旧真備町の古墳について
 

真備地域の古墳を歩いてみよう

 現在倉敷市真備町となっている旧吉備郡真備町は、その名の通り、奈良時代に唐までわたった吉備真備にちなんでいました。吉備真備を輩出した下道(しもつみち)吉備氏はこの地域が本拠地と考えられています。高梁川西岸を東限に、高梁川の支流である小田川中・下流域がおおよそその範囲です。この地域はのちに説明しますように、古墳の築造動向からみると歴史的なまとまりをもつ地域であると指摘できるかもしれません。

 弥生時代の終わり頃の有力者の墳墓について見てみましょう。まず黒宮大塚弥生墳丘墓が挙げられます。かつては前方後方形墳丘墓と考えられていましたが現在は方形墳丘墓と見るのが有力なようです。倉敷に楯築弥生墳丘墓がありますが、ここでも同じように吉備地域に特徴的な特殊器台形土器を用いたおまつりを墳頂で行っていたようです。現在は墳頂に神社がたっていますが、弥生墳丘墓の竪穴式石槨が露出保存されています。弥生墳丘墓の埋葬施設はなかなか見れません。ぜひ見学なさってください。

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黒宮大塚

 古墳時代に入ると、前期〜中期前半はこの地域では大きな墳墓の築造活動がほとんど行われていないようです。なぜでしょうか?
 後半になると、小田川北岸域に竜王塚古墳が築かれたようです。かつて神社の建て替え工事中に竪穴式石室が発掘され、馬具などが出土したといいます。その時の発掘資料の一部である直刀は現在、真備町郷土資料館に展示されています。また、竜王塚古墳はかつて方墳と考える説も提示されてきましたが、2001年からの私たちの考古学実習による測量調査で、径約35m、高さ約4mの円墳である可能性が高くなりました。墳丘は見学が可能で案内板も立っています。

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竜王塚古墳

 そして小田川南岸域にも古墳が築造され始めます。天狗山古墳です。竜王塚古墳が、高梁川を望めない低い丘陵の端部に築造されているのに対し、天狗山古墳は、小田川流域平野と高梁川を見渡せる絶好の位置に築かれています。墳形は帆立貝形の前方後円墳ですが、馬蹄形の周溝をもち、異常に高く後円部を盛るその墳丘は目を見張るものがあります。ここに小田川流域における古墳時代の一つの変化を認められるでしょう。

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天狗山古墳

 これにつづいてもしくはほぼ同時期に築造されたと考えられるのが谷をはさんで、向かいの丘陵頂部にある矢形こぐろ古墳です。埋葬施設は、竪穴式石室との伝承があります。この古墳も測量図等はありませんが、馬蹄形の周溝や陪塚とも考えられる小円墳状の高まりを伴っており、天狗山古墳との密接な関係が伺えます。
 勝負砂古墳は天狗山古墳、こぐろ古墳からは少しはなれ、立地も谷の平坦な部分と少し異なります。また、現在は近くに陪塚らしきものも認められません。勝負砂古墳は、墳丘周辺の調査、前方部の調査で非常にわずかですが、天狗山古墳と近い時期と考えられる須恵器が出土しており、ほぼ同時期か、前後する時期と考えられます。
非常に短期間に、墳形などの点で共通性をもつ天狗山古墳、こぐろ古墳、勝負砂古墳が相次いで築造される歴史的要因は勝負砂古墳の調査を通して考えていかなくてはならない重要な課題です。
 この3古墳後に築かれたのが、全長約38mの前方後円墳、二万大塚古墳です。2001年からの発掘調査で、@横穴式石室を有する吉備地域でもっとも古い前方後円墳であること、A造り出し、墳丘斜面に埴輪列を持つこと、B横穴式石室には、金銅装の馬具をはじめとする豊富な副葬品をもつこと、C築造時期は6世紀中葉であること、など非常に重要な成果が得られています。
 二万大塚古墳の築かれたのち、二万地域にはそれほど大きな古墳は築かれません。小田川北岸域に箭田大塚古墳が築かれます。箭田大塚は吉備三巨石墳の一つで、墳形は造り出しをもつ円墳です。円筒埴輪、形象埴輪をもち、また石室には、装飾付大刀をはじめ馬具などがおさめられていました。

 このように、真備地域、とくに、南山・二万地域は非常に貴重な文化財に恵まれています。小田川と高梁川の合流地点である地理的・環境的要因と、その昔、二万の軍勢がこの地域から集められたという伝承とも決して無関係ではないでしょう。こうした地域の歴史にも目を向け、勝負砂古墳の調査に取り組んでいきます。皆さんもぜひ、この地域の古墳を堪能してください。

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小田川流域の古墳分布図





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