『アメリカの大学』に対する評価と執筆の背景

 

 

全くの畑違いであるこのようなテーマと取り組んだ事情については,本書あとがきで説明していますので,以下にそれを再録しておきます。畑違いの素人作業なので,教育学分野でアメリカの大学を研究している人たちから冷たい視線を浴びることは予想していましたが,それでも意外と多くの方たちに本書に注目していただいたので,国立大学法人評価に関して岡山大学法学部に提出した文書を最初に取り上げ,本書に対する評価の概要を示しておきたいと思います。

 

本書は『週刊東洋経済』H1878日号の書評で「米国の大学に関する薄っぺらな紹介本があふれる中、異彩を放つ一冊であ」り、「分析が洞察に満ちている」と評価されている。また、東京大学文学部による文科省委託研究「今後の人文・社会科学系分野の在り方に関する調査研究」報告書(18年度)をはじめ,多数の研究論文やセミナーで引用,紹介された。さらに,東北大学高等教育推進センター紀要(213),立命館大学大学行政研究・研修センター紀要(H213月)など,今も論文等による引用は続いている。本書に関しては数大学から招待講演も依頼され,また,関経連研修会(187月)報告で本書が単独で紹介されるなど,学術分野を超えて多方面からの評価も得ている。

 

 本書は、岡山大学法学部政治学講座(2004年度から現代政治学講座と名称変更)の共同企画の一環として書いた論文に加筆修正をしたものである。この論文は、「アメリカの大学制度と法学・政治学教育:岡山大学法学部政治学講座共同企画『新しい法学部像と政治学教育』の一環として」として、『岡山大学法学会雑誌』第53巻第1号(2003年12月)から第54巻第2号(2004年12月)まで、4回にわたって連載された(ただし、54巻2号の政治学教育に関する部分は本書ではすべて割愛した)。政治学講座の企画はロースクール以後の法学部教育を探ろうとするもので、講座の構成員がそれぞれのテーマにもとづいて専門家にインタビューを行ったり、調査を行ったりすることになっていた。筆者はアメリカにおける法学・政治学教育を自分の分担テーマとして取り上げた。そこには次のような背景があった。

筆者は、この8年ほど、教務委員長や入試管理委員長、大学改革を検討する全学委員などを兼務しながらの評議員(多くの国立大学と違って、2000年度から1人制)、ついで学部長という立場にあり、大学のあり方をめぐる実にさまざまな議論に参加してきた。そして、そのような議論のなかで「アメリカの大学では・・・」ということばをたびたび聞き、アメリカの大学に対するかねてからの関心をさらに刺激されてきたのである。本書の背後には、政治学研究者としては不毛な、この長い実務の過程で直面した様々な問題がある。しかも、「アメリカの大学では」という形で大学の内外で語られる話しには不正確なものも多かった。そうしたこともあって、当初の予定では法学・政治学教育体制を概括的に紹介するだけで終わるはずであったにもかかわらず、いろいろな思いから、力点を現代アメリカにおける大学の全体像を提示することに移すこととなった。その「いろいろな思い」がどのようなものであるのかについてはここではあえて触れない。本書が全くの実用書として利用されるのであっても、あるいは何らかのメッセージを秘めたものとして読まれるのであっても、筆者の喜びであることに変わりはない。

本書は、大学を形作っている公式の制度を紹介するだけでなく、制度運用の実態やインフォーマルな制度、慣行などにも踏み込むことによって、アメリカの生きた大学世界の全体像を描き出そうとするものである。比喩的に言うなら、大学という世界の地形や土地利用の態様を調べて地図を作成するだけでなく、等高線や道路などによって表された土地にはどのような町並みが広がり、人々がどのように行き交っているのかをも描き出すことが狙いである。その際、表面には出さなくても、たえず日本の大学世界との比較という視点を持ち続けながら作業を進めていった。日本の大学世界になじんだ方なら、両国の大学世界がどこで異なり、どこが似ているのかについても感じ取っていただけるのではないかと思っている。

ただ、全体像を描くとはいっても、本書は主として文化系の大学教員という筆者の立場にまず制約されて、理系の分野についてはあまり踏み込んでいないなどの限界を有している。アメリカの主要大学の競争力を真に世界のトップクラスにしている大学院教育や研究体制についてもあまりふれていない。また、アメリカの大学を特徴づける大学スポーツや学生生活一般に関する情報も提供していない。こうした領域が本書にとって、地図上ではいわば空白のまま残されていることは率直に認めなければならない。

本書を執筆するにあたっては多くの文献やウエッブ上にある情報を利用したが、この分野の専門家でもない筆者にとって、その作業は常に薄氷を踏むような危うさを抱えたものとなった。その危うい歩みの過程でもしそれほど大きく道を踏み外さなかったとするなら、それは筆者の細かな質問に辛抱強く答えてくださった多くの方々のおかげである。特に、ミシガン大学リベラルアーツ学部政治学科のキャンベル教授、同大学工学部生命医療工学科のオドネル教授(インタビュー当時は学科長)、もとアラバマ大学教授で現在は中央大学政策科学部のリード教授、もとユニオン大学リベラルアーツ学部助教授で、現在はハーバード大学ライシャワー日本研究所副ディレクターのギルマン氏、UCバークレー・リベラルアーツ学部政治学科のペンペル教授、コーネル大学リベラルアーツ学部政治学科のウィーナー講師、イリノイ州立ボール大学リベラルアーツ学部政治学科の西川美沙講師の各先生方には、メールやインタビュー、学会等の折における会話などを通じて多くのことを教えていただいた。キャンベル教授にはミシガン大学での授業聴講の便宜も図っていただいた。また、それぞれコロンビア大学とピッツバーグ大学でティーチング・アシスタントをしていた庄司香(現在は日本学術振興会研究員)さんと芦立秀朗さん(現在は京都産業大学法学部講師)にも助けていただいた。もちろん、それにもかかわらず本書に間違いや正確さを欠く記述があるとしたら、それは筆者の責任である。

ここで、社会学者として筆者を研究者の世界に誘ってくださった作田啓一先生と、その後大学院法学研究科の指導教官として常に温かく接してくださった故・福島徳寿郎先生に感謝の意を表したい。お二人の先生に出会うことがなかったなら、政治学者の道に進むことはもとより、大学のあり方について思いをいたして、今このような本を書くこともなかったかもしれない。また、ミネルヴァ書房をご紹介いただいた京都大学法学部の木村雅昭教授、出版事情が悪いなか、本書をお引き受けいただいた同書房の杉田啓三社長と田引勝二同書房編集委員にも御礼申し上げたい。最後に家族であるが、3人の子供を抱えて共働きを続けながら、妻以上に家事・育児に時間を割いてきた者(名前が与える印象とは違って、筆者は男性である)としては、どのように言うべきか複雑な気持ちである。ただ、筆者の知人で妻子のいるアメリカ人研究者たち、特に若い友人たちの多くはかなり熱心に家事をこなしている。家庭における男性大学教師の日米比較という研究をどなたかがやってくださることを期待する次第である。


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