民主主義は玄関まで

(1985年に「けやき」に書いたものです)


                 

                                                   


 のっけから変な話で恐縮だが、私はビーフ・シチュー作りが得意である。簡単に、しかも結構おいしく作るには、@圧力鍋を使う。Aワイン(本当はぶどう酒といったほうがよい)をたっぷり使う。Bスネ肉を煮込むよりも、100g350円くらいの角切り牛肉を使ったほうが、少し高くついても、早くしかもおいしくできる。といったことに注意すればよい。スパイスの微妙な加減などは、少々熟練を要する。料理については、私は決して手の込んだものは作れないが、それでもビーフ・シチューのほかにいくつかのレパートリーを持っている。これは私の密かな自慢である。
 このほか、掃除は週に1度ぐらいしかしないとか、1人でいるときはしばしば冷や御飯にのりの佃煮なんぞで昼食を済ませて平気だとか、種々難点はあるが、世の平均的な男どもに照らしてみれば、私は随分家事能力のあるほうに違いない。
 世間の男どもは、私のような男をみると、なんと惨めな奴とさげすむ。少なくとも唖然としたあとで、なんと物好きな、と苦笑する。私自身少々やりすぎだと思っているくらいだ。自分の妻がもう少し有能で働きものだったら、あるいはせめて専業主婦であったら、私もそこまではやらずに来たに違いない。現に、敵さんが最近どうゆうわけか私よりも先に台所に立つようになったので、私が庖丁をもつ回数も大分減った。
 しかし、たとえ私の妻がかいがいしく夫に尽くしてくれる世話女房であったとしても、私はやはり平均水準よりはもっと家事や育児をしていたであろう。一つには私がせっかちで、相手がぐずぐずやっているのを待てない性分だからであるが、いま一つは、自分でできることはある程度は自分でしたいし、またそうすできだという考え方をいつのころからかするようになってきたからからである。
 ただし、ビーフ・シチューが上手だというのは、うまいもの、自分の好みに合うものが食いたいという、意地きたなさも有力な原因になっている。私はカレーも好きで、一人暮らしの時代には、面倒くささも手伝って、スパイス等に工夫を加えたカレーを鍋一杯作って、毎日毎日それを食っては喜んでいたものだ。もっとも、その頃の私はきわめつけの<マルビ(貧乏のこと)>だったので、たくさんのごはんに少しの肉で食えるよう、ルーをたっぷりにして少しでも鍋が空になる日を遅くしようという涙ぐましい努力をした結果、せっかくの肉が途中で腐ってしまって大損をしたという情けない経験もしている。げに、金持ちはますます金持ちになり、貧乏人はますます貧乏になるという、資本主義的自然状態の鉄則を身もって知ったわけである。
 何だか話が横にそれてしまった。要するに、私が家事に精を出すのは、幾分かは誰にも頼らずにまあまあまともな日常生活を送る力を身につけたいと思うからであり、また、それによって妻を高価な(多分、安上がりではあるまい)おさんどん(現代風にはお手伝いさんと言う)役に縛りつけておきたくはないからである。
 先日も、新聞の老人問題特集に、亭主関白の権化のように家族を支配してきた揚句寝たきりに近くなり、なお「家族がおれの面倒を見るのはあたりまえだ」などといばっているという、何とも惨めったらしい男の話が載っていたが、えてして亭主関白などというのは、人間的には自立心も反省心もない、情けない男が大半だ。そんなのに限って女房に愛想つかされると、恥も外聞もなく怒ったり狂ったりだだをこねたりする。
 あるいは、世の進歩的な文化人や学者先生が、「民主主義は玄関まで」を相言葉に、亭主関白とまではいかずとも、家族からみれば粗大ゴミに近い有りようでゴロゴロしている、などというのも私には気に入らない。民主主義にもいろいろあるが、日常生活における自立と平等なくして何が民主主義か。現に,社会的には男女平等が進んだものの、家庭における女性の解放が進まないソ連は非民主的な権威主義国家になってしまっている。議事堂近くのスーパーマーケットに買い出しにいく国会議員(もちろん男の)すら珍しくないアメリカの民主主義は、腐っても鯛、健全な側面を残している(米ソの差は、見かけほど大きくもないが)。
 と、話が本論に入りかけたところで紙数も尽きた。本当をいうと、私は家事がやれるくらいで人間が自立できるとは思っていない。自立できないのに仕事は立派というケースも多々あって、プロとしては仕事が勝負ということも考えに入れている。しかし、政治学は大変世俗的な学問なので、私は日常における自立ということに固執したいのである。身の回りのことは自分でやれる能力をもつ(実際やるかどうかは個々の夫婦や家族で様々だろうが)ということは、その第一歩ではあるだろう。それに、肉の値上り下りに一喜一憂しつつ、ビーフ・シチューなどを作っておれば、うまいものが食えるうえに、暮らしの中で政治や経済について実感的に考えられるという、私の商売にとってはまことにありがたいおまけまでついてくるのである。
 〈付記〉なお、本文執筆後、日本男児がいかにふがいないかについて精神分析学の立場から専門的分析をしている書を発見。のぞいてみられたし。佐々木孝次著「母親と日本人」(文芸春秋)
                          
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