役に立つ研究、役に立たない研究 

                            (岡山大学広報「いちょう並木」2002.12掲載)



                                                                                    

 

 小柴東京大学名誉教授のノーベル物理学賞受賞が発表された時、一つとても印象に残ったシーンがありました。ニュース番組に出演された教授に、アナウンサーの一人が「先生のご研究は私たちの生活にどのように役立つんでしょうか?」と尋ねたのです。教授はちょっと困った顔をされて、「ニュートリノというのは星でも何でも透過するので、X線を使うと私たちの身体のなかが見えるように、これで星のなかも見えるんです」と答えられました。案の定、尋ねた方はがっかりして、一瞬不満そうな表情を見せていました。

 私の所属は法学部で、研究・教育は政治学という学問分野です。それなのに、政治学に関する私自身の研究についてでではなく、小柴教授にまつわるエピソードを紹介したのにはわけがあります。小柴先生と自分とを並べるのはおこがましいのですが、私も、あなたの研究はどういう役に立つんですか、といった質問を受けることがあるからです。研究面ではありませんが、授業評価アンケートの自由記述欄に、私の講義は何の役にも立たない、と書いた法学部の学生もいました。

 逆に、研究をする以上、何かの役に立つはずだ、と考えて、その「何か」を見つけ出してくれる人たちもいます。例えば、大学教師になって間がない頃、高校時代の同窓会(福井県)に出て、大学で政治学の先生をやっていると現状報告したところ、「よし、谷が福井から選挙に出るときにはみんなで応援して、クラスから代議士を作ろう!」と、酒の勢いも手伝って一気に盛り上がってしまったことがあります。また、孫娘に婿を取らせることにこだわっていた私の義理の祖父は、彼女の相手が大学で政治学をやっていると聞いたとたん、「それなら嫁にやってもいい」と態度を変えたそうですが、その理由がふるっています。「政治学の研究者なら、将来大臣の端くれくらいにはなるじゃろう。」

 私は日本の選挙や政策過程について幾つか論文を書いていますが、選挙の戦い方や政治資金の上手な集め方を研究しているわけではありません。また、私の論文を読んだり、講義を聴いたりしても、新技術の開発に役立ったり、何かの資格試験の準備になったり、ということもまずありません。そういう意味では、私の研究は「役に立たない」研究です。というより、政治学一般が、いや、社会科学一般が、日常生活のレベルでは何かの「役に立つ」ということがそれほどないのです。

 でも、ニュートリノの追求が宇宙の成り立ちを解明する上で大いに「役に立つ」研究であるように、選挙の研究も、政治という切り口から、先進国における一般的な政治力学や日本社会の特質を理解するうえで、なにがしかの「役に立つ」のではないかと思います。しかも、日本に関する研究は比較政治学的に有意義であるということが外国でも理解されるようになってきたので、世界に向けた情報発信という意味でも「役に立ち」ます。

 最後に、一般的な効用では依然としてご不満な方々に、畏友・オドネル教授の言葉を紹介しておきたいと思います。敬虔なカトリック教徒の彼は、ゼネラル・エレクトリック社から工学分野では全米ランキング第4位(2001年)のミシガン大学に引き抜かれ、現在生命医療工学部長として活躍しています。その彼曰く、「地域社会への貢献や日常的実用性を研究者に求めるべきではない。もちろんそういう風に役立つことはあっていいが、それは研究者の評価と何の関係もない。私は研究それ自体によって社会に貢献している。」私も、自分の研究を通じて、そこまで言い切れる実力を身につけたいと思っています。 


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