are thereby presently incorporated, and make one Body Politick, wherein the Majority have a Right to act and conclude the rest.

 

 ここでロックは、「自然状態にある自由な個人は、生活の安寧と財産、それに地域の安全保障のために、自然権として自分が有しているその自由の一部を供出し、他の人々との合意にもとづいて『コミュニティ』に参加して、そのもとへと結集する。何人であっても人々が一つのコミュニティないしガバメントを作ることに同意した場合には、彼らはそのことによって直ちに法人となりincorporated、一つの国家Body Politickを形成する・・・」とのべています。そして、国家の意思決定は多数決で行うものと考えられています。

 

 96: For when any number of Men have, by the consent of every individual, made a Community, they have thereby made that Community one Body, with a Power to Act as one Body, which is only by the will and determination of the majority.

 

 「何人でもかまわないが、人がすべての個人の同意にもとづいて『コミュニティ』をつくると、そのことによってかれらはコミュニティを単一の主体one Bodyにしているのであり、それは単一主体として行動する能力Power of Actを有し、多数決によってのみその能力は行使される。」ロックは、人々という言葉にMenを当てていますが、後の言葉で言えばそれはpeopleに相当します。それはともかく、ロックは人々が生活の安寧を確保するなどといった共通の目的を実現するために合意にもとづいて国家を作り、その国家は法人として個々の構成メンバーからは独立にその意思決定を(ここでは多数決にもとづいて)行う、と考えているわけです。ただ、この時代のことですから、国家に相当する言葉としてはまだstatenationは用いられてはおらず、代わりにcommunitybody politick(今日ではbody politic)が使われています。また、そうしたcommunitybody politick と、私の講義流にいえばその代理組織である政府governmentも時々混同して使っています。

 

106: …the beginning of Politick Society depends upon the consent of the Individuals, to join and make one Society; who, when they are thus incorporated, might set up what form of Government they thought fit.

 

 「政治社会politick society(今日の綴り方ではpolitical society)がいつできるかは、個々人がそれに同意するかどうかにかかっており、そのような同意は、結集して一つの社会one societyを作るために行われるのである。そして、このようにして法人化されるとき、彼らは自分たちが適切だと考える形態の政府を設立すればいいのである。」ここでは社会契約にもとづいて作られる組織としての国家と、それを動かす機関である政府とは明確に区別されています。ロックは別のところで「征服によって政府が設立される場合」についても述べていますが、こちらは私の言葉で言えば「支配組織型の国家」のことで、そこでは政府がすなわち国家であり、それが一定の地域と人民を支配しているわけです。

 いずれにせよ、国家とは人々が自分たちの共通の目的を実現するための道具として作りあげる法人であり、さらに、その日常的運営機関として政府を設置する、というのがロック国家論の眼目です。そして、上に述べたように、国家は法人として個々の構成員からは相対的に独立した存在であり、独自の集合的な意思決定を行いながら活動していくのだと考えられています。

 もちろん、歴史上どこでもいつでも国家がロック流の社会契約にもとづいてプラグマティックに設立されてきた、というのは事実に反します。そのような形でできた国というのは、アメリカなど限られた例しかありません。それ以外は、既存の支配組織型国家を被支配者の側からロック的原理に依拠しつつ組み替えていったか、依然として支配組織型の国家のままになっているかのどちらかでしょう。しかし、重要なのは、ロックが国家を目的達成の手段として人間が人為的に作り出すものとしてとらえていたということです。そして、彼が国家を一つの独立した法人として位置づけていたということは、「観念的道具としての組織」という本質的な理解まであと一歩であることを示しています。

 ただ、問題は、というよりあとで厄介になってくるのが、国家というものはいかに有用だとはいえ所詮単なる道具にすぎないのだから、人間誰が作っても同じだと考えられている点です。もちろん、自然法思想にもとづいて人間(ロックの時代ですからまだ男だけですけど)は皆平等だという考えもそこにはあります。いずれにせよ、国家とは人間たちが作るもので、それぞれの人間がどういう人であるかは問わない、ということが暗黙の前提となっています。だからロックは国家を作る主体を単に人々(manの複数形のmen)とだけ記しているわけです。menは後にpeopleという集合名詞に変わっていき、リンカーンのgovernment by the people, of the people, for the peopleという有名な演説につながっていくことになります。

 しかし、実はそこから、実際上の問題と理論的な問題がいくつか出てきます。実際上の問題というのは、アメリカの建国後ヨーロッパやそのほかの地域で社会契約論的な編成原理によって国家を作っていこうとしたとき、そこにはすでに単なる人々(men,あるいはpeople)ではなく、文化や言語などによっていわば「色の付いた」人々が住んでいたということです。同じ色の人々だけを仲間とみなし、そうした色別に国家を作ろうとしたのです。ただ、それぞれの国家が対象とする地域(領土)には、実際には違った色を持つ人間集団もいくつか住んではいましたが、たいていの所では一番人数が多い人々の色が国家の色とされてしまって、バスク人とかブルターニュ人とかアイヌ人といったマイノリティは長い間無視され続けることになりました。

それはともかく、ヨーロッパでは、それぞれの地域における多数派が、自分たちを同じ色の仲間、すなわち同じ民族であると考えて、自分たちのために国家を作ろうとするようになったのです。ここに国民国家といわれる民族をベースとした国家が作られるようになり、そこへの参加と民族の発展や優越を主張するナショナリズムの運動が人々をとらえるようになります。アメリカにならって「国家とはこの地域の人間または市民(home, citoyan, peuple)が作るものだ」とされたフランスでさえ、第五共和制憲法の「この国の言語はフランス語である」という条項に端的に示されているように、実際にはフランス語とその文化を共有する民族の国家として自己を規定したのであって、だからこそフランスでもナショナリズムの感情が非常に強くなったのです。こうなると、国家は単なる道具として割り切った存在ではなくなってしまい、感情や心理的欲求によってさまざまに潤色されて人々を惑わすようになります。そして、優秀な民族の一員として自分を高く評価したいという欲求が人々のあいだに強くなると、国家は神聖視され、そうした欲求に同調しない人は迫害され、他の民族はさげすまれたり圧迫されたりするようになります。国家とは単なる観念的な道具にすぎませんし、民族といっても、何万年も前から同じ色のまとまりを持ち続けているような集団など本当はどこにも存在せず、もっともっとさかのぼればみんなミトコンドリア・イブという共通の祖先にたどり着いてしまう「世界人類みな兄弟」というのが本当のところなのですが。

 しかし、このような「想像された共同体」(ベネディクト・アンダーソン)としての国家という考え方が出てくる背景には、国家のもつ地域共同体的性格という、もう一つの問題があります。私はこれまで国家を組織の一般論の中で論じてきましたが、国家には他の組織にはない重要な特徴が二つあります。その一つは、一定の地域とセットになってでないと存在し得ない、ということであり、もう一つは、それとある程度関連して、メンバーシップが世代を超えて引き継がれていき、そのために、人々は通常国家という組織の枠内で生まれ育っていくということです。

まず、国家というものは一定の地域に住んでいる人々の共通の利益(res publica, 公共的な利益)を図るために作られる組織なので、その地域とセットになっていなければ意味をなしません。会社であれば、合併したり分割したり、あるいは本社をオランダの自治領・ケイマン諸島(カリブ海にあります)やバハマ共和国のようなタックス・ヘブンに持って行くことも自由です。また、多国籍企業に見られるように、株主も従業員も多様な国籍や人種、民族で構成することにも全く問題がありません。むしろ性別や民族にとらわれることなく、世界中から優秀な人材を集めることのできる企業が競争上優位に立てるでしょう。そのような企業では、工場やオフィスも世界中に散らばっています。比較的動きの少ない大学でさえ、たとえばかつて東京教育大学という有力校が廃止され、全く別の場所に筑波大学という名称でその後継大学が作られた、というようなこともあります。アメリカの湯力州立大学であるミシガン大学は、当初デトロイトに作られましたが、後にアナーバーという100キロほど離れた別の町に移転しました。

しかし、国家は、作ったり廃止したりすることはできますが(1992年にはドイツ人民民主主義共和国という国、すなわち旧東ドイツが廃止されました)、一旦できると引っ越しすることはできませ。また、会社の本社に当たる首都を外国に移転するなどということは、理屈の上ではともかく(亡命政府はこれにやや近いケース)、実際上は非現実的です。厳密にどこからどこまでがある国家の対象地域(すなわち領土)だということは自明ではありませんし、むしろ国境というものも歴史的に変化を見せながら今日に至っているわけですが、ある国家を全く別の場所に移転させるというようなことは議論することすらばかばかしいほどです。しかも、この国家は対象とする地域全体の秩序を維持するために物理的強制力をほぼ独占的に行使する存在です。この独占が崩れると今のイラクのような無政府状態になります。軍隊を持たない、ということで一部の人に理想視されている中米・コスタリカでさえ、警察力はちゃんと持っています。

こうして、国家はそれぞれの地域と半ば切っても切れない関係にあり、人々の生活がその領域の中でほぼ完結して営まれるため、その国家の領土に住んでいる人にとっては、自分が属している国家との関係が強く意識されがちとなります。これに対して、会社や大学、あるいは巷の同好会のような組織の場合には、そのメンバーとしての活動は自分の多様な人生の一こまにすぎません。ですから、そうした組織との関係はあくまでも生活の一部に関してのみ選択した機能的なものだと割り切ることができます。つまり、関係が相対的、部分的なものだということは自明です。しかし、国家の場合はそのように割り切ることは理屈で考えるほど簡単ではありません。これが国家への帰属意識を人々が強く意識するようになる理由の一つです。

もっとも、国を捨てて外国に移民し、そこの国民になる人もいますし、ある国に住み続けながらも国家生活など所詮人生の些事だと思っている人もいますから、誰でも必ず国家の一員であることを強く意識するわけではありません。どういう場合に強い帰属意識が生まれるのかは、まだまだ研究を続けていかなければなりません。

次に、国家の地域性とある程度重なることですが、国家という組織に特有なもう一つの特性として、メンバーシップ継承の自然性ということがあります。これは何も難しいことではなく、一旦ある国家(話を単純化するために、ここでは自治組織型国家のことだけを考えてください)のメンバーになると、そのメンバーとしての資格(市民権、国籍)は、進んで国籍離脱して移民するような場合を除いて、自動的に死ぬまで継続されます。継続されるだけでなく、その人に子供が生まれた場合には、その子も自動的にその国のメンバーになります(日本では、戦後においても、かつては男親が外国籍の場合には自動的ではありませんでしたが)。アメリカやフランスのように、移民を受け入れ、さらに市民権の付与が属地主義の原則に基づいて行われる(その主権が及ぶ空間で生まれた子供には、親が外国人であっても自動的に国籍を付与する)国でも、親がすでにその国の市民であるならば、子供が生まれたのが外国であろうと公海上であろうと、その子は自動的に自国民として認知されます。

 繰り返しますが、国家の場合は他の組織とは違って、人が一旦そのメンバーになったらその資格は終身のものとなりますし、子供の場合には、生まれてから死ぬまでその国のメンバーのままです。大部分の人にとっては入会も退会もなく、一生そのまま国家という組織のメンバーであり続け、ましてや解雇されることも除籍されることもありません。また、最近は欧米のように二重国籍を認める国が増えては来ましたが、二重国籍を持つ人の割合はまだまだごく一部に限られ、大部分の人はどれか一つの国の市民のままで一生を終わります(日本の国籍法は原則として二重国籍を認めておらず、たとえばアメリカのようなそれを認める国で生まれた子供が属地主義の原則に従ってその国の市民権を取得した場合に限って当面二重国籍を認め、22才になったときにどちらかを放棄させるうえ、子供が生まれた時点でその子の日本国籍を留保する旨親が在外公館に届け出ておかないと日本国籍は付与されず、アメリカ国籍だけになってしまいます)。

 こうして、ある国のメンバーであることは、人々にとって自分の全人生を包み込む自然かつ自明なものと意識される傾向が出てきます。しかも、そのメンバーになっているのが皆同じ色の付いた仲間の集団、つまり自民族の人々であるように見えるというも、う一つの「自然な風景」が目の前に広がっています(実際にはみんなが同じ色ではないことはすでに述べたとおりで、しかもその色も歴史的にいろいろ紆余曲折を経て今の状態になっているにすぎないのですが)。そこから、国家というものは人為的に作られた手段としての組織なんかではなく、他の集団からは明確に区別された同じ色の仲間同士が先祖伝来の土地で肩を寄せ合って暮らす共同体communityであると意識される傾向も出てきます。「民族共同体としての国家」という考え方です。アメリカでさえ、建国から時がたつにつれて、「多様な民族がアメリカ人という一つの新しい国民を作り出したのだ」という、a nation of nationsという意識を生み出したのです。

ネイションという言葉が、国家という何か社会を包摂する全体性と、その基盤となる民族としての国民という両方の意味を兼ね備えた概念としてシンボル的に人々に理解され、人々のアイデンティティを形成する重要な要因となるのはこうした理由によるところが大きいといえるでしょう。そこから、アイデンティティに基づく政治現象であるナショナリズムが人々をとらえることになり、さらには多数派民族によって自分たちのアイデンティティを否定ないし軽視されてきたマイノリティや周辺諸民族のナショナリズムも燃えさかる、ということになってしまうのです。EUの結成に見られるように、こうした否定的感情を克服して、ヨーロッパという枠の中でのことではありますが、地域的な組織として国家に準ずるものを作り、それを建設的に活用していこうとする重要な試みもあるのですが。

 いずれにせよ、国家という組織は、その本質こそ組織一般と共通していますが、地域とセットになった非常に存続期間が長い組織であり、かつ公権力を独占しているという点で他の種類の組織とかなり異なった性格も持っています。そこが国家を論じる上で難しいところです。国家と組織をめぐる私の基本的な考えは以上のようなものですが、それはまだまだ荒削りの試論的なものにすぎません。これを読んだみなさんは、それを批判するなり発展させるなり、是非自分でもこのテーマについて考えてみて、ご意見をお寄せください。なお、私の講義におけるもう一つの論点である、国家という道具をどう使っていくか、国家の役割はどのように変化してきたのか、ということについては特に補足はしませんが、それについてもご意見があれば是非お寄せください。私の講義とこの長い補足におつきあい頂き、ありがとうございました。

 

 

4.文献案内

文献案内は、とりあえず次のものをあげておきます。忙しい人は、とりあえず山口さん、大嶽さんそれぞれの新書を読んでみてはいかがでしょうか。値段も安いですし。

 

木村雅昭『「大転換」の歴史社会学』(ミネルヴァ書房、2002年、5,000円)

ロバート・ダール『ポリアーキー』(三一書房、1982年、3,150円、品切れ)

イェンス・バーテルソン『国家論のクリティーク』(岩波書店、2006年、3,900円)

山口遼子『小笠原クロニクル』(中公新書、2005年、840円)

ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体:ナショナリズムの起源と流行』(増補版、NTT出版、1997年、2,300円)
ロバート・D ・パットナム『哲学する民主主義:伝統と改革の市民的構図』(NTT出版、2001年、3,900円)
ロバート・パットナム『孤独なボウリング』(柏書房、2006年、7,140円)
田中克彦『言語からみた民族と国家』(岩波書店、2001年、1、260円)
大嶽秀夫『現代日本の世辞権力、経済権力:政治における企業・業界・財界』(増補新版、三一書房、1996年、4,800円)
大嶽秀夫『日本政治の対立軸』(中公新書、1999年、760円)

グレアム・T・アリソン『決定の本質』(中央公論新社、1977年、絶版ですが、図書館で借りて読まれることをおすすめ)

白鳥令編『政策決定の理論』(東海大学出版会、1990年、3,360円)


戻る