センチメンタル・ジャーニー

(岡山大学旧教養部広報誌『けやき』32号、1994

 

谷  聖美

 

研究室の整理をしていたら、もう20年近くも前に当時私が顧問をしていたクラスの雑誌に寄稿したエッセーを見つけた。なんともお若いことで、としか言いようのない文章だが、当時は教官と学生との間にこんな交流もあったのだということを示したくなった。

 断っておくが、当時まだ若かった私にも、エッセーの中で触れられている中野重治の詩が彼のものとしてはできが悪いということはわかっていた。小説家としての彼はおそらく二流だろう。でも、誰にでも、どうしてだかわからないけれども、自分の一部になってしまうような歌があるものだ。そこが、教養部といった組織とは違う、生身の人間の人間たるゆえんであろう。では、発表当時「青春考」と題した一教師の古い歌をどうぞ。

 

 私が大学に入ったのは1969年、今から11年余り前のことである。庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」という小説はこの年の冬から春にかけての、主人公薫君の日々を描いている。東京大学進学をめ座していた薫君は、大学紛争で東大の入試が中止になり、かといって京大に「都落ち」する気にもならず、いわば突然訪れた休暇の中で青春の過剰さそのものを当世風に語っていく。けだし青春小説のシチュエーションとしては抜群のものといえよう。

 それはともかく、もし薫君が都落ちなどといわずに京大に来ていたら、私は彼と同じ教室で講義を聞いていたかもしれない。つまり私はそういう世代に属しているのである。そして作者がこの小説を書いたのが32歳のときであり、私があと1年でその年になることを考えると、いささかの気恥ずかしさを感じないではいられない、あの「青春」という言葉について簡単に語ってみるのも、あながち身の程知らずな振舞いと言わなくても済むであろう。否、むしろ歳相応に青春の終焉について語るべきかもしれないが。

 思うに、青春とは、肉体的・精神的な過剰と気負い、そして不安の中で彷徨しながら次第に幼少年期の抒情の世界から抉別してゆく過程である。大学というところは、もし経済的に非常に苦しくはない境遇にあるならば、この過程をほとんどありとあらゆる形で通過することを保障してくれる。最近の非常に若い世代の中には(私は非常にではないがまだ十分若い)このように真正直な文章を書いたりするのをダサイといったりするものがいるそうである。いつの世の中にもチャチなニヒリズムに得意がる箸にも棒にもかからない連中はいるものだからこの際そういうのは度外視する。

 とにかく青春というものは一つの等質の期間というよりも、むしろそうした過程そのものであるような気がする。その意味では青春というものは大学を出て少々の世間の荒波をかぶったぐらいでは終わらないのかもしれない。しかし確実に言えることは、私の場合のように幼稚な形であれ、もっと凝縮された形であれ、人はそうした彷徨の中であちこち頭をぶつけているうちに、自分がともすれば立ち帰り、安住したいと望んでいた抒情の世界がもはや純粋に過去のものとしてしか存在していないということに気がつくということである。否、むしろこれは、ある日突然自分がこの世界の外にいるのだと気づくという形でやってくると言ったほうがよいかもしれない。それはある意味では戦慄すべき一瞬であろう。人によっては自分がたった一人で世界に露出していることに恐怖して幻想の中に後退してゆく。しかし、みずからの状況を引き受け、自分の足だけで立つことを受け容れる時、彼には必ずしも快いものではないにしても世界というものの新しい顔が見えてくるであろう。

 思うに、青春というものは何度かこのような瞬間を経て次第に終わっていく。それとともに親は老い始め、昔日の抒情は新たな心象風景に凝固して慰籍と痛みの源となっていく。焼きついた心象風景の中に思いを遂げることのできなかった恋人の面影がなかったならばせめてもの幸福と思うべきだ。さもなければ夏目漱石のように一生苦しまなければならない。いずれにせよ、人はいつか自分の足で歩き出さなければならない。そしてそこに至る過程は、結局各々が一人で生きるより仕方がないようになっている。私が教師として時に後輩の人々に教訓めいたことを言うとき、一番底の方では羞恥と徒労感を覚える所以である。しかし他方で青春時代を完全に終わったわけではない私は、いまや内面化された抒情の世界の魅力を完全に切り捨てることはできないでいるし、また必ずしもそうすべきとも思っていない。

 なんだかいい年をした政治学者なら赤面して逃げ出したくなるような文章を書いてしまった。ただ、蛇足として付け加えるなら中野重治の「歌のわかれ」や詩集の「歌」を読めば少しは言わんとすることがわかっていただけると思う。

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