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第2章 定東塚古墳


1.墳丘


墳丘のまとめ

 第3次調査において西Aトレンチの旧称東塚第2列石直下から新たな列石を検出し、従来の平面関係に基礎をおいた各トレンチの列石のつながり方の理解に齟齬をきたすことになったが、今回西Bトレンチの調査を中心にこの問題の解決を図った結果、第3次調査以前の各トレンチ相互の列石のつながり方についての見解を訂正するに至ったことは、すでに述べられているとおりである。これによって東塚の墳丘に、3回にわたって修築が加えられていたことが明らかになり、東塚と西塚との相互関係についても認識を若干変更した。

 築造当初の東塚の墳丘に伴う列石は、墳丘部で東塚第1列石と第2列石の2列、前庭部では東塚開口部列石と東塚前庭部第2列石の2列を確認している。墳丘北辺・東辺には第1列石は巡っておらず、岩盤に盛土を施すのみで墳端を画しているものと考えられる。

 この当初の墳丘におおいかぶさる形で、第1次の墳丘修築が行われる。第1次の修築(写真)は、第1列石と第2列石を再度構築し墳丘の盛土を新たに付け加えるものであると同時に、平面的にも第2列石の北西角の位置が2m程度南へ移動したほか、列石の走行方向が振れているなど、当初の位置関係とは違いが見られることから、大がかりな改築を伴ったものと考えられる。

 列石の構築は、第1列石の下部では当初の墳丘およびその流土に掘り形を削り込み、裏ごめ土を施しながら石材を積み上げて行われるが、第1列石で石材が当初の墳丘・流土面より高く築かれる場合、および第2列石では、盛土のかさ上げと同時に石材が積み上げられる。両列石とも前面下部には押さえの土を置いている。第1次の修築は、東塚における追葬に伴うものと推定されるが、石室におけるどの埋葬と関連するのかは明らかではない。なお、第1次修築の第1列石も、当初の墳丘と同様に北辺・東辺には列石を巡らせない。

 その後、第1次修築第1列石の直上にあたる墳丘の西辺に、1列だけからなる第2次修築列石(写真)が築かれる。この列石は、第1次修築の盛土とその流土を掘削した掘り形に裏ごめ土を施して築造されるものであり、西A・Bトレンチでの土層観察の成果では西塚列石の構築と同時期と解釈できることから、西塚の築造に伴う修築であると考えられる。

 第2次修築列石および西塚列石の構築後の流土の堆積以後には、第3次修築列石(写真)が構築される。西Bトレンチでは、第2次修築列石最下段の石材の直上に第3次修築列石の最北端の石材が置かれている状況が観察されており、第2次修築列石の崩落部分を修理補完する形で第3次修築列石が築かれたものと考えられる。

 しかし、第3次修築列石構築時には西塚列石は修築されないことから見て、第3次修築列石については、西塚に対する傾斜に配慮した土止め的機能をもつ可能性が高い。第2次修築列石についても、東塚墳丘西辺だけに築かれることや、ほぼ同位置で第3次修築列石による修繕が行われていることから、同様の土止め的機能を有するものと考えてよいだろう。

 なお、第1次調査の東塚北トレンチでは北側と南側の2列の列石を把握し、第2次調査概要報告において北側の列石を東塚第2列石、南側の列石を東塚第3列石として理解した。今年度調査での新たな見解を踏まえれば、北側の列石を当初の墳丘に伴う東塚第2列石、南側の列石を第1次修築に伴う第2列石と認識せざるを得ず、第1次調査当時の段階では、実際には時期差のある2つの列石を同時期の一連のものとして考えていたことになる。したがって、東塚北トレンチで記録した一続きの墳丘上面は、結果的に問題を残すこととなった。

 以上のほか、旧地形の整地状況などについては、第2次調査概要報告の内容に第3次調査概要報告で補足した見解との変更はない。

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岡山大学文学部考古学研究室copyright,1997

制作者:寺村