北房町地域は、瀬戸内海に流れ込む旭川水系の上流部にあたり、地域の中央部は、西方に広がる石灰岩地帯を背景に、比較的水に恵まれた細長い盆地状の地形を呈しています。このような自然環境のもと、北房町地域は、生産や交通などの面で、古くから周辺一帯の拠点的な役割を果たしてきました。旧分国では、北房町地域は備中に属しますが、水系的な面からもわかるように、生活圏は美作との結びつきが強いと言えます。
北房町内での人々のあしあとは、縄文時代早期のものに始まり、遺跡の分布は中央の盆地に集中する傾向があります。盆地は、さらに西寄りの呰部(あざえ)、南寄りの中津井(なかつい)、東寄りの水田(みずた)の3地域に分かれますが、なかでも、古墳時代後期の首長系列の古墳が集中する中津井地域に、定東塚・西塚古墳はあります。
(グラフィック表示:岡山県上房郡北房町 中津井地域の主要古墳分布)
両方の古墳とも、横穴式石室が1つずつあり、陶棺(やきもののお棺)やさまざまな武器、馬具、装身具、土器などの品々が納められていました。また、古墳のまわりには、何列もの外護列石(石の並び)がめぐらされていたようです。
当研究室では1994年から、毎年春に発掘調査を行ってきました。
東塚石室では陶棺3基が元々の位置と考えられる場所から出土し、また墳丘では3列の外護列石が確認されました。
<第2次調査 (1995.3.1〜1995.3.31)>
定東塚古墳の石室・前庭部・墳丘とともに、定西塚古墳の石室・前庭部の調査を行いました。
東塚石室では新たに土師器(はじき)や斧状鉄製品といった遺物が出土しました。東塚の墳丘の調査では新たにもう1列、列石が見つかっています。
西塚石室では5基の陶棺が見つかりました。
<第3次調査 (1996.3.1〜1996.3.29)>
定東塚古墳では、石室の実測と前庭部・墳丘の調査、定西塚古墳では石室・前庭部の調査を行いました。
西塚石室からは青銅製の鞘尻、多量の鉄鏃をはじめとする金属製品や、東塚と同様の土師器、多量の須恵器が出土しました。 西塚石室の陶棺はもう1基発見され、計6基となりました。
第3次調査の専門的な記述は、定東塚・西塚古墳第3次調査概要報告(1996年5月発行)をごらんください。
<定東塚と定西塚の前後関係について>
定東塚古墳と定西塚古墳との関係については、接する部分の土の重なり具合を観察した結果、定東塚の方が先につくられた、と考えられます。
定東塚・西塚古墳は、丘陵と平地のさかいに立地しています。定東塚・西塚古墳の属する尾根の上方には、定北古墳(さだきたこふん)があり、中津井地域を南から北に向かって流れる中津井川をはさんで西側の丘陵には、大谷1号墳(おおや1ごうふん)があります。これら3つの古墳は、この地域の有力者の墓の系列として、ただいま紹介した順につくられて行ったものと考えられています。