【開催にあたって】

   現在、岡山大学では がんを細胞レベルで見つけて優しく治す近未来のがん医療「ナノバイオ標的医療」の実現に
  向けて研究を進めています。この研究は、第3期 科学技術基本計画の最重点課題である「イノベーションの創出」
  目的としたもので、国家的な事業として取り組んでいるものです。

   具体的には、岡山大学の「ナノバイオ標的医療の融合的創出拠点の形成」事業が、文部科学省 平成18年度科学技術
  振興調整費「先端融合領域イノベーション創出拠点の形成」事業における全国9つのプロジェクトのひとつに採択された
  ことを受け、学内に「岡山大学ナノバイオ標的医療イノベーションセンター」を特区として設置して、先端技術の融合による
  イノベーションの創出を進めています。

   この事業の目指すところは、
 
  1,新しいがんの治療遺伝子やがん細胞を選択的に破壊・融解するウイルスなどの革新的治療薬
  2,これらの革新的治療薬を目的のがん細胞まで運搬する新しい運搬システム
  3,がん細胞を可視化(イメージング)する標的化先端技術

  の3つの先端技術を融合し、がん細胞だけに治療効果を及ぼして副作用を軽減することができる、近未来の革新的な
  がん医療「ナノバイオ標的医療(*)」を達成することにあります。
  (*) 標的医療 : 標的(狙った細胞)にのみ作用し、それ以外の細胞に作用せず、したがって副作用の発現を軽減することができる

   一方、岡山第3高等学校医学部(岡山大学医学部の前身)の卒業生である秦佐八郎博士は、ドイツのエールリッヒ
  博士とともに、当時難病であった‘梅毒’の特効薬「サルバルサン(救うという意味)606号」の開発に成功して世界に
  その名を知られています。この梅毒の特効薬「サルバルサン606号」は、ヒトの細胞には影響を及ぼさずに、原因菌のみ
  を特異的に殺して治療する世界初の化学療法剤で、いわゆる‘魔法の弾丸’として広く受け入れられ、人類に貢献し
  てきました。この目的とする対象にのみ作用するというコンセプトは、今で言う標的医療そのものであり、秦佐八郎博士
  は、すでに100年前に、当時難病であった梅毒に対する革新的な「標的医療」の実現に成功したということができます。
  つまり、岡山大学が現在日本の先頭に立って進めている標的医療の源流は、世界的に著名な医学者である秦佐八郎
  博士の「サルバルサン606号」に求めることができます。

   岡山大学大学院医歯薬学総合研究科では、泌尿器病態学 公文裕巳教授を会長として本年6月に「温故創新 −化学
  療法イノベーションを目指して−」をテーマとする第56回日本化学療法学会総会を開催いたします。この総会には、化学
  療法に関わる、国内外の医療関係者、製薬企業関係者、公的機関関係者等2,500名〜3,000名が参加され、化学療法
  イノベーションの創出を目指した先端的な治療の可能性についての研究発表と討議が行われます。

   この学会は、化学療法に関する日本最大の学会ですが、本年が世界初の化学療法剤であるサルバルサン探索99周
  年に当たること、秦佐八郎博士が岡山大学医学部の前身である岡山第3高等学校医学部の卒業生であることに鑑み、
  岡山で開催される本総会に併せて 「秦佐八郎サルバルサン探索99年記念事業」≪魔法の弾丸99年の歩み≫と題する
  展示会を企画いたしました。

   この展示会では、秦佐八郎博士の業績、秦佐八郎博士の恩師であり日本の細菌学の父として知られる北里柴三郎
  博士に始まる感染症の治療の歴史、化学療法の実践を通して人類の福祉の向上に寄与し、さらにその発展に向けて
  地道な研究開発の努力を続けている製薬関連企業の業績、さらには、秦佐八郎博士の流れを汲んで日本でトップクラス
  の先端的な標的医療のイノベーション創造拠点の形成を目指している岡山大学大学院医歯薬学総合研究科の取り組み
  までの、化学療法の黎明期から近未来にいたる歩みを俯瞰します。

   これらの展示によって、一般の方々に、化学療法を通して人類の福祉の向上に対し、わが国の果たした功績と近未来に
  向けた医療のイノベーションの試みついて理解を深めていただくことを第一義に、医療における輝かしい伝統を有し、
  療先進県として高いポテンシャルを秘めた岡山県の現況にも理解を深めていただきたいと考えています。

   さらに、次代を担う世代の育成にいささかなりとも貢献することを目指し、ビジュアルな映像を提供するなど、可能な限り
  教育現場の先生方の意見を容れて学生にも興味を惹く展示といたす所存でございます。

   皆様のご来場を心よりお待ちしております。


    秦佐八郎博士記念展示会 実行委員会




【開催を終えて】 (記録集より)

   私は高知県の生まれですが、昭和43年に岡山大学へ入学、
  その後の40年間を一貫して岡山大学医学部に学んでいます。
  大学を卒業した昭和49年、走査型電子顕微鏡の三次元画像
  の魅力にひかれ、当時、俵寿太郎教授(その後高知医科大学
  学長)の主宰する微生物学教室(同年ウイルス学と細菌学と
  に分離)の大学院に進学、ウイルス学を専攻しました。そのこ
  とが秦博士との最初の接点となります。当時、寄生虫学から
  発がんウイルスまで、この領域における実に先進的で多彩な
  研究が岡山大学で展開されており、脈々と現在に受け継がれ
  ています。私は、その分解能度の日本電子顕微鏡学会賞を
  研究題目「高分解能走査型電子顕微鏡の微生物学領域への
  応用」で、俵先生、天児和暢先生(当時福岡大学教授)ととも
  に共同受賞するという栄に浴しました。その免疫電顕が現在実施していますナノバイオ標的医療の創造における特異
  抗体の探索に威力を発揮しています。

   俵先生の高知医科大学への転出もあり、大学院修了後の進路に少し迷いましたが、昭和53年に大森弘之教授が
  主宰する泌尿器科学教室の門を叩きました。入局後、臨床研修とともに、研究領域としては膀胱がんを中心とする
  泌尿器がんの研究を始めましたが、そもそも泌尿器科は感染症研究、特に、新規抗菌薬の臨床評価としての化学
  療法研究が盛んでありました。私は微生物学関連教室の出身ということもあり、感染症研究班のチーフを担当する
  ようにという指示を受け、感染症とがんの研究という二足のわらじを履くことになりました。お陰様で、今もそのまま
  二つの領域を続けることが出来ています。

   私が日本化学療法学会に初めて参加した1970年代後半から10数年間は新規の抗菌薬の開発ラッシュの時代に
  あたり、次々に登場する新薬の切れ味に驚かされる毎日でした。この化学療法の原点が、ドイツのエールリッヒ博士
  の研究所で、岡山大学医学部の前身、岡山第3高等学校医学部の出身であり秦佐八郎博士の発見した梅毒スピロ
  ヘータに対する≪魔法の弾丸≫サルバルサンにあることは、私にとっては極めて誇らしく、秦博士の偉業を顕彰する
  事業をいつの日か必ず実施することを心に誓っていました。

   ところで、新規の優れた抗菌薬の登場にもかかわらず、カテーテル留置複雑性尿路感染症に対する効果は依然と
  して不良であり、その原因が異物表面に形成される細菌バイオフィルムであることに気がつきました。バイオフィルム
  は微生物が外的からの攻撃を逃れて自らの生息圏を確保するために作り出す生き物としての英知の結集であり、
  主に個体と液体との界面に菌自身が産生する菌体外多糖を中心に構築する難攻不落の居城といえます。慢性感染
  症において、バイオフィルムは細菌の抗菌薬抵抗性の主たる因子となり、バイオフィルムの形成が緑膿菌やMRSA
  (メチシリン耐性ブドウ球菌)などの耐性菌の院内定着と交叉感染の元凶となっています。およそ20年間の「尿路バイ
  オフィルム感染症に対する研究」に対して、平成19年6月1日、第55回日本化学療法学会総会・仙台において、学会
  賞「志賀潔・秦佐八郎記念賞」を頂戴しました。岡山大学の誇る世界的偉人であり、長く憧れてきた秦佐八郎博士の
  名前を冠する学会賞を受賞できたことに感動するとともに、新たな夢【“21世紀の魔法の弾丸”の創出によるがん医
  療の革新】への挑戦エネルギーがあらためて湧いてきました。同時に、長年の計画を実現すべく、第56回日本化学
  療法学会総会・岡山において「秦佐八郎博士サルバルサン探索99年記念展≪魔法の弾丸99年の歩み≫」を中心
  とする記念事業の実施とともに、総会のメインテーマを「温故創新 化学療法イノベーション」として企画、開催する
  ことと致しました。

   以上のような経過で開催に至りました本記念展における主催者としての最大のメッセージは、秦博士に始まる
  ≪魔法の弾丸≫の創出における「岡山大学の挑戦は続いています!」であります。現在、岡山大学で進めています
  ナノバイオ標的医療(がん細胞のみを見つけて殺す)の創造は、色素薬であるサルバルサンの親和性(染色性・標
  的性)を基盤とする選択毒性のコンセプト(病原体のみを見つけて殺す)をそのまま100年目に展開するものであり
  ます。21世紀に国民を悩ます病としての「がん」に対する魔法の弾丸は、「革新的治療薬(かつての色素薬)」・「新し
  い運搬システム(標的性)」・「先端標識化技術(染色性)」などの先端的要素技術を融合するシステムとして完成する
  ものと考えています。

   この記録集を秦博士の偉業に捧げ、先人の心と胆力を拠り所にさらなる挑戦を続けて行くことを誓います。


    秦佐八郎博士サルバルサン探索99年記念展示会実行委員長
    第56回日本化学療法学会総会会長
    公文 裕巳